第44話 妄想を申そう

 その頃、隣の白田屋には、本田屋とは裏腹に悲しくも騒々しいもやが立ち込めていた。

 夢破れた拮平が茶漬けもどきをかき込んでいた時だった。


お敏 「若旦那」

拮平 「おそし…」

 

 何しろ口いっぱいに飯と湯が入っているので、お敏が「おそし」になってしまった。


お敏 「どこへ行ってらしたんですか。もう、大変だったんですよ」


 慌てて口の中の物を飲み込む拮平。


拮平 「大変って、一体、うちの何が大変なのさ。大変てのさあ、大いに変わるっ

   て書くんだよ。大いに変わったのはこのあたしの方であって。そうじゃない

   か。いや、いくらお敏でも、滅多に大変なんてこと言うんじゃないよ」

お敏 「それが…」

拮平 「えっ、おとっっあんに何かあったのかい」

お敏 「いいえ、大旦那様ではなく、ご新造様ですよ」

拮平 「知るか、あんな奴の事なんかと言いたいところだけど、まあ聞いてやろう

   じゃないか」

お敏 「……」

拮平 「何さ、急に黙りこくっちゃってさ。それに、ほかの連中どうしたのさ。全

   く姿も現わさないじゃないか」

お敏 「実はですねぇ」

拮平 「そいから、どしたの」

お敏 「あの、ご新造様の、ご懐妊の事なんですが…」

拮平 「あのさ、そんなのあたしの知った事じゃないさ。勝手にやっとくれ。聞き

   たくもないさ」

お敏 「それが実は…」

拮平 「何だい、さっきからいやに焦らせるじゃないか。あのさ、お敏。お前

   にゃ、まだわかんないかもしれないけど。男をさ、そんなに焦らせるもん

   じゃないよ。男ってものはさ、あんまし焦らされるとさ、ものすごーく変貌

   しちまうよ」

お敏 「若旦那!何言ってんですか。もう、大変だったのですから。いいえ、今も大

   変なんですから」

拮平 「だったら、早く言いなって」

お敏 「実は、ご新造様、懐妊してなかったそうなんです」

拮平 「ふぁっ」

お敏 「ええ、何でも、想像、妊娠とか言うものだそうで、子供が欲しい欲しいっ

   て思っていると、つい、妊娠したような気分になるとかで…」

拮平 「ああ、そうかい、そりゃそりゃ。ええっ、それでこんなに静かなのかい」

お敏 「だって、ご新造様がお嘆きがすごくて」

拮平 「ふん、医者の娘が聞いて呆れらぁ。想像だけで毒盛るんだからさ」

お敏 「それこそ、若旦那の想像、じゃないですか。いくら何でもご新造様、そん

   なことなさいませんよ。それはもう妄想です」

拮平 「想像でも妄想でも構やしないよ。ふんっ、何さ、散々大騒ぎしやがって。

   でもさ、お敏。あの後妻があたしに毒盛った、盛ろうとしてたのは確かなん

   だからね。あたしゃ、この耳で聞いたんだからさ。ほら、お芳の腰巾着のお

   菊とね、話てんの聞いたんだからさ」

お敏 「それはお菊さんの遠縁の毒消し売りの人の話ですよ」

拮平 「ああ、そうやって、毒消しまで用意してさ、いざとなったら言い逃れしよ

   うと思ってたんだ」

お敏 「若旦那、どこか、お悪いのですか」

拮平 「実はそうなの。もう、心の節々が痛んで…。飯も喉通らないから、仕方な

   くこうして白湯で流し込んでるんじゃないかい。ほんと、もう死にそうなく

   らい。ああ、あのまま、毒消し、じゃなくて毒飲んで死にゃあよかった。そ

   したらさ…」

 

 と、拮平の繰り言は続いて行くが、お敏は残ったご飯で小さいおにぎりを作り、みんなで食べようと思ってやって来たのに、見ればお櫃の中にはほとんど空っぽ。それに拮平はここのところ、家では恐くて何も食べられないとか言って隣で食べていたので、今夜も食べて来るのだと思っていた。


