第35話 花の色は…

 どうして桜は散り急ぐのだろう。


静奴 「あら、もう、散って…。三日見ぬ間の桜かなって本当ね。すぐに散ってし

   まうのだから」

蜜花 「静奴さん、何を一人でぶつぶつ言ってんの。独り言が多くなったら、やば

   いって言うじゃない」

静奴 「密花さん、何もそんな言い方しなくても」

蜜花 「花の色は 移りにけるな いたづらに 我身世にふる ながめせしまに」

静奴 「そう、ちょっと私が物思いにふけっていたら、もう、これでしょ」

蜜花 「でも、私は葉桜も好きだけど」

----つまり、自分が今、花の盛りだと言いたいんでしょ。

蜜花 「でも、桜は来年も咲いてくれるわよ」

静奴 「来年。長いわねぇ」

蜜花 「何言ってんのさ、年末になればいつも、一年なんてあっという間ねって言

   うくせにさ」

静奴 「そうだけど、今年の春はせつなくて…。そんなら、一杯付き合ってよ」

蜜花 「駄目よ、昼間から飲んじゃ駄目」

静奴 「でも、飲まずにいられない。こうなったら、葉桜眺めながら女二人で

   やるっきゃかない。ちょいと、持って来とくれ」

 

 静奴が持って来いと言えば、酒であることは知らぬ者はいない。 


蜜花 「止めなさいよ、もうそろそろ支度しなくちゃいけないのにさ」

静奴 「酒でも飲まなければ、支度する気にもなれないわさ」

蜜花 「やれやれ、そんなに飲んで体壊さなければいいけど」

静奴 「どうせ、儚い命ですよ、私は。でも、その前にも一度、逢いたい…」

蜜花 「その内、お見えになるわよ」

静奴 「ふん、あんな金目当ての女のどこがいいものかい。きっと気位が高く最

   初っから尻に敷かれてんのさ」

蜜花 「何言ってんの、あの真様が簡単に女の尻に敷かれるような男かしら」

静奴 「そ、そうだけど…」

 

 その時、勢いよく障子が開く。


女将 「ちょいと、二人とも何やってんのさ。早く支度おし!まったく…。ああ、

   静奴、珍しく一番座敷かかってるよ」

静奴 「えっ」

----真様だ…。

 

 心は逸りつつ、急ぎつつも念入りに化粧をする静奴。

 だが、座敷で待っていたのは、意外な人物だった。


静奴 「まあ、大旦那。この度はおめでとうございます。あら、こちらが新しいご

   新造様ですか。まあ、本当にお若くてお美しいじゃございませんか。静奴で

   ございます。旦那様にはいつもご贔屓いただいております」

 

 待っていた客は、白田屋の嘉平だった。静奴の陽気さと三味線の腕の良さを気に入っている嘉平だった。今宵の嘉平は新妻のお芳を伴っていた。

 静奴は真之介ではなかったので内心がっかりしたが、そこは芸者。そんなことはおくびにも出さず、先ずはお芳に酌をする。


静奴 「このようなご新造様では、もう外に出かけるのもお嫌になられるのでは」

----うっかり外へも出られないような、気のきつそうな嫁だね。

嘉平 「いやいや、やっと落ち着いたところでさ。このお芳がさ、もっと世間を知

   りたいと言うから、ちょいと連れて来たって訳。ねーえ」

お芳 「そうなのよねーえ」

静奴 「あらあら、そんなに見せ付けないでくださいましな。もう夏が来たかと蝉

   がびっくりして飛び出すじゃないですか」

芸者 「こんばんわ」


 芸者が三人やって来た。


嘉平 「おう、来たか。じゃ、早速やっとくれ」

 

 静奴の三味線で踊りが始まるが、お芳が踊りを見ていたのは最初だけだった。


お芳 「芸者って言うから、少しは顔がいいのかと思ったら、どれも大したことな

   いわね」

 

 わざと聞こえるように言っているのか、聞こえてもいいと思っているのか。おそらくその両方だろう。これでは密花を呼ばない訳だ。しかし、幾らこういう場所が初めてとはいえ、いや、この女、どんな場所でもこのままなのだろう。


