第34話 二階の女が気になる

拮平 「真ちゃーん」

 

 真之介が実家に帰ってきたことを知った拮平は、勝手知ったる隣家の裏口から二階へと掛け上がれば、何と、部屋には真之介だけではなく、ふみもいるではないか…。


 ふみは義実家である本田屋に来ることが楽しくてならない。ほとんどの家屋が平屋の時代、 ここは二階家なのだ。部屋に入れば、ふみと久はすぐに窓辺へと向かう。窓から下の眺めはこの上もなく新鮮だった。小粒の人間が歩いているのだ。それを見ているだけで楽しい。


ふみ 「ここが旦那様のお部屋だったところですか」

真之介「今でも私の部屋だ。母はどこかの後妻のように、後から入ってきて部屋を

   横取りするような人ではない」

ふみ 「でも、今は旦那様にはご自分の屋敷がおありではないですか」

真之介「だから、隣の後妻と一緒にするでない。私が家を出た後もそのままにして

   くれている、そういう人なのだ」

ふみ 「申し訳ございません、そんなつもりでは…」

真之介「わかっておる、気にするな」

 

 その時、廊下を小走りし、勢いよく顔を覗かせたのが拮平だったが、突然のことにうろたえまくる。

 まさか、真之介が妻を伴って帰って来たとは思わなかった。いや夫婦だからそれはあるとしても、それが今日の今日とは。


----でもでも、この二人うまくいってないんじゃ…。


真之介「そんなところで何をしておる」

 

 その声に逆にほっとする拮平だった。


拮平 「これは旦那様。いえ、あの、姫様、奥方様もいらっしゃるとはつゆ知ら

   ず…」

真之介「いいから、入れ」

 

 部屋に入ったものの拮平は隅の方でそれでも落ち着かない。そして、突如思い出したように、ふみの前に這いつくばる。


拮平 「あの、いつぞやは大変失礼をば致しました。申し訳もございません」

真之介「もう良い、気にしておらぬそうだ」

拮平 「それは、ありがとうございます。そう、おっしゃって頂けると、少し…助

   かります!」

久  「ああ、この者が若様がおっしゃっていた、好みの娘を見かけると声を掛け

   ずにいられないと言う、あの白足袋屋の拮平ですか」

拮平 「あの、白足袋屋ではなく、白田屋にございます。確かに足袋は扱っており

   ますが」

久  「白田屋の白足袋ですか、宣伝文句としては悪くないのでは」

拮平 「はぁ、恐れ入ります」

久  「私もあの時は無事、姫様にお会いできた嬉しさで、この者のことまで気が

   回りませんでした」

----嘘つけ、この女。その後は真ちゃんの顔ばかり見ていたくせに。それにしても、この嫁、どこから見ても可愛いなぁ。これなら少しくらいわがままでも…。


真之介「そろそろ参るとするか」

ふみ 「はい」

真之介「そうだ、拮平、お前も来ぬか。鰻屋だ」

----まったまた、おごらせようってぇの。まっ、いいか。

拮平 「はぁ、喜んでぇ」

 

 ふみは外に出ると緊張する。行きもそうだが義実家が近づくと、真之介の少し後ろを歩いているのに注目を浴びるのだ。そこは武家の女、毅然として歩かなければならない。そう言えば、初めての挨拶回りの時も丸で黒山の人だかりだった。今日はそこまでのことはないにしても、先程よりは人が多くなっている。「ほら、本田屋の」などと言う声も聞こえてくるし、鰻屋でも客の視線を一斉に浴びてしまう。そのことをふみは、これは夫の真之介がこの辺りでは超有名人であるからだと思っている。


鰻屋 「これは旦那様、奥方様、お待ちしておりました。さっ、どうぞどうぞ」

----えっ、もう既に予約してたのかよ。相変わらず手回しのいいこと。

 

 と、拮平は思ったが、だが、二階の座敷でさらにとんでもない光景を目の当たりにする。なんと、そこにいたのは三浦播馬夫妻、兵馬に供の侍と女中、さらにあの時の源助までいるではないか…。


