第5話

 佐渡に戻った権治は、翌年の大正一一年年(一九二二年)四月、新穂村農会より牛馬耕指導員を嘱託された。福岡を離れる際、長末吉より牛馬耕教師適任証を授与され、福岡まで導いた勝永増男からは年末に犂耕教師適任証を渡された権治は、資格を得てから五ヶ月後、ようやく地元から仕事を任されるようになった。

 この時点では新穂村、佐渡郡から牛馬耕の指導を委託されたに過ぎなかったため、権治が佐渡を出て本州で馬耕教師を名乗るようになるのは翌年を待たなければならない。 

 大正一二年(一九二三年)、権治は新潟県犂耕教師を嘱託され、活動の範囲を本州にまで広げた。新潟県下の馬耕教師は権治を含めて五人しかおらず、農家の営む会社が馬耕教師を抱えている福岡とは大きな違いであったが、若い世代の犂への関心は高く、その普及の速さには驚かされた。二年目には新潟県から実地で馬耕教師の候補生を指導するように言われ、学校を出たばかりの若い男を弟子のように連れて歩くこともあった。

 順蔵から受けた指導は、この時役に立った。初めて順蔵がなんかんを手なずけた時に見せた、細紐を使ったやり方は、とりわけ村の気風を相手にする時に役立った。順蔵が言った通り、扱いにくい馬をあてがわれるのがほとんどで、人間に噛み付いてくる馬ばかりであった。

「こういう馬しかおりませんで。教師ならこれぐらい、扱えて当然でしょうな。特に石塚さんは、なんかんで有名な佐渡の出でいらっしゃる。是非とも見せてください、佐渡仕込みの扱いというものを」

 下越北部の村で指導することになった時、馬を準備した農家の男は慇懃だったが、品定めするようなふてぶてしさが見え隠れしていた。

「先生、どうしたら」

 上越出身の若い男が、馬を手に負えず泣きついてきた。人間を怖れないどころか舐めてかかる態度の馬であったが、それを御せないようでは、馬耕教師は務まらない。

「ばか者、情けない顔をするな。村の若造どもに舐められるぞ」

 権治は気弱な顔をした若者をしかりつけた。扱いにくい馬をわざわざ選んでくるのは、馬耕教師の技量を試す意味合いもある。地元の農家にしてみれば、馬耕教師の指導一つで生産力が変わる機会である。居丈高に振る舞ったり、迎え入れる立場とは思えないほど強気な態度を見せたりするのは、真剣さの表れなのだ。

 しかしこの若者にとっては、実地が初めてだ。ここで無理をして本人が自信を失ったり、村がいっそうよそ者を信用しなくなったりしてしまっては困る。今回だけは自分が出て、道筋をつけてやらなければならない。

 権治は馬の前に立った。人間を全く怖れない馬は立ち向かってくるが、攻撃をかわす。脳裏には順蔵が見せた軽やかな動きがある。馬の動き、そして心を感じながら手綱や犂をつけていく。最後にポケットに忍ばせておいた一本の細紐を取り出す。それを門歯と臼歯の間に入れて引っ張ると嘘のように馬はおとなしくなった。なんかんだろうとそうでなかろうと、馬であれば有効な手段であった。

「あいつ、妖術でも使ったのか」

 人垣の間からそんな素っ頓狂な声が上がる。権治は彼らに背を向けて密かに笑った。順蔵が同じことをやった時、自分自身も覚えた正直な感想であった。

 あとは佐渡の自宅や出先でやっているのと同じように馬を操って土を鋤く。馬だけでなく田も犂を入れにくい質であったが、既に村の気風に慣れた権治には戸惑うことではない。

 一通り終えても、村人たちから拍手や賞賛の声はなかった。ただ信じがたいものを目にしたように放心していた。

 自分の仕事の効果はその日の夜に表れる。馬耕教師を警戒していた村ほど、その反応は熱烈で早い。逗留していた宿に何人かが押しかけてきて、非礼を詫びると同時にこれからも指導してほしいと頼みに来るのだ。

