第6話

 馬耕教師の時代が終わっても権治の仕事は続いた。馬耕と同時に権治は佐渡牛の改良にも携わり、和牛改良組合の理事、そして組合長にも推されるほどの信頼を集めた。農産だけではなく畜産にも力を注いだことは、碑文の中でも伝えられている。

 その権治も七〇歳になる頃には仲間の訃報に触れる機会が多くなっていく。順蔵が体調を崩したという話を聞いたのは昭和四五年(一九七〇年)のことである。馬耕教師として過ごしていれば佐渡を離れていた時期のことだが、既に雪の中で犂を担いで歩く体力はなく、冬の佐渡に身を置く暮らしを続けていた。

 見舞いのために、権治は泉の北見家を訪ねた。前日から降り続いた雪はやんでいたが、あぜ道に降り積もった雪は深い。若い頃歩いた冬の新潟ほどではなかったが、家族の勧めもあってかんじきを着けて道を歩いた。フロックコートを着ていったが、これが蓑であれば山仕事を彷彿とさせただろう。

 自宅療養をしていると思っていたが、来意を告げると高校生になった順蔵の孫娘が応対し、金井町の病院に入院したと言われた。知らせを受けたのが三日前のことである。余程急激に容態が悪くなったのだろう。にわかに心配になり、礼を告げて病院へ向かおうとした。

 その背を孫娘が呼び止めた。澄んだ声は、どこか切実な思いを載せて聞こえた。

「もし話をする時間があるなら、犂のことを話してやってください。おじいちゃん、犂のことを話すのなら喜ぶかもしれないから」

 顧みた時、孫娘の眼差しは思いを託すような痛切さを帯びていた。その目と声音で犂のことを話してくれと頼んでくる。権治は今更ながら、順蔵がどれほど馬耕と犂に懸けてきたのかを思い出した。なんかんを卓越した技術で御し、新穂に技術を広めたのはひとえに情熱のなせる技ではなかったか。

 権治は孫娘に礼を言い、雪道へ踏み出していった。バスで金井町の病院へ向かい、病室の順蔵を訪ねる。ベッドに寝かされていた順蔵は、権治があいさつしても唸り声のような返事しかできなかった。それでも首を向け、生命力を感じる瞳で見つめ返す。権治は椅子に腰を下ろし、その視線を受け止めた。

「お孫さんから聞きました。きれいに育ったものですね」

 順蔵は確かに微笑んだ。かつてのように垢抜けた語り口は聞けないが、やせ細った顔に浮かべたその表情の柔らかさは、確かに順蔵のものであった。

「三日前に体調を崩されたと聞きました。その時はまさか、こんなに悪くなっているとは思いもしませんでしたが」

 順蔵の頷きに、諦めのような気持ちが宿って見えた。相当弱っていることが傍目にもわかるが、どうやら実感を伴うほどであるらしい。間もなく八〇歳になることを思えば不思議のない姿だが、あともう少しという気持ちは捨てきれず、何か貢献してほしいと思う。初めて新穂に馬耕を持ち込んだ順蔵の言葉なら、聞き書きする価値があるほど貴重なはずだった。

 順蔵が奇跡的な快復力を見せることを願ってみたが、自然の摂理をねじ曲げているようでぞっとしない想像にしかならない。権治は息をついて脳裏に巣くう像を追い払い、外は寒いですよと言った。

「雪はやみましたが、降り積もった雪は深い。新潟に比べたらまだましですが、それでもかんじきを履いていくよう家族に言われました。歳を取ったものです。孫にかつては牛や馬を従えて犂を担いで歩き回ったのだと言っても信じてもらえません」

 苦笑しながら言うと、順蔵も笑い返した。湿りのない表情で、機械化の波に飲み込まれた馬耕に、もはや未練を持っていないのがわかった。

「孫はかつて、この佐渡の田畑に牛や馬がトラクターの代わりをしていたと話しても信じられない様子です。無理もない、生まれた頃には既に馬耕はほとんど見られなくなって、物心ついた時田畑で聞いたのは機械の唸りでしたから」

 トラクターに留まらず、最近は稲刈りにバインダーが導入され、いっそうの省力化が進んだ。そのおかげで早乙女も見られなくなった。

 省力化が進めば、それだけ農家の負担は減る。消えても良い昔もある。かつて馬耕教師であった権治は常々そう言っていたが、五月に華やいだ声が聞かれなくなるのは寂しい。往時を知る世代の農民としては、それが正直な思いであった。

