糸の蜘蛛さん

青浦 英

糸の蜘蛛さん

 蜘蛛はなぜそこにいるのか自分では良くわからなかった。

 暖かい気候の中で、ほのかに涼しい風が吹き、何ともその、表現しようのない気持ちいい世界である。少なくともその蜘蛛にはそう思った。まあ、人によっては気持ちよい気候というのは違うのだろうが、彼にはあっているようだった。

 と、蜘蛛はほんわかした中、いつここにきたんやろか、とぼんやり風景を見ながら思っていた。

 そういや、ここに来るまでどこにいたんやろ、蜘蛛はぼんやりとしたまま、さらにぼんやりと考えていた。確か、わては……。

 蜘蛛は、ヒメグモ科の一種で、年齢からいえば、かなり若い方であった。ここに来る前、つまり下界にいるとき、彼は母親のそばで卵からむちゃくちゃ多い兄弟と一緒に、生を受けた。

 生まれてから、しばらくは母親のそばでぼんやりと過ごしていた。

 しばらくして、兄弟の何匹かが、巣を飛び出しいなくなった。世間の荒波にもまれるんや。そういう言葉を残して出て行く兄弟の後ろ姿を見ながら、いずれ自分も出ることになるんやろうな、としみじみと思った。

 しみじみと思った翌日、彼は母親にたたき出された。はよ、あんたも親離れせんね、アホが。そういう言葉とともに、わけもわからず巣を追い出されていささか困惑した彼だったが、そこは生き物の性、とにかく巣作りだけはせなあかん、と良くわからない理由で痛感した。

 本能に従い、彼が木の枝に吐き出した糸をからみつけ、適当に風が吹いたところで木の枝からジャンプした。そうすれば、彼の体はふわふわ漂い近くの枝に移れる。枝と枝の間に糸が張れる。その糸を基準に複雑で美しい巣をはれるわけだ。彼らの仲間はみなそうするが、実は蜘蛛全体ではそうしない蜘蛛の方が多い。

 で、なぜそうすればいいのかわからないまま、彼は風を感じた瞬間、思わずジャンプした。目の前に見える別の枝に向かって。


 さて。

 一匹の蜘蛛がいた。

 黄金蜘蛛(コガネグモ)といわれる体のでかい奴だ。腹の所に毒々しいまでの金と黒の縞模様がある。ジョロウグモに似ているが、体は倍以上だ。堂々たる巣を張り、そのど真ん中で堂々とした格好で堂々と寝ていた。

 その蜘蛛はメスだった。オスに見えるがメスだ。実は、黄金蜘蛛は大きいのがメスで、オスは同じ種族とは思えないほど小さく、色も茶一色の貧相な姿だ。自然界では大体の生物が、メスのほうが大きく、強く、威張っている。

 で、その堂々たる蜘蛛姐さんの大きな巣の端っこに、一匹のチョウチョが引っかかった。蝶は、風に流されて足先が巣の糸に引っ付いてしまったのである。

 しまった。蝶は思った。気をつけて飛んでいたのに、急に風向きが変わるなんて、ついてないわ。きっと、今日は仏滅なのよ。

 蝶もメスだった。

 彼女は、引っ付いた足を何とかしようと無事な羽をじたばたさせた。ちょっとしか引っ付いていない、暴れればはずれるかもしれない。巣の真ん中に気色悪い物体がじっとしている。気づいてないのだろうか。きっと食われるんだわ、食われる前に逃げなくちゃ。そして羽ばたいたときの振動が糸を揺らし、伝わり、真ん中で寝ていた黄金蜘蛛に到達した。

 黄金蜘蛛は、複数の目を開けて巣の端を見た。

 きれいな蝶がじたばたしている。黄金蜘蛛は一見してそれがメスだとわかった。

 蝶がメスだとわかったとたん黄金蜘蛛の中の、お、うまそやな、食ったろ、と残忍な心が鎌首をもたげた。人間だったら口の端をやや上向きに曲げて笑みを浮かべているところであろう。

 大儀そうに動き出した蜘蛛が、嫌みな如くじわじわと迫ってくるのに気づいた蝶は、必死さをさらに増やしてばたついた。足の糸はからみついたまま離れない。白日の悪夢である。

 黄金蜘蛛は目の前に来た。おやおやかわいい娘さん、こないな所でどないしたん。複数の目はそう語っていた。うまそな足やなぁ。蝶はそう思ってるとその目を見て思った。

 えー、ここで今一度注意を喚起するが、この蜘蛛はメスである。おっさんみたいだが。

 品定めするように、暴れている蝶を羽から足までじっくりと見ていた黄金蜘蛛が、さて、糸を巻き付けてうごけんようにしたろかい、とばかりにお尻を向けたとき、何かが巣につっこんできた。

 つっこんできたのは、小さな蜘蛛だった。

 そう、あの子蜘蛛である。風に流されちゃったのである。

 子蜘蛛は、蝶の足の所にぶつかり、黄金蜘蛛の巣に絡まった。拍子に蝶の足が糸から少しはずれたので、蝶はここぞとばかりに羽ばたいて脱出に成功した。ふらふらしながら蝶は礼も言わずどこかへ飛んでいってしまった。

 後には、巣に絡まってじたばたする子蜘蛛と無粋な珍客のせいでうまそうな夕食を失った黄金蜘蛛が残された。

 一瞬の呆然の後に、蝶を失った事に気づいた黄金蜘蛛の姉御は、怒りをその胴体に比べてちっこい頭いっぱいにみなぎらせ、子蜘蛛の側に近寄った。目の前でじたばた暴れて、よけい糸が絡まってゆく子蜘蛛がいる。

 ちょっと、おにいさん。

 黄金蜘蛛は、せいぜい抑えた口調で暴れる子蜘蛛に声をかけた。子蜘蛛は暴れたままである。ちょっとしてから、

 きかんかいわれェ。

 黄金蜘蛛は、子蜘蛛に向かって怒鳴った。メスとは思えない迫力だ。

 ぴたっと子蜘蛛の動きが止まる。そして、少しの沈黙の後、子蜘蛛はそおっと黄金蜘蛛の方を見た。そこには化け物のようにでかい、トラ縞パンツの大蜘蛛がこっちを見ていた。

 あ、ど、どーも。

 子蜘蛛はひきつりつつも礼儀正しく挨拶した。子蜘蛛にとってはものすごく恐かったが、重大な事態には全く気づいていなかった。そして、その挨拶が彼の臨終の言葉になるとも思っていなかった。もっとも、臨終という言葉も意味も知らなかったが。

 ええ、度胸やな、にいちゃん。

 ……。

 子蜘蛛は答えられなかった。

 よけいなことしくさって……、

 黄金蜘蛛は目をつぶってゆっくり左右に首を振ってつぶやき、次にかっと目を見開いて、

 代わりにおまえを食ったるわい。

 その言葉とともに、子蜘蛛の視界が白くなった。彼の意識はそこで終わった。

 そして、気づいたときには、あたたかくて気持ちよい世界の、何かの上に寝ていたのである。



 ここは、いったいどこやろ。

 彼は辺りを見回した。ライトグリーンで覆われた地面、ライトブルーの空に所々浮かぶ白い雲。自分のいるところは、やや濃い緑色をした葉っぱのようである。葉っぱは少し揺れていた。

 少し移動して、葉の端まで来るとすぐ下は何やら表現しにくいものがずっとあった。

 子蜘蛛の彼が始めてみた大量の水である。彼は、水の上に浮かぶ蓮の葉の上に乗っていたのである。近くには、天の方へ伸びている茎があり、その上にお椀のような格好に並ぶピンクの花びらが見えた。

 子蜘蛛は、また周りを見回した。一般常識で言うところの水の塊、要するに池は、少し行ったところで終わっており、その向こうは、さっきから見えている緑色の草の絨毯である。転々と色とりどりの花が咲いている。遠くには何か動いているものも見えた。

 あれは、なんやろか。

 しばらく動いているものを眺めていたが、何となく巣作りをしたくなってきた。

 一応は高いところに巣を張る蜘蛛なので、地面、厳密には蓮の葉の上ではあるが、その様な低い場所にいるのはどうも落ちつかない。特に腹が減っているわけでもないが、本能に従って巣を張ろうと思ったのである。

 風を受けて巣を張る彼は、生前いきなり失敗して、直接殺生をする間もなく殺生されてしまったわけだが、懲りずに(というか落ちつかないので)、近くの蓮の茎にするすると登り始めた。花びらの所まで来ると、彼はお尻から糸をふうっと出して花に巻き付け、風が来るのを待った。

 風が来る前に、子蜘蛛は一応あたりを再確認した。今度はあの虎縞の化け物はおらんようである。

 安心しているうちに、風が吹いてきた。

 よっしゃ、これでいこ。

 蜘蛛は足を放し、風に乗ってふわふわ漂った。

 すぐ側の別の蓮の花の所におっこちた。

 今度は成功である。彼は、この単純で大したことのない成功に、目をうるませんばかりに感動した。何せ過去が過去なだけに仕方あるまい。

 主軸となる糸を茎に巻き付けると、今度はその糸と茎の間を往復しながら糸を次々とお尻からだし始めた。ここからは大方の蜘蛛達と同じである。しばらくすると、ややよがんではいるものの蜘蛛の巣らしい格好のものができあがった。

 子蜘蛛は、感動してしばらく蓮の葉の上に降りて自分の芸術品を見上げていた。

 次に蓮の花の上に上がり、またしばらく自分の巣を眺めていた。

 ええかっこや。おかんにも見せたかったな。

 そう思った後、急に我に返ったように首を振った。

 あかんあかん、のんびりしてたらあかんのや。これからわては一国一城の主なのやからな、しっかりせなあかん。

 もっともらしくうなずいて、彼は自分の巣の真ん中に腰を落ちつけた。

 ああ、ええ気持ちや。なんや大人になったような気分やわぁ。

 大人とは何なのかよくわからんがそう思った。

 風が心地よかった。



 お釈迦様、と呼ばれている人がいる。

 ずば抜けて偉い人である。

 何がどう偉いのか、それが説明できないほど偉いのである。説明できたら、説明できる奴の方が偉くなってしまうのだから、これは仕方あるまい。

 彼は、とことことその世界を歩いていた。ときどき、緑の絨毯の上に座って楽しそうに語らいでいる男女がいたりすると、彼は邪魔をしないように、音を立てないように気を配りながら黙って通り過ぎようとする。もっとも、世の中は、音だけで構成されているわけじゃないので、男女は視野に入ったお釈迦様を見て、にこやかに挨拶をした。相手がお釈迦様だからではなく、相手が誰でもそうする。

 ここはそういう世界なのだ。

 お釈迦様は、とことこと歩いて、池の側まで来た。

 いつも思うが、何故池なんだろう。

 この世界を作った何かが、意匠の一環として用意したのかな。

 ま、どうでもいいか。

 お釈迦様は自己完結した。

 池とは申せ、これがただの池ではないことをお釈迦様は知っているのだ。

 おや?

