第七章 欠けたもの
ぼんやり動かずにいると、ずーと忘れていたことが不意に花音を取り巻いた。
子どもの頃、花音の家に服を買う余裕はなかった。
長崎でブティックをしている母の弟がいた。
叔父さんは、時々生地を仕入れに来た。
花音の家に泊まった時、「こんなにあっても余るから。」と言って
いつも子供服になりそうな生地を置いてくのだった。
今ならわかる。
叔父さんの優しい気持ち、負担をかけないように言ってくれた言葉。
それを使って、母はいつもミシンを踏んだり、夜遅くまで針仕事をして花音の服を縫っていた。
中学までは、ほとんど全部母の手作りの服を着ていた。
『今どき手作りなんて』と思っていた。
雑誌に載っているようなおしゃれな服を着ている友達がうらやましかった。
だけど、友だちは花音の服を羨ましがった。
皮肉なことに、小学校では「お嬢様。」とあだ名がついた。
学校から遠くにあった母音の家に、わざわざ来る友だちはほんとに仲良しだけだったから、素直な彼女たちは「お嬢様。」と友達なのを喜んでくれていた。
お雛祭りに誘われた時も、着ていく服がないので嬉しくなかった。
家に帰ると、出来たばかりの服が部屋にかけられていた。
それは、『お嬢様。』と呼ばてもおかしくないワンピース。
ひな祭りに呼ばれた子たちは、花音の服を見て羨ましそうにしていた。
少し誇らしくて、写真を撮るとき、いつも端っこにいた花音は、真ん中で笑っていた。
襟ぐりと袖に黒のベルベットの飾りのつた服。
花音が動くと、幾重にもなったプリーツが楽しそうに揺れる。
ピアノの鍵盤のように、音を奏でて、母の愛が揺れていた。
母が出て言った本当の理由は、今の花音には、わからない。
だけど、それはあまり大切なことじゃないような気がした。
今日は、パンダになる日だ。
子どもに揉まれてくたくたになるけど、彼らが時々、目を輝かせてたくさん語ってくる言葉に答えていると、捨て鉢な思いが消えていることに気が付く。
特に、三日月に会ってから。
もう、いつ三日月が現われても驚かないだろう。
私から会いに行く方法はないけど、きっと今も私の事見てるだろうなって思う。
パンダを終えて、公園のそばを遠回りして歩いた。
白樺のベンチを見たくなった。
下弦さんと上弦さんが作ってくれたベンチ。
自分のためだけに作られたベンチを見て、ここしばらく感じたことのない穏やかな気持ちになった。
今日はそのベンチに、小さな男の子と女の子を連れたお母さんが座って、楽しそうに絵本を読んでいた。
地面に足が届かない女の子は、白樺の丸太の座り心地が気に入ったようで、足をぶらぶらさせていた。
ふっくらした足が、上手にゆっくりリズミカルに動く。
まるでこれ以上楽しいことはないとでもいう風に丸太を手で触りながら笑う。
その様子をしばらく見ていると、花音まで笑顔になった。
「いいね。その笑顔。」
その声にはっとして振り向いた。
三日月じゃなく、貴志が立ってにこにこしていた。
「何よ。びっくりするじゃない。」
「驚いたのはこっちだよ。
ベンチ見てにこにこ笑う高校生。
おかしいだろう。」
「だって、あの女の子があんまりかわいかったから。」とベンチのほうを見ると、もう誰もいなかった。
「誰かいたのか。俺には見えなかったけど。」
「ほんとにいたわよ。
貴志こそ視力弱ってるんじゃないの。
漫画の読みすぎで。」
「勉強のしすぎでな。」
『あれは特別なベンチなのよ。』と花音は三日月たちのことを言ってしまおうかと思ったが、今言うとよけい誤解されそうでやめた。
「チョコたくさんもらった。」と花音がきいた。
「なんだよこの前会った時に、自慢しようと言いかけたら、興味なさそうにむっつり黙って、悲しそうな顔してたくせに。」
「そうだった。
まあそんな日もあるわ。」
「なんか少し変わったな、花音。」
「乙女は日々美しくなるから。」
「それはいいとして。
報告しとくわ。
七つもチョコもらったぞ。
早くしないと、もう売約済みになるぞ。
来年は準備しろよ。」
「どうしようかな。
