第41話 隣の悪魔

お弓 「またしても皆様にご足労いただき、誠に申し訳もない次第でございます

   が、本日はこの本田屋の暖簾に関わる事ゆえ、こうしてお越し願ったような

   訳です」


 ここでお弓は一呼吸置く。


お弓 「先ずは…。結論から申し上げます。この本田屋は善之介ではなく、お伸が

   継ぐこととなりました」

 

 姉夫婦同様、ふみも思いがけない話に驚くも当然と言えば当然だが、真之介は事前に知っていたようだ。


お弓 「せっかく真之介さんから跡目を譲って頂きましたのに、わが息子は商売に

   身が入らず、本当にお恥ずかしい限りです。今は真之介さんが目を光らせて

   くれてますから、店の経営は安定していますが、形だけでも店の主人がこれ

   では先行きが案じられます。このままでは、ご先祖さまに申し訳が立ちませ

   ん。そこで話し合いの上、お伸に婿を娶って継がせることとなりました」


姉婿 「しかし、おっかさま。先日の事くらいで善之介さんに見切りを付けなさる

   のは、ちと、酷ではありませんか…」

お類 「そうですよ、男ならあれくらいの事は誰にでもあることじゃないですか、

   実際に真之介もいるのだから、それこそしっかりした嫁を持たせて、今度は

   孫に期待しては」

お弓 「お類さんにそう言って頂くと気も軽くなると言うものですが、何より、当

   の善之介が商売に関心がないのです。絵描きとしてやりたいのだそうです」

 

 お弓がげんなりした口調で言う。


お類 「善之介は本当にそれでいいの」

善之助「はい。不詳の弟で誠に申し訳ありませんが、後はお伸の婿に任せます」

お類 「お伸は?」

お伸 「はい、私も商人の娘です。店をつぶすようなことはしたくありません」

お類 「さっきから黙っているけど、真之介は。あ、知ってたのね」

真之介「はい」

お弓 「あの、ふみ様も何かおっしゃりたい事があれば、ご遠慮なく」

ふみ 「はい、お伸殿がしっかりしておられるので安堵致しました」

お弓 「では、了承して頂いたものとして、その様に取り計らって参りたいと存じます」

姉婿 「これからはお伸さんの婿選びが重要になってきますね、おっかさま」

お弓 「それは…」

お類 「それはこれから、追い追い」

 

 お類は夫にこれ以上はと、目で訴える。そして、善之介が立ち上がる。


お類 「あら、話が済んだので、もう用はないと言うのかしら」

善之介「とんでもない。本日は私のわがままを聞いて下さったのですから、お酒の

   用意をしてますので、今から運ばせます」

お類 「まあ、気が効くこと。その気を商売に向ければいいだけなのに」

 

 聞く耳を持たないかのように善之介は部屋を出て行く。


お類 「それにしても、ちょっと気味悪い。真之介はどこか悪いの」

真之介「どこも」

お類 「だって「はい」としか言ってないでしょ。こんな事今までに考えられない

   事です」

真之介「どこもも言いましたし、今もこうして」

お類 「もう…。これではふみ様も大変でしょ」

ふみ 「いえ、私は旦那様には教えて頂くことばかりで」

お類 「町方の事はご存じないのだから当然ですわ」

 

 そして、酒と料理が運ばれやっとくつろいだ雰囲気になるも、真之介は酒が進まず、厠へ行くふりをして自分の部屋の窓から漫然と下を眺めていた時、今あまり聞きたくない声がする。


