第36話 方向だけでない音痴

雪江 「本当にケチくさいと思いませんか、絹江」

絹江 「姉上、昔から言うではありませんか、金持と灰吹きは溜まるほど汚いっ

   て」

雪江 「それは知ってますけど、由緒ある旗本のそれも私たちの姻戚になったのだ

   から、あの呉服屋も少しは考えるものですよ。それに、ふみもふみです。知

   らん顔して」

絹江 「ふみは昔からぼんやりしてました」

雪江 「でも、もういい大人なんだから。本当に気が効かないったらありゃしな

   い」

絹江 「おや、姉上がそんな言葉をお使いになるとは」

雪江 「ええ、どこかの町人の姻戚のお陰で、あまり上品ぶっても居られなくなり

   ましたもの」

 

 と、いつも誰かの悪口を言うことで結束を確認し合う、雪江と絹江の姉妹だった。

 ここのところはずっと、ふみの話題が尽きない。にわか武士のもとに輿入れした軽蔑と、裕福になった妬みを言い倒さなければ気が済まない。

 さらに、次第に声が大きくなっていることにも気付かず歩きながらしゃべるものだから、この辺りではすっかり有名になっている。


隣の女「ほら、また、隣のあの従姉がやってきましたわ」

 

 と、向こう三軒両隣から半ば同情されている。


お房 「奥方様ぁ。また、あの従姉のおばさんたちがやってきます」

 

 と、お房が知らせに来る。耳のいいお房には二人の声は少しくらい離れていても聞こえるようだ。


久  「お房、おばさんなんて言ってはいけませんよ」

お房 「私、嫌いな人にはおばさんて言うんです、陰で。さあ、茶菓子も勿体ない

   けど、お初さんの羊羹が残ってるし、お茶の用意でもしますか」

 

 お房は台所へ行く。

 この二人の従姉は、真之介を最初はどうせにわか武士と高を括っていたが、どうかすると自分たちの夫よりも武士らしいのが余計でも気に入らなかったようだ。その後は、まるで、真之介の留守を狙ったようにやって来る。どうやら、その当たりの鼻は利くようだ。

 そして、今日は羊羹を食べ終わると早速に雪江は地図を取りだす。


雪江 「ふみ殿、ここに行ってみませんこと」


 と、手書きの地図を差し出すが、それは余りにも簡略すぎる地図だった。


ふみ 「ここは?久、地図を」

 

 久は立ち上がり茶箪笥の一番下の引き出しから地図を取り出し広げる。


雪江 「まあ、さすが、いいものをお持ちですこと」

 

 雪江は覗きこむが、絹江はあまり興味を示さない。

 何とか照らし合わせて、おおよそのところは見当が付いた。


ふみ 「随分遠いところですわね。ここに何がありますの」

雪江 「えっ、そんなに遠いのですか。真之介殿のご実家の近くではありません

   の」

ふみ 「いいえ、それから、かなり先です」

絹江 「そんな筈ありません!」


 ふみが地図上で説明するも否定する。


絹江 「ウソ、そんな筈ありません!」

 

 思い込んだら変えられない絹江だった。


絹江 「ええっ、えっ、だって、これくらいの距離ではありませんか。それほどの

   ことは」

ふみ 「これは地図ですから。実際の距離はこの何倍、何百倍もあります」

絹江 「それならば、ここをまっすぐ行けば早いじゃないですか」

久  「それは無理と言うものでございます」

絹江 「無理!無理って、そんな!」

 

 久を睨みつつも、既にこの時点で絹江はパニくっている。


雪江 「でも、橋を渡ってすぐと聞きましたけど」


 雪江が表面は落ち着いた感じで言う。


久  「ですから、その橋までが遠いのです」

 

 その後も久があれこれ説明するも、この二人は地図が読めないのだ。それでも雪江は一応わかった態を装い、絹江は面白くなさそうに黙り込む。

 旗本の娘はそのほとんどを屋敷内で過ごすので、周辺以外の地理には疎い。

 だが、真之介は色々な地図を持っていた。武家屋敷、実家近くはもちろん、江戸府内、東海道、果ては日本地図まであったのには驚いたものだが、地球儀を持っているくらいだから、当然のことかもしれない。

 そして、ふみは真之介と初めて会った場所を地図上で発見する。そこにたどり着くまでの道のりも今ではすっかり覚えている。


ふみ 「ここに一体何があると言うのですか」

雪江 「新しい小間物屋が出来て、それはいいものがたくさん揃ってて、その隣に

   は汁粉屋があって、これまた美味で、それから…」

 

