弐、永遠の世界へ、ようこそ(2)
「ここを右、だよね」
例の分岐路を前に、明日葉は一度立ち止まり、後ろを振り返った。件のからくり人形はまだ来ていない。しかし、揺れる木の葉が今にも遠くに人形達が現れそうな予感を煽る。こんな焦燥感まで昨日と同じかと思うと、明日葉には緊張感を通り越した嫌気すら感じられた。
「急がないと」
独り言を呟いた明日葉は、やっと昨日と逆方向に爪先を向け、走り出した。
相変わらず樹々の生い茂る森の中。その後、徐々に険しい道になってきたかと思うと、朱色に塗られた木製の足場が現れた。きちんと手摺りも付いており、段差には緩やかな階段が付けられている。新緑の森に敷かれたレッドカーペットにも見えた。
「まるでオスカー女優ね、ご丁寧にどうも……」
明日葉はわざとらしく顔を顰めて呟いてみた。そうでもして気持ちを紛らわせないと、気力が持たない。なんせ、昨日もこの様な赤い木製の橋を渡ってろくな事が無かったのだ。縁起の面では最悪だ。しかし、よもや引き返す訳にもいかず、仕方なく早歩きで進む。
すると、いつだってこの島は唐突で、植生が常緑樹から竹林へと変わった。
すらりと天に向かって伸びた竹は、時折空の近くで優しく風に撫でられて、緩やかに揺れる。その度に、朝露の残りだろうか、雫が霧状になって降ってきた。それが足場の深緋色と光沢ある若竹色を乱反射して微かに輝き、視界に淡い半透明のフィルターを掛ける。お陰で先程よりも、一層、静粛な雰囲気が漂っていた。ロールプレイングゲームだったらきっとここでBGMも変わるのだろう。明日葉は景色の切れ目にそんな印象を抱いた。
しかしそのような道も曲がりくねっては、登り下り。明日葉の荒くなる吐息が静粛の中に響いていた。
「何処まで続いてるんだろ……」
先の方が見えない足場は、永遠と続いているかのようだった。
どれだけ歩いたのか、時間感覚が麻痺して分からなくなった頃である。足場の木や周りの笹の葉が湿気を帯びてきたかと思うと、爽やかな川のせせらぎが聴こえ始める。しかし、直ぐにそれとは程遠い、大雨が地面を叩きつける様な音が手前の方から聞こえだした。
「まさかの夕立? 天候までいきなり変わるとかないよね」
しかし、そんな心配は外れだったと直ぐに分かる。恐る恐る、それでも慌てながら明日葉は先に進んだ。急な斜面を稲妻型に切り崩した階段をちょうど降り切った所である。竹林が捌け、目の前に現れたのは、ゴツゴツと険しい岩肌に囲まれた大きな滝壺だった。
思わず明日葉は足を止めて、色濃く緑を反射する水面を眺めた。他の音が何も聴こえなくなる程の轟音と共に、岩肌で白く乱れた大量の水が止め処なく流れ落ちてくる。それが荒々しく水面に衝突し、霧となって明日葉の顔にまで届く。そんな冷やりとした空気が、熱っぽくなっていた明日葉を包み込んだ。
自然のアイシングが心地良くて、明日葉は深呼吸をしてみた。草木と微かな土の香り、それから川の水特有の、鼻腔をくすぐる程度の生臭さ。新鮮な空気に、周りの音は煩くとも、焦る気持ちは少し和らいだ。
今度は目を開いて、明日葉は周りを見上げてみる。すると自分が、ぽっかりと空いた大きな岩肌の穴の中にいる事に気付いた。穴の深さは四、五階建てのビルぐらいだろう。その内、目の前にある岩壁が円弧状の滝となっている。滝の水量は十分に多く、岩肌一面を水が覆っていた。間近である事もあって、荘厳と言うよりも、もはや威圧的なほどに圧迫感が凄まじく、そのまま飲み込まれてしまいそうに感じる。
もしも飲み込まれたら。そんな事を一瞬考えて、明日葉は思わず身震いした。それから、なんだか怖くなり、そっとその場を離れる。先へ歩くと、赤い足場は滝壺に沿う登り階段となっており、最終的には滝口の横まで繋がっていた。
ふと、明日葉が滝口の向こうに目をやると、竹藪の中に古びた小屋が立っていた。平屋の簡素な土壁に、茅葺屋根。川の方面には縁側が敷かれており、その奥の引き戸は人気なく全て閉められていた。建物の周りを見渡すも周りに道らしい道はなく、何処からそこへ行けるのかは不明だ。