 お釈迦様は、一点に目を止めた。

 蜘蛛か。

 お釈迦様はにっこり微笑んだ。何を見ても微笑む人なのである。

 蜘蛛は小さかった。

 その小ささからは、蜘蛛は子供で、ここにいることから考えると、子供の時に死んだことになる。

 お釈迦様は、少し悲しみの表情を見せた。

 ここでは、地上の悲しみはない。幸せに暮らすのだぞ。

 そう心の中で言いおいて、立ち去ろうとしたとき、小さな蝿がお釈迦様の前を横切った。

 ん?

 蝿はうろうろと飛んでいる。

 蝿か…。お釈迦様は思った。きっと地上で殺虫剤か何かで死んだのだろうな。気の毒に。

 お釈迦様は、あらためてこの広い世界を見渡した。

 ここはとてつもなく広く、その果てはない。だから、地上で死んだものの多くは、ここに来て第2の人生を過ごしても、生物密度はちっとも増えない。また、何も食べなくても生きていけるし、もちろん食べても構わない。ただ、食べ物はこの世界に育つ幾つかの植物の実や蜜でないといけないのだ。

 いけないって何故か?

 それは言うまでもなく、殺生を禁じているからである。誰が決めたかは知らないが。

 だから、肉食だった生き物も(まああまりいないが)、ここでは植物の実を食べている。種類が多いので、当然食べられるし、草食肉食関係なく、食べたくなるようになってるのだ。蜜も同様である。実や蜜は一部だから殺生にならないし。

 ここを考えたやつもつじつまを合わせようと苦労したのであろう。よーく考えてみると、絶対矛盾しているところが出てくるのだけど、それはまあ、気づかなかったことにするのが、大人の付き合い方というものだ。

 ……ともかく、

 蝿は蜜を吸い、蜘蛛は小さな実を食べればよいのだ。

 そう思って、蝿を見ようとしたとき、蝿は周囲の空中に見当たらなかった。

 どこに行ったのかな、と大したことではないが、お釈迦様は周囲を見渡した。

 ふと、蓮の上に張られた蜘蛛の巣に目を止めた。

 そこに蝿がいた。

 巣に絡まっていた。

 これこれ、ほどいてあげなさい。

 お釈迦様がそう言おうと思って、蜘蛛の巣に近づいたとき、

 がぶり。

 子蜘蛛は蝿にかぶりついたのである。

 ひいいいいいいい。

 お釈迦様はのけぞってしまった。



 気持ちよい風に吹かれて、子蜘蛛が初めて作った巣の得物にかぶりついたとき、蜘蛛の巣の下にある池のさらに下にある世界では、一人の男がのんびりしていた。

 男は、カンダタという名前で、昔は名の通った、こともない、ちんけな悪人であった。やや法律的に言うと強盗殺人窃盗強姦の常習者である。

 カンダタは、とにかく悪い事ばっかりやって生きていた。それが本人のもっともわかりやすい生き方であった。なにしろ、生まれてこの方ろくな人生を味あわなかったもんだ。彼にとっては糧を得るには泥棒しかなく、それ以外の方法も知らないではなかったが、今更という意識もあり、何となく気恥ずかしくもあり、善良な人生を送ってきた連中に対しても腹が立っていたから、あえて変えようとは思わなかった。

 さんざっぱら殺しまくり犯しまくり奪いまくった彼が、地獄に落とされるのも、ま、至極当然の成りゆきではあったが、カンダタ自身はいささか不満がないでもない。

 俺だって金持ちの家に生まれていれば、悪いことなんかしなかったぜ。

 なにを言うか、痴れもんが。

 うそぶくカンダタに閻魔大王とやらは怒鳴ったが、彼はびびらなかった。

 虚勢を張ったのではない。閻魔大王とやらは、ガタイはなるほどでかいが、田舎のお大尽のように赤や緑のド派手な衣装を身にまとい、ちゃらちゃらした飾りの付いた変な冠をかぶって、紫檀製の大きな机の前に座ってコンピュータの端末を操作したり帳面や巻物をめくっている赤ら顔の髭面のおっさんだったからである。恐くなろうはずがない。

 まあ、いい。おまえは地獄行きじゃ。

 判を押された書類を持って、足を組んだ人の像が上に座っている地獄門へ行くと、そこで身体検査とか称されて見ぐるみはがされてしまった。角をアフロヘアの頭から生やして、酒でも飲みまくったのか真っ赤や真っ青になっている粗末な服を着た妙な連中は書類を見てから、

 おまえは、血の池だぜ。

 と素っ裸の彼を引っ張って、真っ赤っかの池に放り込んだ。

 血の池は、適度にぬるかった。

 あまり冷たすぎたり熱すぎたりすると、タンパク質が凝固してしまうんだよ、と親しくなった鬼(赤や青の奇妙な連中が「鬼」だと言うことを後でカンダタは知った)が教えてくれた。37度くらいがちょうどいいんだ。

 しばらくして、カンダタは鬼に聞いた。

 なあ、おっさんよ。

 ああ?

 ここは地獄やろ。

 見ればわかるだろ。

 じゃあ、俺のような悪は、さんざんな目に遭うって、昔坊さんに聴かされたぜ。

 そのとおりだ。

 けどよ、どう見ても俺、ひどい目に遭ってるようにはおもえんのだがよ。

 そりゃあおまえ、

 鬼はちょっと黙ってカンダタを見た。

 あのな、おまえは平気かもしれんが、他の連中にはたまらん苦痛なんだよ。

 そうか?

 あたりまえだろうが、鬼はつぶやいた。

 例えば血の池地獄。

 この温度、このにおい、この味。見た目にも気味悪く、うんざりする。血というものは本来、人間の多くは好んではいない。何となくあの無機的な金属的な液体が本質的に苦手な人が多い。だから、この血の池地獄が作られた。特に殺人常習者がここに送られてくるのだが、彼らの多くは生前の悪行の割には、血というものが特に苦手だった。変な話である。トラウマみたいなものか? 

 血を落とそうと洗面所で手を洗い、洗っては臭いをかいでまた洗う殺し屋の心理的な面を応用したアトラクションなのだ。

 このことは、4年に一回行われる大々的なアンケートの統計結果を元にしているから確かである、と鬼はさもわが事のように自慢した。

 ふーん、そんなもんかねえ。おれなんか血の池より糞尿池の方がたまらんな。後はゲロ池……、うげっ、想像しちまった。

 血の池にぷかぷか浮かびながら、カンダタは眉間に皺を寄せ、口をすぼめた。酸っぱいものが口の中に出てきた感じがする。

 鬼はあきれたようにカンダタを見てたが、急に意味ありげな笑いを浮かべた。

 そうか、おまえは糞尿池がダメか。そうか、そうか。

 あ、しまった。余計なことを……。まさか糞尿池ってのもあるのか? な、頼むそれだけは勘弁してくれ、お願いだ。

 どーしよーかなー。

 たのむよお、なんでもするからさ。

 カンダタは、鬼に向かって手を合わせた。



 な、なんということを。

 お釈迦様はのけぞりモードから元に戻ると、咀嚼中の子蜘蛛に向かって指をさし、ぶるぶる震えた。

 こ、子蜘蛛君。

 ん?

 子蜘蛛は、顔を上げた。妙なヘアスタイルの大男が、自分を指さしていた。アル中のように震えている。

 よ、よりによって、私の目の前で、せ、殺生とは……!

 んん?

 子蜘蛛は首を傾げた。

 しかも、天国で……。

 お釈迦様はうなった。

 どうかしましたか。

 子蜘蛛は言った。

 ど、どうか、ではなああい。

 お釈迦様の声が辺りに轟いた。

 声でかいなー。

 子蜘蛛は顔をしかめた。

 君は、大変なことをしてくれたのだぞ。

 なにがですか?

 子蜘蛛はややアクセントのあるかわいい声で答えた。

 わかってないようだな。君はたった今、殺生をやらかしたのだぞ。ここで、私の目の前で。

 せっしょうってなんや?

 子蜘蛛はそう思った。

 殺生を知らないのか、君は。

 この大男、わしの考えていることがわかるんや。

 当たり前だ。私はこう見えてもお釈迦……、い、いや私のことはどうでも良い。

 へえ、どうでもいいんや、なんかすごいひとなんやな。

 あのね、そうじゃなくて……!

 興奮したお釈迦様は呼吸が乱れた。

 まあまあ、大男のおっちゃん、少し落ち着いて話をせんと、何言っているんかわからんよ。落ち着いた方がええよ。

 子蜘蛛は生まれて初めて、長ぜりふと、忠告を行った。

 さすがにお釈迦様、すうっと深呼吸を行うと、一時の呼吸の乱れを抑え、脳からα波とβ波を交互に出しまくりながら、落ち着いた。

 いいかい、子蜘蛛君。

 わしの名前は子蜘蛛やない。ジェームスっていうんや。

 じぇ、じぇーむす?

