第7話

 一度普及を始めた農業機械の動きはとどまることがなく、激しい勢いで日本全国を席巻していった。年を追うごとに新しい機械が発売されるなど機械化は洗練され、牛馬が農家の大事な相棒であった時代は遠くなっていく。

 馬耕全盛期と戦争が同時にあった昭和が終わったと同時に、福岡で農機具販売店を立ち上げた丈作の訃報が届いた。平成元年(一九八九年)のことである。佐渡と福岡のことで、お互いに歳を重ねてからは会うこともできなくなっていたが、死別の直前まで電話や手紙の遣り取りは続けていた。享年八九であるから大往生なのだが、順蔵の時と同じであともう少しという思いを禁じ得なかった。

 権治も米寿を過ぎた八九歳になっていた。その身に福岡は遠すぎて葬式に出ることはできなかった。遠い佐渡から冥福を祈ったが、あの明るい表情をもはや見ることができないと思うと改めて悲しくなった。

 手紙が届いた日の夜、権治は顕彰碑の前で頭を垂れた。碑文は自分自身が夢中で駆け抜けた時代に残したものが凝縮された形で記されている。決して一人で完結した技術でなく、次世代にも受け継がれたものがあることを伝えている。しかしこの碑文は後藤丈作のことに触れていない。犂の職人としての視点は、百姓として生まれた自分には持ち得なかったものだし、彼のひょうきんさに触れて心持ちが軽くなった日もあった。

 碑文にある功績の裏には、順蔵、丈作、福岡へ招いた勝永、指導に当たってくれた長末吉、多くの人の存在がある。権治は既に鬼籍に入ってしまった彼らのために、一人頭を垂れ、見かねた章が声をかけるまでそうしていた。

 その悲しみにも折り合いをつけ、新穂村の自宅で過ごしていた権治は九五歳の頃に体調を崩してしまう。一度は病院にかかったものの、権治は強い意志で入院を拒んだ。息子夫婦はその意志を尊重して権治は自宅療養に入る。それを支えたのは章の妻であるタミであった。その献身的な看病もあって、権治はそれから三年間自宅で過ごし続けた。

 そして平成一〇年(一九九八年)、石塚権治は新穂村瓜生屋の自宅で九八年の生涯を終える。機械化以前の、佐渡の農業に大きく貢献した巨星の、長く豊穣な人生が、家族の傍で静かに閉じたのであった。


 権治が各地を歩く過程で手に入れた多くの犂はしばらく石塚家の納屋に保管されていたが、彼の死後、新穂歴史民俗資料館に寄贈された。縄文時代に始まる新穂の歴史を扱う資料館の二階部分には、往時の農村の様子を伝える多くの家財道具が展示されており、デロ履き籠や田植定規といった農具も揃っている。

 その片隅に、三台の犂がある。そのうちの一つの寄贈者名は石塚権治となっている。順蔵の犂が佐渡博物館に展示されたように、権治の犂も地元の資料館で往時を偲ばせる手がかりとなっている。

 その裏手にある佐渡市新穂行政サービスセンターの二階には新穂図書館がある。学校の図書室のようにこぢんまりとした部屋の奥には郷土資料を集めた本棚があり、佐渡の歴史や文化を扱う本が集められている。

 そこに『新穂村史』という本がある。平成二六年(二〇一四年)に編纂が終わった新穂村の歴史を伝える本は、農業の分野において、権治ただ一人のために、生涯と功績を伝えるのに数ページを割いている。文化芸能の分野で注目された人物は何人かいるものの、農業分野で注目された個人は石塚権治一人である。村史の編纂が終わった時点で、馬耕が終了して半世紀近く経っていたが、新穂は現在でも広い田畑が残る土地である。その礎となった男は、新穂の歴史から外せない存在であった。

 本棚には佐渡に残る石碑を紹介する本もある。その中には昭和二八年に建てられた顕彰碑も載っている。その堂々たる大きさの数字、そして功績を伝える碑文は紙の上にあっても強い存在感を放っていた。

 その顕彰碑は、六〇年以上が経った現在でも同じ場所に立ち続けている。建てられて数年後には耕耘機が導入され、機械化の波が馬耕を押し流した。

 機械化は省力化と能率化を達成し、労力を多く使わずとも収穫を成し遂げられるようになった。

 田植機の導入によって早乙女は姿を消し、二一世紀の現在では観光客向けの行事として外海府で行われるのみとなった。

 品種改良、防虫、除草剤の研究が進んだことで、害虫駆除や除草の重労働から農民たちは解放された。

 火力乾燥機の出現により、稲を乾燥させるために立てられた稲架は必要とされなくなった。

 昭和四〇年代に出現したバインダーが、稲刈りの重労働を解消した。

 稲こきもコンバインによって稲刈りと一続きの一工程となって、大幅な時間短縮が実現された。

 ストーブをはじめとする暖房器具の進歩が、冬の山仕事を行う理由をなくした。

 佐渡は二〇〇四年に島内の自治体が合併して佐渡市となり、新穂村という自治体と地名は地図や標識から消滅した。

 権治が、順蔵が犂の向こうに見た未来の農業は、コンバインなどの農業機械を手がかりに見る時代となった。

 佐渡の、新穂の大地で繰り広げられた変化の中にあって、顕彰碑は変わらずに石塚権治という一人の馬耕教師の功績を伝え続けている。やがて屋敷の周りに生い茂っていた針葉樹林は刈り取られ、周りには背の低い花と庭木しかなくなった。顕彰碑自体は庭に入らなければ見えないが、家の入り口には顕彰碑の存在を示す標が立てられ、この家にはかつて誰がいたのか、地元の人に、旅人たちに伝えている。

 田植えの時期に聞こえるのは早乙女たちの華やかな声ではなく田植機の唸りとなった。佐渡における農業の変化を聞きながら、顕彰碑はその堂々たる立ち姿と石塚権治の功績を示し続けている。

 かつて新穂でなんかんと犂が担っていた役目は機械が受け継いだ。その機械は今日も農民と共に田を豊穣に保っている。

 静かな田は、あるいは権治の、馬耕教師の理想の風景であるのかもしれない。一日の終わりに佐渡おけさを歌いながら帰る農民も、馬や牛を飼い続ける農家も少なくなった。それでも石塚権治の功績は語り継がれる。

 石塚権治が歩いた道、なんかんと共に耕した田畑、その記憶。新穂はそれらがそこかしこに残る広い大地である。

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