 権治はこだわりなく、良い技術を何としてもものにしようとする村の気風が好きであった。快諾し、前日より明らかに熱心さを増した若者たちを相手に、充実感を覚えながら指導ができるのであった。

 そんな権治に触発されたのか、弟子は次の村では積極的に馬と相対した。意気込んで田に入ったものの、いざ仕事となると馬は言うことを聞かない。弟子は注目の前に田の真ん中であがってしまい、立ち尽くしていた。

 見物人を見遣ると、既に嘲り笑いを漏らす者が大半であった。このままでは駄目になる。そう思い、権治は予定にない指導を行うことにした。

「もう良い、離れて見ていなさい」

 きつい調子で言って弟子を馬から離れさせ、権治は背広を脱いだ。冬のことで決してらくではないが、作業用の服を準備していなかったのだから仕方がない。

 下着一つで田に入った権治は、手綱と声で馬を動かす。すると弟子がやっても動かなかった馬が、ゆっくりと向きを変え、前へ歩き出す。人を変えただけで好転したのが驚きだったのか、見物人たちは表情を変えてどよめいた。

 割り当てられた範囲に犂を入れ終え、権治は村人たちを集めて犂の説明をさせた。本来なら弟子の仕事だが、失敗した弟子に、この村で信頼を築くのは難しい。若い弟子が全て一人で成功させなければならなかったが、馬耕教師を信用しなくなるよりは、自分を信じてもらえれば御の字であった。

 次の秋に村を訪ねた時はちょうど競犂会の時期であった。犂や馬の扱いの競技会で、去年教えた若者たちが馬と犂に触れていた。

 権治は去年の縁もあって見学することになった。百点満点の採点で、項目は大きく四つに分けられる。

 牛馬の姿勢や手綱の使い方、動作の自然さで四〇点。道具の取り付け方や扱い方が一〇点。犂を入れた結果できる、畦の形が四〇点、深耕の程度が一〇点という内訳である。

 明治の末からは佐渡でも行われるようになった競技会で、馬耕教師が歩いて犂を広めるごとに競技会は盛んになっていった。出場する農民にとっては身につけた技術を披露する機会となり、それ以外の村人たちにとっても貴重な娯楽である。犂を広めに村を訪れた時、初めはたいていそうであるように、かけそばの屋台が建つなどして、競犂会は催し物の様相を呈していた。

 権治は若者たちの犂さばきを、お礼として振る舞われたかけそばをすすりながら眺めた。去年まで警戒していた農民たちが犂を受け入れた結果、仕事にかかる時間も減り、村には余裕が生まれたという。競犂会で優勝した若者は心底から嬉しそうな顔をして、審査員長の手から賞状を受け取った。その顔を見る限り、弟子の役目を奪ってでも犂を広めたのは間違っていなかったと思えた。

 馬耕教師石塚権治の活動範囲は、佐渡をはじめ下越の岩船郡から上越の西頸城郡まで、新潟県のほぼ全域に及んだ。大正一三年(一九二四年)には長女の幸子が、その二年後には長男の章が生まれたことで一家の長としての役目も重みを増していた時期である。そして本業はあくまで農夫であったため、秋口から年末までの二ヶ月間を馬耕教師として過ごし、残りの時間を農家の長として働いた。父親は権治が三四歳の頃に亡くなったが、息子らが育ってからは父親不在の時期を支えるようになり、山仕事においても周囲の家が負担を補ってくれていた。

 権治が村々を訪ね歩くことで、馬耕の技術は綿毛のように広まっていった。功績は実力の証明として新潟県から認められ、昭和八年(一九三三年)には大阪市で開催された全国馬匹博覧会に新潟県代表農馬部の馬耕選手として出場して入賞し、二年後には帝国農会主催の畜力利用講習会に牛馬耕の講師として委嘱された。牛馬耕の技術を競う競犂会での優勝経験や全国馬耕大会で天皇の陪観を許されるなど輝かしい経歴を後に築いていく権治だが、佐渡にも技術の種を落とすことを怠らなかった。