 そうや、今思いついたんや。ええやろ。

 すかされたお釈迦様は、目をつぶって頭を振ると、目を開けた。

 じゃ、ジェームス君。いいかい、君は今、蝿を食べたね。

 蝿ってなんや。

 ぶんぶん飛んで、君の巣にひっかかった生き物だよ。

 ああ、あれか、あんまりうまなかったわ。

 そういう事じゃなくて、食べちゃいけないんだよ。

 なぜや?

 なぜって、生き物を殺すのは良くないだろ。

 そうなん?

 そうって……。

 お釈迦様はそこで、何かを思いついたかのように、頭の中の天国居住者名鑑を開いた。その節足動物蛛形目編を検索する。あまり数もなく、目の前のジェームス君に行き当たった。大体蜘蛛は殺しまくる割に、助けることがあまり無いので、ここでは数が少ないのだ。といってもお釈迦様の感覚で少ないだけで、一応数千兆匹はいる。

 ジェームス君の項には、最新の情報も記されていた。すなわち、

 固有名:ジェームス

 である。

 そんなことはどうでもいい。

 お釈迦様は、その大して多くない内容を読み終えると、子蜘蛛の方を見た。

 いいかい、ジェームス君。

 ん?

 君は、東山室郡神下村大字谷の上1650番地付近の森に棲む黄金蜘蛛のマリコに食べられたんだろう。

 食べられた……? 食べられ……。ああそうか、あのでかい虎縞パンツか。あいつマリコいう名前やったんか。けったいな名前やのお。女みたいやな……。

 みたいじゃなく、女だよ。それも女の子だ。

 うそっ。

 子蜘蛛は絶句した。

 まじで? あれで女の子って、うちのおかんより怖かったで。信じられんわ。800歩譲ってもおばはんやであれは。はー、世の中って何でもあるんやなあ。

 そう言うことじゃなくて、君は、そのマリコに食べられたんだよ。つまり殺されたことで、君はここに来る羽目になったわけじゃないか。

 ああ、ええとこやね、ここは。

 そう、ここはええとこ……、おほん、いいところだけど、地上でももっと色々したいことがあっただろう。それが殺されたことで出来なくなったわけだよ。悲しい事じゃないか。

 地上で?

 そう、したいことが出来なくなったことは辛いことだろう? 悲しいことだろう? 嫌なことじゃないか。殺されることはいやなことなんだよ。

 地上で出来なくなったこと……、巣にひっかかったものを食べたりとか?

 え?

 さっきやったようなことを出来なかったんなら、さっきしたから満足や。

 う、うーむ。

 お釈迦様は考え込んだ。どうやったら、目の前の子蜘蛛に殺生のことを理解させようかと考え込んだ。

 どだい無理な話である。子蜘蛛のジェームス君がここに来れたのは、彼が殺生する前に死んでしまったからである。殺生すれば理解できたかも知れないが、それじゃ、埋め合わせをするなり、改心でもしない限りここには来れないのだ。天国とはせこいところである。

 所詮、人間が考えるものはせこいのだ。

 要するに本能だけで世間の何も学ばなかった子蜘蛛には難しすぎた。

 いやいや、それよりももっと深刻な事態が待っていた。

 いいかい、こぐ……いやジェームス君、あのね、ここは天国なの、それでね、ここで殺生を、つまり君の作った巣にひっかかった生き物を食べたりしたらいけないんだ。わかるかな。

 なんで?

 なんでっていわれてもね、そういう規則なの、わかるかい。ここはそういうところなの。

 お釈迦様は理屈抜きにすることにした。大人の常識である。

 でも子蜘蛛には通用しない。

 言ってることがようわからへん。

 わかんなくても、殺しちゃいけないんだよ。天国にいるものが殺生したら、まずいだろう。

 ええやんか、わしが作ったんやで、この巣。なかなかええ格好やろ。

 ああ、いい形をしているよ。でもね、巣を作るのは良いけど、そこにひっかかった生き物を食べたら駄目なんだ。ひっかかったら離してやらなきゃいけないんだ。そうしないと、罰を受けなきゃいけなくなるんだよ。特に君は反省の色が見られないしね。

 はんせいってなんやろ……。なにがなんやらようわからんけど……。で、そのばつって言うのは、どないなるんや。

 どうにもこうにも地獄行きです。

 じごく?

 そ、地獄です。普通だったら一つ低いランクに生まれ変わるんですが、あなたは反省の色が見られませんので、その前に地獄です。執行猶予は付けません。

 お釈迦様は結構無情に言った。

 それってどこにあるんや、ここみたいにええとこなんか。

 子蜘蛛は全然わかっていなかった。

 お釈迦様は、ため息を付いて、池の底を指さした。子蜘蛛は巣の上で揺れながら下を見た。



 なあ、頼むよう。鬼さんよう。

 さあなあ……。

 赤ら顔の鬼はそっぽを向き、顎に手をやって撫でていた。あらためて目線だけカンダタの方を見る。

 地獄の沙汰もなんとやらっていうしなあ…。

 鬼は言った。

 そ、そんなあ、俺は無一文だぜ、地獄門でみんな持って行かれちまったんだから。

 ならしょうがねえなあ、来月の評価人事で新設糞尿地獄行きが決定するかもな。

 評価人事というのは、地獄で行われる毎月の人事異動である。といっても鬼たちの人事異動ではなくて(それもあるが)、罪人の人事異動、要するにどの罪人は反省の色がないからどこどこ地獄に移せ、というやつである。

 鬼はさらに独語した。

 俺も何だな、糞尿池の新設を上申して認められりゃ、ポイントも稼げて、次の昇進査定で、係長ってか。確か針山地獄課の北壁担当係の席が空いていたしな。

 どうやらカンダタの話を聞いた鬼は糞尿池を新設しようというネタで賄賂を求めているらしい。カンダタが賄賂を払えばそれでよし、払わないなら上司に上申してポイントを稼ぐだけだ。

 罪人も罪人なら鬼も鬼である。さすが地獄は油断がならない。

 そんなこといったってよ、ないものはねえんだよ。無い袖は振れねえって、ことわざにもあるじゃねえか。

 ことわざか、それって。

 しらねえよ、とにかくねえもんはねえの。

 もちろん鬼もその事はわかってる。

 しょうがねえな。じゃあどうだ、俺の手下にならねえか。

 ああ?

 手下だよ。

 何でお前なんかの手下にならなきゃなんねえんだよ。大体罪人の俺が手下になってどうしようって言うんだ。

 鬼はそれを聞いてにんまりと笑うと、

 お前は、ここに来て間がないから知らないだろうが、地獄にゃ、お前のようにあまり拷問の効き目がない奴ってのがいるんだ。そいつらは影で色々と悪さをしててな。しかも、一部の鬼たちが、そいつらとつるんでな、そういう悪い罪人がどこにいるかをごまかしてるんだ。だもんだから、効き目のある地獄へ移せなくて問題になってるんだよ。

 けっ、とカンダタは思った。なんでえ偉そうに、てめえだって罪人の俺に賄賂を要求したじゃねえか。他の鬼のことを悪く言える身分かよ。

 でも口には出さなかった。

 とにかく地獄の権威に関わるんでな、そういう悪い鬼と悪い罪人を取り締まる必要があるんだ。

 鬼はともかく、悪くねえ罪人ているのかよ、この地獄に。

 ともカンダタは思ったが、やはり口には出さなかった。口に出しては、こう言った。

 それで、俺に何をしろと?

 大したことじゃない。そういう悪い連中を見つけたら、俺にこっそり教えてくれりゃいいんだ。そしたら、俺は上にその事を訴えられるからな。

 けっ。密告じゃねえか。

 今度は口に出していった。

 心配するこたない。お前が密告したことは内緒にしてやる。

 それだけかよ。お前の出世のために密告までして、俺には何もねえのか。

 血の池にいられるように評価表に書いてやるぜ。

 ああ? それだけかよ。

 十分だろう。本来お前は、ここに拷問されにきてんだぜ、効き目がねえのなら、効き目のあるように改善するのが、地獄の方針だ。お前が糞尿に弱いなら、上申したらすぐに認められて設置されるって訳だ。お前は永遠の苦しみの中で過ごすことになるが、どうだ。

 あんた如きぺーぺーが上に言って認められるのかよ。

 言ったろ、ここはより効率のいい拷問を行う場所だ。俺でも上申は許されるし、認められるわけさ。ま、それはそれでポイントを稼げるしな。

 きったねえ野郎だぜ。

 どうとでも言えよ。で、どうなんだ、俺の提案は。

 ちっ、わかったよ。勝手にしろ。

 そうそう、それでいいんだ。俺も、せっかく親しくなったお前を苦しませることなんてしたくないしな。

 あんなこといってやがる。

 カンダタは腕組みしてそっぽを向いた。血の池の表面が緩やかに波打って、赤血球や白血球や血しょうが動き回る。

 鬼は、こっそり微笑んだ。うまくいった。単に糞尿池を上申しただけじゃ、それで終わり。上の奴に評価を奪われる可能性だってある。それにまた別のネタを探さなきゃならない。しかしカンダタを密告者として使えば、出世した後もポイントを稼げるってもんだ。

 まさに、渡る世間は鬼だらけ、ってな。



 なにやっとるんじゃ、あのふたりは。

 お釈迦様は、池の底の地獄を指さしたまま思った。

 いかにも悪そうな顔の男と鬼が、血の池の端で何やら色々と話し合っているのが見えた。男が腕組みをしてそっぽを向き、鬼がにやりと笑っている。

 あれが地獄いうんか。薄暗いところやな。

 子蜘蛛は思った。

 子蜘蛛に地獄のことを説明しようと思ったお釈迦様は、丁度見えているあの男を例に挙げてみようと思った。

 あいつ、名はなんともうしたかな。

 お釈迦様は、今度は頭の中の地獄関係人名辞典をめくった。しばらくして、カンダタという名前にたどり着いた。

 ああ、こいつか。ふむふむ、うーん、なかなかの悪じゃのう。すごいじゃないかこの経歴は。

 うん?