お芳 「ええっー。芸者って踊って酌するだけ?これでいいんだ。楽でいいわね

   え。でもさ、男ってこんな事に高い金払うの」

嘉平 「お芳、ちょいと見ただけで決めつけるもんじゃないよ。今夜はともかく、

   ここは情報交換の場でもあるんだよ。仲間内の場合もあるけどさ、この妓た

   ちは色んな座敷に行くだろ。何でもよく知ってんだよ。だけどさ、仲良くな

   らなきゃ、信頼関係築かなきゃ、耳に入って来ない事もあるんだよ。そりゃ

   接待でも使うけど、何をするにも情報が一番なのさ」

お芳 「そうなんだ」

嘉平 「そうだよ、でもさ、今日は他ならぬお前と二人だからさ、そんなこと置い

   といて大いに楽しもうじゃないか」

お芳 「そうね」

 

 と言ったものの、思ったほど楽しくない感満載のお芳だった。

----何さ、何も知らないくせに、知らなきゃ知らないなりにすればいいのにさ。 それなら、お座敷遊びのいろはを教えてやろうじゃないか。

 持ち前の明るさとテンポのいいしゃべりで、場を盛り上げさせれば右に出る者がいないと言われる静奴が本領を発揮し始め、果ては、お芳の手を取り座敷遊びに興じさせる。


お芳 「ああ、面白かったぁ…」

 

 と、遊び疲れた子供のようにその場に座り込むお芳だった。

----ふん、この静奴姉さんのすごさ、少しはわかったかい。

 嘉平とお芳が帰った後の静奴には疲労感だけが残ったが、すぐに次の座敷へと向かわなければならない。

----真様、逢いたい…。

 だが、翌日には何と拮平がやってきたのだ。


静奴 「あら、若旦那、お一人ですか」

拮平 「ああ、真ちゃんはね、しばらく無理だね」

静奴 「いいえ、昨日は大旦那と新しいご新造さんがお見えになられましたよ」

  

 拮平は真之介の話をすれば静奴が喜ぶと思っている。だが、その話は嘘ではないのだがいつも大仰であり、うっかり真に受けると後で話がかみ合わず、恥ずかしい思いをする。特に新婚話だ、尾ひれ満載なのはわかっている。そんな話はお後の楽しみに取っておけばいい。それより昨日のお芳の有り様を、いつもの拮平を見習うと共に、憂さ晴らしも兼ねて少し大仰に話す静奴だった。


拮平 「ああ、余程、楽しかったと見えて、今朝は珍しく遅くまで寝てたさ。この

   間まで、俺がちょいと朝寝してしてたらさ、箒持ってやって来たくせにさ。

   しどいと思わないかい」

静奴 「箒?ああ、それで寝ている若旦那を履き出すとか」

拮平 「まあ、そんなとこだが、昨日見ただろ。あのお芳が箒持って仁王立ちして

   みろ。まさに赤鬼青鬼だよ。そんでよ、俺もな箒買って応戦してさ、コテン

   パンにやっつけてやったさ」

静奴 「ええっ、若旦那、幾らなんでも女の人を箒で殴り付けるなんて…」

拮平 「ああ、ちょっとやりすぎたなぁ。後でお父つぁんに、ほどほどにやれって

   言われちまったよ」

静奴 「そんな、ひどく叱られたんじゃないですか。大事な新妻殴ったりしたら」

拮平 「いやさ、お父つぁんも、お芳のわがままに手を焼いてんのさ」

静奴 「そうですか、昨日はそんなには見えませんでしたけど、確かにちょいとわ

   がままなところはありましたけど、大旦那は随分と鼻の下伸ばしてらっしゃ

   いましたよ」

拮平 「そりゃ、人前だからさ」

静奴 「そうですか」

 

 この話も本当のところ、どうなのだろうと疑いを捨てきれない静奴だった。その時、蜜花がやって来た。


蜜花 「こんばんわ」

拮平 「おお、蜜花。早くここへ来て酌してよ。聞いて欲しい話があるんだ」

蜜花 「あら、何でございましようか、聞いて欲しいお話って」

拮平 「実はさ、うちにお敏って女中がいるんだよ。だからさ、あの憎たらしい後

   妻がお芳で、かわいらしい女中がお敏。一字違いだからさ間違えないどくれ

   よ。あ、蜜花は憎たらしい後妻のこと知らないんだよね」

蜜花 「ええ、でも、昨日のことは静奴さんから聞きました」

拮平 「やっぱり、大変だったかい」

静奴 「いいえ。確かに、最初はぐずぐず言ってましたけど、ちょいとノセてやれ

   ば、後は他愛ないもんでしたよ」

蜜花 「そのお芳さんと言う後妻さんはそんなに憎たらしんですか」

拮平 「憎たらしいなんてもんじゃないさ。それと「さん」なんて付ける必要ない

   よ。お芳さんなんてお止し、お芳だけいいさ。そんなのお止しだよ」

蜜花 「まあ、面白い。さすが、若旦那」

 