 佐渡の外で二ヶ月を過ごす間に、各地の犂に触れる機会があり、気に入ったものを佐渡へ持ち帰り、教え子たちに託してきた。教え子たちは競犂会で犂を使って好成績を収めたし、佐渡にもたらされた犂を作る人々も現れるようになる。古くから食料や衣類を自給自足でまかなってきたように、権治の行動が犂さえも佐渡の人々は自前で手にできるようになった。

 馬耕が広まり、それに必要な馬や牛の改良が叫ばれた背景には、軍や政府の要求があったが、昭和一〇年代はその傾向が顕著になっていく。権治が佐渡郡畜産組合代議員に当選した年、東京では二・二六事件が起き、翌年には盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発する。本州から離れた佐渡からも八〇〇人余りの若者が徴兵され、戦地へ送られていく。

 その中に長男の章も含まれた。学生だった章は当初兵役を免除されていたが、やがて特別甲種幹部候補生として、前橋予備士官学校に入隊する。

 修了すれば見習士官となって戦地へ送られる教育課程であり、傷つくか、悪くすれば死体となって戻ってくることは考えたが、兵役免除を取り消してまで兵員を確保しなければならない状況に、戦争があまり長く続かない気配は感じていた。それでも、本州から隔絶された佐渡にも戦争の影響はあって、かつて政府の方針で増産が叫ばれ、稲や牛馬の品種改良が行われた田に、今度は戦地へ送る食料を増産するための働きが求められた。後年振り返れば終戦の年となった昭和二〇年、五月五日に権治は加茂村で行われた「食糧増産突撃隊牛馬講習会」の講師を嘱託され、居並んだ村人たちの前で泥田に入って馬耕をやってみせたが、仰々しい企画の名にしらけながら犂を操っていた。

 権治の予感は当たり、その年の八月一五日に玉音放送が日本全土を駆け巡った。佐渡も例外でなく、馬と共に休んでいる時にラジオからその声を聞いた。

 ラジオからの声を聞いた時に涙する者は多かった。ラジオに向けて詫びる者もいた。

 権治は昭和一五年(一九四〇年)一二月、神奈川に新潟県代表の馬耕指導者として派遣された時のことを思い出していた。皇紀二六〇〇年を記念して開かれた全国馬耕大会に出場した権治は、馬事功労者としてたたえられ、天皇の陪観を許された。馬や牛を操っているうちにずいぶん高みへ昇れたものだと、今から思えば大変な状況に置かれていた天皇の傍にいて感慨深いものを感じていたが、馬耕の発展を目の当たりにした天皇はラジオの中で人間宣言をして、自らが背負ってきたものを降ろしてしまった。五年前から始まっていた大変な状況は、これからも続く。それを思うと何かもできない自分が何とも歯がゆいのだった。

 前橋へ行っていた章は結局、戦地へ送られることなく戻ってきた。新潟から両津港まで、発動機船で数時間かけて渡り、新穂へ戻ってきた彼は、少し長い旅行をしただけのように気楽さを装って見えたが、一歩間違えば死体となって戻ってきたかもしれない。そう思うと、五体満足で帰ってきただけで大きな感動を覚えたのだが、

「弾よけにならないでよかったな」

 いざ本人を前にすると、そんな素っ気ない言葉しか出てこなかった。

 しかしこの言葉が、章の胸にずっと残っていたことを権治は知らない。後年章は、自分自身の体験を語る時に、戦地へ行かずに済んだことを「弾よけにならずに済んだ」と笑いながら表現した。権治はその言葉を聞くことはできなかった。


 佐渡から徴兵された若者の中にも帰ってこられなかった者は多くいて、戦後しばらくの間は島全体がどこか沈鬱な雰囲気に包まれていた。新穂も例外でなく、空気がよどんでいるような感じを何とか変えたいと思っていた。