 お釈迦様の検索は、立ち止まった。

 カンダタ氏生涯年表のなかに、興味ある事象を見つけたのである。


 ○○年△月××日、午後2時16分。カンダタ、蜘蛛を踏み殺さずに逃がす。


 ほほお。

 カンダタめ、極極極たまには良いこともしておったのか。

 お釈迦様は、感心した。

 丁度子蜘蛛と話していたこともあって、その助けた理由を何となく知りたくなったお釈迦様は、カンダタ氏生涯年表の「詳細場景モード」を起動させた。


 カンダタはその日の朝、手ひどい思いを味わっていた。

 前夜、それまでの数年間信頼し、愛していた女があっさりと彼を捨てたのである。彼女は、別れを切り出したとき、驚く彼にこう言ったものだ。

 たったこれだけのお金で満足すると思っているの?

 これだけのお金、とは、その日の早暁に、彼が富豪の家に忍び込んで盗んできた金と称して出したものである。

 しかし、お前。思ったより警備が厳しくてなあ……。

 そんなもの皆殺しにでもすればいいじゃないのよ。

 そ、そうは言うが、危険なんだぞ。大変だし。

 いくじなし。

 なんだと?

 本当は、こわくなって、別の家から盗んできたんじゃないの?

 な、なんてことを。

 とにかく、私はこれっぽっちのお金では満足できないわ。欲しいものもあるし、大きな家にも住みたいし、豪華な食事も食べたいし……。

 何やら具体的なブランド品もあげつらい、どこそこの一等地高級住宅街の話をし、宮廷料理のメニューをひとそろえ挙げてみせた。

 カンダタはいささかうんざりしたものの、ま、女はそういう生き物だと、勝手に自分を納得させ、目の前のさえずり続ける生き物をなだめて黙らせようと思った。

 わかった、わかった。次は、もっと稼いでくるよ、そして買い物に行こう。ついでにうまいものでも食べようじゃないか。だからな、もう許してくれよ。

 悪いわね、私の決心は変わらないの。

 そんなあ。

 カンダタがなおもなだめようとすると、彼女は指を鳴らした。と、突然、屈強な男達がどやどやと入ってきて、彼の家にあったものを手当たり次第運び出し始めたのである。

 おい、何だお前らは、俺のものをどうする気だ。どこに持っていく気だ。

 カンダタは足蹴にされてひっくり返った。

 みっともないな、カンダタ。

 え、と顔を上げた彼の目に、この辺り一帯の犯罪者の総帥が、金のかかった服装で、突っ立っていた。彼の右腕に自分の彼女がしがみついた。彼女は甘えた声で、総帥に言った。

 ねえ、このあとおいしいものでも食べに行きましょうよ。

 ああ、それはいいな。私たちの新たな人生の始まりを祝すとするか。

 そういうことなの、ごめんねカンダタ。

 彼女はそう言った。

 そう言うことなんだ、悪いなカンダタ。

 総帥は言った。

 ま、命だけは勘弁してやる。とっととこの街から出ていくことだ。それとも、あらためて俺の部下にでもなるか。

 高笑いを残して2人は出ていった。

 そうか、そうだったのか。俺のような人間は、何もかも手遅れになって気づくわけだ。

 荷物を運びだした男達も、最後に彼を足蹴にすると、笑いながら出ていった。


 これが、前夜の出来事である。

 そしてこの日の朝、彼は町を離れ、それからとぼとぼと、道を歩き続けていた。

 もうなにも信じられない、真っ黒な気分である。しかし彼の人生はそう言うことの連続であった。これでは、性格もひね曲がって絡まってしまう。

 ぶつぶつと彼がつぶやきながら歩いていると、ふと目の前の地面に目が止まった。なにか動くものがいた。

 蜘蛛である。

 子蜘蛛のジェームス君とは違い、巣を張らないタイプであった。体も結構大きい。

 小さな田舎道をとことこと横切っていた。

 けっ、胸くそわりぃぜ。

 とカンダタは足を上げると蜘蛛を踏み殺そうとした。

 しかし蜘蛛の直前の空中で足は止まった。

 彼に蜘蛛を踏み殺すなど造作もないことである。

 だが、その無惨な運命が待ちかまえている蜘蛛を見ると、カンダタは、今の卑小な自分の存在を重ね合わせてしまった。

 彼は足をそっと降ろすと、蜘蛛をそのまま見送った。

 今日のところは見逃してやるよ。

 そう、心中でつぶやく声にも力はなかった。ただ、不思議な共感の光が彼の目にはあった。

 カンダタは、その生涯で数少ない、衝動に逆らって生き物を助ける行為を行った。彼が街角でチンピラと喧嘩になって殺され、地獄に落ちたのは、それから間もなくのことである



 ふーん……。

 お釈迦様はうなずいた。

 なるほどねえ。

 なにがなるほどなんや?

 子蜘蛛は大男を見上げながら首を傾げた。

 この変な頭のおっちゃん、なにやら、ほけえっとしながらあらぬ方向を見て、それから、一人納得しているのである。

 子蜘蛛でなくとも、第三者が見れば、あきらかにおかしな人種であった。

 天才とは所詮凡人には理解されぬ悲しき生き物なのである。

 お釈迦様は、カンダタのそのほんの些細な救いの行為に何かを見いだした。

 人は常に、心のどこかに幼き頃の優しさを秘めているのである。

 悪人ならばなおさらのことだ。

 なぜならば悪人こそ、本来ある優しさを他人に受け入れられなかったが故に、それを心の奥底に閉じこめて、悪の道へと進んだ者たちなのである。

 救われるべき者は救われる。

 マーフィーの法則を良い方に解釈したような理屈で、お釈迦様は優しい目をした。

 カンダタにも救われるべきチャンスを与えてやるべきではないだろうか。

 つまり、助けた蜘蛛の分だけ。

 お釈迦様もせこい。

 しかし、恩恵を無条件に与えては、カンダタ以上に良いことをしている多くの諸氏は、より救われるべき事になってしまい、少々悪い事してもかまやしねえぜ、とバックレた生徒らがコンビニの前にうんこ座りしてたばこを吹かしながら、言うようなことも許されてしまうのである。

 まあ、そんなことをする人も最近は希少な存在になってきたものだが……。

 お釈迦様は自己完結した。

 とにかく以上の理由により、カンダタが目に留まったのも何かの縁であること故、助けた蜘蛛の分だけ、救われるチャンスを与えることにしよう。

 お釈迦様は、さて、どうやってカンダタにチャンスを与えるべきか、と思案していて、ふと子蜘蛛に目を留めた。

 そして、当初、この子蜘蛛に殺生という罪悪をいかに教えるべきか、いろいろ試していたことを思い出した。

 そうだ。

 お釈迦様は、ひらめいた。

 天才はよくひらめくのだ。

 脳のシナプスの絡み合い方が凡人よりも複雑なのである。

 幼少の頃、のびのびと育った子供によく見られる現象だ。幼児教育もやりすぎると逆効果である。

 お釈迦様のひらめいたことは、次のようなことだった。

 ちょうど今、救われるべきチャンスを目前にした地獄の罪人がいる。

 一方、殺生という罪悪を犯し、その分だけは罪を償わなければならない天国在住の者がいる。

 と、いうことはだ、一方が天国への扉を開け、一方が地獄門をくぐることにすれば、採算はプラスマイナスゼロ、略せばプラマイゼロだ。

 ちょうど割り切れるのである。

 で、救われなくなるとは思いも寄らぬ蜘蛛も世の中にはいるのである。

 お釈迦様はにやりと笑みを浮かべ、子蜘蛛はその表情を見て得体の知れないいやな予感がした。

 このおっちゃんに関わってると、ろくな事にならないのではないやろか。

 おっちゃん……、失礼、お釈迦様は、蜘蛛の糸に目を付けた。

 蜘蛛の糸か、どれ……。

 お釈迦様は、頭の中の百科事典エンサイクロペディア・ヘヴンリアを開いた。ニューイェルサレム出版、限定5000部、HP予約で2割引だ。しかし頭の中にいろいろ本を抱えているものだ。

 え、お釈迦様は仏教じゃないかって?

 勉強不足だね。

 あの世に洋の東西など関係ないのだよ。

 大体、仏教ってのはお釈迦様の残した教えであって、お釈迦様は仏教徒じゃないんだよ。

 これすなわち、へりくつ……。

 えーと、お釈迦様は、頭の中の百科事典を開いてなにを調べたのであろうか。

 蜘蛛の糸である。

 お釈迦様は調べました。

 蜘蛛の糸って、細くてもろいような気がしますが、実は、同じ太さの人工繊維よりもはるかに丈夫で、鋼筋にも匹敵するのを知っておられましたか? 軍事用にも研究されているんですよ。

 すごいですね、バイオテクノロジーは。自然のバイオテクですけど。

 ましてや、(今のところは)天国在住の子蜘蛛君が出す糸ならなおさらであろう。蜘蛛の糸天国工場生産、当社比1500%アップだ。

 お釈迦様は結論に至った。

 と、いうわけなのだよ、子蜘蛛君。

 お釈迦様は指先で子蜘蛛君の胸ぐらをつかんで、にらみを利かせて言った。

 は、はいぃ。

 子蜘蛛君は情けなくも返事をした。

 ちょっと見るとパンチパーマのおっさん風の男に胸ぐらを捕まれて脅されちゃ、小市民としては返事をするしかあるまい。

 つ、つまりどうすればよろしいので……。

 子蜘蛛君は、表情を引きつらせながら訊ねた。

 聞いてたでしょう。

 お釈迦様は屈託のない笑みを浮かべたまま言った。それはそれでまた怖い。

 お釈迦様は子蜘蛛をつまみ上げた。

 糸を出しなさい。

 い、糸を……。

 子蜘蛛はビビリながらも、糸を少し出した。

 うむ。

 お釈迦様は、出てきた糸をつまんで、子蜘蛛から手を離した。

 ぶらん。

 子蜘蛛は逆さまになってぶら下がった。

 お釈迦様は、手を上下に動かして糸を揺すると、ぶら下がっていた子蜘蛛は、若干の勢いで糸を少し出し、少し下に下がった。左右に振り子のように揺れる。

 うん、うん。

 お釈迦様は笑顔でその様子を眺めてうなずいた。

 い、いったい何するんやろ。

 子蜘蛛は内心どきどきしながら、目の前の男のする様子を見ていた。

 お釈迦様は、池の畔を子蜘蛛をぶら下げながら少し移動し、

 池の下の方をのぞいた。

 ここかな。

 お釈迦様は立ち止まると、大きく息を吸った。吸って吸って吸いまくった。

 結構筋肉質な鳩胸のお釈迦様の胸筋が前に張り出した。

 む……。

 お釈迦様は息を止めた。

 子蜘蛛の糸をつまんでいる手をすーっと高く挙げた。

 かっと目を見開いた。

 凄い形相で子蜘蛛に向かって叫んだ。

 落ちろぉぉぉぉぉぉっ!