 そんな事だろうと思った。


ふみ 「でも、ここはちょっと遠すぎます」

雪江 「ですから、真之介殿に案内して頂こうと思ったのですけど、あら、今日は

   お留守ですのね」

 

 と、今更に白々しいことを言う雪江だった。


絹江 「でも、近くまで行ってみませんか」

ふみ 「今から行っては、帰りには日が暮れます」

絹江 「本当にそうかしら。とにかく行ってみましょうよ」

ふみ 「いえ、それは…」

 

 今度は雪江が半ば真顔で言う。


雪江 「そうですわ、ついでに真之介殿のご実家にも挨拶しませんと」

----本来なら向こうから挨拶に来るべきでは。それを輿入れの時だけの挨拶では済ますとは、町人の分際で無礼というもの。

ふみ 「そうですか、では、参りましょう」


 ふみは、こうなったら義実家近くで自分がどのような扱いをされているか見せてやろうと思った。いとも簡単に手のひらを返して来たこの二人に。


町の女「きゃ、奥方様よ」

町の女「まあ、真之介様の」

店主 「お帰りの節にはどうぞお立ち寄りくださいませ」 

 

 あまりの、ふみの人気ぶりに憮然とする雪江、唖然とする絹江。

 その時、ふみは拮平を見付ける。


ふみ 「これは白田屋ではないか」

拮平 「奥方様…。先日はお招きいただきましてありがとうございました」

仙吉 「兄貴、奥方様ですよ」


 何でも屋の万吉と仙吉も一緒だった。二人も花見の時の礼を言う。


ふみ 「こちらは、私の従姉の雪江殿と絹江殿である」

拮平 「これはどうも、白田屋の拮平と申します」

万吉 「あの、何でも屋を営んでおります万吉でございます。こっちが仙吉でして。

   とにかく何でも屋ですので、何かお困りごとがございましたら、何なりとお

   申し付けくださいませ」

仙吉 「特に兄貴は迷子の猫探しが得意でして。どうです、この名誉の傷跡」

万吉 「うるせっ」

拮平 「あの、今日はまたお美しい方たちばかりでお買い物ですか」

ふみ 「それが、そのつもりでやって来たのですが、私は頭痛が…。ちょうど良

   かった。そこで白田屋に雪江殿と絹江殿の案内を頼みたい。雪江殿、絹江殿、

   この白田屋の拮平は旦那様の竹馬の友で中々使える男です」

雪江 「白田屋と言えば、あの若い後添えを迎えたと言う」

絹江 「ええ、息子と同い年の嫁だとか」

雪江 「では、この男がその息子であるか」

ふみ 「そうです」

雪江 「どうりで…。これ、若い継母とは仲良くやっておるのか」

絹江 「夜など気になって眠れぬのでは」

拮平 「えっ、いえいえ、私には関係ないことですから」

雪江 「一つ屋根の下におって、関係ないとはこれ如何に」

絹江 「やはり、相当気になっていると見える、ま、無理もないわ」

仙吉 「そのことでしたら、もうぉ、色々知っております」

雪江 「どのようなことじゃ」

ふみ 「雪江殿、絹江殿、このようなところでの立ち話より、行きたいところがお

   ありでは。この者たちは町のことには明るい故、色々お尋ねになられては」

拮平 「あ、はい、はい」

 

 ろくでもない質問から少しでも早く逃げたい拮平だった。


ふみ 「申し訳ないのですが、私はこれにて失礼します。後のことは頼みましたよ、

   白田屋」

万吉 「そりゃあもう、若旦那ほど町のことに詳しい人はいませんからね。ああ、

   私たちもそこまでご一緒させて頂きますんで、お任せくださいませ」

 

 万吉と仙吉は、久からアイコンタクトを受けていた。


ふみ 「それは助かります」

雪江 「あら、ふみ殿はどうされるのです」

ふみ 「私は貧血が…」

万吉 「まあ、それはお大事に。さあさ、雪江様、絹江様、参りましょう」

 

 と、万吉と仙吉に促され仕方なく歩き出す、雪江と絹江だった。


拮平 「それなら、私もこれにて」

 