 その時の権治は、努力次第で働きかけることのできる立場にあった。昭和二二年(一九四七年)四月、権治は新穂村村会議員に当選し、現場だけでなく更に大局的な立場から新穂の農業に働きかけられる立場まで上り詰めたのであった。

 順蔵と再会したのは、地域の指導者としての階段を上っていく時期であった。新潟中を歩き回っていたり、途中に戦争の混乱があったりしてすれ違い続けた順蔵は、いつしか髪も薄くなって幾分くたびれて見えたが、柔らかい物腰と酒の飲みっぷりは健在で、久しぶりに順蔵が定宿にしていた宿で杯を交わすと、学校を出たばかりの若い頃に戻った心地になれた。

「章くんは無事に帰ってこられたそうだな」

 順蔵の第一声はそれであった。馬耕の師である順蔵が、何よりも自分の息子の無事を喜んでくれたことは嬉しかった。

「相変わらず土にまみれる仕事に興味を示しませんが」

「それでも教師をしているのだろう。立派なことだ」

 権治は苦笑した。章にも牛や馬の扱い方を教え、犂を使った田畑の耕し方も伝えたが、それは基礎的なことに留まっている。長男である章だが、学校の教師となることを志して父親とは違う道を歩んでいる。どうやら戦後もその心づもりが変わることはなさそうであった。

 違う道を行く長男が、新穂村教育長という高みへ達するのは後の話である。

「権治よ、お前も議員になったのだったな。本当に立派なことだ」

 権治は黙って頭を垂れた。褒められて一番嬉しい相手から、一番喜ばしい言葉をもらえたのは感動的ですらあった。

「言葉もなまりが消えたな。自覚が出たのかな」

 馬耕教師としての実績を積むごとに全国から呼ばれる日々を送るうちに様々な国言葉に触れ、結果としてなまりは消えてしまった。陪観を許された時、なまりを丸出しにしているような恥ずかしい言葉遣いは慎まなければならないという思いが、言葉の変化に拍車をかけたようだった。

 同郷の出であり、お互いの若い頃を知る相手との酒は滑らかに進む。そして自然と新穂をはじめとする佐渡の農業の話になった。順蔵もまた馬耕教師の仕事を続けており、未だ農業に深く関わり続けている。対して権治は現場から離れて大局的なものの見方ができる立場にある。立場の違いは視点の広がりを生み、話しているうちに感じたことのない新鮮さを見出した。

 その間に思い出したことがあった。権治は福岡から届いた手紙を順蔵に見せた。差出人は後藤丈作となっている。福岡を離れる時吉原を名乗っていた彼は、後に長家と親類関係にある後藤家に養子に入り、更に長末吉の長女と結婚している。義父が犂製作会社の社長という立場は、犂の普及を運命づけられた立場のように見えたが、手紙の中で彼は犂の普及を諦めていることを伝えていた。

「義父の長末吉さんが亡くなっているから、好きな道を選んだのかもしれませんが」

 どこまでも明るくひょうきんだった丈作の顔を思いながら、権治は苦笑した。養子に入ったり社長の娘と結婚したりしたあたりに強かな計算が見て取れる。

「長さんが鬼籍に入られて、だいぶ経つな」

「はい。もう一一年が経っています。五八歳でしたから、もしかしたらまだ生きられたかもしれません」

「違いない」

 順蔵は一瞬神妙な顔をしてから笑った。順蔵は五六歳、長末吉が亡くなった歳とほとんど変わらないが、元気に各地を歩き回っている。当分引退することもなさそうだった。

「それで手紙には何があるんだ」

 順蔵が手紙をのぞき込んできた。

 事前に目を通していた権治は、手紙に目を落としながら内容を伝えていく。それは丈作が静岡に招かれた時のことである。丈作を招いた村人たちは、犂の普及員である丈作に期待して自分たちが手こずる土地を耕すように頼んだという。