 ひぃぃぃぃぃぃぃぃ…!

 子蜘蛛はびっくりして、お尻から糸をぶりぶりぶりぶりともらしてしまった。

 次の一瞬、お釈迦様は手をさっと振りおろした。

 ちゃぽん。

 子蜘蛛は池の中へと落ちた。

 いや、正確に言うと、水の中に落ちたのではなく、空間境界面のゆらぎを突破したのである。

 そう、池と見えたこれは、意匠こそ池だが、実は、天国と地獄という二つの空間をつないでいる境界面、水面はその「ゆらぎ」だったのである。この池の存在により、天国と地獄という両界は、「遠くにありて近きもの」という超物理学的関係になっているのである。お釈迦様はこの26次元上のブレーンを質量ゼロのグラビトンのエネルギー多次元間漏出の仕組みを応用し……と、とにかく、なんかすごいことができるのだ。

 糸のおもりとなった子蜘蛛君は、境界面を突破すると、地獄へ向かって真っ逆さまに落ちていった。周囲は一転、赤黒い世界に彩られていた。お尻からは糸をぶりぶりとお漏らし続けていた。それほどまでに、子蜘蛛君にとって、お釈迦様の形相は怖かったのである。



 鬼が仕事のために池の周りを巡回した始めたので、カンダタは一人になった。ときたま、ほかの罪人がうめき声を上げながら、血の池の水面から姿を現し、

 た、たすけてくれえ。

 などとうっとおしい叫び声をあげて、カンダタに蹴とばされた。

 カンダタは、池の畔にもたれかかり、血の池地獄の風景をぼんやりと眺めた。

 遠くで鬼たちが棒のような物で池を撹拌している。

 時たま罪人の哀れみを請う声が響いてくる。

 あーあ、つまんねえ事になっちまったぜ。

 自分のミスだったとはいえ、鬼に弱みを握られてしまうとは、カンダタも迂闊なことである。地獄に来てまで自分の要領の悪さを知ると、いささか落ち込んでしまう。

 それにしても、

 とカンダタは地獄世界を見回した。

 暗いところだなあ。

 周囲すべて赤黒く輝いている。

 一見すると、とてつもなく広い洞窟だ。

 周囲は血の池地獄湖畔で広く静かなところだが、少し離れたところには、なんだか巨大な竈がいくつもあり、それぞれに巨大な鍋が乗っかっていて、鬼どもが罪人を中に落っことしてかき混ぜている。しばらくすると、煮上がった罪人を引っ張り出し、近くの大きな皿の上に並べていた。食べるのかと思ってみていると、冷めてきた罪人たちは目を覚まし、今度は隣の鍋の中に放り込まれる。それが次々と終わることなく繰り返されている。

 終わりのない拷問、終わりのない苦行。

 生産性のない不毛なことをしているもんだ。

 カンダタはあきれて思った。

 鍋ごとにスパイスが異なり、熱いだけでなく、ひりひりしたり、臭かったりするのだと言うことは、カンダタは気づかなかった。

 反対方向を見ると、奇妙な木の枠がずらーっと並んでいて、罪人が縛り付けられて、赤く熱した火鋏で舌を挟まれて引っ張られていた。

 舌ってあんなに伸びるんだ。

 妙なことにカンダタは感心した。

 そういえば、子供が石を積んでは鬼に壊されている場面をここにくる途中見た。

 何も子供に土木作業なんかやらせなくてもよいのに。しかも途中で壊したりして、いじめじゃねえか。あれ。

 妙なところだよなあ。

 カンダタは向きを変え、池の畔に両肘を乗せた。

 遠くを見ると、何かきらきら光っている。

 目を凝らすと、どうもあれが有名な針山のようだ。

 針山って言うと、大きな針がびっしり生えていて罪人が串刺しになっているように思われるが、実は、針はもっと細くて小さい。しかも硬くて丈夫なもんだから、足の裏などにぶすぶす刺さる。しかし、串刺しってほどではないので、鬼たちが下から追い立てて、さらに山を登らせていくのだ。

 上まで登ったら降りてくるのかな。

 などとカンダタは思った。

 はあ。

 カンダタは向きを変え、また池の畔にもたれかかると、天井を見上げた。ずいぶんと高いところに天井の岩盤が見えている。

 と、すると、ここは地中にあるのだろうか。

 壮大なジオフロントと言うことになる。

 照明も特にないが、なぜか赤黒く照らされている。

 不思議なこともあるもんだ。

 カンダタはそう思って、天井を見ていると、ふと、真上に白い光がきらりと見えた。

 おや、あそこだけ光が違うぞ。

 目を凝らしてみると、天井が上に向かってくぼんでいるところの中心部に白い丸い穴のようなのが開いているように見える。

 あれは、穴が開いているのか。それで、太陽の光が漏れているのかも。

 するとあそこが地上で、やっぱりここは地下深くって事なのだろうか。

 あそこまで行けば、逃げられるかもな。

 そう思って、自分でばかばかしくなった。

 どうやってあそこまで上がるんだ?

 大体余計なことをして、鬼に見つかって、より悪い地獄へ転属になるのはまっぴらごめんである。

 ここは鬼の手下になっても、おとなしくしているのが賢明だ。

 カンダタも地獄に来て少し賢くなったようだ。

 そう思ったとき、天井の白い光が少しちらついた。

 うん?

 カンダタが再度目を凝らしたとき、

 ひゅゅゅぅぅうううん。

 どわっ。

 カンダタはのけぞった。

 上から蜘蛛が落ちてきたのだ。

 蜘蛛はカンダタの目の少し上で停止した。

 あーびっくりした。

 カンダタは少し上半身を起こして観察した。

 目の前に、糸にぶら下がって小さな蜘蛛がぶらぶら揺れている。

 蜘蛛?

 カンダタは子蜘蛛を見た。

 子蜘蛛はしばらくあえいでいたが、落ち着いてきたので、辺りを見回した。そして、カンダタと目が合う。

 ど、どーも。

 子蜘蛛は挨拶をした。

 カンダタは反応しない。

 うっわー、また目の前にめっちゃ怖そうなのがいるやん。

 内心そう思って子蜘蛛は嘆いた。

 カンダタは、蜘蛛から糸に目をやり、それを追ってずーっと上の方へと視線を送った。

 あの穴の様なところから落ちてきたのか?

 カンダタは首を傾げた。



 よしよし、カンダタめ、気づきおったな。よしよし。

 お釈迦様は釣りをしているような気分で、ほくそ笑んだ。

 さあ、カンダタよ、生涯最初で最後のチャンスである。

 チャンスの女神に後ろ髪はないのだぞ。いましかないのだ。

 登ってくるが良い。

 無事ここまで登ってきたら、天国に受け入れてやっても良いぞ。

 カンダタのような罪人を天国に招いたら、それこそ何をしでかすかわからない。カンダタ程度の罪人でもしたい放題。そういう意味ではカンダタにとって天国とはまさに天国のようなところであろう。

 だが、お釈迦様にも勝算あり。

 このような、のほほんとした環境で、何不自由なく過ごすことが可能ならば、カンダタも本来の良い人間に戻り、別の言い方をすれば何もする気が起こらなくなり、一介の天国住民へとなるだろう。

 何となれば、そうなるまでの間、ほかの天国の住人を避難させておけばよい。

 改善が見られなければ、池の中へどぼんと落とせば、それで地獄へ舞い戻る。

 さあカンダタよ、その糸をたどってくるのだ。

 前向きになるのだ。前頭葉を働かせよ。

 だが……。

 こんなところに降りてくるとはあきれた蜘蛛よ。

 と、それでカンダタの関心は薄れた。

 どだい当たり前の話だ。

 蜘蛛の糸を見て、よし、これを登ろう、などという人間は、酔狂以前に、脳のシナプスのつながり方に問題があるといわざるを得ない。

 その点では、悪行三昧を尽くしたカンダタもただの凡人だ。


 こらカンダタ、気づかぬか、ほれ、ほれほれ。

 お釈迦様は糸を上下に揺らした。

 カンダタの目の前で、子蜘蛛が上下に揺れる。

 あーん、なんだこの蜘蛛。

 カンダタはうっとおしそうに横を向く。


 む、カンダタめ、興味を示さぬか。

 お釈迦様は微妙に位置をずらして再度上下に揺らす。

 な、なんだあ。

 カンダタは、またも目の前に現れた子蜘蛛に顔をしかめた。

 今度は反対方向に顔を背けた。


 カンダタめ、逃げられると思ったら甘いぞよ。

 お釈迦様はしつこく糸を揺らす。釣りではないのだが。

 ええい、しつこいなあ、なんなんだこの蜘蛛は。

 カンダタは手で蜘蛛を払った。

 おごっ。

 子蜘蛛はカンダタにはたかれてうめいた。

 な、なにすんのや。

 と小声で抗議する。

 むっ?