拮平 「真、真様。どこです」

真之介「ここだ」

拮平 「ああ、よかった。真ちゃん、助けて、殺される…」

真之介「誰がお前を殺すと言うのだ」

拮平 「うちの後妻のお芳」

真之介「は?どうして」

拮平 「そんなにのん気にしてていいの?あたしが殺されてもいいの?あのさ、一番

   の親友の拮平ちゃんが殺されようとしてんのよ。何とかしてよ、真ちゃん」

真之介「何とかと言われても、殺されるとわかってて殺されるような、それも女に

   殺られるくらいなら、いっそのこと殺れちまえ」

拮平 「何をそんな冷たい。真ちゃんがそんなに冷たい人間だなんて思わなかった

   さ。ああ、そうだった。もう友達でもないんだったね、侍だったんだね。も

   う、侍の真ちゃんなんか嫌い!いいさ、死んだら化けて出てやるから」

真之介「お前の幽霊なんざちっとも恐かねぇ」

拮平 「そんなこと、言ってないで、少しはあちきの話…」

真之介「わかった。聞いてやるから、わかるように話せ」

拮平 「う、うん。それがさ、あの後妻のお芳ね、子が出来たんだよ。それも絶対

   跡取りを生むって。そんでもう、あたしを見る目が変わってさ、そりゃ、恐

   いったらありゃしない」

真之介「それはな、妊娠初期で苛立ってんだ。心配することはない、すぐに治ま

   る」

拮平 「違うよ、そんなんじゃないよ。もう、きっと、俺のことが邪魔でさ。殺し

   たいと思ってんだよ、あの顔は」

真之介「だがよ、生れて見なければ男か女かわからないじゃないか。仮に男の子が

   生まれたとしても長男はお前だろ。はたまた、その子が成長するまで十四、

   五年はかかる。それまでには親父さんも年をとる。お前が店を切り盛りしな

   くて誰がする」

拮平 「それが素人の、あかさたな、はまやらわ」

真之介「浅はかさだ」

拮平 「そうとも言う」

真之介「そんな素人のとこへ、相談にやって来たのか」

拮平 「いや、そのさ、それは言葉のあや、あやあや、あや取り見たいなもんで、

   そこんとこはあんまり気にしないでおくんなまし。いえいえ、もう、本当に

   冗談抜きでお願い致しますよ。真之介様、あたしゃ、あなただけが頼りなん

   ですぅ、くくくくくっ」

真之介「相変わらず、大げさな野郎だな」

拮平 「そんな大げさじゃなくてさ、真ちゃん知ってる?あのお芳さ、町医者の娘

   なんだよ」

真之介「ああ、それは藪医者から聞いて知ってる。何でも年収千両の男のとこでな

   ければ嫁に行かないとか言って、散々選り好みしてたら、年くったんでお前

   の親父で手を打ったとか。まぁ、千両は確保したがな」

 

 それならどうして、息子の方にしなかったのかとの問いに、お芳は、拮平は頼りない、遊びすぎ、親父なら先に死ぬと言ったとか言わないとか…。


拮平 「まあ、そんなぁ、うちは年収千両もないよ、お宅の一万両と一緒にしない

   でよ」

真之介「一万両もあるか」

拮平 「千両じゃないよね」

真之介「ああ、だが、千両くらいなければこれだけの店やってけねぇ。何だ、金の

   話か」

拮平 「いや、その、違うんで、これには深い訳が…」

 

 その時、ふみとお伸が談笑しながらやって来た。


お伸 「あら、拮平兄さん、いらっしゃい」

拮平 「ええっ、お伸ちゃん?ええっ…」

----なんて、かわいい…。

 

 そこにはすっかり成長したお伸がいた。


拮平 「いやぁ、灯台下暗しとはまさにこの事ね。まだまだ、子供だと思っていた

   らぁ。はあぁ、すっかり娘らしくきれいになっちゃって…。はぁ、こんな近

   くにこんなきれいな娘がいたなんて、どうして今まで気が付かなかったのか

   しら…。もう、拮平ちゃんの馬鹿、馬鹿、本当に馬鹿な男ねっ」

お伸 「拮平兄さん、どうかされましたの」

 

 慌てたのは真之介だった。


真之介「お伸、あっちへ行ってろ、早く。ふみ、お伸を連れて、早く」

 

 何かを察したふみがお伸を連れて部屋を出て行く。その後ろ姿に拮平が叫ぶ。


拮平 「お伸ちゃん!今度お芝居見に行かない。その後、おいしいもの食べて、お

   兄ちゃんがさ、欲しいもの何でも買ってあげるからさぁ。ねえ、お伸ちゃ

   ん、行こうよ!」

 

 真之介に睨まれても、拮平のハイテンションは止まらない。


拮平 「何さ、あのかわいさ。ああ、運命の赤い糸って、本当はこんなにも短いも

   のだったのね…」

 