----何、この完全無欠な敵地感。ひょっとして、これ全部おごらせる気?そりゃ、無いよ…。

兵馬 「ややっ、拮平ではないか。父上、母上、こやつがあの拮平です」

真之介「どうも、遅くなりまして申し訳ございません」

兵馬 「いえいえ、兄上、鰻は時間がかかりますから、この前教えて頂いたよう

   に、こうしてたくわんでゆっくり飲んでおりました」

加代 「真之介殿、お言葉に甘えてやってまいりました。殿」

 

 ここに来ても表情を変えない播馬は盃を置きながら。


播馬 「まあ、たまには、悪くない」

真之介「お気に召して頂き幸いです。また母上のお加減もよろしそうで安堵いたし

   ました。こちらにおりますのが、実家の隣の足袋屋の拮平と申す者です」

拮平 「あ、あの、お初にお目もじを得まして…、いえ、その、恐悦至極に存じ

   奉ります」


 ガチガチに緊張している拮平だった。その時、鰻が運ばれて来る。


真之介「拮平、その様にかしこまらずとも」

 

 だが、拮平はいても経ってもいられない…。


拮平 「いえ、その、お邪魔のよう…で、後日、改めましてごあいさつ申し上げた

   く存じおり、まして、私めはこれにて失礼申し上げます」

源助 「おや、若旦那、もうお帰りで、先ずは一杯」

 

 笑顔の源助だったが、拮平はそれどころではない。このどさくさにまぎれて退散しなければ、後が怖い…。

 退散!!


真之介「何だ、本当に、帰るのか」

 

 人はおいしいものを食べる時、その場は至って和やかなものだ。だが、その場から抜け出した拮平は冷や汗三斗の心境だった。


女中 「あら、若旦那、もうお帰りで?えっ、もう、お召し上がりになったので」


 鰻屋の女中が驚いている。


拮平 「誰があんなところでのん気に鰻など食えるかい」

----それにしても真ちゃんも変わってしまったなぁ。いきなりあんなことするんだもの。あの嫁のことは俺も迂闊だったけど、それならそうと一言、言えよってんだ。だけどさ、俺は絶対に格上から嫁なんかもらわない。真ちゃん知らないけどさ、うちのお敏がやさしいんだ。あれぇ、ひょっとすると、俺、お敏でいいと思ってる…。


 そんなことをぶつぶつ、つぶやきながら歩いていた拮平がふと上を向けば、その先にはお芳の顔があった。占領した元拮平の部屋から下を見ていたのだ。拮平はそれまでの気分が一瞬で吹き飛ぶ。


----ああ、月の晦日にゃ、また文句言うだろうなぁ、あのお芳の奴…。


 晦日には掛け取りがやって来る。その時の鰻屋の代金を見てお芳は発狂するかもしれない。


----真ちゃんもしどいよ、しどすぎる

 

 だが、晦日の鰻屋の掛け取り額は、以前、真之介と兵馬で行った時のみだった。

 それなら、どうして真之介は自分をあの場に連れて行ったのだろう…。

 

 そして、桜の花の季節が近づいてくれば、拮平は二階に上がってみる。元自分の部屋からは遠くに桜並木が見えるのだ。まだ、緑の葉の間につぼみがちらほらの状態だが、これが満開になると美しいのだ。お芳が出かけたのでこの隙にと上がって来た。

 部屋は女の部屋らしくにぎやかに様変わりしていた。出かける支度に忙しかったのだろう、普段着が無造作に衣紋掛けに吊るされ、帯や小物は乱れ箱の中からこぼれていた。よく着ているこの着物は、婚礼前に隣の番頭たちが勧める物を蹴って、嘉平に買ってもらったものだ。隣の番頭から聞いた話によれば。


番頭 「お嬢様にはこちらの柄の方がお似合いです」

 

 と口を揃えて言ったにもかかわらず自分の好みの方を買ったのだが、二日程すると今度は一人でやってきた。


お芳 「この間のをもう一度見せて」

 