 カンダタは、じろっと子蜘蛛の方を見た。

 い、いや、なんでもないです。

 子蜘蛛は目をそらして、小さくつぶやいた。

 だが、カンダタは不思議そうな顔をして子蜘蛛を見ている。

 うわ、まだこっち見てる、やばー。どないしよー。

 子蜘蛛は内心どきどきしながら、様子をうかがうと、カンダタの様子が変なことに気づいた。

 カンダタは、子蜘蛛を見てるのではなく、糸を見ているのだ。

 何だ、この糸。

 カンダタは、蜘蛛の糸を手で払った。

 んげ。

 子蜘蛛は糸に引っ張られてうめいた。

 糸は切れない。

 カンダタは両手の指で糸をつまんだ。

 ぴん、と左右に引っ張る。

 糸は切れない。

 指先に力を込め思いっきり引っ張る。

 全然切れない。

 カンダタは、糸の伸びてる天井の方を見上げた。

 糸はずーっと上の、なにやら白い光点のところから降りてきている。

 カンダタは、上空を見上げた後、糸をずーっとたどって手元まで視線を落とす。

 カンダタは、首を傾げた。それから、糸を手に巻き付け、下に向けてきゅっと引っ張った。

 糸はびんっと伸びて、動かなくなる。


 お、カンダタめ、やっと気づいたな。

 お釈迦様は糸を引っ張りかえしながら、にんまりと笑みを浮かべた。


 この糸、切れんぞ。

 何度か引っ張ってみるが、糸はまっすぐになるだけで、切れない。

 カンダタは、考えた。

 この糸、あんな上から降りてきてる。しかも、なにやら日の光のようなものがちらっと見えるところからだ。

 するとやっぱり、あそこに穴が開いていて、その上は地上なんじゃなかろうか。

 てことは、偶然、この蜘蛛が穴に落ちて、するするとここまでやってきた。

 すなわち、この糸は地上とつながってる?

 カンダタは再度上を見上げる。

 でも、何でこの糸、こんなに丈夫なんだ。

 カンダタは首を傾げた。

 だが、細かい理屈まで考えようとしなかった。

 だって、今いるところを考えてみればわかる。

 地獄だぜ、地獄。

 すでに非常識ってもんだろう。

 切られても煮られても死なないんだぜ、ここでは。

 地獄ってなあ、坊主どもが、悪さをしないように子供にしゃべって聞かせる脅かし話だとばっかりおもっていた。

 それがどうだ。

 悪さをしたら地獄行きとは。

 シャレになんねえ。

 カンダタは思った。

 糸を見下ろす。

 地獄ってなもんまであるんだ、糸が切れないくらい、大しておかしいことじゃねえよな。

 と、納得する。

 たしかにそうだ。

 そして、2・3回糸を引っ張ってみる。

 ついで、糸を両手に巻き、池の端に足をのせ、体重をかけて引っ張ってみた。


 んく。

 お釈迦様はうめいた。

 カンダタが体重をかけて糸を引っ張ったからだ。

 足を踏ん張って、糸を引っ張り返す。


 切れねえ。

 カンダタは感心した。

 すると、これを登っても、切れるこたあねえって訳か、おい。

 するとすると、これを登りきれれば、地上に出られるって事かよ。

 カンダタは、ドキドキしてきた。

 おいおい、まじか。

 と上空を見上げる。


 ああ、マジもマジだよ、カンダタくんっ。

 お釈迦様は揉み手をせんばかりにうなずいた。


 で、でもなあ。

 問題はまだある。

 大体、今切れなくて、最後まで切れないだろうか。

 それに、こんな細い糸を、あんなところまで登れるだろうか。

 途中で鬼どもに見つかって引きずりおろされはしないだろうか。

 カンダタは迷った。

 だが、地獄の境遇から脱するからには、少々の覚悟は必要だ。

 鬼の手下になったり、糞尿池に戦々恐々としたりしなくて済むのだ。

 ふ。

 カンダタは小さく息をもらした。

 糸をつまみ上げる。

 子蜘蛛が目の前にぶら下がってぷらぷら揺れる。

 な、なに。

 子蜘蛛はびびった。

 カンダタは笑みを浮かべた。凄い形相だ。

 なんかしらねえけどよ、蜘蛛、おまえのくれたチャンスにかけることにするぜ。

 は?

 子蜘蛛にはなんの事やらわからなかった。

 カンダタは、糸を手に巻き付けた。子蜘蛛は引っ張られて、ぐえっとうめいた。

 カンダタは、さらに上の方の糸を手に巻いた。

 そして辺りを見回す。

 鬼どもは巡回に出ていない。

 よし。

 ぐっぐっと、糸を引っ張り、

 ふんっ。

 カンダタは糸を登りだした。

 手に糸が食い込んで痛い上になにやらべとべとするが、かまってられない。ぐっと登ると足の裏で糸を挟み、手に巻き付いた糸をほどき、さらに高いところの糸をつかんで手に巻く。

 それを繰り返す。

 カンダタはぐんぐん登っていく。

 けほけほ。

 引っ張られてむせた子蜘蛛は、咳をした後、辺りを見回し、上を見上げた。

 さっきの男が、するすると登っていく。

 なんやなんや。あの男、わいの糸を登っていきよる。

 男が糸を巻き付けては引っ張りよせ、さらに巻き付け、どんどん登っていく。

 なにするんや、そんなに引っ張ったら切れるやないか、おい、またんかい。ちょっと、これはわいの糸やで。わいの糸で何する気や。巣を作るんなら自分の糸で、ちょ、ちょっとまってな。

 子蜘蛛もあわてて登りだした。


 む、来よった来よった。

 お釈迦様はつぶやいた。

 思い通りに展開して、笑みを浮かべてるかというと、口をへの字にしている。

 カンダタの体重がかかっているためだ。

 手が痛くなって来たので、糸を胴体に巻き付け、手で握りなおした。

 足を踏ん張る。

 ぐいっ、ひょい。ぐいっ、ひょい。

 カンダタは登っていく。

 するする。

 子蜘蛛も登っていく。

 さあ、ここまで来れるかな。チャンスは努力してつかむものだよ。

 お釈迦様は足を踏ん張り、池の中をのぞいてつぶやいた。

 おっと。

 バランスを崩しかける。

 あぶないあぶない。わしが落ちるところだ。

 お釈迦様はドキドキした。



 鬼は鼻歌を歌いながら、池の畔を歩いている。

 池と言っても血の池だ。

 ムードはない。

 普通の人なら。

 鬼にとっては、ムードばりばりの場所だったりする。静かで、風光明媚で。

 彼女欲しいなあ。

 鬼は思った。

 ここを美人の鬼娘と一緒に歩くのだ。もちろん彼女は、虎縞のビキニだろう。鬼娘と来たら虎縞のビキニは1980年代初頭からのセオリーだ。

 鬼は想像した。

 血の池地獄。

 もやが立ちこめた湖畔。釜ゆで地獄からの焚き火の煙だ。

 静かな中に、罪人のうめく声がどこからともなく聞こえてくる。地上で言うなら小鳥のさえずり、みたいなもんか。

 湖畔を歩く二人の鬼。

 ねえ見て、針の山が光って綺麗。

 ほんとだ。でも、君の方がもっと綺麗だよ。

 もう、ばか。

 そんなことを言いつつ、指でつんつん。

 なんてなあ、おい。

 一人照れる。

 た、助けてくれえ。

 すぐそばの血の池の中から罪人が顔を出した。

 鬼は、金棒で罪人を沈めた。

 やれやれ、想像しなけりゃやってられんよなあ。

 ため息を付く。

 さて、カンダタはおとなしくしてるかな。

 鬼は、カンダタのいた場所に戻ってきた。

 あれ?

 カンダタはいない。

 あいつどこに行った。

 辺りを見回す。

 どこにもいない。

 ははーん、俺が脅したんで逃げたな。

 無駄無駄。

 どこに行こうとも、地獄からは逃れられん。あちこち鬼が巡回しているし、血の池に潜っても苦しくなるだけだ。

 カンダタくーん。どこかなー。隠れても無駄だよー。

 鬼はそう言いながら、畔を歩いていく。

 少し進んだあと、立ち止まって、辺りを見回した。

 どこにもいない。

 妙だな。

 鬼は首を傾げた。

 そのとき、ちらっと、視野の隅、斜め上空に何か見えた。

 ……。

 鬼は正面に向き直った後、

 うん?

 あわてて再度斜め上空を見た。

 鬼は絶句した。

 カンダタが空中を登っている。

 平泳ぎのような動きで上昇しているのだ。

 な、なん……。

 鬼は呆然と見上げ、それから、カンダタの真下へ向けて走り出した。

 真下まで来る。

 上空を見上げると、カンダタがひょい、ひょいと空中を登っていくのが見える。

 うそ。

 鬼は夢でも見てるのかと思った。

 ぴと。

 うん?

 何か顔に当たる。

 なんだこりゃ。

 鬼は手に取って見た。

 糸……?

 糸おおおおお??

 鬼は驚いた。

 カンダタのやつ、この糸登ってんのかよ。

 何で切れないんだよ?

 よくわからなかった。

 カンダタのやつ、どこに向かって登ってるんだ。

 鬼は、糸の伸びていく方向を見た。何か白い光が見える。

 穴?