 と、逃げ出そうとするも仙吉に袖を引かれてしまう。


仙吉 「町の生き字引の若旦那が居ないと、俺達には無理ですって」

拮平 「いや、後はお前たちで」

万吉 「駄目です」

絹江 「これ、白田屋、何をごちゃごちゃと」

拮平 「あ、はい」

雪江 「ふみ殿の持病は頭痛とか、貧血とか言ってなかったか」

絹江 「姉上、そんなことはどっちでもいいではないですか」

 

 刺激を好む絹江は既に、ふみのことなど眼中になかった。

 そんな雪江・絹江の後姿を見ている、ふみと久だった。


久  「姫様、見事でございましたわ」

ふみ 「いえ、見様見真似です」


 仙吉が拮平を掴まえ、万吉は雪江と絹江のご機嫌取りに余念がなかった。


万吉 「奥方様、そろそろお疲れではございませんか。ここらで一休みなされて

   は」

絹江 「それは良いこと。あら姉上、丁度ここに汁粉屋があるではないですか」

 

 と、絹江が白々しく言う。


雪江 「何ですか、大きな声を出して、みっともない」

絹江 「でも、今日はここで良しとしませんか。私もちょっとくたびれました」

雪江 「それもそうですね」

万吉 「はい、では、どうぞ。若旦那、こっちですよ」

 

 拮平も渋々付いてくる。別に汁粉が嫌いな訳ではなく、まさかあの大人しいと思っていた、ふみから見え透いた口実の挙句、やたら、元気だけはよさそうな従姉の守を押しつけられるとは…。

 やはり、人は見かけによらなかったのか、それとも既に真之介に感化されてしまったのか…。


絹江 「ここの汁粉も中々のものではないですか、姉上」

 

 食べることに集中している雪江は生返事しかしない。

 

万吉 「しかし、今日は奥方様たちのお陰で、私たちも汁粉を頂くことが出来まし

   て、本当にありがとうございます。いえ、私は酒も好きですが、どっちかと

   言えば甘いものに目がない方でして。しかし、男だけで汁粉屋なんて入りに

   くく。奥方様たちのお陰です。これでも妹が居るんですけどね、こいつが

   めっぽう酒が強くて、うわばみなんて言われてましてね」

仙吉 「本当ですよ、下手な男なんか敵いやしませんから」

絹江 「女がそんなに飲んでは、嫁の貰い手がないのでは」

 

 絹江が言った。雪江はひたすら食べている。


万吉 「それがまあ、何とかありましてね」

絹江 「それで、センとかマンとか言ったな。お前たち、嫁は」

万吉 「ええ、まだでして」

仙吉 「いや、しかし、若旦那がまだなのに、俺たちが先を越しては…」

拮平 「うるせっ、一々引き合いに出すな。お前たちはモテないだけじゃないか」

仙吉 「まあ、そんなあ」

拮平 「それ言うなっ」

万吉 「まあ、そんなあ」

拮平 「万吉まで言うかっ」

絹江 「何だ、その、まあそんなあとは」

仙吉 「うひひひ、実はね」

万吉 「仙吉、そんな笑い方するんじゃないよ。奥方様たちが驚いてなさるじゃな

   いか」

絹江 「いや、何やら面白そうではないか」

万吉 「それが、若旦那のところの若い後妻の口ぐせでして」 

仙吉 「若旦那にはそれが禁句なんですけど、俺たちもつい出ちゃってぇ」

絹江 「まあ、そんなあ」

 

 と、絹江が言えば、つられて雪江も笑うが、拮平の手つかずの汁粉が気になる。


雪江 「白田屋、早く食べねばせっかくの汁粉が冷めてしまうではないですか」

拮平 「私は食欲がありませんので、よろしかったらどうぞ」

雪江 「もったいないことを。ならば致し方ない」

 

 と、拮平の汁粉を引き寄せ食べ始める。


万吉 「これは若旦那、どうもごちそうさまでした」

仙吉 「では、俺たちはこれで失礼します」

拮平 「おい、お前たち、これからどうしよって言うのさ」

万吉 「いえ、俺たちはまだ仕事が残ってんですよ」

仙吉 「そうなんですよ。これからチヨちゃん探しに行くんですよ。あ、チヨちゃ

   んと言うのは正真正銘の雌猫なんですけどね、その雌猫にも兄貴は好かれて

   んだか、嫌われてんだか。この引っ掛かれ傷が目にはいらねぇかって」

 