お敏 「若旦那、もうお休みになられますか」

拮平 「あ、そうだね。そうするわ。布団敷いとくれ」

お敏 「もう、敷いてあります」

拮平 「何だい、随分手回しいいじゃないか、さすがだねお敏は」

お敏 「いえ、若旦那のお布団は、夕方になったら敷くことにしてるんです。そう

   でないと、突如寝落ちされますから」

拮平 「そうかい、じゃついでに、按摩、してくんない?さっきも言った様に、あ

   たしゃ、もう辛くて辛くて…。この調子じゃ、毒が無くてもあんまり長生き

   しそうにないよ」

お敏 「わかりました。用意しますので、お先にお部屋へ」


 拮平は思わず耳を疑う。

----えっ、それって!?

 もう、拮平はいそいそと布団にもぐる。

----そうだ、俺にゃ、お敏がいたんだった。ようし、今夜は朝まで寝かさないよぉ。お敏ぃ!やさしくするからさ、早くおいでっ。

 そして、何やら気配がした。 

 

お敏 「若旦那」

----声なんか掛けなくていいから、早くお入りよっ。

 そして、お敏が入って来れば、掛け布団がめくられる。

----おや、随分、積極的じゃないのさ。


拮平 「痛っ!痛たたたたたぁ!」

 

 次の瞬間、拮平はあまりの痛さに飛び起きる。何とそこにいたのはお敏ではなく、まだ若い按摩師だった。しかし、声は確かにお敏だったのに…。


拮平 「何だい!痛いじゃないか!それにお敏じゃないじゃないかよ!お敏はどうし

   た!」

按摩 「そのお敏さんから、頼まれましたので、ささっ、若旦那、ご遠慮なさら

   ずに」

 

 按摩師は拮平の体を掴み横たえる。

----えっ、目、見えるの?

 当時の按摩師とは、目の不自由な人の職業だった。この様な人達は、声の聞こえる高さや息づかいなどで、人の位置を感じ取る事が出来るのだ。


拮平 「痛い!痛い!痛いじゃないか!お敏!お敏!助けてぇぇぇ」

按摩 「何ですか、若旦那。もう、夜ですよ。そんなに大きな声を出しちゃ、はた

   迷惑と言うものです」

拮平 「それならよ、もうちょっとやさしく出来ないかい。若いくせに力あんだ

   ねぇ」

按摩 「そのお敏さんが、若旦那は心労が多く身も心も凝り固まってるんで、しっ

   かり揉んで差し上げて。少しくらい声をあげても構わないからとおっしゃら

   れましたので。それにしてもよく凝ってますね。何かお悩みでも」

拮平 「いや、あのさ、もういいよ。もう楽になったからさ。帰っていいよ」

按摩 「いいえ、とんでもない。もう、特別に按摩代頂きましたし、これでも仕事

   ですから、いい加減なことはできません。わかりました。少し手加減しま

   す」

 

 と、按摩師は言ったものの、どこがどの程度の手加減かわからないままに唸り声を上げるしかない拮平だった。

 やがて、その声も下火になって行き、痛い中にも気持ち良さが感じられるようになると、拮平は眠ってしまう。

 翌朝、いつになくすっきり目覚める拮平。部屋を出れば、お敏とばったり。


お敏 「あら、若旦那、お早いお目覚めで」

 

 朝一でお敏の顔を見れるとは、今日はいい事がありだそうだと思ったが、すぐに昨日の按摩を思い出す。


拮平 「お敏、しどいじゃないか。あたしはさ、お前に按摩してほしかったんだ

   よ。それなのに、あんな按摩なんぞ寄こしてさ、全くしどい目にあったよ」

お敏 「まあ、でも、お陰でよく眠れましたでしょ」

拮平 「そりゃ、まあね」

お敏 「素人の按摩より、本職の人の方がいいに決まってますもの」

拮平 「その按摩じゃなくて…」

お敏 「では、どの按摩なんです」

拮平 「どのって…。いやだね、朝っぱらから、そんなこと言えるかよ」

----按摩って言ったのが悪かったんだな。

お敏 「はあ、では、早く朝ご飯になさってください。その前に歯を磨いて、顔

   洗ってからですよ」

拮平 「はいはい、わかりました」

お敏 「返事は一回」

拮平 「はい」

 