 犂を一から作ることさえできる丈作でさえ苦戦したが、どうにかやりおおせたことで村人たちの信頼を得た丈作は、その夜の座談会に招かれた。

 その席で村人の一人が、今日耕してもらった土地はとにかく鋤きにくい土地で、耕耘機をいち早く導入したのだと言った。

「耕耘機を」

 大正期、既に灌漑、精米など定置作業に利用する石油機関が導入されており、次の段階として脱穀や防除作業にも機械が導入されている。昔ながらの農法はじわじわと機械化に置き換えられていたが、耕耘機はまだまだ犂の地位を脅かすほどではない。

 それでも順蔵は興味を持っているようであった。嫌悪感を表さないあたり、機械を毛嫌いしているということはないのだろう。 

「しかしどういうことなんだ。耕耘機を先に使ったのに、わざわざ犂を後から入れるとは」

 順蔵の疑問への答えも手紙の中にあった。耕耘機は政府の援助でその村に導入され、村は一銭も負担せずに済んだ優遇ぶりだったという。しかし村人たちは扱いがよくわからず、どうやってもうまくいかない。そこに丈作が現れ、在来の犂を使って鋤きこなしてしまった。それを見て村人たちは、犂を使えばいいから耕耘機は不要という結論に達し、良ければ持ち帰ってくれないかと丈作に持ちかけた。

「まだ新穂には見られないな。私もあまり知らないが」

「俺も同じですよ。種類が三つあることぐらいしか知りません」

 耕耘機にはスクリュー型、クランク型、ロータリー型の三種類がある。手紙を読む限り、村人たちが導入したのはクランク型であるようだった。

 丈作は持ち帰ってもしょうがないと思いながら、一応その機械を見せてもらったという。思ったより小さな機械で、人が後ろを向いて引っ張りながら運転して扱うようだった。エンジンの回転が駆動軸を通じてクランク軸を回し、その力が土中の耕耘刀を回す。この耕耘刀が犂における犂先にあたると丈作は書いていた。

 耕耘機の構造を丁寧に説明した後、丈作は自身の見解を書いていた。

「うまくいかなかったのは耕耘機のせいではなく、耕起した後の農法が犂に合わせた農法だったためで、機械に合わせた農法が確立されれば機械の時代が来る。実際機械は深耕を実現したし、生き物である馬や牛ほど世話の手間はかからない。今後日本の農業はもっと機械を受け入れればもっと伸びていくはずだ」

 その感想は、犂の普及員であり職人であるという立場から口にはできなかった。しかし早晩、犂が、牛馬耕が時代遅れになるという予感を持って村を後にしたという。

「もしもそうであるなら、残念だ」

 そう言って順蔵は酒をあおる。彼の気持ちに共感しながら権治は続きに触れる。

 座談会には静岡の農業試験場で働く大島という人がいて、同じく農業に関わる者として意見交換をした。大島はその場に出された夕餉を食べながら、牛馬を調教した上で犂を扱うという手順を踏まなくても同じ効果を上げる方法はないものかと丈作に訊いた。その時ははぐらかして場を収めた丈作だが、大島の問いに隠された思いは丈作の頭から離れなかった。

「少なくともこの大島という人は、牛馬の調教をやる手間をかける気がないということか。それが良いか悪いかは決められないが」

「能率化、あるいは省力化が技術改革の心です。そうやって手間を少しでも減らそうとするのは悪いことではないでしょう」

「そうだな。私にもその思いがあって、なんかんの扱いを覚えたからね」

 順蔵は懐かしげな声を上げた。今でこそ牛や馬を田畑に入れることは見慣れた光景となったし、人間以上の力を発揮する牛馬に、脱穀や籾摺りをする機械を動かさす畜力利用というものも確立された。その結果必要とされる人員も労力も少なく済むようになり、田畑で働く人の姿も減った。それこそ馬耕教師が望んだ光景であり、理想であっただろう。

 ただ、同じ方を向いている二つの力が具現化された時、片方は有機物を扱い、片方は無機物に同じ仕事をさせている。仕事の結果は同じでも、能率化と省力化を求める人の思いと指導者の理想は、より手間のかからない方を、より良い理想として見るようになる。技術を受け取る立場の人々の心も同じだ。

