弐、永遠の世界へ、ようこそ(3)

 それは明日葉が小学生の頃に父親からプレゼントされた天球儀に由来する。小学生の頃、家族でよくキャンプに行っていた明日葉は、父と共に星を観測するのが大好きだった。星や神話に詳しかった父は、自前の天体望遠鏡で色々な星を明日葉に見せては、様々な事を教えてくれた。

 そんな幸せな日々の中で、十一歳になる誕生日のプレゼントとして明日葉は父から天球儀を貰った。真ん中にある太陽の周りを、水金地火木土天海冥の惑星がぐるぐると天文学的に正しい軌道で回る、機械仕掛けのユニークな物だ。惑星一つ一つが細かくリアルに細工されており、神秘的な美しさもあって、明日葉は一目で気に入った。貰った当時は嬉しさのあまり、父に抱き着いた程だ。明日葉はそれを何年も机の上に大切に飾っていた。

 しかし、ある日、何かの配線を引っ張った拍子に天球儀が引っ掛かり、机から落として酷く壊してしまった事があった。当時の明日葉はとてもショックを受けて、その日一日中部屋に篭って塞ぎ込んでいた。すると、会社から帰った父が心配して明日葉の部屋へやってきた。合わす顔がないと思った明日葉は、壁に顔を向けてベッドに寝転がり、無言でいた。

 すると父は、床に落ちたままの天球儀を持ち上げ、暫く眺めた後、明日葉の頭を軽く撫でてこう言った。

「こんなに大事に思ってくれて、ありがとう。大丈夫、僕が直してあげるよ」

 しかし、その壊れ方がそれほどすぐ直るものではない事は明日葉にも分かっていた。中の歯車は曲がっていたし、折れた部品も、飛び散った部品も沢山あった。それでも、父は多忙な仕事の合間を縫って、少しずつ直してくれていた。だが、それは一年そこらでは直らなかった。

 そうしているうちに、明日葉は歳を取り、中学生も後半となった。すると、明日葉は自分自身の中に色々な葛藤を覚えるようになる。漠然とした将来や周りへの不安感が募り、「うまくやって周りに嫌われないようにしないといけない」だとか、周りがどんどん女の子っぽくなっていく中「これまでボーイッシュだった自分も女の子らしくならないと」と言う具体性のない焦りを感じ始めたのだ。

 その為、明日葉は周りに対して、段々と違う自分を演じるようになっていった。毎日、気の使える元気な良い子、理想的な明るい女の子を目指して、それを演じて過ごした。しかし、違う自分を演じて、それが評価される度に、明日葉の心の中にある黒い渦が大きくなって行った。

 それは明日葉の精神に大きな負荷となって積み重なっていった。その結果として、ストレスから家では苛々しがちとなり、家族ともあまり話をしなくなってしまったのだ。特に、異性というのもあり、何となく気持ち悪く、近寄り難く感じて、父とは全く会話がなかった。

 しかし、そうなってからと言うものの、父の方からも全く干渉して来る様子がない事から、明日葉は「自分の事はどうでもいいのかな」と言う、自分勝手な不満を感じていた。それが余計に苛つきを増幅させ、悪循環に陥り、父を無視することに繋がっていったのだ。

 そんな中でも、父は一度だけ明日葉に話しかけてくれた事があった。休みの日の朝、わざわざ明日葉の部屋を訪ねてきた時だ。

 しかし、その時の明日葉は、自分でも思い出せないぐらい、些細な事で悩んでストレスを感じていた。多分、友達に翌日の予定をドタキャンされたとか、友達に彼氏が出来て自分だけ置いてけぼりをくらったように感じたとか、その程度の事だ。

 その日、明日葉の部屋の戸がノックされ、明日葉は機嫌悪く言い放った。

「誰? 何?」

「僕だよ。渡したいものがあってね」

 珍しいな、と思う半分、面倒だと思う半分で明日葉は戸を開けた。そこには、あの天球儀を持った父が立っていた。

「……何?」

「天球儀、直ったよ」

 不機嫌最大級の明日葉に、それでも父は笑顔で口数少なく、そう言った。そして、綺麗に補修された天球儀を明日葉に差し出した。

 それを見た明日葉は、一瞬だけ固まった。天球儀が直ったことも、父が自分の事を気にかけてくれたことも、内心は凄く嬉しかったのだ。正直、小学生の頃の様に心弾んだ。

「わぁ! 直ったんだ!」

 そう言いたかった。大好きだったものは変わらない。偽ってきた自分もいるが、確かに自分の中に昔から変わらない自分がいる事を、その天球儀が教えてくれていた。その時に、素直にそれを受け入れていれば、何の後悔もなかったのだろう。

 しかし、その時の明日葉の心には、そんな余裕はなかった。女の子らしくしなくては。皆から好かれなくては。その為には、昔のボーイッシュで自分勝手な印象から脱却しなくては。昔の自分は押さえ込まないと。

 そう考えてしまった明日葉の口から出た言葉。

「そんなの、もう要らない」

 ピシャリ、と戸を閉めてしまった。暫くして、部屋の前から父の去る足音が聞こえた。その時、そっと覗いた戸の隙間から見えた、寂しそうな父の背中に胸が強く痛んだ。それから、父とは天球儀の話はしなかったし、あの天球儀がどこへ行ったかも知らない。他の話すらも殆どしなかった。

 ――そして父は居なくなった。

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いつまでも幸せに暮らしました。 来屋折房 @K_Orifusa

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