 そこへ、お芳が現れる。拮平は小声でお敏に。


拮平 「どうしよどうしよ。何て言えばいいんだ…」

お芳 「おや、もう、起きたの。珍しっ。それはそうと夕べは随分とお盛んだった

   わね。もう、隣にまで聞こえるんじゃないかってくらい」

 

 と、鼻先で笑えば、お菊も笑いながらお芳とともに去って行く。


拮平 「何だい、何がそんなに可笑しいのさ。自分だって」

 

 と、お芳の後姿に向かって口を尖らす拮平の袖を引くお敏。

----それ以上、言っちゃ駄目ですよ。

拮平 「勘違い、したくせに」

 

 と、今度は小さい声でつぶやく。


拮平 「だけどさ、あいつ、何が可笑しくてそんなに笑ってたんだろ」

お敏 「若旦那の夕べの雄叫びですよ」

拮平 「雄叫びって、そんなにしどかったかい」

お敏 「ええ、もう、その…」

----この世の終わりみたいでしたよ。

拮平 「何だい、どいつもこいつも、俺んこと、馬鹿にしやがって」

お敏 「そんなことありませんよ。早く顔を洗って下さい。ご飯の用意しますの

   で」

----なんて、やさしいのさ。このお敏。


 食事を終えた拮平が裏口から出れば、またも真之介とばったり。そして、二人とも「早っ」と言う。

 拮平の「早」は真之介が朝早くから実家にやってきたことだった。一方の真之介の「早」は拮平がいつになく早起きをしたことだった。


真之介「お前、何かあったのか」

拮平 「真ちゃんこそ、あっ、お伸ちゃんに何かあったの」

真之介「何もないわ。私は一昨日から泊まっておる」

拮平 「ああ」

真之介「お前の早起きの原因は」

お芳 「夕べ、とんでもなくお盛んだったのです」

----来なくていい時には来やがって。

真之介「何か、ありましたか」

お芳 「ええ、ちょっとね。そう言えば夕べはご実家にお泊まりだそうで。まあ、

   聞こえませんでした?あの声」

真之介「特には」

お芳 「それはようございました。もう、長崎まで聞こえるんじゃないかと気が気

   じゃなかったですわ」

真之介「何やったんだ」

お芳 「よくあることですよ。では、失礼します」

 

 去って行くお芳の後姿に拮平は又しても口撃を始める。


拮平 「ふん、何だい、自分の事棚に上げてからさ、人の事ばかり言ってんじゃな

   いよ!」

 

 と、真之介に向き直り。


拮平 「あのさ、真ちゃん。あの後妻さ、その実妊娠してなかったんだって。想像

   妊娠とかいう勘違いしてやんの。医者の娘でさ、医療の知識あるから、親父

   は長生きできるとか思ってたけどさ、あんなの藪、医者じゃなくて、藪の中

   の蛇みたいなもんだよ。何言ってんだい!藪の蛇ぃ!」

真之介「お前、そう言うのを負け犬の遠吠えと言うんだ。それより、昨日何やらか

   したんだ」

拮平 「いや、お敏が、勘違いしちゃってさ」

真之介「それで?えっ、お前、お敏と!?」

拮平 「それならいいんだけど…」

 