 月並みな駄洒落でもほめられると途端に機嫌が良くなる拮平だが、静奴と蜜花にはそっちの方が面白い。機嫌が良くなると、次は賢さアピールの番だ。


拮平 「話を戻すよ。お芳じゃなくて、お敏の事だけどさ。これがやさしいのやさ

   しくないのって、特にこのあたしに。あたしがさ、あの後妻にいじめられた

   りしてたらさ。特別にご飯用意してくれたり、片づけやってくれたり、部屋

   を奪われ箒で殴られても庇ってくれんのよ。こないだも真ちゃんちで花見す

   るってんで、酒持って出かけようとしたら、それだけではとか言っちゃって

   重箱持たしてくれんの。揚句にゃ、こんな重いもの二つも若旦那に持たせる

   訳にはいけませんって、その重箱持って私も付いて行きますって、着物も着

   替えてやんの。くくくっ、もう、感激の涙がだんだらだんよ」

 

 この界隈では拮平の話は半分に聞くと言うのが、定説となっているが、それにしてもお敏と言う女中はやさしいと思わずにはいられない静奴と蜜花だった。


蜜花 「若旦那、良かったじゃありませんか、そんないい方がお近くにいて」

静奴 「本当、お羨ましい」

拮平 「これ、絶対俺に気があるよね」

蜜花 「ええ、そりゃ、もう」

静奴 「悔しっ。若旦那だけ幸せになるなんて」

拮平 「そうだね。まあ、真ちゃんとこもいいんだか悪いんだか、はっきりしない

   のよ」

蜜花 「と言いますと」

拮平 「まだ、しっくりいってないって感じでさ。これからかもしれないけど、う

   まくいってくれりゃいいけど、なんか、いつまで経ってもあんな感じのまま

   かなって。やはり、無理があるよね、あの二人。いまだに夫婦って感じしな

   いし。人ごとながら、これからどうなるんだろうね」

蜜花 「まだこれからじゃないですか、先は長いですもの」

静奴 「まっ、なるようになると言うか、なるようにしかならない…」

蜜花 「そんなことより、いい女といい男が揃って湿っぽいですわ。さあ、静奴さ

   ん、お願いしますよ」

拮平 「そうだそうだ。何か、明るいのをやっとくれ」

 

 三味線を持てば、気が引き締まる静奴だった。蜜花が踊る。

 春のさかりの宵だった。  



 桜の花は散り、葉桜になっている。

 だが、新婚家庭には来訪者の花が咲いていた。その中には、雪江と絹江の従姉と言う棘花もあるが、ふみが何より嬉しかったのは、佐和夫妻を招待出来たことだった。今まではどうしても佐和の幸せが妬ましかったし、自分も輿入れしたもの中々打ち解けられずにいたが、拮平のことからぎこちなくも気持ちが通う様になり、おずおずと真之介に切り出してみれば、快諾してくれた。

 そして、ふみと真之介と佐和夫妻のそれは楽しい時間を過ごすことが出来た。

 ああ、これで佐和と対等になれた。これからは遠慮なく行き来が出来ると、ふみは嬉しかったものだ。

 また、坂田の妻も何度かやって来た。仲人なのだから当然かもしれないが、その時にはいつもどこかの母と娘が一緒なのだ。それは単に新婚家庭への好奇心だけではなくどうやら、にわか武士へ嫁いだふみの暮らしぶりを偵察に来ているようだった。そして、運よく真之介を目の当たりにすれば、母も娘も飛びきりの笑顔になり、その時のふみは誇らしい気持ちになる。

 事実、坂田の元へは以前にも増して縁談の依頼がある。それも、娘の嫁ぎ先が真之介と同じにわか武士でも、いや、寧ろ嫁がせたいと言うもの。さらには息子の嫁にも裕福な商人の娘をと言う依頼すらある。皆、生活苦に喘ぎながらも体面を重んじて来た武士たちだが、抜き差しならぬ事情があったとはいえ、一人の旗本の娘が先陣を切ってくれた。ならば、わが娘もと思ってしまう。

