俺の右手と摩擦熱

とびらの

俺の右手と摩擦熱

 どこからともなく正露丸臭がすると思ったら、爺さんが虫歯鎮痛のため奥歯に詰めているらしい。

 それは果たして効き目があるのか、そもそもなぜに歯医者にいかぬのか。

 俺は爺さんの首を絞めあげ揺さぶり前後左右にぶんまわし、ディーフェンスッディーフェンスッと呟きながら追及してみたい衝動に駆られたが、ここはぐっと我慢の子。今日だけは、機嫌を損ねられてはたまらない。


 元旦である。

 二世帯住宅の、普段は寄り付きもしない祖父母スペースであるが、今日だけは自室よりもこちらに居たい。

 狙いはもちろん、お年玉だ。俺の通う高校はかなりの進学校で、特殊な事情がなくてはアルバイト禁止。


 月三千円の小遣いじゃ、エロ本も四冊しか買えない。

 俺は恋多き男、同じ女を食い続けるよりも、多くの女を一度ずつ愛したいのだ。


 まあ実際に接触するのは自分の右手と、たまのゲスト出演で左手だけだけどな。



 正露丸臭をこらえながら碁の相手をし、婆さんがこさえた謎の和食(としか言いようがない。アロエの煮つけとかだ)をなんとか飲み下し、いまかまだかとポチ袋様のご降臨を待つ。


 祖父母宅リビングに到着してからおよそ4時間。昼を大きく回ったころ、コタツでミカンを食いながら、ふと思い出したように爺さんが呟いた。


「そういえば明宏、お前に渡さにゃならんもんがあるやな」

「! お、おう。はい。ええまあ。僕も高校に入って色々と物入りだからね。参考書とか図鑑とかさ」

「納戸のほうに、ローレンスの古誌がようさんあるから、母ちゃんにばれんようにこっそり持って帰り」

「それはそれとして一応いただきます。でもちょっと16歳が読むにしては年増すぎ……いや、じゃなくて、僕は参考書を買わなくてはいけないのでですね」

「このあいだ公晴のせがれが来た時に、阿吽いうのを置いて帰ったが」

「ああそれって作者が昔ハガキ職人をやってた雑誌、まだあったんですねえ――いやだからおじいちゃん」

「快楽天のほうがええか」

「このネタいつまで引っ張るんじゃこのくそじじい! とっとと現金よこせ! あと俺はどっちかというと三次元派だっ!」


 俺は絶叫しながら身を乗り出し、爺さんの襟首掴んで捩じ上げた。


 痩せた年寄りの身体は簡単に持ち上がったが、爺さんは飄々とした態度を崩しもせず。

「なんじゃい明宏、小遣いがもらえると思ったか。あほめ、なんだって高校生にもなった不細工な男孫にお年玉をやらねばならん。なんのメリットもない。キャバクラのおねえちゃんにやるわ」

「それこそなんのメリットがあると思ってんだよ、夢見てんじゃねえよ」

「その夢を買うとるんじゃ。ドキドキを買うとるんじゃ。映画と一緒じゃ。ありゃエンターティメントじゃ」


 さすが経年劣化、もとい人生経験が違う。


 ぐうの音も出ない俺に、爺さんはフォフォフォとケフカみたいな笑い声をあげ、

「小遣いが欲しければ仕事をしろ、明宏。働かざるもの食うべからずだぞ」

 そう言って、正露丸臭い口をにやりと大きく釣り上げたのだった。


 爺さんから言いつかった雑用とは、敷地内にある蔵の掃除というものだった。

 年末の大掃除で、手が回りきらなかったらしい。気にかかっていたのでちょうどよかったと押し付けられてしまった。


 我が柴田家は、いわゆる純和風の巨大な平屋。無駄に大きな敷地で、祖父母が住む母屋と俺たち核家族の住居とは渡り廊下でつながっている。二世帯住宅、と言うよりは、敷地内別居と言ったほうが正しいのか。よくわからんが、お互いに不可侵であることで、舅姑と嫁である母が穏やかに暮らせるようになっている。