 そして、按摩師の顛末を聞いた。


真之介「ああ、よかった」

----ええっ!良かったって。ひょっとして、真ちゃん…。

拮平 「何が?」

真之介「いや、何でもない。ああ、これでお前は婿入りしなくても済む訳だ」

拮平 「一応そうだけどさ。よりによって、お伸ちゃんの相手があの泣き虫の小太

   郎ちゃんだなんて…」

真之介「えっ、お前知らなかったっけ?お伸の相手は小太郎に決まってたこと」

拮平 「いや、一応知ってたけどさあ。婿候補、いっぱいやって来たじゃない。

   何ってたって、本田屋の主人だもの…。急にどうしたのさあ。でもさぁ。

   俺っていつも損な役回りに思えてさ。今回は駄目だったけどさ、いつかあの

   お芳に本当に子が出来たら、今度こそ笑い事じゃ済まなくなるよ。それくら

   いやりかねない女だよ、あいつは」

真之介「わかった。ところで拮平」

拮平 「なに。ちょっと改まって」

真之介「それならお前、家を出ろ」

拮平 「家を出てどうすんのさ。えっ、あ、ひょっとして、真ちゃんちに居候させ

   てくれるとか。そんならいつでも行くよ」

----誰がお前みたいな見境のない男を居候させるものか。

真之介「家を出ろと言うのはな、家を出て小さくてもいいから自分の店を持てとい

   う意味だ。いつまでもあんな後妻と無意味な争いをやってないで、自分の足

   で歩け。ああ、私も手伝ってやる。事によれば、親父さんと金の交渉して

   やってもいい。その昔、お前は私の店を手伝ってくれたからな」

----手伝うと言うより、邪魔しに。いや、小太郎の相手をしてくれた。

拮平 「そうだねぇ」

真之介「ついては、やはり一人では駄目だ。店の方は私が手伝うにしても、やはり

   嫁がいなくては駄目だ。ところでその嫁だが、お前、本当のところお敏とは

   どうなのだ」

拮平 「うーん、それが…」

真之介「ああ、白田屋の若旦那としては、女中を嫁に出来ないってとこか」

拮平 「まあ…」

真之介「それは、どこかの店の養女にすればいいだけのことではないか。その養女

   先も探してやる。それより、肝心のお敏の気持ちはどうなんだ」

拮平 「そりゃあ…」

真之介「脈ありそうか」

拮平 「そりゃあぁ」

真之介「どっちなんだ!」

拮平 「今一度、お敏とよく話し合って見るよ」

真之介「そうしろ」

拮平 「でもさ、真ちゃん。俺に家出て店持てってのはわかるけどさ、本当に、お

   敏を嫁にしてもいいのかい」

真之介「それが一番いいと思っている」

拮平 「ふーん、それなら、そう、するわ」

真之介「なるべく早めに決める様に。私にも都合がある故」

 

 その時、忠助が真之介を呼びに来る。


真之介「じゃあな」

 

 と、真之介は帰って行く。

----やっぱり、そうだったのか…。真ちゃんもお敏に目を付けていたんだ。まあそうだよね。あんな武家嫁とじゃ、窮屈でかなわないわさぁ。あの嫁も外面はいいけど、家じゃあ、きっと上から目線なんだろうねぇ。でもさ、お敏が俺に気がありそうなので、ちょっと遠慮してやんの。友情。いや、武士の情けってとこか。そんでもってよ、俺がお敏はもういいよって言ったらさ、すぐにでも側室にするんだろうねぇ。もう、そうなったら、あいつは早いからねぇ。でもさ、本当のところ、どうしよう。ああ、お敏…。あれっ、お敏じゃないの。


紀三郎「では、ご新造様によろしくお伝えくださいませ」

 

 そこには、本田屋の番頭の紀三郎とお敏がいた。


お敏 「ありがとうございます」 

 