 だが、真之介も同じく侍株を買い武士になった男から感謝される。


侍  「真之介殿の、いや、奥方のお陰ですかな。今、私のところへも旗本の姫か

   らの縁談が持ち込まれています。それも二組です。もう、どちらにしようか

   迷ってますよ。ははははは」

 

 真之介にしても、ふみにしても、互いに悩んだ挙句の選択だったのに、やはり世間では色物夫婦と見られているのだ。

 世間のことはさておき、ここのところ真之介は何か腑に落ちない。側にいるのは当然、ふみだが違う、何か違う…。


忠助 「旦那様」

 

 声の方に目をやれば、忠助の後ろには半泣きのお房がいた。その時、真之介は気が付いた。

 そうだ、お初だ。

 真之介には四人の母がいる。生母と継母に今は義母もいる。そして、誰よりも長く真之介と寝起きをともにしてきたのが乳母のお初。そのお初は数か月前から、姉の夫の妹の出産の手伝いに行っている。

 影のような存在のお初が去ったその夜は妙な静けさを感じたものだが、すぐに真之介は婚礼の準備に追われ、婚礼後も何かと忙しくお初の事にまで気が回らなかったが、先日、出産の知らせがあり、祝いの品は母に託したが、その時はこれからは赤ん坊の世話などお初の方が忙しくなると思った。

 生まれたのは女の子で母子とも元気であると、お弓は言っていた。ならば、あのお初の事だからそのうち戻ってきたいとか言いそうなものなのに、全く音沙汰がない…。


真之介「お房、どうしたのだ」

忠助 「それが旦那様。ほら、お初さんの弟がやってきて、お房ちゃんにお初さん

   の居場所を教えろって、しつこく脅された様なんです」

お房 「私、本当に知らないのに…」

忠助 「実は、先日来た時は、私が知らないって追い返したんですけど、やはり、

   お房ちゃんに…」

真之介「困ったものだ…。お房には恐い思いをさせたな。忠助、これからしばらく

   はお房一人で外に出さぬように」

忠助 「へい」

久  「お房、顔と手を洗うのよ」


 ふみからの饅頭を久が手渡す。


お房 「ありがとうございます」

 

 お房は喜んで井戸の方に駆けて行った。


真之介「困ったものだ…」

久  「お初さんて、旦那様の乳母の方でございますよね。私も婚礼の日にお会い

   しました」


 そうだった。婚礼の時にはお初もいた。


久  「旦那様のことをお願いしますって、本当に感じのいい方でしたわ」

 

 これには真之介と忠助が微妙な反応を示す。元はと言えばお初が嫁いびりをしそうなので、取り敢えず、ふみがこの暮らしに慣れるくらいまで、屋敷外に身を置いて欲しかった。そして、出産の手伝いを打診してみれば、お初はお初で長い間の弟たちの金の無心を断ちきる気持ちが強く、意外にあっさりと事は運んだ。

 お初の事情と性格を聞いた久は驚くしかなかった。


忠助 「ですから、決して悪い人ではないのですが、とにかく旦那様命なんです。

   もう、旦那様の自慢話させたら、そりゃもう一日や二日では終わりません。

   とどのつまり、それは一重に自分の養育が良かったからと言う、これまた自

   慢の人でして」

久  「では、お初さんはいずれはこちらにお戻りになるのですか」

 

 そうなれば、自分もここには長くは居られまいと思う久だった。


真之介「まあ、いずれ、戻って来ると思うが、それにしても戻りたいとも言って来

   ないのが、なんとも…」

忠助 「本当にそうですよね、あのお初さんが…」

真之介「いや、心配するでない。戻ってくればきちんと言って聞かすで。それにし

   ても、何か、ちと妙…」

忠助 「本当に妙ですね」

真之介「よし、明日にでも様子を見に行くとするか」


 翌日、やはり気になり、姉の夫の義妹のお喜代夫婦の小料理屋へやって来た真之介だった。


真之介「お初はどうしてますか」

お喜代「元気にしてますよ」

 

 お喜代は意味ありげな笑いを見せなから言うが、赤ん坊の寝顔も見たし、お喜代の亭主も顔を出したと言うのに、肝心のお初が姿を現さないどころか、お喜代も亭主もお初のことに触れもしないので、さすがにしびれを切らした真之介だった。