 と、夢見心地な拮平。 


真之介「駄目だ、駄目だ。お伸は駄目だ」

拮平 「どうして駄目なのよ。考えてみたら、もう十五、六よね」

真之介「考えなくてもそうだが、そう言うことじゃないんだ。実はな、お前も知っ

   ての通りうちの善之介。ちっとも商売に身が入らねえ。そこでおっかさんが

   見切りを付け、ついに、お伸に婿を娶ってこの店を継がせることになったん

   だ。だから、駄目」

拮平 「それなら、婿にしてよ、お兄さん」

真之介「何だとぉ…。お前から兄さんなどと呼ばれた日にゃ、鳥肌が立ってそこか

   ら身の毛がよだつわ!それによぅ、どうしてお前が婿になれるんだ。お前は白

   田屋の跡取り息子じゃねぇのかよぉ、おい!」

拮平 「だからさ、さっきも言ったじゃない。子供が出来たお芳が邪魔なあたしを

   殺そうとしてんのよ。だから、お伸ちゃんの婿になれれば、あたしも殺され

   ないで済むし、こんなにも素晴らしいお兄様が、お姉さまも出来るのでござ

   いますんで。一人っ子で寂しかったあたしに。これがもう、感激で泣かずに

   おられましょうか、ぐぐぐぐぅ」

真之介「ははぁ、わかったぞ。あの地獄耳でおしゃべりのお妙から、早速にお伸の

   婿取りの話を聞いたな。もしくは後妻の方か。それで、その様に言えとお芳

   にそそのかされて来たんだろ。お前の頭じゃここまで回らねえが、あのお芳

   なら造作もないこと。そしてよ、二人してこの本田屋を乗っ取るつもりだろ

   うが、そうは問屋が卸せねぇから、今、ここから突き落としてやろうか」

 

 と、拮平の後ろ首を掴んで窓際に押し付ける。


拮平 「違うよ、違います。それは違います。お芳とは何の関係もありません。い

   えいえ、お伸ちゃんとお芳の事は全く別の話ぃ」

真之介「何が別の話だとぉ」

拮平 「あの、本当なんでございます。おに、いえ、真之介様。少しはあたしの話

   も聞いておくんなまし。放しておくんなましぃぃ」

 

 あっさり拮平をあっさり放す真之介と、思わずずっこける拮平だった。


真之介「下手な能書きは無しで、さっさと本当のところを吐け」


 「はい」と座り直す拮平。  

  