 そして、鏡の前で反物を当て、この前は鏡の位置が悪かった、お天気が悪かった、説明不足だったなどと番頭たちに当たり散らした挙句購入する。店としては買ってもらえば文句はないが、それにしても、隣にすごい嫁がやって来るとしばらくは話題に事欠かなかったそうだ。

 結果、今は勧められた似合う方の着物は外出着となり、自分が選んだ方を家着にしている。なので、来客があると大急ぎで着替えるので、家着の方は雑に扱われている。

 それにしてもこの部屋はいい。眺めだけでなく陽当たりも使い勝手もいいと、頬杖を付いていた拮平だったが、それを今度は帰宅したお芳が下から見つけてしまう。恐ろしく階段を駆け上がる音で、拮平はやばいと思ったもののその時は既に遅かった。


お芳 「拮平!そこで何やってんの!」

拮平 「いや、あの、ちょっと」

お芳 「いやらしっ、女の部屋に黙って入ってさ、油断ならないったらありゃし

   ない」

 

 お芳は部屋を特に乱れ箱を見回しながら。


お芳 「変なことしてないでしょうねぇ」

拮平 「何もしてませんよ!あのさ、ここは元私の部屋だったところで、桜の季節に

   なったのでちょっと桜を眺めに来ただけですから」

お芳 「そう、元はね。でも、今は私の部屋なんだからさ、勝手に入るんじゃない

   よ!それに桜なら、うちの庭にもあんだろ。毎年花咲かせるんだろ。どこの桜

   もおんなじじゃないのさ。ったく、油断も隙もあったもんじゃない」

嘉平 「お芳、どうしたんだい」

 

 その時、嘉平が部屋に入って来た。


お芳 「お前さ~ん」

 

 と、お芳はよよと嘉平にすがる。


お芳 「私の留守にね、拮平さん、私の部屋に入って…くくくくっ」

----どうだろ、この変わり身の早さ。

嘉平 「拮平、お前、ここで何してたんだい」

拮平 「何もしてやしないさ。窓から桜眺めていただけだよ。そりゃ、花はまだ早

   いけど、ここは俺の部屋だったんだよ!ちょっとくらいいいじゃないの」

嘉平 「いや、でも、今はいけないよ。今はここはお芳の部屋なんだからさ、謝り

   なさい」

拮平 「いやだね」

嘉平 「そんなこと言わないでさ。じゃあ、お前は死んだおっかさんの部屋を使え

   ばいいじゃないか。ねっ、そうしとくれよ」

拮平 「お父つぁん、死んだおっかさんの部屋は、この女が物置代わりに使ってる

   さ。そんなことも知らないの」

お芳 「いえ、あの、あそこは困るの。ねえ、いいでしょ、お前さん」

嘉平 「うーん、それなら…」

拮平 「もう、結構ですよ!二度と金輪際、おとっつぁんが死んだって二階には上

   がってきませんからぁ」

 

 と、拮平は開いてる障子を押し開き、振り向く。


拮平 「そのうち、お父つぁんの部屋も取られたりして。部屋だけならいいです

   けっど。くれぐれもお大事にぃ」

----ふん、何だい!あんな女にすっかり気ぃ抜かれてさ。あれじゃ、先は長くないね。

お敏 「若旦那どうなさったんですか」

 

 拮平が階段を降りたところにお敏がいた。 


拮平 「お敏…」

----ああ、俺にはお敏がいた…。



 真之介の屋敷にも桜の木が三本ある。後四、五日もすればかなり咲き揃いそうだ。そう言えば、ふみは毎年どの様な花見をしてたのだろう。


ふみ 「実家の桜を眺めておりました」

久  「あの、旦那さま。奥方様は今まであまり外出されることはございませんで

   したので」

真之介「さようか。では、今年は桜の名所にでも出向かれますか」

ふみ 「桜の名所ですか…」

真之介「ああ、桜並木と言うのはそれは美しく、しだれ桜も見事である」

ふみ 「人も多いのでしょうね」

真之介「それは、三日見ぬ間の桜かなと言うほど、うかうかしていたらすぐに

   散ってしまうゆえ見頃ともなれば大勢押しかけ…。ああ、あまり人込み

   はお好きではないか」

ふみ 「そう言う訳でも…」

真之介「では、家の桜で人を呼んで花見と洒落ますかな」

ふみ 「はあ」

真之介「で、どなたとどなたをお呼びすれば」

ふみ 「それは旦那様にお任せします」

真之介「私が呼ぶとなればガサツな者ばかりで、きっと驚かれる」

ふみ 「旦那様のお知り合いなら、私も知っておかねば」

 