 笑いのとまらない絹江と、またも食べることに専念している雪江だった。


万吉 「奥方様、本当にありがとうございました。後は若旦那にお任せを。これに

   て失礼いたします」

仙吉 「本当に若旦那は頼りになるお方ですので何なりと、では」

 

 万吉と仙吉は、ぺこりと頭を下げ店を出て行く。


拮平 「おいっ、冗談じゃないよっ」

絹江 「これ白田屋、あの二人中々面白かったではないか」

拮平 「あ、はい」

雪江 「次はいずこへ」

 

 ようやく食べ終わった雪江が言う。

 

 一方のふみは姑の好物の最中を買い、義実家へと向かう。

 今日はお弓もお伸も在宅していた。早速、最中を前に嫌な従姉たちを拮平に押し付けた話しをする。


お弓 「それは拮平さんは災難でしたわね」

ふみ 「はい、今となってはちょっと白田屋が気の毒な気もします」

お伸 「お姉さま、気にすることありせんわ。拮平兄さんは何かあれば、すぐにお

   兄様を頼ってますもの」

 

 と、お伸は笑っていたが、さすがにお弓はその訳が気になる。


お弓 「まあ、そうですけど、そんなにお嫌なのですか。そのお従姉様たち」

ふみ 「はい、自分の身内ですので、あまり悪く言いたくないのですけど、実家に

   居りました頃は見向きもしなかったのに、旦那様との縁組が決まりますとす

   ぐに手のひらを返してきて…。今日もどこかへ行きたいとかで手書きの地図

   を持ってまいり、そこへ行くには、今からでは遠すぎて帰る頃には日が暮れ

   ますと言ったのですが…」

お弓 「地図がおありなのに」

ふみ 「その手書きの地図と、正式な地図の位置関係を説明してもわかってくれな

   いのです。でも、私も大きなことは言えません。旦那様に地図の読み方を教

   えて頂いてわかるようになったのです」

お弓 「私たちは決まったところしか行きませんけど、真之介さんは色々詳しいで

   すから」

ふみ 「でも、白田屋のお陰で、私はこうしてうるさい姑のご機嫌を取りに参るこ

   とが出来ました。あ、申し訳ございません、あの二人にはうるさい姑と言って

   おかなければ機嫌が悪いものですから、つい…」

お弓 「では、私はこれからはうるさい姑にならなくてはいけませんね」

ふみ 「お手わらやかに」

お伸 「小姑もお忘れなく」

 

 女たちは声をたてて笑った。

 

 帰宅したふみは当然真之介にも事の顛末を話す。


真之介「それはでかした。拮平には奉仕の精神が欠けておる故、何かと奉仕活動を

   させるがよかろう」

ふみ 「かしこまりました」

 

 と、真之介とふみが笑っている頃、拮平は雪江と絹江からやっと解放され、裏口からよたよたと戻って来た。だが、運悪くお芳に見つかってしまう。


お芳 「おや、随分おくたびれのご様子で。それでは何足の足袋をお売りになった

   のかねえ。それとも注文を取って来たとか」

拮平 「そんなんじゃないさ。人の気も知らないで」

お芳 「親の気も知らないくせに」

拮平 「じゃ、お互い様じゃない」

お芳 「何がお互い様なのさ」

拮平 「どっちも知らないんだからさ、おあいこってことで」

お芳 「うるさいわ!毎日ほっつき歩いているくせに」

拮平 「俺には俺の都合があんだから、ほっといとくれよ。お芳おっかさんはひろ~

   い部屋でお父つぁんとごゆっくりなさったら。あら、今頃お父つぁん、寂し

   がってんじゃですか」

お芳 「そんなこと、お前に言われなくてもわかってるよ」

拮平 「わかってんなら、早く行っとくんなせぇ」

お芳 「何だい、その言い草は」

お敏 「あの、お二人とも、もうお止しになって下さいませ」

お芳 「お敏!」

お敏 「あっ、申し訳ございません」


 白田屋では、お芳の名前とかぶる、お止しは禁句だった。


拮平 「いいんだよ、お敏。お止しって止めたんだからね」

お敏 「あのご新造様、大旦那様がお呼びです」

 