明日葉は不思議に思いながらも、足場を進む。
滝口から続く赤い道は暫く川に沿っていたが、途中で川から離れていった。その後、道は緩やかになり、植生もまた竹林から常緑樹へと変わった。そして、足場も無くなり、久々に地面を踏んだかと思うと、また少し樹々が太陽を遮る獣道を歩かされる。
「ホントにこの道であってるよね?」
足の裏が痺れてきた明日葉が、今更ながら根本的な事を疑い始めた時である。目の前に樹々の切れ目が見えてきた。
喜び勇んで明日葉が森を飛び出ると、そこは絶壁の海岸に沿った道だった。右手の方に、目的地のお城が見える。ここからなら、その城が、件の岩島に向かって突き出た崖の上に建てられている事が分かる。それから、明日葉が昨日落ちた吊り橋は、どうやらお城の天守から続いているようである。
「とりあえず、お城の前まで行くしかない……かな。夜の帳……てのが気になるけど」
シーザーの言葉が引っかかりながらも、明日葉は海岸線に沿ってお城を目指した。
目の前にすれば、やはり城は巨大だった。塀どころか石垣の時点で、既に明日葉の身長を超えている。こんな岩をどうやって運ぶのかと感心する程、大きなものが隙間なく敷き詰められた様子は圧巻だ。白く塗られた壁面も美しい。しかし、これに感心してアホ面を晒している場合ではない。
明日葉は塀に沿って歩き、城門を探す。これは直ぐに見つかった上に、運良く開けられていた。明日葉は周りを警戒しながら、壁に背をつけてゆっくりと城の中へと進む。忍者にでもなった気分だ。
進むと直ぐに曲がり角に差し掛かり、階段を上がってニノ門へ差し掛かる。ここも開いており、そろそろ明日葉が幸運を罠と疑い始めた時だった。ニノ門から先に進んだところは、小さく開けた場所になっていた。そこから見上げれば、天守が見える。
と、そこで、明日葉は蛇に睨まれたカエルのように固まった。冷や汗が顎を伝わって、地面に落ちる。天守の高欄から、あの仮面の男が此方を見下ろしていたのだ。
ガシャリ、と重い金属の動く音が鳴ったのを聞き、明日葉は泣きそうな顔で三ノ門である鉄門へと視線をやった。今、柵上の門が上がりつつあるが、隙間から見えるのは、やはり侍型のからくり人形。もう、やる事は決まっていた。
明日葉は過呼吸を抑え、大慌てで踵を返した。階段を飛び降りて一ノ門から飛び出す。さっき来た道を戻ろうとするも、向こうからも追っ手が二体来ているのが見える。
「ど、どうしよう……」
そう呟く明日葉だったが、残されたのは先程とは逆方向に城から伸びる海岸線沿いの道しかなかった。
昨日から続く逃避行に、明日葉の身体は既に疲労困憊である。しかし、火事場の馬鹿力とも言うべきか。人間、追い詰められれば、まだ走れるものである。明日葉は喉に血が滲んで来るのも我慢して、走り続けた。それでも後ろの方には、三体の侍型からくり人形がついてくる。
森の中ならまだしも、遮蔽物も何もない海岸線では逃げ切るのには無理がある。それに向こうは疲れを知らない人形だ。もはや捕まるのは時間の問題かもしれない。そう考え始めたものの、諦めきれず、足を止められない明日葉だったが、徐々に走る速度は落ちてきた。
五分としない内に、とうとう限界が来た。肉離れのように脹脛の筋肉が張り詰めて、ついに歩くことしか出来なくなった時である。
ガサリ、と崖とは反対側の森から音が鳴り、何か大きいものが飛び出してきた。明日葉は、またからくり人形かと怯え、身構える。しかし、その一瞬の気の散漫が、足がもつれさせ、明日葉を転ばせた。
半べそを掻きながら、両手をついて起き上がろうとするも、明日葉の視線はなかなか地面から上がらなかった。額の汗が滴り落ちて、土の色を変えている。肩で呼吸をしようにも咳き込みが酷く、十分に息が吸えなかった。喉は渇ききっているが、力の入らない口からは涎が流れる。そんな状態にもう殆ど諦めながら、明日葉はやっとの事で顔を上げた。