 真之介の家での花見の知らせを受けた拮平は、早速にお敏に当日持参する料理を作ってくれるように頼む。


拮平 「酒は持ってくけどさ、つまみも何かちょっと…。かまぼこだけってのも芸

   がないしさぁ。だから、何かちょっと作っとくれよ、少しでいいからさぁ」

お敏 「はい、わかりました」

 

 と、お敏は快く引き受けてくれたが、拮平はお敏も連れて行くつもりだった。


----お敏を連れて行ったら、みんなびっくりするだろうなぁ。


  そして当日、お敏が風呂敷に包んだ小さな重箱を手渡してくれた。


拮平 「ありがとうね、お敏。でもさ、これじゃ酒もあって両手塞がっちまうん

   だよ」

お敏 「では、誰かに持たせましょうか」

拮平 「いや、それね、お前持って付いて来てくれないかな」

お敏 「いえ、私は用事がありますもの」

拮平 「そんなの構やしないよ。俺がちゃんと言っといたからさ、早く着替えとい

   で」

お敏 「えっ、ええ、まあ…。でも、お屋敷の前までですから、このままじゃいけ

   ませんか」

拮平 「ちょっと良くないね」

お敏 「はぁ、では」

 

 お敏は着替えに行った。拮平は嬉しくてお敏の来るのを待っていた。

 だが、それにしても遅い。そんなにめかし込まなくてもと思ってしまう。

 やって来たお敏は、さすがにきれいになっていた。取り立てて美人と言う訳ではないが、やさしい心根がそのまま顔に表れている。


お敏 「お屋敷の前までですよ」

拮平 「さっ、行くよ」

 

 拮平はお敏を屋敷の前で帰す気はない。何としてでも、みんなの前にお敏を連れて行きたかった。

 だが、お敏は門の前まで来ると重箱を差し出す。


拮平 「いや、お敏、お前も一緒に来るんだよ」

お敏 「いえ、私はここまでのお供ですから、これから先は若旦那お一人でどう

   ぞ」

拮平 「そんなこと言わないで」

お敏 「いいえ、呼ばれても無いのに、それでは返ってご迷惑と言うものです」

拮平 「そんなことないよ、真ちゃんと俺の仲は知ってるだろ。気にすることはな

   いよ。毎日一生懸命働いてくれてるんだから、少しは労わせとくれよ」

お敏 「そんな、困ります。どうぞお気遣いなく」

拮平 「何も困りゃしないよ、困るのは私の方さ」

 

 そんなやり取りをしていた時。


万吉 「若旦那」

 

 万吉と仙吉の側にはお澄とかわら版屋の繁次と拮平の知らない男もいた。


万吉 「あれ、お敏さんじゃない」

仙吉 「あれ、今日は特にきれいじゃない」

拮平 「そうだろ」

 

 味方を得た拮平はほっとする。見れば、仙吉も風呂敷包みを持っていた。お澄も何か作って来たのだろう。

 お敏は重箱を万吉に託した。


万吉 「あら、これ重いねぇ」

 

 重箱を受け取った万吉がわざとらしく言う。


万吉 「お敏さん、こんな重いの持たされて、疲れたでしょ。さっ、早く中に

   入って先ずはお茶でも頂こうよ」

仙吉 「そうそう、俺たちものどが乾いちゃってねぇ。早く入りましょうや」

 