 って事は何か。カンダタのやつ、この糸を登って、あの穴から外に出ようってか。地獄から逃げ出そうってのかよ。

 鬼の頭の中に二文字が浮かんだ。

 脱獄……。

 本当の脱獄じゃねえかあああ。

 地獄開闢以来前代未聞空前絶後な出来事である。

 すぐに報せなきゃ。

 と、鬼は上司に報告しようとして、ぴたっと停止した。

 鬼は振り返り上空を見上げる。

 待てよ。

 この糸をたどれば、俺も外に出られるんじゃ……。

 それから周囲を見回した。

 地獄の風景が目に映る。他に鬼はいない。

 地獄か……。

 そりゃね。そりゃあ、地獄は鬼にとって別にイヤなところじゃないよ。ここが当たり前の世界だしね。

 でもさ。

 たまにはね、他の世界も見てみたいよな。こんな、日も差さず、いつも赤黒い世界でさ、何で赤黒いか知らないけどさ、毎日毎日、罪人を相手に……。

 毎日毎日……。

 ここのところ、体調がおかしいんだよなあ。疲れがたまってんだと思うけど。

 おまえ、最近顔が青いぞ。赤鬼だろ、おまえ。

 そう同僚に言われたこともある。

 そういや、青鬼って何で顔が青いんだよ。あれ、明らかに病気じゃねえか。もしかして、あいつらも元は赤鬼だったんじゃ。別の種族かと思ったが、ほんとは、赤鬼が日々の重労働に体をこわして青くなったんじゃ。

 んなわけねえか。

 鬼は笑おうとしてなぜか笑えない。

 そういや、ここんところずっと不安を抱えているんだよな。どこかおかしいところが出そうな気がして、定期検診を休んだのはついこの間のことである。

 鬼はぐっと拳を握る。

 それもこれも、毎日毎日同じ事の繰り返しだからじゃないか。ストレスだよストレス。そういや、この間見た番組で、毎日毎日同じ事ばっかりやってると脳の機能が低下して早くぼけるって言ってたな。趣味でも持って変化ある毎日を楽しく過ごしなさいって。

 だが、地獄では無理な話だ。

 地獄の鬼には就労環境の改善を求める労働三権も認められてないし。

 ストライキなどしたら、罪人がのんびりするじゃないか。

 それが地獄の公式見解なんだって上司が言ってた。昔、労働運動をしてパクられたことがあるとか言ってたな。

 鬼は、また周囲を見回す。

 頭の中で何かがぐるぐると動き出す。

 当たり前で、なじみのある風景。

 だが、本当は。

 地獄なんじゃねえか? ここは!

 鬼は何か新しいものを発見したような気がした。

 気の毒なことに、彼は自己没入状態に似た精神の一時的異常を起こし始めていた。固有名詞と代名詞がごちゃ混ぜになり、地獄を見て地獄を再発見するなんて、いいのか悪いのかわかりゃしない。

 そうだよ。

 ここは地獄だよ。所詮地獄なんだよ。

 俺はさ、こんなところで一生を送るような鬼じゃねえんだよ。

 世の中は変化を待ってるんだよ。

 地上じゃとっくにミレニアムなんだよ。新世紀なんだよ。

 わけのわからないことを思いつつ、鬼は、糸を手に取った。ぐっぐっと引っ張ってみる。

 行くか!

 最近体の調子が悪いって言ったって、元々体力に自信はある。カンダタごときに出来ることが俺に出来ないはずはない。

 鬼はぐっと力を込めると、糸を登りだした。


 おーい。

 声がした。

 おまえ、そこで何やってんだ。

 登りだしたばかりの赤鬼はどきっとした。

 いきなりかよ。

 声のした方をちらっと見ると、同僚ふたりが近づいてくる。

 やべっ。

 赤鬼はもはや細かいことは考えなかった。逃げるんだ。捕まるぞ。捕まったら営倉行きだ。左遷だ。地獄7界の最下層へとばされて、悲惨な一生だ。

 うおおお。

 鬼は必死になって登りだした。

 な、なんだあ。

 鬼の同僚二人は、赤鬼が空中を登りだしたのを見て驚愕した。

 く、空中を登ってる?

 駆け寄った二人は、赤鬼が糸のようなものを登っているのがわかった。

 あ、あのやろう。

 二人はカッと血が上った。元々血の気の多い連中だ。といっても気が荒いという意味ではなく、量が多いのだ。赤血球が多いのだ。多すぎて皮膚を通して赤ら顔になってる。赤血球が多いと酸素もたくさん脳に行って頭良くなりそうだが、活性酸素もたくさん行っちゃったりするので、プラマイゼロなのだ。ちなみに青鬼は、健康を害しているのではない。血中成分が鉄イオンではなく銅イオンなので血が青いのである。それが透けているだけで、つまり赤鬼とは別の種族なのだ。

 こら、まちやがれ。

 二人も登りだした。

 待て、降りてこい。

 そんなことを叫びながら二人の鬼も登っていく。言い訳を口にしながら悪いことをやっているようなもんだ。

 すぐにその騒ぎは、血の池地獄で苦しんでいた罪人たちの知るところとなった。

 罪人たちはしばらくその様子を眺めていた。その瞬間、苦しみは感じられなかった。苦痛より驚愕の方が上回っていたのだ。

 それから、罪人たちは、三々五々糸の周りに集まってきた。そして、カンダタや赤鬼たちが考えたのと似たような思考展開をめぐらして、上を見上げ、顔を見合わせ、我先に糸に飛びついた。


 ぐええええええ。

 お釈迦様はお腹を締め付けられてうめいた。

 カンダタだけならいざ知らず、まさか、鬼たちや罪人らまで登ってくるとは思っていなかった。子蜘蛛のジェームス君まで登ってきてるではないか。彼らの体重が糸を引っ張り、糸をお腹に巻き付けて引っ張っていたお釈迦様のお腹を締め付ける。

 まずい。

 お釈迦様はその明晰な頭脳で思った。

 まあ、普通の頭脳でも思っただろうが。

 ど、どうするか。

 そうだ。

 お釈迦様はすぐにひらめいた。さすがである。

 近くの木に糸を巻き付けよう。

 そして、カンダタが登り切ったところで糸をちょんぎれば、子蜘蛛君以下のみなさんは地獄へと戻っていく。一石数鳥の計ではないか。

 お釈迦様は力を込めて糸を引っ張り、そばの木に近づこうとした。


 うん?

 糸が上昇してねえか。

 カンダタは登りながら思った。

 気のせいか?

 結構、重労働だ。頭に血が行かない。気のせいかもしれない。

 カンダタは、一息つこうと思った。

 停止したカンダタは、糸が上に動いていることに気づいた。

 やっぱり動いている。

 だが、すぐにそれ以上のことが彼の耳に到達した。

 下から叫び声や怒鳴り声が聞こえたのだ。

 やべ、見つかったか。

 カンダタは下を見た。

 ぎょっとなった。

 下の方を、ぞろぞろと鬼や罪人が登ってきているではないか。

 うそっ。

 カンダタは真っ青になった。


 子蜘蛛は上を行くカンダタが停止して自分の方を見ているのに気づいた。彼はカンダタに追いついていなかった。彼の方が登りはうまいが、体の大きいカンダタの方が移動速度が速いのだ。もっとも、追いついたとて、怖くて追い越せないだろう。

 な、なんや。

 カンダタは、じっとこっちを見ている。子蜘蛛は停止した。

 こ、これはわいの糸やで、登ってもええやんか。おまえの方がいかんのやで。

 と小声で言った。

 カンダタはまだ見ている。

 うわ、怒ってるんやろか。やばー。めっちゃこわそうやん。しゃ、しゃーない。

 え、ええわ、おまえが登ってることは許したる。

 子蜘蛛は目をそらして小さく言った。

 そ、その代わり、これで巣を作るときは、ひとこと言ってや。わいの糸やねんから。

 子蜘蛛はそうつぶやいて、カンダタの方を見た。

 カンダタは上を向いて登っていた。

 き、聞いてへん。

 子蜘蛛はむっとした。


 カンダタは、急いで登りだした。

 無言だった。

 本当だったらここで、

 カンダタが後から登ってくる連中に降りろと言い、その自分勝手な器量の狭さで、糸が切れてしまうはずだった。

 そんな事してる場合かよ。

 叫んでる暇があったら、一刻も早く登らないと。

 いつ切れるかわからないじゃないか。

 叫んだって降りるような連中じゃねえし。

 大体、叫ぶ時に力を入れすぎて糸が切れたらどうする。

 カンダタは必死になった。

 だから、当然、糸も切れない。

 もともとカンダタが叫んだくらいで切れるほど糸の器量も狭くはない。いや、お釈迦様の器量も狭くはない。それに、今のお釈迦様はそれどころではなかった。


 お釈迦様があと3歩で木にたどり着く、という段になって、糸のもっとも下にある地獄の血の池の畔では一大事になっていた。

 地獄から脱出できる唯一のルートが発見されたことが、瞬く間に拡がり、あちこちの地獄から鬼だの罪人だのが集まってきたのである。その騒ぎはとどまるところを知らない。糸は鬼と罪人で鈴なりで押し合いへし合いでなにやら寄生生物がとりついた化け物のような光景になっていた。

 こらこらー。おまえら何をしてるかーっ。

 笛の響く音ともに何かがやってきた。

 やべっ、サツだ。

 罪人たちがわーっと散る。

 やってきたのは地獄の騎馬警官隊。

 一角馬ユニコーンでも八脚馬スレイプニールでもない地獄の黒馬にまたがり、鬼の警官隊が現れ、金棒を振り回す。

 その後ろから巨獣ベヒモスの上で片膝立てて座ったまま、ハエの王ベルゼビュートがやってきた。

 これはこれは、ベルゼブブ様。

 騎馬警官隊を率いてきた鬼警部が頭を下げて言った。

 ハエの王は、ごん、と鬼警部の頭を槍の柄で叩いた。

 いてっ。

 わが名はベルゼビュートだ。ベルゼブブなどではない。

 同じじゃないですか。国によって発音が違うだけでしょう。フランス語かなにかじゃなかったですか。

 知らぬ。だが、ベルゼビュートの方が、なんか洋風っぽくて格好いいではないか。ベルゼブブなどと、ハエがぶんぶん飛んでる音のようで品がない。

 でも陛下はハエの王ですから。

 ごん。

 いてっ。

 それより、なんだこの騒ぎは。

 はっ、ただいま調べさせておりますれば直に。

 鬼警部は、頭をなでさすりながら、そう答える。職務に忠実なのだ。

 警部、わかりましたー。

 部下が駆け寄る。

 あれに、天より糸が降りておりまして、罪人や一部の鬼どもが、その糸を伝って脱獄を図ろうとしているものと思われます。

 脱獄だとーっ。

 鬼警部が叫んだ。

 ごん。

 うるさかったのか、ベルゼビュートは鬼警部を叩くと、

 松風、どうどう。

 とベヒモスの名を呼びながら操り、それからひらりと降りた。そして糸の下まで歩いてきた。

 すらりと筋肉質の堂々たる体格で、首から下は少年漫画雑誌に掲載されるような格好の良い青年武将のように見えるベルゼビュートは、ハエの頭を上に向けて糸を見上げる。

 これで脱獄とはな。地獄も軽く見られたものよ。

 そうつぶやき、

 だれが手引きしているのか、調べよ。

 そう鬼警部に言い、

 糸を手に取った。

 手にぐるぐると巻き付ける。

 ぐぐっと、腕を曲げ、

 上空を見上げた。まだかなりの鬼や罪人がぶら下がっている。

 ふんっ。

 と、糸を引っ張った。



 ぐえっ。

 お釈迦様はうめいた。

 後少しで木の枝を掴めると言うところで、お釈迦様の体はものすごい勢いで引っ張られた。

 お釈迦様も天国じゃ1、2を争う堂々たる体格と腕の持ち主だった。かの猿王孫悟空ですら全然かなわなかったと中国の古い奇書に記されている。日本の書物に出てくる方の孫悟空ならお釈迦様に勝てるかもしれないが、あれは地球人や猿じゃなくサイヤ人だ。