拮平 「お芳に子が出来たと言うのは本当の事なんで。それからは目付きも変わ

   り、あたしを側に寄せ付けないんですよ。別にあたしだってあんなやつの側

   になんぞ行きたくもないんですけど、すれ違っただけで舌打ちしやがって。

   とにかくなぜか俺んこと警戒してやんの。そして、あいつの腰巾着のお菊っ

   て女中と薬がどうのこうのって、それも聞えよがしに。町医者の娘なんで薬

   に詳しいのは知ってるけど、薬に詳しいってことは毒にも詳しいってこと

   で…。いやもう、何ちゅうか、もうそのただならぬ気配はどろどろよ。あれ

   は、きっと俺を殺そうとしてんですよ。悪魔が来たりて子を産み、邪魔なあ

   たしは殺される…。そうなのよ、だから信じてよ、真ちゃん」

真之介「確かにあの後妻は欲は深いが、殺しやるほどの度胸あるかなぁ。第一お前

   が妙な死に方したら、真っ先に疑われるのはあのお芳じゃねぇか」

拮平 「それが素人のあかさたな」

真之介「浅はかさ」

拮平 「そうとも言う」

真之介「また、間違えてやがる」

拮平 「きっとお芳はこう言うでありんす。あちきはそんな恐ろしいことはやりん

   せん、疑われて悲しいでありんす、よよよよなんて。だからさ、その毒も一

   度で死ぬってのじゃなくて、じわじわと効いてくるのを仕込めば、あかさた

   なのやつらにわかってたまるかいってもんで、そりゃもう今はご飯食べるも

   命がけよ。だから見てよ、こんなに痩せちゃって」

拮平 「お前のどこが痩せてんだ。いつも言ってるが、既に中年体形じゃないか」

拮平 「いいんや、来年の今頃にはやせ衰えて息も絶え絶えになってます。真ちゃ

   ん、毒からどうやって身を守ればいいの。三食、外食ってわけにもいかない

   しさ、誰か毒味、そうだ、真ちゃんやってくんない」

真之介「何だと!お前の毒味役するくらいなら、この手で奥を刺殺し、返す刀でこの

   腹かっ捌くわ!」

拮平 「何、格好付けてんのさ」

真之介「あ、あぁ、お前の戯言にムキになった俺が馬鹿だった。けどよ、食事の支

   度はお敏がやってくれるんじゃ」

拮平 「そう、あの家で俺の味方はお敏だけ。でも、お敏一人じゃ…。何しろ後の

   女中はさ、みんなお芳にくっついてそのおこぼれにあずかろうとしてんの。

   そんな中でお敏がいくら気を使ってくれても、そりゃ無理と言うもんだよ。

   そうだろ」

真之介「そうか、わかった。じゃあな、これからはうちの食堂で食え。その代り、

   使用人たちと同じものだ。まあ、白田屋の若旦那の口には合うかは知れねぇ

   がよ、毒は入ってねぇからな、毒は」

拮平 「いいです、毒でさえなければ何でも。では、そうさせてもらいます」

真之介「ああ、言っといてやる」

拮平 「これで飯だけは安心できる。あ、お敏も一緒でいい?」

真之介「いい」

拮平 「あ、いやいや、取り消し取り消し、今のはなかった事にお願い申すで奉る

   でございます」

真之介「何だ、それは」

拮平 「いえいえ、いえぃいえぃ」

----ああ、うっかりうっかり。お敏を連れて来たりしたら、お伸ちゃんがヤキモチ焼いたりして…。もう、拮平兄さんなんか、嫌い!って、へへへへへ。

拮平 「この拮平一人でゴチになります」

真之介「じゃあな、話が済んだら帰れ。俺んとこはこれから立て込むんでな」

拮平 「あのぅ…」

真之介「まだ、何か」

拮平 「あのぅ、お伸ちゃんが婿娶ってこの本田屋継ぐと言うのは、本当の本当な

   んですか?」

真之介「本当だ」

拮平 「そうなんだ…。あっ、やっぱり決心しました!もう、あんな白田屋なんぞ、

   あのお芳にくれてやります。真之介様、どうか、この拮平をお伸ちゃんの婿

   にしておくんなさいまし、ましまし」

真之介「おい、寝言は寝てから言え。眠いならすぐに帰って寝ろ。そしてな、一年

   でも二年でも寝てろ」

拮平 「まあ、そんなぁ。いけない、また、お芳のが移ったった。いえ、これは真

   剣な話です!少し前、お伸ちゃんと逢ったその時から、二人は恋に落ちたんで

   す。もう、だれにも止められないのです。止めてくれるな、おっかさん!い

   や、お芳はお止しとは言わない。ああ、妹大好き兄によって、二人は引き裂

   かれて行くのでありました。愛は尊いわぁぁぁ、わっ!」

 

 その時、拮平の首筋に冷たい感触があった。


真之介「何を好き勝手ほざきやがって。良くもお伸を貶めてくれたな。誰がお前な

   んぞにお伸を」

 

 胸ぐらをつかまれ、刀を首筋に当てられた拮平。真之介の目付きが変わっている。


真之介「おい、お伸に指一本でも触れてみろ。只じゃおかねぇからな」

拮平 「ひっとして、簀巻きにして大川へ」

真之介「ひょっとしなくても、誰がそんなことするもんか。お前を海に沈めた

   日ゃ、お前の毒気で海が汚染され、江戸前の魚が食えなくならぁ」

拮平 「では、山の中にお埋めになるとか」

真之介「お前を埋めてみろ。土が腐るわ」

拮平 「まさか、狼の餌に」

真之介「それこそ、この世から狼が絶滅するわ」

拮平 「では、今度は何」

真之介「引っ張り蛸にしてよ。お天道様の光を散々浴びせりゃ少しは毒も抜け

   よってもんじゃねぇか。さあ、海に沈めるか、山に埋めるか、狼の餌にす

   るか、それから考えても遅くはねぇ」

拮平 「恐…」

真之介「何も怖がるこたぁねぇ。今度生まれ変わる時は、それこそ引っ張りだこの

   人気者になれるだろうよ」

 

 引っ張りだことは、元は磔刑を指す言葉である。蛸を引っ張って干す事から連想された言葉だが、現在では転じて人気者の意味になっている。


拮平 「恐い、恐いよ。またまた、ひょっとして、それってエゲレス語で言うとこ

   の『えす』」

真之介「今頃気が付いたか、なあ、拮平。そう言うお前は『えむ』か。ふふっ、ぞ

   くぞくして来やがったぜ。さて、どこから行くか。先ずは首をちょいと掠

   って、足から行くか、手っ取り早く指にするかよ、おっい」

拮平 「いやいやっ、恐い恐い、全部恐いけど、マジでその目が一番恐い!お願い!

   止めて、止めて、お止めになってぇぇ」

 

 ガクブルの拮平だった。


真之介「今更、何を言いなさんすか、拮平さんよ。ここまで来て止めろとは、そ

   りゃ、ご無体な」

拮平 「も、もももすもももももも申し訳ありんせせせん」

真之介「桃は夏までお待ちを。今は今を楽しむべきかと」

拮平 「もももぅお許し下さいませ。桃は夏にお、お届けします」

真之介「では、夏を楽しみに、今日のところはこれまでに、とは行かぬわいなぁ。

   せっかくの楽しみを先延ばし致しますからには、今後もし約束、違えること

   あらば、その時はわかっておりましょうね。もうし、拮平さんよ」

拮平 「はっ、はいはい」

真之介「返事は一度ですよ」

拮平 「はいっ」

真之介「くれぐれもお伸に近寄んなさんなよ」

拮平 「わ、わかりました」

真之介「ならば、とっととお行きなさんせ」


 とっくに腰が引けて動けない拮平だが、それでも這う様にして部屋を出て行く。

 だがその時、廊下にはふみがいた。訳のわからないままに、ふみは固まってしまう。

 今のは何だったのだろう…。

 それはふみが今までに見た事もない真之介の顔であり、声音であった。

 そして、真之介が振り向く。 


真之介「ふみ」

 