 互いに頭を下げ合って別れる二人。


お敏 「あら、若旦那」

拮平 「お敏、あの番頭、うちの後妻が何だって」

お敏 「いえ、ご新造様に似合いそうな柄が入ったそうです」

拮平 「そうかい。ああ、真ちゃん見なかったかい」

お敏 「いいえ」

拮平 「あのさぁ、お敏さぁ、で、さぁ」

お敏 「若旦那、また、どうかされましたか」

拮平 「いや。何でもない。けどさぁ、お敏。真ちゃんみたいな男、どう思う」

お敏 「素敵な方じゃないですか」

拮平 「そう思うよね。俺もそう思う。格好いいよね。でもさ、本当は無理してる

   んじゃあないかなって、思ったりしてさ」

お敏 「それは、少しくらい無理される事もおありでしょ」

拮平 「でもさぁ、少しくらいじゃないよ。もう毎日、大変!寝てても格好つけてた

   りしてさ。無理と言うか、緊張の連続じゃないかな」

お敏 「そうですか。若旦那、真之介様の寝てるところをご覧になったのですか」

拮平 「いや、見てはないけどさ、見なくたってわかるさ。何てたって、長年の友

   達だもの。俺と真ちゃん、生まれた日、三日違いよ。真ちゃんの方が三日違

   いのアニさんなの。あれから二十年ちょっと、ずっと一緒」

お敏 「はあ」

拮平 「だからさ、真ちゃんが疲れてんの、俺にはわかるんだ」

お敏 「はあ」

拮平 「だからさ、何とかしてやりたいんだよね」

お敏 「何とかって。若旦那と違って、あちらには奥方様がいらっしゃるじゃない

   ですか」

拮平 「それが問題なんだよ。あんな貧乏旗本の娘なんか押し付けられちゃって

   さ。きっと、あの嫁も気が強いんだよ」

お敏 「そんな方ではございません。お花見の時にも気さくにお話下さいました

   し、おやさしい方じゃないですか」

拮平 「あのさ、お敏。人にはね、外面と内面と言うものがあんだよ。だからさ、

   人前では気さくに、ちょいと控えめにしててもさ、誰もいなくなりゃ、ツン

   と澄まして真ちゃんのこと、顎で使ってたりしてさぁ」

お敏 「若旦那。さっきから言ってますけど、あの奥方様はそんな方ではありませ

   ん。そんなに言うのなら、もう、私、怒りますよ」

拮平 「いやさ、お敏の気持ちもわかるけどさ。実はね、真ちゃんね、側室を欲し

   がってんのよ」

お敏 「えっ、まさか、もう、側室を?」

拮平 「そうなんだよ。と言うことは、うまくいってないのさ、あの二人。男って

   さぁ、うわべだけのやさしさじゃなくて、本当に心のやさしい女がいいの

   よ」

お敏 「若旦那…。そんな話、私にされても困りますよ」

拮平 「そうだった。ごめんよ。だけどさぁ、もし、真ちゃんがさ、もしもだよ、

   もしも、お敏をって言ったら、どうする?」

お敏 「……。ど、どうするって。わ、私は駄目です。駄目なものは駄目、なん

   です」

 

 予想外の話にビビりまくるお敏だった。


拮平 「ごめんごめん、そうだったよね。そんなの、お敏が承知する筈ないもの。

   今度会ったら、ぴしっと言ってやるさ。駄目だよ!お敏はそんな女じゃな

   いって」

お敏 「でも、あの旦那様が本当にそんなことおっしゃったのですか」

拮平 「いや、はっきりとは言わないのよ。あいつ、えー格好しいだから。けど

   さ、俺にゃわかるのわからないのって。こんちくしょう!でも、良かった、

   安心した」

お敏 「あの、若旦那、私まだ用がありますので、これで失礼します。どうぞ、

   ごゆっくり」

 

 と、頭を下げてから、走り去るお敏。


拮平 「かわいいねぇ。どうぞごゆっくりだなんて…。えっ、何、ごゆっくりすん

   の。そうだ、こうしちゃいられない。何てたって、本邦初公開、真ちゃん振

   られるの巻」

 

 今度は本田屋の前に回り、水撒きをしている小僧を捕まえる。


小僧 「旦那様と奥方様ならお帰りになられました」

拮平 「あら、もう帰っちゃったの。まっ、こん次でいいか」

小僧 「若旦那、水が掛かりますよ」

拮平 「水撒きってのはさ、人に掛からないように撒くもんだよ」

 

 と、言いながら、拮平は水桶につまづく。


拮平 「もう、こんなとこに桶、置きやがって」

小僧 「最初から置いてありましたし、もう終わりましたので、どうぞごゆっく

   り」

拮平 「何がどうぞごゆっくりなのさ!これでも、あたしゃ忙しいんだよ。ふん、

   真ちゃんに言いつけてやるからな」

 

 やはり、感情が忙しい拮平だった。


拮平 「でもさ、真ちゃん、がっかりするだろうな。お敏を挟んで男二人。もう、

   勝負はついた!」

 