今のところ、貴志ににあげるくらいなら、ほかにあげたい人がいる。」と言った花音の横で、貴志はしょんぼりしてしまった。
背が高く、眉毛が濃くて、目は奥二重、鼻筋は通っているけど、髪の毛はふわふわで綿菓子みたい。
武士みたいな顔の貴志がしょんぼりすると哀愁漂う。
「冗談よ。
チョコは当分誰にもあげない。」
「そうか。よかった。
そうしろ、そうしろ。」もこもこの頭をさわりながら嬉しそうに言った。
「そうなの。」
どんどん崩れていく貴志の髪型を見て、ふと三日月の言葉を思い出した。
『わたしの世界では、外見は何の意味も持たない。』
明日から始まる新学期の準備をしていると、窓の外に上弦の姿が見えた。
驚くこともなく、窓を開けた。
真正面から見る上弦は、マジで花音の好みだ。
この間は、うつむいてばかりいた上弦の顔は、よくわからなかった。
いまだに、三日月の顔は輪郭しかわからない。
上弦は、下弦がしたように手を差し出した。
迷うことなく、その手を握った。
目の前に、三日月がいた。
今日は王子様のような服を着ている。
ほんとに毎度、楽しませてくれる。
しかも、素敵な上弦が迎えに来てくれた。
これからもずっとこうだといいな。
「いや。今日で花音の会うのは最後だ。」
「えっ。」
「それは、もっといつでも会いたいという声か。
上弦の姿は気に入ったようだな。
花音の世界では、外見も力を持っているらしい。
赤くならなくてもいい。
花音は、17歳、何を望んでも叶える力を持っている。」
「三日月に会うまでは、私は不幸だと思っていた。
不幸だと思いたかったのかもしれない。
最初は腹が立ったけど、思い出したことは悲しいことばかりじゃなかった。
楽しいことも、嬉しいこともちゃんとあった。」
「そうだ。
何を持って生きるかだ。
悲しい事実が幸せにしてくれるはずはない。
真実はむごいことも多い。」
「みんなにあるものが、私にはないんだと子どもの頃から思ってた。
あきらめる方が楽だった。」
「花音は、三日月が好きか。」
「えっ。突然言われても…。」
「いや、私のことではなくて、夜空の三日月だ。」
「わかってますよ。」とどもりながら続けた。
「三日月でしょ。
好きですよ。大好きです。
満月よりもずっと好き。」
「そうか。
三日月は、欠けしものの代表だ。
だが、花音のように三日月を好きだという者がいる。
みんながみんな、満月を好くわけではない。
三日月には良きところもたくさんある。
人も同じ。
欠けているからこそ、見えるものがある。
欠けているからこそ、聞こえる音がある。
欠けているからこそ、満ちていく幸せを知ることが出来る。」
差し出された三日月の手に、花音はそっと自分の手を重ねた。
ふと見ると、花音は、美しいドレスをまとっていた。
王子様の姿の三日月と騎士の格好をした下弦と上弦。
踊れるはずのないワルツを、三日月に手を取られて踊る。
『花音。
幸せを恐れるな。
あの幼き頃のように、欲しいものに真っ直ぐすすめ。
なかったことにするな。
幸せな記憶こそ大切にしろ。』音ではなく、感じる波動。
『三日月との時間も。』
と三日月を見上げた。
三日月の瞳の奥に、無数に輝く星がみえた。
『それは花音に任せる。』
「父や母の人生がどうであっても、それは花音とは別だ。
花音は花音の人生を生きよ。
肩に三日月を背負い者の責任を果たせ。
幸せになるのだ。」三日月は消えた。
新学期が始まった。
新しい時間。
帰り道、元気がない貴志がぽつりと言った。
「親父がとうとう、出て行った。
食事の用意も、部屋の掃除も何もせず出かけてばかりいる母親に、とうとう我慢できなくなったんだな。
だけど。俺が大学出るまでは今まで通り十分なお金を渡すらしい。
優しいんだか、なんなんだろうね。」
「そうか。
私たち、欠けたもの同士だね。」とにっこり笑った。
「いや。ここ笑うところか。」
「わらうところなの。」と花音は駆けだした。
のばした指先にふれたもの 紗田 眞由美 @teheureux228
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