 だが、それは、いつもの真之介の顔であり声だった。


真之介「いつからそこにいたのだ」

 

 なぜか、ふみは答えられなかった。


真之介「そうだ、こうしてはいられない。お伸にしっかり言って聞かさねば」

 

 と、お伸の部屋に向かう。ふみも引き寄せられるように付いて行く。


真之介「お伸、よく聞くのだ。隣の拮平はもう今までの拮平ではない。お前を食い

   殺そうとしている獣だ。今後一切、拮平とは口も聞くでない」

お伸 「お兄様、私は拮平兄さんの事は、何とも思ってませんから、大丈夫です」

真之介「そう言うことではない。男と言うものは、女の気持など平気で踏みにじっ

   てしまう生き物なのだ。それが男の本能の様なものであるからして、拮平も

   その本能に目覚めてしまった。それもお前に対してだ」

お伸 「いつからお兄様はおっかさんと同じことを言う様になったのです。その話

   はもう耳タコです」

真之介「お妙!その辺りにいるのはわかってる。すぐ、ここへ!」

 

 お妙がおずおずと現れる。


真之介「いいか、これからは隣の拮平を決してお伸に近づけるでない。何しろあや

   つはお前よりもこの家の勝手を熟知しておる。これからは拮平を見ればすぐ

   に声を上げろ」

お妙 「その時、何と言えば…」

真之介「そうだな。そう、泥棒とでも言え。本当にあいつはお伸を泥棒しにやって

   来る。だからな、大きな声で泥棒と叫べ」

お妙 「はいっ、承知しました」

真之介「ああ、これからは家の中の方が危ないか。困ったものだ…」

 

 その後も店の者に、拮平をお伸に近づけぬようにと指示をして回る真之介に、ふみもその後を付いて行く。


真之介「誰よりもこの家の勝手を知りつくした、とんでもない悪魔が隣にいや

   がった…」

 

 と、独り言のようにつぶやく真之介は妹思いのいい兄でしかない。ふと、ふみはあれは白昼夢だったのかと思ったりした。いや、そうあってほしい…。

 それ相応の覚悟を決めて輿入れして来た先は、別天地だった。やさしい夫に裕福な暮らし。きれいな着物や地球儀や時計など珍しい物もあり、また、所有している本の多いこと。

 その中にはエゲレス語の本もあった。


ふみ 「旦那様は通辞(通訳)ですの?」

真之介「通辞などとんでもない。これでもたまには店に外国人もやって来る。彼ら

   も国には妻や娘がいる。ま、好いた女の土産に着物や簪を買う。通辞が一緒

   の時もあるが、いない時もある。どちらにしてもちょっとした会話くらい出

   来た方が彼らも気が楽である。それで、まあ、少しかじったにすぎない。そ

   れにエゲレス語に関しては拮平の方が達者だ」

 

 面白そうなのでふみも少し教えてもらった。日本語のいろはに当たるアルファベットの中に『えす』と『えむ』がある。えす、えむだけでは意味をなさないから、何かの頭文字であることはふみにも想像が付くが、それが何を意味するのかわからない。いつもならすぐに尋ねられるのに、なぜか今はそれが出来ないふみだった。

 一方の拮平は隣との境辺りで荒い息を整えていた。


----家には悪魔がいて、隣には大蛇がいる。ああぁ、あの目、恐かったなぁ…。

拮平 「それにつけても、かわいそうな僕…」

お敏 「若旦那」

拮平 「お敏…」

 

 今一番ほっとする顔だった。


お敏 「こんなところで、どうなさったのですか」

拮平 「それがさ、もう少しで隣の蛇、いや大蛇、青大将、んにゃ、錦蛇に呑みこ

   まれるとこだった」

お敏 「えっ、隣にそんな蛇がいるのですか」

拮平 「いやいや、蛇の様な、蛇の様な目をしたやつのことだよ。ほら、いるだ

   ろ」

お敏 「いや!若旦那!血!血ですよ!首、首から」

拮平 「えっ!」

 