 そして、着物が仕立て上がって来た。ここに来て、拮平はとんでもない買い物をした事に気が付く。嘉平から呼び出しを受けると、もう、ここは開き直るしかないと覚悟を決める。


嘉平 「一体何なのさ。これだけの着物」

 

 見れば、畳紙たとうしはすべて広げられている。当然怒鳴りつけられると思ってやって来たのだが、思ったより普通の口調の嘉平に拍子抜けするも、広げられている着物の枚数が思ったより少ないのだ。

----もう少し、あったような…。

拮平 「ちょっとね」

嘉平 「ちょっとってね。これがちょっとかい」

 

 そら、おいでなすったと思った時。


お芳 「お前さん、まあ、いいじゃないのさ。拮平だって、まだ若いのだから」

 

 これには驚くしかない拮平だった。あのお芳が自分の肩を持つとは…。


お芳 「でもさ、自分のばかり買ってないで。着物の一枚くらい買ってやろうと思

   うような相手いないのかねえ」

 

 それはいる。いるけど、お敏に買ってやろうものなら、他の女中たちから妬まれいじめられてしまう。だから、まだ半襟とちょっとしたかんざし位しか買ってやってない。その簪すらなかなか受け取らなかった。


お芳 「まあ、いいから、早く片付けなさいよ」

拮平 「あっ、はいはい、これはおっかさん」

 

 拮平は畳紙をかき寄せ、片手に抱え部屋を出て行く。


お芳 「そんな持ち方したら、落とすよ!」

 

 と、お芳のいつにない妙なやさしさが薄気味悪くてならない。それにしても何があったと言うのだろう。いくら想像妊娠で、拮平殺害計画が延びたとはいえ、これから生まれて来るであろう子供のためには邪魔な存在でしかないのだから、遅かれ早かれ何かやらかすだろうと思っていた。それなのに、何なのだ、この展開は。

----真ちゃんじゃないけど、鳥肌に身の毛がよだつわ。

 そんな事を思いながら、拮平が階段をおり始めた時、腕から畳紙が滑り落ちてしまう。奇声を上げつつ、いっせいに群がる女中たち。


女中1「まあ、いい柄」

女中2「うちの兄さんに似合うわ」

女中3「あんた、兄さん、いたかしら」

女中1「あら、うちの弟にもいいわ」

女中3「あんたも弟いたの」

女中1「いてもいなくても、若旦那、どれでもいいから一枚下さいな」 


 慌てて階段を駆け下りる拮平。


拮平 「何言ってんだい!それ、全部あたしのだよ」

女中2「だから、一枚って言ってるじゃないですか」

拮平 「駄目!駄目だよ。この着物はね、こん次の逢引の時に着るんだよ」

女中3「あら、若旦那。逢引するような人、いるんですか」

拮平 「いるよ!何人もいてさ、順番待ちしてんだよ」

女中1「順番待ちって?」

女中2「どこに?」

女中3「だれが?」

拮平 「掃いて捨てるほどいるさ!着物だってこれで半分だよ」

女中1「でも、若旦那。自分のばかり作ってないで、相手の人のも作ってあげな

   きゃ」

女中2「そうですよ」

拮平 「それはこれから」

女中3「若旦那、振られたら、その着物、私たちが引き受けますから」

女中2「そうそう。だから、たくさんお作りになって下さいね」

女中1「待ってますから」

拮平 「うるさい!どうして、あたしが振られるって前提なんだよ!」

女中2「いえ、人間、もしもってことがあるじゃないですか」

女中3「そのもしもの心配はいりませんからって話ですよ」

お熊 「ちょぃと!あんたたち!何、いつまで油売ってんのさ!さっさと仕事おし!」

 

 女中頭のお熊のドスの効いた声だった。女中たちは渋々散っていく。お熊は畳紙を寄せ集めながら。


お熊 「まあ、若旦那、本当にいい柄ですね。あの、私の兄に一枚…」

 