 お芳は拮平を睨んでからその場を去る。


拮平 「お父つぁんも、気が効くと言うか」 

お敏 「いえ、お呼びではありませんけど、もう食事ですので…」

拮平 「あらぁ、気が効くのはお父つぁんじゃなくて、お敏だったのね、ありがと

   うよ」

お敏 「若旦那も余りご新造さんに逆らいませんように」


 それにしても、お敏はやさしい。

 それにしても、あの二人。いや、今度こそふみの「正体」見たり…。

 翌日、拮平は真之介を探して町をうろつく。もうあの屋敷には行きたくない。確かにふみは美しいが、つくづく女も顔が良ければいいと言うものではない。そのことを真之介に思い知らせてやろうと思うのだった。


 その頃、かわら版屋の繁次もじっとしてられなかった。ネタ切れになってから久しい。岡っ引きとかわら版屋がヒマと言うことは世が平穏である証だが、繁次にはあの仁神髪切り事件の興奮が忘れられない。あの時の半端ないスリルとサスペンスの大特ダネ。さらにはその後の「祝言特集」では、真之介とふみのビッグカップルに加え、白田屋嘉平とお芳との年の差カップルが同日祝言で、町中が沸いた。だが、それ以来さっぱりなのだ。

 ふと、拮平の姿が目に入る。別に拮平が歩いていたからと言って不思議も何もない。それは至って普通のことだ。この辺りで拮平の姿を見掛けない日はない。


拮平 「おや、繁次じゃないか。真ちゃん見かけなかったかい」

繁次 「いいえ、ぜんぜん」

拮平 「何だい、随分と愛想がないねぇ」

繁次 「若旦那には愛想良くしてくれる女の人が大勢いるでしょ」

拮平 「うん、まあね。でも、大勢は居ないよ、一人だけ。ぐひひひひぃ」

繁次 「一人でも羨ましいこっちゃ」

拮平 「それより真ちゃん」

繁次 「知りませんたら」

拮平 「そう言うお前もヒマそうだね。なら、何でも屋にでも行ってみるか」

繁次 「ええ」

 

 その何でも屋にも真之介は居なかった。


万吉 「何言ってんですか、旦那はまだまだ新婚じゃないですか。家でいちゃつい

   てるに決まってますよ」

拮平 「それはどうかな、あの奥方。ああ見えてなかなかの食わせ者だよね。昨日

   のことでわかっただろ」

万吉 「さあ、頭痛がするとかで、若旦那に従姉さんたちの道案内を頼んだだけ

   じゃないですか、なあ仙吉」

仙吉 「兄貴、それより昨日の礼を言わなくっちゃ、それがないんで若旦那、ご機

   嫌が悪いんすよ」

万吉 「あっ、これはとんだ失礼をば、若旦那、昨日はごちそうさまでした」

繁次 「えっ、何」

万吉 「おや、誰かと思ったら、またまた屋根屋のゲジさんじゃないの。昨日さ、

   若旦那に汁粉をごちそうになったの。こんなんじゃ屋根瓦一枚分のネタにも

   ならないね」

仙吉 「そいじゃ、昨日のあれどうすかね」

お澄 「仙ちゃん、何かあったかい」

仙吉 「大したことじゃないけどさ。ある若旦那と旗本の奥方との珍道中っての」

繁次 「えっ、それ、ちょっと、あっちの方?つまり、道行の方?」

拮平 「よせやい」

万吉 「残念ながら、そっちの方ではなくて奥方の方も超元気な姉妹二人でさ。こ

   れが、さっぱりの方向音痴ってオチで」

仙吉 「それじゃ、滑稽本のネタになるかならぬか、誰に聞いてみようかな」

 

 と、拮平の方を見る。


拮平 「何だい、お前たち。さっきから聞いてりゃ、好き勝手言いやがって。あた

   しゃ、昨日あれから大変だっんだからさぁ」

万吉 「いえね、ゲジさんがネタに困ってるって言うから」

繁次 「あのさぁ、何度も言うけどよ、俺はゲジじゃなくて繁次だから。もういい

   加減、屋根屋のゲジって止めてくんねえかなぁ。これでもさ、かわら版業界

   じゃ少しは名の知られた版屋の繁次さんなんだからよぅ」

お澄 「その名が知れたってのも誰のお陰ですかね」

繁次 「ま、そうだけど、運も勘も実力のうち…。ねえ、他にネタないぃ」

拮平 「うるさいっ、あたしの頭越しに勝手にやらないどくれよ。それにさ、万吉、

   昨日の真ちゃんの嫁、頭痛じゃなくて、めまいとか貧血とかって言ってな

   かったけ」

万吉 「さあ、忘れました」

拮平 「昨日のこと、もう忘れたのかい」

仙吉 「兄貴は最近、健忘症なんですよ」

万吉 「お前も昨日居たじゃないか」

仙吉 「おっと、そうだった」

万吉 「ああ、馬から落馬して」

仙吉 「ここはどこ」

万吉 「腰が腰痛で」

仙吉 「若旦那は誰」

万吉 「頭痛が痛い」

仙吉 「汁粉はぜんざい」

万吉 「餅は餅屋にある」

仙吉 「もっと食べたい」 

万吉 「これ以上はお止しよ」

仙吉 「まあ、そんなあ」

お澄 「お黙り!!」

 