「丈作は元々犂の職人でした。自分の店も持っています。職人であり商売人である彼は、百姓である俺や順蔵さんとは根本が違うのかもしれません。だからあっさり犂に見切りをつけてしまえたのかもしれませんね」

 手紙は、早晩犂の時代が終わるという自身の予感に従い、農機具の販売に切り替えたことを伝えていた。店の名前も「後藤農機」とし、早くも耕耘機を扱っているという。写真が同封されていて、新しい看板と店先に並ぶ耕耘機、そして若い頃と同じくまぶしい笑顔を見せる丈作が映っていた

「無邪気な子供のような顔だね」

 順蔵の正直な感想に権治は小さく声を上げて笑った。連絡は取り合っていても福岡と佐渡である。簡単に会うことのできない隔たりがあって、たまに各地の競犂会などに呼ばれた時に会うと順蔵と同じ感想を抱くのである。

「時代が変わるのかな」

「はい。俺たちが冬の寒さをこらえながら歩いて広めたことも、間もなく機械に取って代わられるでしょう」

 認めたくはない現実ではあった。天皇の陪観という、普通に暮らしていたらあり得なかった経験ができ、各地の農会から馬耕教師として引く手あまたの人材になれたのは、ひとえに馬耕という技術を修めるため懸命に打ち込んだからだろう。息子は道を継いでくれなかったが、馬耕は権治の人生そのものであった。

 この四七年の人生に寄り添ってきた馬耕が、時代の流れとはいえ機械化に飲み込まれようとしている。丈作のように、犂の製作と普及に関わってきた人間がその予感を覚えたのだから信憑性もある。自分は今、村議会議員である程度の権力を持っている。それを振りかざして抗おうとすれば、老害として白眼視されるだけだろう。何より、佐渡の片隅に留まる権力でできることなどたかがしれている。

「悔しいな」

 ほんの一言であったが、順蔵の言葉は明確に権治の心情を言い表していた。

「ええ。俺たちの苦労が無に帰すのが惜しいだけかもしれませんが」

「それはないよ。人力で耕した後に畜力利用が始まったが、それも人力の時に感じた不便さが原動力になったんだ。人力で培われた秘訣も活かされている」

「人力では為しえなかった理想が、牛馬耕で実現できたのですよね」

「そう。そして牛馬耕で為しえなかった理想は機械化で実現できる。もっと能率的に、もっと省力化を。また私たちのような人間が出てきて、全国を回るようになる。その時旧と新の対立があって、若い教師は戸惑うはずだ。その時こそ我々老農の出番だろう。特に権治、いしは道筋をつけてやらなければならない立場だし、それができるだけの権力もある」

 どんなに使われる力が変わったとしても、行われることは同じだと思うと少し気楽になれた。丈作に機械を託した村人もうまく扱えなかったから耕耘機に見切りをつけたが、見る人が見ればしっかり機能する力を秘めていた。もしもこの先丈作が、かつてのように田畑へ出て機械の使い方を正しく教えるようになれば、かつて牛馬耕が広まった時と同じ推力で、機械化も進んでいくはずだ。

「馬や牛は役目を終えたのでしょうか」

 ずっと農業の相棒として働いてきた動物が、田畑で必要とされなくなってしまう。一つ役目を終えた時、飼い主たる農家はどうすればいいかはどうすればいいのか。

「そうしたらまた荷役にでもすればいいだろう。ホルスタイン種は元々乳牛だったのだから、酪農家に売ればいい」

 順蔵は楽観的だったが、今のところそれしか思いつかなかった。愛玩動物とするには大きすぎるし、役目を終えたからといって殺処分はあまりに無責任だ。野生の牛馬に仕事を与えたのは人なのだから、その責任は最後まで取らなければならない。