お喜代「あの、旦那様。お初さん、もう少しここに居てもらっても構いませんか」

真之介「それは構わぬが、お初に何かあったので?」

 

 お喜代も赤ん坊も元気だと言うのに、小料理屋の手伝いでもさせたいのだろうかと思ったりしていた時、やっとお初がやって来た。


お初 「まあ、旦那様!」


 真之介は一瞬目を疑った。肝心のお初が現れたのだが、それは今まで見たこともないようなお初だった。

 うっすら化粧をした笑顔は輝いてさえ見える。若返ったと言うより、真之介の目から見てもきれいになっているのだ。


お初 「まあ、お変りはございませんか。すっかりご無沙汰いたしまして。あの、

   お嫁様とは仲良くなさってますか。あ、これは聞くだけ野暮でしたわね。

   ほほほっ」

真之介「お初も、変わりはないか」

 

 と、真之介は白々しく聞いてみるのだった。 


お初 「ええ、まあ、元気にやっております」

 

 と、はにかむようなしぐさのお初に、真之介はますますわからなくなって来た。一体、何があったと言うのだ。


真之介「何か、もう少しここに居りたいとか」

お初 「あら、いやですよ、女将さん。もう、私、どうしましょ」

お喜代「それがね、構わないそうよ」

お初 「えっ、まあ、申し訳ございません。そろそろ私もこちらをお暇しようかな

   と思っていたんですけど。そうですか…。そうおっしゃって頂けるなら」


 真之介自身はまだ何も言っていない。


お初 「いえ、その、お店の方のお仕事が楽しいものでして」 

 

 と、聞きもしないのに、それらしい口実すら付けたす。


お初 「では、まだ、お仕事がありますので、まあ、どうしましょ、私ったら、

   失礼します」

----何だ、今のは…。

真之介「まだ、話は終わっておらぬと言うに、何があったと言うのだ」

お喜代「おや、旦那様にもおわかりになりませんか。もっとも私たちも最初は半信

   半疑でしたけどね」

真之介「で、その半信半疑とは」

お喜代「恋ですよ」

真之介「コイ?ここでは鯉濃こいこくがそんなに食べられるのか」

 

 鯉濃はお初の好物だった。


お喜代「いやですよ、お惚けになってから」

真之介「惚けてなどおらぬわ」

お喜代「さようで。では、心してお聞きくださいませ。コイはコイでも池の鯉では

   なく、好きな男が出来たの恋ですよ」

 

 思わず、茶を吹き出しそうになる真之介だった。


真之介「相手はどんな男だ」

 

 こうなったら、聞くしかない。


お喜代「役者ですよ」

 

 役者!?これには二度びっくり。さすがに心の臓に悪い。


お喜代「役者と言っても売れない役者だったんですけど、近頃、戯作物も書いたり

   して、役者と戯作者の二足のわらじってので人気が出ましてね」

真之介「しかし、そんな役者とどこで知り合ったと言うのだ」

お喜代「あら、この近くに芝居小屋があるのご存じなかったのですか。これでも、

   うちの店にも芝居関係の方たちがお見えになりますのよ」

真之介「それは単に役者にのぼせている、役者狂いの類では」

お喜代「違いますよ、初めて好きになった男が役者だったと言うことです。その役

   者に女房はいませんけど、役者なんて女房が居ようが居まいが女は芸の肥し

   ですから。でも、お初さんは本気で惚れてます。あれは完全に恋する乙女で

   す。もう恋したら、年は関係ありません」

真之介「……」

 

 真之介は完全に打ちのめされていた。未だかってこんなに打ちのめされた事があっただろうか。もう、とやかく聞く気にもならなかった。


お喜代「旦那さま、大丈夫ですか。相当驚かれたようでございますね。まあ、無理

   もございませんわね。母親のような方ですものね」

 

 その通りだ。常に自分に寄り添ってくれる影の様な存在だったのに、今はその影が消え、女と言う光を放っているのだ。お喜代が再度お初を呼ぶ。


お喜代「お初さん、せっかく旦那様がお見えになられたのに、何をそわそわしてる

   んですか」

お初 「いえ、その、やはり、お店の方が…」

お喜代「大丈夫ですよ。そんなことより、少しは旦那様のお相手なさいな。積もる

   話もあるでしょうに」

真之介「いやいや、ちょっと様子を見に来ただけで、用と言うほどの事でもない

   が、いずれにしてもお初、一度顔を見せに帰れ。お房がお前の弟にしつこく

   付きまとわれて困っておる。それにこれからも、この店で働くとしても、皆

   心配して居る。とにかく近いうちにな」

お初 「まあ、お房ちゃんにまで。申し訳ございません、本当は私の方からお願い

   に上がらなければならないのに、旦那さまにご足労いただきまして…。私と

   した事がうっかりしておりました。まだ、お嫁様にもご挨拶も致して居りま

   せんのに、本当にどうかしてます、私…」

 