 拮平はお熊からひったくる様に畳紙を奪い、自分の部屋の畳の上に投げてしまう。

----もう、どいつもこいつも…。

 それにしても、お芳の今までにない態度がどうにも気にかかる。気にかかるからって、それだけでは何も出来ない。

 ちょうどその頃、当のお芳は、嘉平に迫っていた。


お芳 「お前さん、拮平に五枚なら、私にゃ何枚買ってくれるんです」

嘉平 「いや、あいつはどうしようもない馬鹿だからさ。もう、金輪際買ってやら

   ないさ。つまり、あれで終わりだってこと」

お芳 「そうですか。でも、私だって若いんですから。息子とは言え、同い年の拮

   平が着物誂えりゃ、そりゃ欲しくなりますわ」

嘉平 「そうだね。それなら一枚、二枚…」

お芳 「まあ、息子には五枚で、大事で大切な女房には一枚ですか。お前さん、あ

   ん時なんて言いました。この世で一番大事なのはお芳、お前だけだよ。もう

   拮平何てどうでもいい。一生お前には何も不自由させないし、誰よりも大切

   にするって言ったのをよもやお忘れじゃないでしょうね」

嘉平 「忘れちゃいないさ。だから、お前には自由にさせてるじゃないか。拮平の

   部屋が欲しいと言えば、その通りにしたし、茶屋遊びだって一緒じゃない

   か。夏の花火見物も既に料亭予約してるし。私だってお前には色々と、して

   ると思うよ」

お芳 「それは。でも、拮平が五枚で私が一枚と言うのは到底納得がいきません」

嘉平 「いや、お前のは、女の着物は値が張るからさ」

お芳 「ああ、そうですか。では値が張っても一枚ならいいんですね」

嘉平 「いや、その。あ、わかった、わかったよ。お前にも気にいった柄があると

   いいね」

お芳 「では、ちょいと、隣まで下調べに。本当に下調べですよ。私は拮平と

   違って少々おだてられたからって、気に入らなきゃ買いませんから」

 

 と、お芳はお菊を連れ、ちょっと立ち寄った態で本田屋にのり込むも、他に客がいなかったとは言え、番頭以下に総出で出迎えられる。


紀三郎「これはこれは、白田屋のご新造様。お待ち致しておりました。ささっ、

   どうぞ、こちらへ」

 

 と、店先ではなく客間に通される。すぐに茶が運ばれ、お菊にも茶菓子が出される。これではまるで、お芳がやって来るのがわかってたようではないか。

 そして、黙っていても次々と反物が広げられ、ふと、見れば紀三郎以下、若いイケメンにずらりと取り囲まれ、お菊などは赤くなって言葉も出ない。

 その後、夢のような時は瞬く間に過ぎ、お芳とお菊は上気した顔で本田屋を後にする。

 それでも、気の強いお芳は負けじと嘉平に言う。


お芳 「私は二枚だけだからね。ああ、かわいそうなので、お菊にも一枚買ってや

   りました。私は二枚」


 本田屋にすれば、拮平の着物を届けた後の手配は出来ていた。あのお芳が黙っている筈がない。すぐにもやって来るだろう。その時は客間に通し、年かさの番頭より若い番頭手代を侍らせ、ちょっと値の張る物を勧める。だが、決してあれもこれもとは言わないように。

 それは見事に功を奏し、気を良くしたお芳はお菊にも買ってやるのだった。

 お芳としては、気に入ったのがあれば、五枚でも買うつもりでいた。なんで、あの拮平に数でも負けなければいけないのだ。そこを紀三郎がそれとなく突いた。


紀三郎「近いうちに、京より新柄が入って参ります。その時はご新造様に一番に

   お知らせいたします。何と言っても、お隣ですから」


 事のあらましを鶴七、亀七から聞いた拮平は、これで俺もお敏に買ってやる口実が出来たと喜ぶ。お芳がお菊に一枚買ってやったのだから、拮平がお敏に買ってやっても、お菊たちも文句は言えまい。だが、ふと気になる。

----あれ!確か、紀三郎はお敏に、お芳に似合いそうな新柄が入荷したとか言ってなかったったけ。

 着物の仕入れ先はいくつかあるにしても、昨日の今日で…。

----さては、紀三郎の奴もお敏を…。きっとそうだ。でもさ、これで、三つ巴になっちゃったよ。どうしよ、どうする、真ちゃん…。

 













  





































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