黒猫の完成と未熟

なつのあゆみ

第1話

 彼は私を見つけると、少し首を傾げて、眉を寄せて話しかけてきた。

 困っています、助けて、という顔で。長身で黒髪、黒い瞳の彼は漆黒の印象を私に与えた。腰に巻かれた、長い髪の女の子のおさげみたいな紐が、腰のラインをしっかりと見せている。

 すぐに魅力的だと、認めてしまった。濡れている黒い瞳に見つめられ、私は早くなった鼓動を落ち着かせ、彼の言葉に耳を傾けた。

 どうしても手に入れたい本があるが、ブーツを履き潰すほど書店を回ったがどこにもない。どうにかなりませんか、と彼はやや高いトーンで話した。

 それならば……と私は耳に髪をかき上げて言った。注文してみましょう。絶版になっていたら、品揃えのいい中古書店紹介します。

 彼は人懐っこい笑顔を浮かべて、ありがとう、と言った。胸に響く、低い声で。

 彼が手に入れたいと願った魔法書は、絶版になっていた。彼がとても残念がったので、私は病的なまでの品揃えの中古書店を紹介したところ、一緒に行って欲しいと頼まれた。

 淀みのない流れだった。中古書店で本を見つけて彼はとても喜び、美味しいランチを奢ってもらい、一緒に街を歩き、カフェで口説かれた。

 

 彼は私の目を、じっと見つめて言った。

 猫は好き? 

 ええ、好きよ。可愛いもの。

 僕は猫に化けられるんだ。

 まぁ、すごいわね。

 僕が猫になったところ、見てみたい?

 そうね……興味があるわ。

 そうかい。ここで披露したいけれど……猫になったら服が全部ね……脱げてしまう。

 そう……困ったわね。

 私がくすりと笑うと、彼も笑った。瞳がかち合って、合意、が成立した。


 それからの展開はご察しの通り。私のベッドで彼は猫になり、頬をぺろぺろ舐めてくるので背中を撫でてやった。彼は興奮しきった男になっていた。


 私は魔法書専門店の書店員で、彼は若き魔術師研究者。

 僕たちは付き合っているよ、と彼が言ったのは一週間目のベッドの上で。それから彼が猫になって私の頬を舐める日が増えていった。

 彼は私の腕の中でにゃあ、と鳴いてみせる。黒く濡れた瞳で私を物欲しそうに見上げ、たくましい腕で私の体を軽く押さえつけて。

 この色男の手口を私は完璧に見破っていた。


 彼が小柄な栗色の髪が麗しい女の子の肩を抱いて歩いているのを目撃したのは、四週間が経った頃だ。彼とは遊びだったし、私も別の男に抱かれる機会があれば、ベッドを開放していたかもしれない。

 別段、気にはしていなかったが、多少は腹が立っている。


 悪戯がバレたと知らない黒猫が、私のベッドににゃあと鳴いてもぐりこんでくる。

 ぐるぐると喉を鳴らしてるので、優しく優しく撫でてやる。頬を舐めて、さぁてんやわんやが始まろうかとするとき、私は猫の首根っこを掴んで持ち上げた。

 猫は目をまん丸にして私を見て、にゃあにゃあ鳴いて抵抗する。

「栗色の髪の子もお好きなのね」

 私がつぶやくと、彼は大きな猫耳を後ろに倒し、目をひん剥いた。

「あの子は妹だとか、たまたま肩を抱いていた、なんておバカな言い訳はやめてちょうだいね、耳が腐っちゃう」

 猫は暴れることもせず、おとなしい。裸の腕に黒猫を抱き込み、私はくすくすと笑う。こうしていれば、可愛い無害な猫だ。男を力で服従させている喜びと、黒猫の毛ざわりが素肌に心地よく、つい抱く腕に力が入る。猫は震えている。

 

「ところであなた、私に魔法の覚えがあるってご存知?」

 

 にゃあ、と怯えた声で猫が鳴く。


「私、猫って大好き。特に黒いの。あなたをずっと、この姿のまま、抱きしめていたい」


 黒猫をぎゅっと抱きしめて、私は呪文を囁いた。叫んで暴れる猫を私は押さえつけた。

 

 私と黒猫の生活が始まった。黒猫は戻してくれと懇願するように、私の足元で鳴き続けた。

 キャットフードを前に置いてやり、私は鼻で笑った。

 「もっと可愛い顔をしておねだりして頂戴。出会った時みたいな、あの顔よ。助けて、お願いって。さぁ、してごらんよ」

 黒猫が膝に乗り、胸にすり寄って甘えてくる。ざらざらとした舌で首筋を舐めてくる猫の背を、指先だけで撫でる。

「人間に戻りたい? このまま猫の姿で、私に愛されるのも悪くないんじゃない」

 尻尾を軽く引っ張って、私は笑う。

 かわいそうな黒猫を弄びながら、さて、どうしようと考える。


 私は魔法を解く呪文を知らないのだ。

 魔法をかけた者しか、魔法は解けない。だけど、私にはそれほどの魔力はなかった。



「見てごらん。雪が降っているわ」

 ぶ厚い魔法書の上で、丸くなっている猫の背を、私は撫でた。

 黒猫は、ぱたり、と尻尾を動かす。

 痩せて、ひげが抜け落ちた黒猫は、最近、眠ってばかりだ。

 

 ぶ厚い魔法書を、何冊読んだかわからない。このところ、私は小さい文字が読めなくなった。

 皺だらけの乾燥した指で、ページをめくるのも億劫になった。

 

 もういいよ、と言うように、黒猫はぶ厚い魔法書の上で眠るようになった。

 年月は過ぎて、私の頭は雪のように真っ白になった。 

 黒猫は、黒猫のままだ。


 毛糸のショールを肩にかけ、ソファーに腰掛けると、黒猫が膝に乗ってきた。

 私は黒猫の背を、ゆっくりと撫でる。

 しんしんと雪は降り積もる。

 愛していたのかもしれない。

 

「あなたをずっと、この腕の中にら引きとめていたかったのよ」


 黒猫の耳が動いた。


「行ってしまうのが、嫌だったのよ」


 黒猫が、満足したように大きく息を吐いた。

 前足が痙攣して、撫でる体は冷たくなった。


 魔法の勉強に必死で、私は恋人を作ることも、結婚することも、忘れていた。

 

 私はあなたを、ずっと抱きしめていたかったのよ。


 冷たくなった黒猫に、私は涙を落とす。


 

 

  


 


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