 そのお釈迦様ではあったが、多数の罪人と鬼をぶら下げた上に、糸を引っ張られたらたまらない。その上、運が悪かった。

 ちょうど彼の足下は、芝生だった。

 それも、日本のバブル期に作られたゴルフ場に生えているような安っぽいやつではない。

 本場ヨーロッパはイングランドの、プレミアリーグのサッカー選手に踏まれて昇天してきた芝生だ。天国という環境もあって、丈夫に根付き、根性ある草となっていた。

 当然、お釈迦様は草の上に足を載せている。

 つまり、摩擦係数は土の上より低かった。

 ずるっ。

 お釈迦様は滑った。

 お釈迦様はお腹から地面にひっくり返った。

 ぐふ。

 息をもらす。

 ずるずる。

 糸に引っ張られて、お釈迦様は芝生を掴んだ。芝生はしっかりと根付いていた。根付いていたから、当然、お釈迦様の体は停止した。

 ふう。

 お釈迦様は息を吐いた。



 む。

 ベルゼビュートは、びんっと伸びた糸を見た。何かに引っかかったように動かなくなった。

 ふっ。

 ベルゼビュートはアルカイックスマイルを漏らし、再度引っ張った。



 芝生は根性があったので、引っこ抜けなかった。だが、葉っぱは滑りやすかった。先細りなのが余計に悪かった。お釈迦様の手は、実にあっけなく抜けた。



 カンダタは、後少しってところで、上に進めなくなっていた。

 糸が激しく揺れだしたからだ。

 やばい。

 カンダタは上を見た。

 広く円形状にゆらゆらと白い光が揺れている。あれが出口なのは言うまでもないことだ。

 後一歩だ。もう少しだ。

 だが、疲労がたまっている上に、揺れてうまく登れなくなっていた。

 ええい、後少しじゃないか。もう一踏ん張りだ。カンダタのこれまでの中途半端な人生にしてはよくやったではないか。初めての成功は目の前だ。さあ、自らの手で栄光をつかむときだ。

 そのとき……、

 ゆるん。

 は?

 糸がゆるんだ。

 ゆるんだ?

 糸が切れることは想定していたカンダタだったが、ゆるむことは想定していなかった。



 お釈迦様は、叫んだ。

 しまったあああ。

 ずるずる芝生の上を滑り、見る見る池が近づいてきた。

 このままじゃ地獄に落ちてしまう。

 いや、落ちるのは問題ない。

 単に落下するだけだ。お釈迦様だから、また天国に戻ってこられる。だが、

 お釈迦様の頭によぎったのは、閻魔だとか地獄に暮らす王たちの顔だった。

 いい笑いもんだーっ。

 どっぽーん。

 お釈迦様の姿は池の形をした空間境界面の向こうに消えた。



 糸の張りがなくなると、ふにゃ、と糸がゆがんだ。

 カンダタは、その瞬間、すべてが終わったことを悟った。だが、それを心は理解できずにいた。理解したくなかったのだろう。なぜだ、ここまで努力したのに。なぜ努力とは無関係のところで結果を用意されなければならないのだ。この世には神も仏もいないのか。

 神や仏は、地獄とは関係ないのだけども。

 お釈迦様が余計なことをしたからなのだ。

 悪気はないのだが。

 それは、地獄の権威から見れば、越権行為だった。

 カンダタはそのとばっちりを受けただけである。

 カンダタの体が落下し始めた時、彼にとっての不幸の原因が上空の白いゆらめく光の中から出現した。

 お釈迦様の巨体だった。

 カンダタは落ちながら、そいつが原因だと思った。

 いつも、真実を知ったとき、すべては手遅れなのであった。

 思えば気の毒な話であった。



 鬼や罪人らが発するいくつもの絶叫と奇叫、そして、なんでぇぇ?、という子蜘蛛のかわいい声が重なりながら落下していき、不思議な多重奏が血の池地獄一帯に響いた。

 ベルゼビュートは、糸をぐん、と手を動かして引っ張った。

 糸はぶーんとうねって、糸にしがみついたままの罪人や鬼たちは、血の池地獄の方へ飛んでいった。

 どぼん、どぼどぼん。ちゃぽん。どぼん。

 次々と着水していく。

 ベルゼビュートはその光景を無表情に見た。

 最後に、ガタイのでかい、高貴な光を放つ男が血の池に着水した。

 それを見て、ベルゼビュートは、その突き出た口にゆがんだ笑みを浮かべた。

 松風。

 呼ばれて、ベヒモスがそばによる。

 ベルゼビュートは、ベヒモスの上に乗っかると、

 閻魔に報せておけ。珍客だとな。

 そう鬼警部に言って、その場を後にした。



 とにかく、こういうことは二度とやらないでいただきたい。

 閻魔は、帳面をめくり、

 次の死人、と言って、それから正面右に控えている男に向かって、そう苦情を述べた。

 はい、まことに面目もなく、ただ今回の場合……、

 閻魔はその言葉におっかぶせるように、

 あなたの考えはわかりますがね、規則はきちんと守ってもらわなければならんのですよ。複雑な社会を維持するために、ルールはあるわけでしょう。

 はい、全くその通りで……、

 天国にもルールがあるように、地獄には地獄の沙汰というものがある。それを飛び越えての行為が許されては、そもそもの存在価値が疑われることにもなる。両界の行政と司法に対する不信は、あってはならんことなのですよ。

 はい。

 わかりますな、お釈迦様。

 はい。

 お釈迦様は神妙にうなずいた。頭の螺髪が濡れてほどけて、ややロン毛になっていた。ちょっとウェーブがかかって、ワンレングスとソバージュの中間みたいになっている。

 閻魔は、目の前に座った死人の調書にざっと目を通すと、地獄行きの判決を言い渡し、書類に判を押して傍らの鬼に渡す。

 罪人となった死人が引っ立てられていった。

 閻魔はコンピュータのキーボードのENTERキーを押し、筆記道具と入力端末を兼ねたペンのおしりでおでこの横をコリコリと掻いた。

 ひじをついてあごを乗せ、神妙に控えているお釈迦様の方を見る。

 私はあの世の司法を預かる身だ。

 閻魔は言った。

 もう何千年もこの職にある。

 はい……。

 その間、何兆という数の罪人を裁いてきた。それゆえ私はこの職に誇りを持っている。

 は……。

 閻魔はお釈迦様を見ると、厳しさと優しさを併せた不思議な表情を浮かべた。

 判決に不服があるときは、控訴院に書類を提出し、再審査請求をしてください。いいですね。

 はい。

 カンダタという男、ジェームスという名の蜘蛛、その両人に対しては、再度判決を出します。あなたの意見にも目を通しておきます。ただし、これは今回の事件のこともありますので、あなたの思うような結論になるかどうかはわかりませんよ。それでいいですな。

 はい。

 閻魔はため息を付いた。

 だれかある。

 はい。

 美人の鬼が現れた。ビキニではなく、虎縞模様のスーツだ。

 お釈迦様を天国にお送りする。ヤコブのハシゴを降ろすよう天界へ連絡したまえ。

 はい。

 それから、お釈迦様をラダー・ステーションまでお見送りして。

 はい、わかりました。では、お釈迦様。

 美女鬼はスマホを取り出しながら、お釈迦様に礼儀の範囲の笑顔を見せた。

 お釈迦様はうなずき、

 閻魔殿、今回はまことに失礼した。いずれ埋め合わせさせていただく。地獄の王たちにもよしなに。

 うむ。お釈迦様もご壮健にな。わしは仕事が忙しいのでここで見送らせていただく。

 はい、では。

 お釈迦様が美人の鬼に案内されて部屋を出ると、閻魔は、何事もなかったように、

 次の死人、

 と言った。



 カンダタは、結局、天国にはいけなかった。閻魔の判決は公平だった。蜘蛛を助けたのは賞されるべきだが、それですべての罪を償うわけには行かないのだ。それに脱獄を図ろうとした動機については十分問題があるということになる。ただ、事件が事件だけに、彼をより重く罰するべきかどうか疑問もあった。

 それで当面、猶予処分として、血の池地獄ということになった。

 だが、血の池地獄が効かないことは、彼を買収しようとした赤鬼(彼は降格処分となった)の証言で明らかだったので、いつ、新設の糞尿池へとばされるか、カンダタは戦々恐々として落ち着かない日々をおくっていた。

 ただ、糞尿池赴任を嫌がる鬼たちの動きもあって、具体的な日時は決まっていない。決まった場合、カンダタと彼を買収しようとした赤鬼の二人だけが糞尿池と言うことになるだろうというのが、専門家の話である。



 そして、



 東山室郡神下村大字谷の上の森に生えているクヌギの木の枝には、不細工なやや小振りの蜘蛛の巣があった。

 子蜘蛛のジェームス君は、今回の事件でプラマイゼロと判定された。彼の食べたハエはなぜか熊に転生した。理由は不明だ。

 そういうわけで、ジェームス君は、元態転生処分となり、前と同じ種類の蜘蛛として復活した。今度は、黄金蜘蛛の女ボスとなったマリコに食われることもなく、のんびりと暮らしている。

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糸の蜘蛛さん 青浦 英 @aoura

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