しかし、明日葉の目の前に居たのは、人形でも何でもない、ただの一人の少年だった。明日葉より歳は幾つか下だろう。学ランから中学生と予想できる。黒縁の大きな眼鏡に前髪の切り揃った癖毛の髪型は、随分と昔の流行りか。少なくとも明日葉から見て今風ではなかった。
少年は暫時、明日葉を見て止まっていたが、急に思い出したかのように、こう言った。
「君は記憶にない……まさか。早くこっちに。手遅れになる前に!」
少年は何を思ったか、明日葉の手を取って起き上がらせると、海岸の崖の方へと押し出し、明日葉を突き落とした。
もはや何が何やら分からないままに、なす術もなく斜面をお尻で滑り落ちる明日葉は、目を瞑り、自分はとうとう死ぬのだと考えた。このまま下に落ちて頭を打つまでに走馬灯のように記憶が走るのだろう、と。しかし、そんな間も無く、直ぐに地面に尻餅をついた。先程の道から直ぐ下に小さな足場があったのだ。
見上げてみると、少年が手の届く距離で此方を覗き込んで、こう言う。
「僕が良いって言うまで、そのままそこに座ってて!」
明日葉の返事も聞かず、少年は直ぐに首を引っ込めた。それでも明日葉はもう少年を信用するしかなかった。そのまま座って、上を眺めて待ってみる。すると、三体のからくり人形が、一斉に此方を覗き込んで来た。恐ろしくなって明日葉は出来るだけ小さく縮こまる。
人形の一体がそのまま明日葉に手を伸ばしてきた次の瞬間、その人形はそのまま宙を舞い、明日葉の頭を掠めて崖下へと落ちて行った。あとの二体も、順に前のめりになって斜面を転がり、明日葉の横を掠めて崖底へ。結局、三体とも岩肌にぶつかって動かなくなった。
明日葉は恐る恐る下を覗き込んで、人形の大破を確認すると、ほっと息をつく。一安心していると頭上から少年の声が聞こえた。
「何とか、やっつけられたね」
明日葉は上を見上げて、尋ねる。
「ど、どうやったの?」
「覗き込んでたところを、ケツ蹴っ飛ばしてやっただけさ。でも、まだまだ追い掛けてくるから、早くここから逃げるよ」
少年は明日葉に向かって手を伸ばした。明日葉は足元に気をつけながら、その手を借りて段差を登る。
明日葉は膝についた砂を払うと、少年に頭を下げた。
「ありがとう! 本当に、本当にもうダメかと思った……」
気がつくと明日葉は泣きべそをかいており、思わずその場に座り込みそうになった。しかし、少年は明日葉の手を取り、引っぱり起こす。
「君は新しい人だね……僕の名前はケイ。でも、詳しい話は後。今はとにかく逃げないと」
ケイと名乗った少年は、顎であの城の方を指した。明日葉がそちらを見てみると、城門から新たに何体かのからくり人形が放たれた事が確認できた。
「そんなぁ……」
溜息をつく明日葉に、ケイは苦笑いしながら言う。
「ほらね、あいつらはしつこいんだ。取り敢えず、近くの隠れ家に行くよ。もうちょっと頑張って!」
ケイに引っ張られながら、明日葉は道を逸れ、森の中へと入って行った。
ケイの言う隠れ家は、五分ほど歩いた所にあった。そこには、周りの木とは比べ物にならない大木が二本並んでおり、その一つには縄梯子が掛かっていた。見上げると木と同化し、木の葉に隠されて分かりにくいが、二つの木の上方をまたがる形で、丸太を幾つも並べた平たく大きな足場が見える。
「こ、ここを登るの……?」
明日葉はそれなりに高い樹々に、軽く身震いをした。しかし、少年は平然として梯子に手をかけ、登り始める。
「うん。あいつら、あんまり頭良くないから、上見て探さないんだ。逃げ込むなら、ここはちょうど良いよ」
「でも……ホントに見つからない?」
尚も心配を重ね、縄に登ろうとしない明日葉に、ケイは一度止まり、手招きをしながら言う。
「大丈夫だよ。何度もここに逃げてるけど、見つかったことないからさ。それより早く登って! 見つかっちゃうから」
「うう……」
怖いから登りたくないのも、あるのだけど。明日葉はそう思ったが、それどころではない事は理解していた為に口には出さなかった。仕方なしに覚悟を決め、ケイに続いて縄梯子を登り始める。