 まだ鞍を作る者はいるし、福岡では草競馬も盛んだ。山仕事では未だに、牛一頭いるだけで持ち運べるホエキとベエタの量が違う。田畑で使われなくなっても、牛や馬が必要とされる場はまだある。決して完全に仕事を失ったわけではない。

「しかし、私たちの時代が終わるのは確かだろう」

 順蔵の声に未練は感じなかった。

 半ば意地になって、権治は言葉を返した。

「俺は耕耘機の使い勝手はわかりません。だから懐疑的にもなれます」

「お前の友は時代の変転を信じているようだが」

「そうであれば、認めざるを得ません。丈作は俺よりも犂に近い場所で生きてきた男ですから」

 丈作の仕事場は土の上ではなく床の上が多かった。嗅いだのも草いきれや泥ではなく、乾いた木の芳しさであっただろう。百姓の職人の隔たりは見方や価値観の違いにも通じていて、犂への未練は文面からは感じ取れない。むしろ新しい農具を発見した喜びが目立っていた。

「丈作の予感が正しいとしても、俺はその時が来るまで馬耕を手放すつもりはありませんよ」

「いしは馬耕教師だな」

「もし何の立場も背景もないなら、生涯馬耕教師を名乗っても良かったかもしれません。しかし俺は今、新穂村村会議員です。きっと新穂の農家は能率化と省力化をもたらしてくれる機械が導入されるとなれば興味を示します。そして使えるとわかれば飛びつくでしょう。その流れを止めてはならない。むしろ促進しなければならない。それが責任です」

「私には及びもつかないな」

 順蔵はほんの少し寂しそうに笑った。まるで自分を遠くに見るような目で、自分自身の立場を思わずにはいられない。いつの間にか、現場の人間とは違った場所に立ってしまったらしい。土の匂いを嗅ぎ、なんかんと呼ばれた馬を手なずけることにやりがいを見出していた時期を遠くに、そして懐かしく感じた。

「何にしても、我々は時代に順応しないといけないな。そうでなければ死ぬしかない」

「それができないからと言って命を絶つほど潔くはなれません。何より我々には、支えるべき家と家族がありますから」

「違いない」

 権治と順蔵は、それからお互いの家族について語らった。秋から冬にかけての二ヶ月を除けばいつも会うことのできる家族だが、子供たちにとってはその二ヶ月が大きかったようで、年の瀬や正月は特に一緒にいることをせがんだ。

 権治と妻コウの間には男女合わせて九人の子供がいたが、二人が幼くして亡くなっている。それでも権治の目から見て兄弟姉妹は逞しく生きているように見えた。

「時々加茂湖で釣りをするんですがね」

 晴れた休日には長男の章や次男の良を連れて、釣りに出かけていたが、章が育ってからはその時間も取れなくなった。久しぶりに誘いかけてもいいかもしれないと思った。

 その夜は農業のことからお互いの身の回りのことまで、語り尽くし、飲み明かした。珍しく二日酔いに悩まされたが、寝所で休んでいる間久しぶりに、犂を扱うのに悪戦苦闘する夢を見た。

 目覚めてから思い返すと、長末吉の家で経験したことが元になっていると思われた。苦しい思いをしたのは確かだが、そのまま失われてしまうのが惜しいほど豊潤な記憶であった。

 新穂村では昭和三三年(一九五八年)頃まで牛馬が犂を引く姿が見られたが、それ以降は順次耕耘機と入れ替わり、機械化へとつながっていく。後に息子の章はその歴史を踏まえ、昭和二〇年代が最も馬耕が盛んであったと回想した。

 その時代が終わりかけた昭和二八年(一九五三年)一二月、石塚家の庭に一つの石碑が建てられた。高さにして二八四センチ、幅は一〇九センチ、厚さも一二センチという威容は、石塚家の長である権治の功績をたたえる顕彰碑である。馬耕教師として佐渡に寄与した実績を伝える内容の碑文が刻まれ、家を囲む見事な針葉樹の屋敷林の中にあって、遠い未来まで堂々たる存在感を放ちつづけることになる。

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