 万吉と仙吉は拮平に目で合図をしている。お澄はその様子を笑って見ている。三人とも、拮平の下心は飽きるほど読まされてきたし、また、こんなわかりやすい男もいない。

 万吉や仙吉など多勢に巻き込まれ、お敏も門をくぐることに、その事がこの上なくうれしい拮平だった。真之介は庭にいた。


弥助 「旦那、こ無沙汰しております。この度はお嫁様のお輿入れ、おめでとうご

   ざいます」

真之介「おお、弥助か、ありがとう。お前も元気そうじゃないか」

弥助 「はい、お陰さまで、旦那のお陰です。また今日はお招き頂ましてありがと

   うございます。でも相変わらずの貧乏暇なしなもんで、こんなものしかなく

   て…」

 

 と、弥助は手にしていた春野菜のかごを差し出す。


真之介「これをわざわざ持って来てくれたのか。すまなかったな」

お澄 「ええ、うちにもたくさんいただきましたわ」

 

 お澄の様子を見つつ、拮平は万吉に小声で聞く。


拮平 「お澄の奴、もう大丈夫なのかい」

万吉 「ええ、あんなのは一時ですよ。自分だって亭主いるんですから」

拮平 「それと、あの弥助って誰なんだ」

万吉 「いや、その、ちょっとした知り合いで」

拮平 「ちょっとの知り合いも呼んだのかい」

万吉 「あ、旦那、顔が広いですから」

仙吉 「それより若旦那、今日のお敏さん、一段ときれいじゃないですか」

 

 仙吉が話をはぐらかす。


拮平 「そうだろ、うひひひひぃ」

仙吉 「で、どうなってんですか。ここまで付いてくるなんて」

拮平 「そりゃまあ…。あらまっ、これは真之介様、先日は失礼致しました」

 

 拮平もはぐらかす。


真之介「この間はどうしたんだ。新しい身内に引き合わせてやろうと思ったのに」

拮平 「あのさ、そっちは身内かもしれないけど、それならそうと事前に言ってく

   ださいよ。心の準備ってものがあるんですよ」

真之介「お前にそんなものあったか。いつも出たとこ勝負じゃないのか」

 

 つまりは行き当たりばったりと言うことだ。


拮平 「しかし、あんなお侍ばかりじゃ、緊張するよ」

真之介「はぁ、お敏とじゃ、緊張しないか」

 

 お敏は拮平より、少し離れたところでもじもじしている。


拮平 「いや、そりゃあ」

兵馬 「やや、これは拮平、やはり来おったか」

 

 兵馬が座敷から降りて来た。お敏に目が行く。


兵馬 「ほう、今日は声掛けが成功したか」

拮平 「違いますよ。うちの女中です」

兵馬 「ついに、女中に手を出したか」

お敏 「い、いえ、違います違います。何でもありません。違います!」

 

 お敏も必死で否定する。


お敏 「若旦那、私、もう…帰りたい」

真之介「まぁお敏、せっかく来たのだから、ゆっくりして行け。心配するな、後は

   誰も誤解などしておらぬ」

お敏 「はぁ…」

真之介「先ずは座敷へ」

 

 皆が座敷へと向う中、繁次が真之介の側に行く。


繁次 「旦那、ご無沙汰してます。それに今日はまた、勝手に押しかけまして申し

   訳ございません」

真之介「繁次か、近頃は暇か」

繁次 「いえ、その節は旦那のお陰で儲けさせていただきました。これからもよろ

   しくお願いします」

真之介「そんなにかわら版ネタになってばかりでは、こちらの身が持たぬわ」

繁次 「いえいえ、まだまだ、これからも存分に期待しておりますので」

真之介「今日のところは期待に添えそうにないが、ゆっくりしていけ」 

繁次 「ありがとうございます」

 

 一同が座敷に揃ったところへ、ふみが入って来た。


ふみ 「お越しなされませ」

----はっ、こりゃ、違うわ。

----さすが旗本の姫。きれいなだけじゃない。

----やっぱ、品があるぅ。

真之介「では、早速始めるとするか。堅いことは無しにして、後は適当に自己紹介

   やってくれ。それにしても今日はご馳走攻めだな」

 

 お敏やお澄の持参した重箱も広げられている。


繁次 「では、自己紹介は旦那の隣のお美しい方からお願いします」

 