上から垂れ下がっただけの縄梯子は、よく揺れた。ケイは慣れた手つきで早く登ったが、明日葉はそんな訳にはいかない。疲れた身体にこの恐怖心は酷だと、明日葉は自分で思った。それでも、そんな気も知らず、ケイは急かす。
「下を見ないで、早く!」
恐怖心を我慢しながら一段、また一段と登り、なんとか明日葉は足場まで辿り着いた。顔を上げると、葉に囲まれてぽっかりと空いた円状の空間に、日の傾き始めた空が嵌っていた。視線を水平に下ろせば、あのお城の天守と吊り橋も枝葉の間から見える。
足場の三分の一は、小さなログハウスになっていた。ケイは縄梯子を引き上げると、ログハウスの戸を開けて、明日葉に手招きする。
「とりあえず、疲れたろうから、入って休みなよ。狭いけど」
明日葉はお言葉に甘えて中へと入った。ログハウスには小さな長椅子とベッドがL字上に壁に寄せて置かれていて、真ん中に簡素な木製の机。それらが部屋の殆どの部分を占めており、人はベッドか長椅子に座らないと戸が閉まらなくなるほど狭い。窓もないため、灯りは、開け放した扉と机の上に置かれた灯油ランプだけとなった。
ケイに勧められて、明日葉は奥のベッドに腰掛けた。
「僕は外であいつらが居なくなるまで、見張っとくよ。まあ、奴ら、しつこいから日暮れまで辺りにいる可能性もあるし、ゆっくり休むと良いよ」
そう言うとケイは、明日葉が何を言う暇もなく、外へと出て行ってしまった。
「助けてくれたのはありがたいし、良い人だけどせっかちね」
一人残された明日葉はそう呟き、コロンとベッドに横になった。味方になってくれそうな人を見つけて、長らく味わっていなかった程の心の平穏を感じる。安心すると改めて身体中の、特に脚の筋肉に痺れる感覚が思い出された。
「走り過ぎちゃったかな……へとへとだ」
明日葉は靴を脱ぎ、仰向けに寝転がって全身から脱力した。外の様子を見ようと顔だけ扉の方を向ける。その過程で、テーブルの上の灯油ランプが目に入ってきた。そのまま、なんとなく揺らぐ炎を眺めてみる。
不規則に踊る赤白い灯の催眠術に、明日葉の思考回路は一つまた一つと機能を停止し、意識はふわふわと浮き上がってきた。
「ダメだ……もうむり……」
寝まいと抵抗した訳でもない。本当に此処で誰にも見つからないのか、と言う疑いが無かった訳でもないが、今日一日で蓄積した疲れには勝てなかった。小さな欠伸を残して、明日葉は眠りこけてしまった。
――――夢も見ない程の深い眠り。
フクロウかミミズクか明日葉には判断がつかない。ただ、遠くから聞こえるホーホーと鳴く声に、明日葉の意識が取り戻された。
ゆっくりと明日葉が目を開けると、変わらず真っ暗闇だった。思わず、寝てる間に攫われたのかと思い、飛び起きたが、どうやら寝込んでしまったベッドの上にいるらしい。足を下ろして探ると、明日葉の靴もそこにあった。
明日葉は手探りで、机と長椅子を避けながら扉の前まで行ってみる。いつの間にか閉められていた扉を押してみると、月明かりが照らす木の足場があった。しかし、見張っていると言っていたケイはそこには居なかった。
「あれ、ケイ君……?」
明日葉はそう呟きながら外に出てみたが、やはりどこにも誰も居なかった。また一人ぼっちになったような気がして、寂しさと不安の入り混じった喪失感が明日葉を襲う。
そんな憂鬱から気分を紛らわそうと、明日葉は改めて空を見上げてみた。そこに広がるのは、枝葉を丸くくり抜いた満天の星空。半月の周りに、白い無数の輝き。天の川の川岸がはっきりと分かるほどに澄み切った空気の中、惑星らしき一層眩い輝きの点が幾つか見えた。普通ならこの美しい景色に心洗われるのだろうが、明日葉は違った。
「お父さん……」
明日葉の中に、後悔の一つが思い出された。
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