 でかい家は、そのぶん面倒もあるものだ。俺は蔵へと移動するだけで身体がすっかり冷えてしまった。


 爺さんの、そのまた爺さんが建てたというこの家と蔵は、良く言えば古式ゆかしく趣があり、悪く言えばただ単に古い。家のでかさはただ土地が安かったからで、決してカネモチなわけじゃないのだ。旅館さながらの風情なんてものはどこにもなく、ただただ安普請の木造住宅。

 それでも倒壊せずにいるのは、歴代の住人が大切に住んでいたからだろう。


 蔵もまたおなじく古めいて、経年劣化かあるいは天災か、外壁がところどころ剥げ落ちている。


 俺は、幼いころからここの存在は知っていたものの、中に入るのは初めてだった。あまり興味を持ったこともない。

 中身はなんだと聞けば、爺さん曰く、とかくガラクタだということである。


 小さな蔵に、不似合にイカツい南京錠を開き、重い鉄の扉を開放する。

 真冬の蔵は室内だというのに外よりも冷え込んで、電燈をつけてもなお薄暗い。六畳間ほどの広さをザックリ見回して、俺は大きくため息をついた。


 思っていたより、散らかってはいない。積み上げられた書籍や骨董は整然としており、その分モノの量が多かった。

 これらを全部蔵から出して、床を掃けというのである。腰の曲がった祖父母やメタボな親父が億劫がるのは理解するが、16歳の男子だってつらいもんはつらい。


 てきとーにやりましたよ風に演出しようか。俺は箒を立てかけて、蔵の一番手前にあった壺を持ち上げた。

 うう、重い。


 そのときだ。突然、女の声がした。

「あっ! い、いやっ」


 !? 


 俺は思わず壺を取り落しそうになった。

 一抱えほどもあるそれがぐらりと揺れたのを、あわてて抱きかかえ体勢を直す。


「はぅっ。や、やだっ。やめてください。そんな持ち方をしたら、痛いのっ……」


 また声がした。やはり女の声、それもまだ若く、可愛らしい声質である。そしてなんだか色っぽい。

 俺は壺を抱えたままあたりを見渡すが、人の姿はなく、ラジオなども見当たらない。声はすぐ近くで聞こえたのだ。

 近くと言うか、本当に、俺の手のあたりから――


 見下ろすと、そこには古びた青磁の口壺がある。細い口を覗きこむと果てしなく昏く、すべてを呑みこむ奈落のようだった。すんなりとした曲線の壺は、なんら飾り気はないがそれそのものが美しく、なめらかな表面は艶を帯び、どこか女の肌を思わせる。


「……そんなに見つめないで……」

 また声がした。間違いなく俺の視線の先からだ。俺はごくりと喉を鳴らした。

 重く冷たい壺を、大切に抱え直し、恐る恐るなかの闇を窺って――

「……こ、この壺が……しゃべって……いる……?」


 女の返事が聞こえてきた。

「あ。いえ、しゃべってるのはあなたの右手です」

「そっちかよ!」

 とりあえず俺は壺を乱暴に置いた。



 改めて、自分の右手のひらを見つめてみる。

 16歳高校生、ごくふつうの男の手。同級生と比べて特別ごつくもないがしなやかでもない。

 別に、何が変わったわけでもない。ぎょろりとした目玉や大きな口がついていることもなく、勝手に変形する様子もない。思わずやり取りをしてしまったが、こりゃあいったいどういうことだ。


 空耳か白昼夢かと、いったん深呼吸して気を取り直す。しかしまた女の声は明瞭に聞こえてきた。

「おどろかせてごめんなさい。わたしも、自分が話をできるとは思っていなかったのです。冷たくて重い壺に思わず悲鳴を上げただけなのです」

「おまえ……本当に、俺の右手が喋ってるのか」

 女はしばらく無言でいたが、やがて、「はい」という言葉とともに俺の中指がピクリと動いた。俺と女、二人とも驚いてひっくり返る。

 混乱する俺に、女は慌てて口上を始めた。


「本当に、驚かせてしまってごめんなさい。ちゃんとお話しいたします。明宏さま、聞いてくださいませ」

「な、名前を……」


 お前、俺の名前を知っているのか、というツブヤキだったが、女は誤解をしたらしい。失礼しましたと前置きをし、自己紹介してくれた。


「わたしの名前は柴田伊久しばたいく。およそ60年前、この家で死んだ女です」

「ゆ、幽霊……?」

「イグザクトリィ――その通りでございます」

 どこかで聞いたようなことを言う幽霊。


「しかし、化けて出たぞ祟られるぞなどとは思わないでください。……わたしは貧しい農家で病弱に生まれ、柴田の家に養子にもらわれてきました。あなたの曾祖父には大変優しくしていただきました。その恩義を返すため、死後はずっと柴田の家族を見守ってきたのです。血縁はありませんが、先祖霊と考えて、どうか恐れないでくださいませ」