 拮平が首に手をやると、生渇きの血が手に付く。


拮平 「ひぃいぃぃ!」

お敏 「どうされたんですか…」

拮平 「い、いや、何でもないよ。あのさ、ちょっと掠っただけだから」

お敏 「そうですか、気を付けて下さいまし。大事なお体ですからね」

拮平 「ありがとうよ、お敏…。あたしの事気にかけてくれるのは、お前だけだ

   よ」

お敏 「そんなことありませんよ。でも、首が切れるなんて、恐いですわ」

拮平 「大丈夫大丈夫。もう、お敏の顔見たら嫌なこと、みーんなどっかへいっ

   ちゃった。もう、お敏が天女に見えるよ」

お敏 「まあ、またおからかいになって」

拮平 「からかってなんかいないよ。本当の事だもの」

お敏 「はいはい」

拮平 「返事はひとつですよ」

お敏 「はい」

----本当に可愛いね、お敏は…。


 だが、翌日、お敏も言う。


お敏 「ところで若旦那、知ってます?お隣の本田屋さん。あの若旦那ではなく、

   お嬢様にお婿さん娶ってお店を継がせるとかって、本当なんですか」

拮平 「それが、本当なんだよ」

お敏 「そうなんですか…」

----そうだった…。ここはお敏には悪いけど、心を鬼にしなきゃあ…。

お敏 「それは本田屋さんも思い切った事をなさいましたわねぇ。でも、どんなお

   婿さんが来るのでしょうか。私には関係ないけど、何か楽しみですわ」

----いや、関係あるよ。いいかいお敏、その婿はこのあたしなんだよ。お前にゃ、悪いけどさ。やっぱりあたしも男だよ。いつまでも、お芳なんかにやられっぱなしって訳にも行かないんでさ。隣の本田屋の婿になって、お芳を見返してやるんだ。お敏も可愛いけど、お伸ちゃんもすっかりきれいになっちゃってさ。今見たら、お敏だってびっくりして、しゃっくりが止まらないぃ。負けたって思うかもしれないよ。男ってさ、色と欲、両方欲しんだよ。悪いけど、これからは三度の飯も本田屋で食べることになっている。微量の毒入り飯を食うのも今夜が最後だ。なら、今夜はたらふく食ってやるぜ!

 そして、翌日から、拮平の本田屋外堀崩しが始まる…。


鶴七 「ああ、腹減ったな」

亀七 「昼は何かな」

 

 鶴七と亀七が食堂に入って行くと、そこにはご飯をかき込んでいる拮平がいた。


鶴七 「ほら、やっぱり来てるよ」

亀七 「本当だったんだ」

 

 昨日、真之介から、これからは拮平が食堂に出没するようになると聞いた時は、みんなまさかと思っていた。


鶴七 「おや、まあ、誰かと思えば、お隣の若旦那じゃありませんか」

亀七 「あらぁ、一体全体どうされたんですか」

拮平 「真ちゃんがさ、うちの飯はうまいって言うからさ、ちょいと味見に来たの

   さ」

鶴七 「で、感想は」

拮平 「うん、中々うまいよ、これ」

亀七 「そりゃそうですよ。うちの板さんは腕がいいですからね」

鶴七 「ええ、どこかの料亭で働いていたのを、引きぬいたんですよ」

拮平 「何で、そんな人を」

亀七 「飯がまずいと元気が出ねぇって、うちの旦那様がおっしゃって」

 

 実際は料亭でくすぶっていたのを、雇っただけである。


拮平 「お茶!お茶だ」

 

 食べ終わった拮平が言う。


鶴七 「若旦那、お茶はご自分で」

拮平 「えっ、何で、お茶も出ないの、ここは」

亀七 「ここは私たちの他にも出入りの業者さんたちも食べにくるんです。だか

   ら、みんなお茶は自分でやるんです」

拮平 「それなら鶴ちゃん、お茶。亀ちゃんでもいいよ」

鶴七 「だめです。ここは自分でやって下さい」

拮平 「何だい、それならいいさ」


 拮平は立ちあがる。


鶴七 「若旦那、膳を下げてくださいな」

拮平 「お生憎様、何しろあたしゃ箸より重いものを持った事がないんでね。鶴亀

   でやっといとくれ。おーほほほほっ」

亀七 「駄目です、旦那様から、甘やかすなと言われてますので」

鶴七 「あっ、膳を持ったことないのでしたね。では、持ち方をお教え致します。

   こうして右手、あっ右手とはお箸持つ方ですよ。左手はお茶碗持つ方ですか

   らね」

亀七 「その右手と左手を、これこのように膳に添えるのです、さっ、やってみて

   下さい」

拮平 「うるさいっ。お前たち、覚えときなっ。あたしがここの主人になったら、

   只じゃ置かないからさ!」

 