 お澄の鶴の一声。


お澄 「ったく、いつまで馬鹿やってんのさ。ああ、健忘症でお種さんとこの雨漏

   りの修繕も忘れたのかい。そんなんじゃ、この何でも屋も廃業だね。いい

   や、あたしゃ何も忘れないから、もっと物覚えのいい若いのを雇うとする

   か」

万吉 「いや、仕事のことはちゃんと頭に入ってるさ。ただね、昨日の汁粉もだけ

   ど、ぜんざいもいいなってそう言う話よ、なあ」

仙吉 「そうすよ。小豆もいいけど、大きな餅もいいなって」

万吉 「そりゃ、また今度若旦那にお願いするとして」

拮平 「ああ、俺も健忘症がうつったったぁ」

 

 拮平を無視するお澄。


お澄 「いいかい、屋根の上あがんだからさ、落ちないようにね。落ちたらそのま

   んま見捨てるからさ」

仙吉 「それ、しどい…。でもさ、ここに屋根屋さんがいるのに」

繁次 「屋根屋じゃなくて、かわら版屋」

万吉 「だから、瓦載せるの手伝ってよ」

繁次 「俺は高所恐怖症」

仙吉 「では、縁の下は」

繁次 「閉所恐怖症の暗闇恐怖症」

万吉 「でもさ、夜は平気なんだ」

繁次 「夜は幽霊が出る」

仙吉 「それで、よくかわら版屋が務まるね」

繁次 「そん時は副腎から元気物質がドバアっと出てくんの」

万吉 「副腎?」

仙吉 「元気物質?」

繁次 「つまり、火事場の馬鹿力みたいなもの」

お澄 「四の五の言ってないで、早く行っといで!」

 

 この時、拮平も「うるさい、黙れ」と叫んだのだが、お澄の迫力声にかき消されてしまう。

 万吉と仙吉は急いで出て行く。


繁次 「お澄さんはすごいね。さすがだわ」

お澄 「そんなこと言って、陰では女らしくないとか言ってんでしょ。所詮は男っ

   て、か弱いふりした女の方がいいんだからさ」   

繁次 「でもさ、ご亭主はそんなさっぱりした気性のお澄さんが気に入ったって」

桔平 「そうさ、お澄は裏表がないからさ。そこがいいんだ。いくら顔が良くても

   裏表があっちゃ、いけないね」

繁次 「え、旦那の奥方って、そんなに裏表があるんですかい」

拮平 「ああ、有るってもんじゃないさ。見え透いた口実で自分の従姉押し付けて

   さ。また、その押し付けられた従姉が大変な代物でさ。普通さ、旗本の奥

   方って学があって頭いいと思うだろ。それが、方向音痴のくせに話は最後ま

   で聞かないわ、すぐに話が飛んでくわ、気まぐれだわ、それが二人で二倍ど

   ころの騒ぎじゃない。十倍んにゃ百倍だったよ、あれは。こっちゃ、もうヘ

   トヘトでさ。帰りゃあ、お芳の奴が四の五のから八の九の言うし。昨日はと

   んだ三隣亡だったさ」

お澄 「若旦那の数字づくし、さすがですわ」


 繁次はそんなに面白かったかという顔をしているが、見え透いていてもお世辞には弱い拮平だった。


繁次 「おっと、俺もこうしちゃいられない。歩いて棒にでも当たらなきゃあな」

拮平 「じゃ、俺もちょいと真ちゃんに当たってくらあ」

繁次 「お邪魔したぁ」

お澄 「あら、何のお構いもしませんで」

拮平 「いや、楽しかったさ」

 

 一人になったお澄は湯呑を片付けながら思わずため息をつく。


お澄 「人の気も知らないで。ほんと、男って呑気だね」














 



















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