 俺は進学校、それも数学科に通う現代高校生である。そう簡単に彼女の言葉を信じることはできない。

 ……って、彼女の言うこと、なんて考えてる時点でその存在は認めちゃってるのか。

 だって仕方ないじゃないか。現に声は聞こえるし、俺の右手が勝手に動くんだもの。


「……その、伊久さんが、なぜ俺の右手に。それに突然、話が出来るようになったんだ」

 話しかけてみると、右手首がくにゃりと横に傾いた。


「わたしにもはっきりしませんが……客観的に、こういうことだろうなという推論はございます。

 まず、わたしはこの柴田の家全体に降り注ぐ陽光の様な感覚で、家族を見ておりました。しかし2年ほど前でしょうか、明宏さまがご自室で、わたしの名を呼びつけたのです。ご自身の右手に強い視線と念をこめ、そちらにむかって、熱く、心を込めて、何度も何度もわたしの名を呼びました。

 ――いく、いく、と」

「………………」

「その時だけではありません。遡って4年ほど、ほとんど毎日、あるいは1日に何度も。それによりわたしは魂を引き寄せられて、あなたの右手に封じられてしまいました。霊の名を呼ぶというのはそれだけ強い意味を持つのです。……ご自重なさいませ。アホになりますよ」

「すみませんでした」

 俺は素直に謝った。


 伊久さんが続ける。

「いまのわたしは、いうならばあなたの右手に憑りつく地縛霊、といったところでしょうか。今日このときに至るまでは、わたしには意識の様なものはありましたが、ずっと茫洋としておりました。でなければ気がくるってます。先祖霊といえば神にひとしいというのに、毎日毎日全身をごしごしと擦り付けられて、恥辱のきわみ。というかあなた学生でしょ、右手をシャッフルシェイクにばかり使ってないでちゃんと勉強しなさいよ。そんなだからケアレスミスが多いのよ」

「ほんとすみませんでした」

「あと、たまに左手を使うのはアレなんなんですか、何が違うっていうんですか。握力も器用さもわたしのほうがずっと上でしょ。けがらわしい。ほんとに男ってどうしようもないんだから」

「すみませんでした――あのう、伊久さん」

 なによ? と、右手。こころなしか興奮して赤くなっている。


「それで、どうして急にそれだけしゃべれるように? 今、おもいっきりはっきりと人格があるようだけど」

 俺の問いに、彼女は鷹揚にうなずいた。動いたのは俺の手首であるが。


「この蔵はかつて離れの寝所になっていて、わたしはこの場所で死んだのです。それに、蔵の中にわたしの遺品がいくつかあるのでしょう。もしかしたら遺骨や遺灰があるのかも。霊的な存在であるわたしの意思が、現世に遺された物品に近づいたことで強く明瞭になったのではないかと」

 なるほど。といっても俺はオカルトには何の興味もないので、よくわからんのだが、そう言われたらそれっぽい気はする。


「じゃあ、この蔵から離れたら、伊久さんはまたフワフワした夢見状態になって、いまみたいなしっかりした意識も、しゃべることも出来なくなるのか」

「……そうなるでしょうね」

 なるほど。


 俺はさっそくロングダウンのジッパーを開くと、セーターをへそまでたくし上げ、、腰に巻いたベルトを外しにかかった。ジーパンのホックをはずしたところで、右手が勝手に暴れだす。