 拮平は膳を持ちあげる。


鶴七 「やっぱり、本当だったんだ」

亀七 「さあ、大変だ」

鶴七 「若旦那、お帰りはあちら」

亀七 「この先は行けません」

拮平 「いや、あたしはちょっと用があるんだよ」

鶴七 「いいえ、ここから先はお通しできません」

亀七 「旦那様にきつく言われてます」

拮平 「いいよ、後で真ちゃんに言っとくからさ」

鶴七 「駄目です」

亀七 「絶対に駄目です」


 その頃には他の使用人たちもやって来た。そして、全員で拮平を裏口へと追い出す。

 拮平は今度は荷物搬入口へと回る。ここなら今はみんな昼飯に行き誰もいない筈だ。

 だが、そこには二人の男が茶を飲んでいた。


拮平 「おや、どうしたんだい。みんな昼飯食べに行ったんじゃないのかい」

男1 「これは隣の若旦那」

男2 「ああ、俺たちは後番なんです」

拮平 「えっ、かわいそうに、腹減ってんだろ。いいさ、あたしが荷物の番してて

   あげるからさ、みんなと一緒に食べておいでよ」

男1 「荷物はもう片づいてますよ」

拮平 「それなら、早く行けばいいじゃないのさ」

男2 「まだ、大事な仕事が残ってまして」

拮平 「ふん、茶を飲むことが大事な仕事かい」

男1 「ええ、こうして茶を飲みながら、若旦那とお話するのが仕事なんでさぁ」

男2 「さあさ、若旦那も一杯」


 そう言えば食後の茶を飲んでなかった。


拮平 「そうかい、じゃ、一杯」

男1 「これで、若旦那と俺たちゃ、茶飲み友達になったってわけですね」

拮平 「何だい、年寄りみたいなこと言って」

男2 「それなら、どうです。いっそ、飲み友達になるって言うのは」

男1 「聞いてますよ、若旦那は男っぷりもいいけど、飲みっぷりもいいって」

拮平 「ん…。そうかい」

男2 「一度でいいから、そんな若旦那と飲んでみてぇって、いつも皆で言ってる

   んですよ」

男1 「今度、ご一緒させて下さいよ」

拮平 「そうだね…」

男2 「おっ、それなら早速今夜にでも」

男1 「ええ、俺たちなら、いつでも」

男2 「若旦那のよろしい時に」

二人 「お供致しやす!」

---いけない。こいつらと無駄話してる場合じゃないんだ。俺には大きな夢があり、越えねばならぬ壁がある!

拮平 「いや、駄目だよ。今夜はちょっと」

 

 その時、食事を終えた仲間が戻って来た。


男3 「おう、済まねえな。先に行かせてもらってよ」

男4 「いやぁ、うまかったな」

男5 「さあ、交代だ」

男3 「おや、若旦那」

男4 「まあ、若旦那」

男5 「あら、若旦那」

拮平 「うるさい!こんなところで、あたしの大安売りなんぞやらないどくれ。あた

   しゃさ、ものすごーく、高いんだよ」

男1 「じゃあ、今は高いところから、落ちなすったんですかい」

拮平 「何だい、そりゃあ」

男2 「おい、みんな、喜べ」

男1 「今度若旦那が飲みにつれてって下さるそうだ」

男2 「俺たちと飲み友達になりてぇって」

男3 「これりゃ、ありがてぇ」

男4 「さすが、若旦那」

男5 「で、いつです」

拮平 「ふん、何だい、聞いてりゃ、勝手なことばかり言いやがってさ。あた

   しゃ、これでも忙しんだよ!」

男3 「それは承知しておりやす」

男4 「では、今度、お暇な折に」

男5 「お約束、しかと承りました」

男1 「これで、俺たちも安心して飯に行けます」

男2 「さあ、行こうぜ」

 

 と、後番の二人が立ち上がる。拮平もどさくさまぎれに付いて行こうとするも、食べ終えた男たちにまたも阻まれる。


男3 「若旦那、お帰りはあちら」

拮平 「何さ!お前たちまで!」

男4 「ですから、あちらへ」

男5 「お足もとにお気を付けなすって」

男3 「何なら、お手をどうぞ」

拮平 「いるかい!そんな汚い手」

男4 「汚かねぇですよ。きれいに洗ってまさ」

男5 「ご飯の前には手洗いをって、寺子屋で習いませんでした」

拮平 「うるさあぁぁい!」

 

 仕方なく引き返す拮平。


男3 「若旦那、また、いつでもどうぞ」

男4 「お待ちしておりやす」

男5 「道に迷われませんように」

三人 「お大事に!」

 