 と、指名されても気が付かないふみ。


繁次 「あの、お願いします」

ふみ 「えっ、自己紹介って、何のことでございます」

真之介「名乗れと言うことだ」

ふみ 「はい…。真之介の妻です」

 

 番が回ってきたお敏はきっぱりと言う。


お敏 「白田屋の女中の敏です。今日は重箱を持つ係として来ました。それだけで

   す!」

拮平 「いや、中身もこのお敏の手作りだから、これがうまいのうまくない

   のって」

 

 当然のようにお敏のフォローをする拮平。

 

兵馬 「そう言えば、お伸殿が見えませんが」

真之介「お伸は加減が悪いとかで、今日は参りません」

兵馬 「そうですか…」

 

 兵馬はがっかりした。そして、飲み始める。ふみは兵馬が近頃よく飲んでいると聞く、それもあまり食べずに飲むらしく元々体も丈夫でないのにと、心配になって来る。そんな、ふみも最初は緊張していたが、次第に打ち解けて行く。


拮平 「何だと、お前知らないのかい。この屋根屋のくせして」

 

 拮平が絡み始める。


繁次 「知らないもんは知らないんで」

拮平 「よっ、真ちゃん、桜が櫻って知ってるかい」

真之介「桜の語源か」

拮平 「いや、その桜がさ」

真之介「桜の語源は四つほどある。一つは木花之開耶このはなさくや姫のさくやから。

   二つは早苗・ 早乙女などの接頭語の「さ」をくら(馬の鞍)と合わせた

   「早鞍さくら」から。また、春のうららに咲く花であるところから、咲麗さくうららから。

   また、咲く花の総称にて、咲くらむからと、まだ、あるやもしれんが私が

   知っているのはこのくらいだ」

拮平 「あのさ、真ちゃん」

 

 拮平も酒が回ってきたようだ。


拮平 「それくらいさ、あたしでも知ってるさ。どう、それをひけらかさないこの

   奥ゆかしさ」

繁次 「済みませんね、若旦那が言いたいのは、いや知りたいのは桜の本字は二つ

   の貝の女が気になるって書きますわ。普通、とか言いますけど、その

   「かい」は貝の字が使われているのはなぜかってことなんです。植物の桜に

   どうして海の貝なんだって。それをかわら版屋の俺が知らないって、怒って

   んですよ」

真之介「ああ、字源の方か」 

拮平 「いやさ、真ちゃん、俺、二階の女なんて気にならないよ。どこかのお芳な

   んて全然関係ないからさ。ねえ、お敏。あれ、お敏どこに行ったのさ、

   お敏っ」

 

 その頃には女たちは桜の木の下にいた。


仙吉 「桜の木と女たち。絵になるじゃないすか」

拮平 「ふん、お敏がいるからさ」

万吉 「おや、若旦那、もう出来上がっちまったんですか。今日は早いですね」

繁次 「で、旦那は櫻の字源をご存じて」

真之介「今のようにかんざしなどない昔の女は道に咲く花や、きれいな貝殻に穴を開

   け糸を通した輪を首からかけたりしていた。つまり櫻とは貝の飾りをつけた

   美しい女の様な木と言う意味だ。いつの時代も女とは身を飾りたいものだ」

繁次 「ああ、それで貝の字が使われてんですね」

真之介「それとな、やはり、貝は女だから」

仙吉 「ああ、なるほど」

万吉 「なるほどって、お前、それわかって言ってるの貝」

仙吉 「あっさりめぇですよ」

拮平 「ふん、勉強になった貝」

弥助 「へい、しじみ百まで!」

拮平 「こっちの屋根屋はどうなの貝」

繁次 「このかわら版屋の繁次、天網恢恢疎てんもうかいかそにして漏らすもの貝」

拮平 「そうやって、真ちゃん今まで何人の女、騙して来たの貝」

真之介「数えたことなどある貝」

 

 ここで一同どっと笑う。

 この間にも、兵馬は黙って飲んでいた。

 













 












  




  


















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