「ごん、じ」

 ふとかすれ声が聞こえた。権治は驚いて顔を上げる。順蔵の口がわずかに動き、少しずつ言葉を紡いでいた。

「うまは、うしは、あのとき、げんかい、だった」

 それは自分自身、新穂に初めて耕耘機が導入された時に感じた気持ちであった。自分の広めたことが機械に取って代わられることへの寂しさを感じながら、馬耕が時代にそぐわなくなっていたこと、限界を迎えていたことを受け入れていた。ただ、その本心を誰かに聞かせる機会を逸しつづけ、気づけば七〇歳を、古稀を迎えてしまった。

「俺は職人ではなく農民でしたから、丈作ほど簡単に兜を脱ぐことはできませんでした。悔しかったのです。苦労して修め、広めていったことが人々に必要とされなくなっていって、忘れられていく。勝負事ではないはずですが、機械になんかんが負けたような気分でした。それでも何とか折り合いをつけて生きてきたと思います。寂しさは感じます。だけど懐古趣味に落ち込むつもりはありません。昔は昔、今は今と思います。土を耕すことどころか稲刈りにまで機械が導入された今、俺たちのできることは歴史の研究者にでも情報を提供することだけでしょう」

 若い頃は自分がこんなに枯れた考えにとらわれるとは思いもしなかった。ずっと田畑にいて働き続けると思っていた。牛や馬以外の動力源を考えられなかったのもあるが、馬耕に人生を懸けていた頃の想像を、現代は超えている。

「そうそう、少し前に、うちに研究者が来たんです。まだ二〇歳そこそこの、若い人でした。納屋に置いてあった犂の写真を撮ったり大きさを測ったりしていました。実地で使われることはなくなっても、そうやって若い人の興味を引くことはあるものですから報われます。順蔵さんのところにも来るかもしれません。順蔵さんは俺の前にいた犂の功労者ですから」

 使われなくなった犂は二階建ての納屋に保管してあるが、置く場所が足りないために梁に掛けてある。それを写真撮影と実測にはそれらを一台一台滑車で降ろさなくてはならず、まさに老骨に鞭を打つ作業であったのは事実だが、それよりも自分の仕事を語り伝える道具に若い世代が興味を持ってくれるのが嬉しく、よく訪ねてきてくれたと感謝した。

 福岡の出身だという彼は、まだ新穂にいて調べ物をしているという。その過程で順蔵に突き当たるのは間違いないだろう。

 権治と順蔵は、更にいくつかの言葉を交わした。病人相手だけに多くは話せなかったが、自分たちが撒いた種が機械化という形の花に変わったことを祝福していることだけは確認し合うことができた。当時想像した形とは大きく違うが、農業の発展につながるのなら潔く認めたい。そして、馬耕の時代の終わりに顕彰碑まで建ててくれた地元には、感謝しきれなかった。

「ごんじ」

 看護婦にそれとなく面会の終わりを告げられ、権治は席を立った。病室を出て行こうとする時呼び止めた順蔵は、ろくに動かせない頬の筋肉で、精一杯の笑みを浮かべていた。

「ありがとう」

 その言葉はそっくり返したい。そして、本当なら顕彰碑はあなたにこそ相応しかった。あなたが新穂に戻ってきてくれなければ、今の自分はなかったのだから。

 そんな言葉から始まって、いくつもの感謝の言葉が浮かんでは消えていく。言葉をまとめきれなかった権治は、思いあまって順蔵に相対して、深く頭を下げた。

 順蔵は笑みを保っていた。その顔を脳裏に焼き付けて順蔵は病室を後にした。

 きっとこれが今生の別れになる。そういう予感があった。

 北見順蔵はそれから間もなく亡くなった。遺品の中には佐渡の農家が所有していた牛の血統を記録した、厚さ三〇センチにもなる原稿があった。権治は後にその細かい記録を見た時、つくづく讃えるべき人だと思った。

 順蔵は更に、一〇台ほどの犂を保存していた。それらは順蔵の死後佐渡博物館に寄贈され、佐渡での馬耕の歴史を伝えている。

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