「ちょっと! なにしてんのよ!」

「いやだってそりゃそうでしょ、そうなるでしょ」

「ならないわよ! なんでよ!」

「16歳だもの。みんな同じ発想するって。あ、こら、ファスナー戻すなよ」

「さっきのすみませんでしたは何だったの!?」

 絶叫する右手を放置して、俺は左手を用いて作業を続行した。

 冬の屋外用にと厚着してしまったのが失敗。それでもそこそこ器用に左手を動かしていると、右手が邪魔をしに入ってきた。左手首を捕まえて引きはがそうとして来るのだ。思うように作業が進まず、俺は発想を転換させて、左手で右手をガシッと掴み、力づくで、パンツのなかに導く。


 意図を察した右手がギャアと悲鳴を上げた。

「何触らせる気? いや、いや、やめてっ! いやああっ」

「ふはは、馬鹿な女め。こんなところで男と二人きりになって、何にもされずにお部屋に帰れるなんて思うたほうが悪いのだ」

「ああ、ああ、やめて。かんにんしてください。後生です」

「大人しくしろって。だぁあいじょうぶだよ、ちょっとゴシゴシするだけだから。初めてでもあるまいし、何にも痛いことしないって。天井のシミを数えている間に終わるよ」

「築五十年の蔵のシミなんて数え切れないわよ! ああ、いや。ああん――うっなんか臭っすでに臭っ――やめなさい! ねじりきるわよ!?」


 寒空に半ケツさらして格闘している俺と俺の右手。つまるところ俺一人で、喧々諤々やってると、不意に他人の気配が割り込んだ。

 開けっ放しの蔵を覗きこみ、少年が怪訝な声を上げる。


「柴田ー? まだ片付けやってんの、手伝――うわちょっと何やってんだ」


 俺が振り向くと、再度うげっと呻く少年。

 逆光でわかりにくかったが、クラスメイトの栗林だ。男子校なので当然男子だが、極端に小柄な体躯にふわふわした栗色の髪が愛くるしい、なかなかの美少年である。


「あれ、どうした栗坊。あけましておめでとうございます」

「あけましておめでとう。溝口と初詣いく途中、ついでだから誘いにきたの。おじいさんがここにいるっていうから。それよりちんこしまってよ。新年初ちんこが自分のじゃなくてお前のだよ。僕の一年これからどうなるんだよ」

「初詣? いいね、いくいく――」


 そう答えた途端、右手が大きく躍動し、戸口に佇んでいた栗林の肩を鷲掴みにした。

 小柄な少年を男の腕力で蔵へと引き込む。勢いのまま、栗林の身体は俺の剥き出しの下半身へと倒れこみ、ナニかとどこかしら彼の身体が接触した。

 悲鳴は俺があげた。


「ちょ、伊久さんなにやってんの!?」

「明宏さん、この子をかどわかして! そしてわたしの名前を連呼させてください!」

「はいっ?」

「どうせ憑りつくんなら断然美少年のほうがいい! この子だったらゴシゴシぬるぬるしても楽しそう!!」

「伊久さんまさかのショタコンっ? いや正直きもちはわからんでもないっつうかそらそうだろと自分の顔面偏差値自覚はあるけども、でもダメだって、よりによってこいつは、カワイイのは顔だけで怒らせたら――」


 叫んでいる俺の身体の上から、少年はするりと抜けだした。無言のまま背を向けて、恐ろしく俊敏に蔵を出る。そして一瞬の迷いもなく、彼は鉄の扉を締め切った。ぎいばたんがちゃんのスリーステップ。三秒もしないうちに施錠がされた。


 呆然と、閉ざされた扉の内側を見つめる俺とその右手。


 遠ざかる足音。真冬。凍てつくほどに冷え切った蔵のなか、急速に縮んでいく俺の息子と、テンション。


「……あけてええええええええええっ」

「ごめんなさああああああいあけてえええええええ」


 俺は飛び上がり、閉ざされた鉄の扉をドカドカなぐった。右手の伊久さんもがっつんがっつん体当たりしていた。

 どれだけ泣き叫んでも扉は開くことなく、俺たちはお互いの体を温めるため、ちょっぴり仲良くなった。

 爺さんが助けにくるまでの30分で、伊久さんはもう、俺に名前を呼ばれるのを嫌がらなくなっていた。



 16歳、高校一年生の元旦。

 それ以降、柴田家の蔵にはローレンスと阿吽と快楽天が保管されることになりました。

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