 本当にどうかしている、以前のお初からは到底考えられないことだ。

 さらに、お初はもじもじしながら言う。


お初 「あの、明後日お伺いしてよろしいでしょうか」

真之介「明後日か、では待っておるで」

 

 と、真之介は立ち上がり、お初を見据えて言う。


真之介「忙しいところ、邪魔したな」

お初 「いえ、何のお構いも…」

 

 なぜかどきまぎしてしまうお初だった。

 桜は散ったが来年も咲く。

 人は若い時を花と言うが、女はいつでも咲く事が出来るようだ。その女を咲かせるのは男。

 明後日、お初は手土産を抱えてやって来た。

 話には聞いていたものの、お初の変わり様に言葉もない忠助だった。


お初 「まあ、お房ちゃんごめんなさいね、嫌な思いさせたわね。あの、これ、ほ

   んの気持ち」

 

 髪飾りをもらったお房は大喜びしている。忠助には煙管。久には紅。


お初 「もう、旦那さまや特にお嫁様は何をお選びしていいのかわかりませず、月

   並みなものでお許し願います」

 

 羊羹の箱を差し出し、改めて真之介とふみを見つめるお初だった。


お初 「まあ、本当にお美しい…。改めてお顔を拝見いたしますれば、噂以上では

   ございませんか。まさに美男美女の、こちらでは年中雛祭りがお出来になり

   ますわ。これでしたら、白酒と雛あられをお持ちするのでした。ほほほほ」

 

 と、その後も特に、ふみを褒めたたえる。


真之介「これ、お初、歯の浮くような世辞はもうよいわ」

お初 「いいえ、これはお世辞ではございません」

 

 と、まだまだ言い足りない態のお初に忠助も口添えする。


忠助 「お初さん、べんちゃらもほどほどにしましょうよ」

お初 「あら、忠助さん、これはべんちゃらではなくて、ほんちゃらです」


真之介「何だ、そのほんちゃらとは」

 

 真之介はわざと聞いてやる。


お初 「ほんちゃらとは、べんちゃらではなく、本当のちゃらでして…」

忠助 「そのちゃらとは、ちゃらにするの、ちゃらですかね」

お初 「もう、忠助さんたら。少しは私の言いたいこと、わかってくださいまし

   な」

忠助 「やれやれ、お初さんも変われば変わるものですね」

お初 「まあ、私、そんなに変わりまして」

忠助 「ええ、最初の頃は冗談はおろかにこりともしないで、旦那様が生まれてか

   らこれまでの話ばかり。そして、最後は旦那様がこのようにご立派になられ

   たのは、私の養育が良かったからと、延々聞かされたものですよ」

お房 「もう、私には旦那様の近くに行ってはいけない、色目を使うなってうるさ

   かったんですから。誰も色目なんか使ってないのに。それなのに、今はお初

   さんの方が、なんか、体くねくねしてぇ」

お初 「な、何を言うのお房ちゃん。私がいつ、そんな…」

 

 お初のうろたえぶりに一同が笑う。

 久は最初からお初に好印象を持ち、今も屈托なく笑っているが、これがお初と一つ屋根の下で暮らすなれば、やはり何かしらの衝突はあった筈だ。なので、お初がお喜代の店で働いてくれることは願ったり叶ったりだが、今はのぼせて何も見えないお初もいつかは現実に引き戻される時が来るだろう。


お喜代「その時は旦那様のもとに帰って行きますよ。それまで待っててあげて下さ

   いませな。最後は旦那様しかいないのですから。でも、何事もなく終わる一

   生よりは、例え短くても花の時期があった方がいいと思いませんか、わかっ

   てあげて下さいまし」

 

 と、お喜代は言った。

 日が暮れると子は母のもとに帰って行くが、巣立った子のもとに母が帰って来る日もあるのか…。










 



  







 



























 






 

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