 またも振り出しに戻ったような気分だったが、こんなことでめげてしまう拮平ではない。


拮平 「ったく。どいつもこいつも人の事コケにしゃがって。でもさ、それも今の

   うちだよ。今に吠え面かかせてやるから、いや、みんなあたしの前に這いつ

   くばらせてやるからな!覚えとけよ!」

 

 そして、拮平はひらめく。


拮平 「ようし、こうなったら、正面突破だ!」

  

  拮平は本田屋の前にやって来た。

 どうせなら、店から堂々と入ってやろう。裏口からこそっと入ろうとするから、いや、あれは『若旦那はそんなせこい入り方しちゃいけませんよ』って言う示唆なのだ。この拮平さんこそ、正面玄関から入るべきお人なのだ。そうすれば、みんな自分が発する存在感に圧倒され、道を開けることだろう。


手代1「いらっしゃいませ」

手代2「これは若旦那」

手代3「お待ちしておりました」

 

と、皆一斉に声をかけてくる。


----どうだい、このあたしのすごさ。

拮平 「ちょいと、何か、見せとくれ」

手代1「かしこまりました」

手代2「若旦那にお茶を」

手代3「これなどいかがでしょう」

 

と、反物が次々に広げられるが、端から買う気のない拮平。


拮平 「あんまし、良かないね。もっと他にないのかい」

 

 そんな時、紋付姿の男が入って来た。店の者と何やら話していたが、すぐに奥へと案内される。

----仲人!?早っ、もう仲人がやって来たよ。

 こうしてはいられないと、拮平も取り澄ました顔で奥へと入ろうとする。


手代1「若旦那、これなどお似合いですよ」

手代2「こちらも洒落てます」

手代3「こういうのもよろしいかと」

 

と、番頭や手代たちに取り囲まれてしまう。


拮平 「わかったよ。適当に仕立てといとくれ」

番頭 「ありがとうございます」

 

 番頭たちは、拮平の気が変わらないうちにと、反物を寄せ集める。


手代1「これとこれ、それとそれも、そちらも」

手代2「こちらもよろしいかと」

手代3「こちらも捨てがたいです」

手代1「ついでに」

手代2「最後のおまけ」

手代3「もう一声」

番頭 「若旦那、帯はいかが致しましょう」

拮平 「まかせるよ」

手代1「かしこまりました!」

番頭 「いつにも増してのお買い上げ、ありがとうございます」

----今に見てろ。俺がここの主人になったら、毎日着物仕立ててやるから。主人からは金は取れないから、今日のはほんの祝儀だよ。

手代1「若旦那、お茶が冷めますよ」

手代2「茶菓子も持ってまいりました」

手代3「さあ、どうぞ」

拮平 「茶はさっき飲んだからいいよ。じゃ、これで失礼するよ」

 

 と、澄ました顔で奥へ行きかけるも、またも阻まれてしまう。


拮平 「おどき!」

手代1「若旦那、お帰りはあちら」

拮平 「あたしは、お伸ちゃんに用、いえね、約束してんだよ」

手代2「その様なお約束は承っておりません」

手代3「ここから先はどなたもお通しできません」

拮平 「でもさ、今、入って行ったじゃないか!」

手代1「あれは、ご新造様のお客様です」

拮平 「そうだった。あたしゃ、おっかさんにもちょいと用があってね」

手代2「ご新造様は来客中です」

拮平 「待たしてもらうよ」

手代3「今日のところは立て込んでおりまして、明日にでも」

拮平 「待つって言ってんだから、いいじゃないか!」

手代1「駄目です」

手代2「お帰りはあちら」

手代3「どうしてもおっしゃるなら、どうぞ」

拮平 「えっ、何だ、早く言ってよ」

手代3「その先には腕の立つご浪人さんがいらっしゃいますよ」

 

 これは嘘だったが、拮平には効いた。


拮平 「そうかい。なら、今日のところはこのくらいにしといてやるよ。お前た

   ち、こん次合う時まで、首洗って待ってな、あばよっ」

一同 「……!?」


 一同、首を傾げるばかり。

 拮平が気取って店を出ようとした時、またも仲人がやって来た。今度は若い男も一緒だった。

----ひょっとして、こいつ、婿候補?驚いたね、現物披露かい。でもさ、大した事ないね。あたしと比べりゃ、月とすっぽんだよ。

 だが、店の中ではこんな時には必ずいる筈の鶴七と亀七の姿が見当たらない。


番頭 「また、どこへ行ったんだろうね、あの二人は」

 

 当の鶴七と亀七は、拮平が店に入って来たころ合いを見計らって、二人は別々に店を抜け出していた。




 













 

















































  





 

 

 

  








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