第3話

「勝ったぞ姫、大勝利だ!」

 意気揚々と御座所に引き上げてきた仲津彦は愕然とした。

 目の前で出迎えたのは、巫女の姿をしてはいるが、息長姫とはまったく別人の、少し年上の少女だった。

 出迎えた、と書いたが、実際は呆然として突っ立っていただけである。

「これはいったい、どういうことだ?」

 平伏していた山の衆の頭領が少し顔を上げて答えた。

「ははっ、日之巫女さまであらせられる息長姫は戦勝祈願され、比売神ひめかみさまにご降臨いただいたのでございます」

比売神ひめかみだと?」

 仲津彦が近寄ると、1歩、また1歩と後ずさる。仲津彦がその少女の顎に手をかけようとした時だった。

「息長姫がその身と引き替えにお導きくださった比売神ひめかみさまですぞ。もし、穢すようなことがあれば、このような大勝利、二度とないかもしれませぬ」

 仲津彦の指が止まった。

「俺は、あの、息長の娘でなくてはならんのだ。共に修羅場をくぐり抜け、戦ったあの娘でなくてはな」

 なぜだか、少女の胸がチクリと痛んだ。

「だが、お前はとてもいい臭いがする。確かに、この世のものではないのかもしれぬな」

 少女は安堵した。

(よかった、シャワーを浴びてきて)

 いや、今はそんなことで安心している場合じゃないだろ、と言いたくなるところだが、年頃の少女とは不思議なもので、こういう絶望的状況においても、身だしなみを気にしたりするものである。

「それにしても陰気な顔をした神だな。戦に勝利したのだ。もう少し嬉しい顔をしろ」

 神に向かって口にする言葉とはとても思えない。少女の表情は、いっそう強ばってしまった。

「戦勝の宴だ。比売神さまにもご同席願いたい」

 一応、敬意を表した物言いではあった。

 御座所の中の大広間に、本来は仲津彦が座る上座に薦で編んだ畳をもう2段重ね、御簾を垂らす。御簾に連なる通路には几帳が立てられ、広間の入口側からは姿を見ることができない。

 宴は盛り上がったが、比売神として祭り上げられた沙織の気分は優れなかった。

 お腹が空いているのに、食欲もない。供物としてどぶろくまで捧げられたが、もちろん口にすることはなかった。

「比売神さまの、足の奥・・・・・・」

 酌をしていた女性が囁いた。

「あたしたちとは、違うよ、ほら」

 女性が御簾から見え隠れする、少女の下の方を指さした。

 上座ということもあって、ただでさえ畳3枚分高いところに、さらに2段上げているので、ほとんど視線の先に少女の太ももがあって、奥が丸見え状態である。

「ほ、ほんとうだ。比売神さまの奥の肌は桃色ぞ」

「おおっ、まことじゃ」

 男は戦闘の邪魔になる、不安定なシロモノをしっかり体に固定しておくためのふんどしが古くからあったが、古代の倭国の女性は下着を着ける習慣はなかった。だから布地で局部を隠しているのを目の当たりにしたのは、初めてだったに違いない。しかも水玉模様やキャラクターではなく、ちょっと高級感のあるピンク色したセクシーなショーツである。

 体操座りして膝の上に突っ伏していた少女は、話題の先が自分に向いていることを薄々感じて、顔を上げて周囲を見回した。

 男たちの視線の先は、御簾越しに、はだけたかけた巫女姿の少女の太股に注がれていた。

 体操座りすると、スカートタイプの服装では、股間が丸見えになるから要注意である。

「エッチ!」

 突然、大声を出すと足をピッタリと付け、袴を両手で掴んで合わせると膝で挟み込み、じろりと周囲を睨む。

 おそらく、少女がこの世界で大声を上げたのは、この時が初めてだっただろう。

 これを耳にした周囲の誰もが、その意味を正確に理解した者はいないであろう。

 まぁ、このくらいですんだからいいものの、もし少女が愛用のアプリケーター付きタンポンを挿入しているところを侍女たちが目の当たりにしたら、きっと侍女たちは卒倒したに違いない。

 日頃はワコールのブラが主だが、コンテストの日ということもあって、勝負下着として今日は刺繍が見事な上下セットで数万円もするイタリア製エクセリアのピンクのブラも着けているのである。もし、その上下の下着姿を披露したら古代の人々はどんな反応をしただろうか、と、少々興味があったりするのだが・・・・・・。

 御簾の前に両手を広げ、仁王立ちになった仲津彦が言った。

「俺の比売神さまを、いかがわしい目で見るでない。今度そのようなことをしたら、叩っ斬るぞ」

 酔っているからに違いない、と少女は思った。でも、嬉しかった。

(この世界でも、私を護ってくれる人がいる)

 そう考えると、この世界も悪くはない、と思えるようになった。

 やがて侍女2人がやってきて、少女を奥へと案内した。

 そこは仲津彦の寝所で、息長姫が胸のさらしを巻いた部屋でもある。

 そして、そこに案内された意味を悟った。

(私の初Hの相手は、あの汗臭い、獣臭のする男なのか・・・・・・)

 そう思うと、涙がこぼれてきた。

 だがその一方で、日本武尊の御子である仲津彦という、この地の有力者の庇護を得るためにも、仕方がないことだ、と自分に言い聞かせていた。

(もう、このままこの世界で一生を過ごさないといけないかもしれないのだから)

 そう思うと、我が身が愛おしかった。

「比売神さまにおかれましては、あちらのでおやすみいただくように、と仲津彦さまからのお言葉です」

 仲津彦の褥に違いなかった。夜具も整えられている。

 間もなくこの褥で繰り広げられるであろう行為を想像して、沙織は身を固くした。

「水浴みをしたい」

 侍女は顔を見合わせた。

「水は冷たく、寒うございます」

「お湯は?」

 年長の侍女がもう一人に目配せをする。

「今すぐ、湯屋に湯を取りに行ってまいります」

 当時、温泉でもない限り湯を沸かすということはあまり行われておらず、とても湯は貴重だった。

 それをたらいに入れて持ってきたのである。

 さらしを畳んで湯につけ、絞って体を拭う。

 石けんというものがまだない時代である。

 丁寧に丁寧にこすり、染みついた汗の臭いを落とす。

 若い侍女が溜息をついた。

「なんてお美しい肌でございましょう」

 しかも、まだ半日とは経っていない石けんとシャンプーの香りがその肉体から立ち上ってくる。

 さらに垂れることなく重力に抗して見事に盛り上がる乳房を目にすれば、侍女ならずとも、溜息を漏らしてしまうのは当然であろう。

 まだ栄養状態が十分ではない古代、少し太めな女性の肉体美は豊穣の意味からも、埴輪のモデルにされるくらいである。その点、比売神と崇められた少女は、プロポーションについて言うなら、細身ながらメリハリもあって、この時代では満点に近かったと言えよう。いや、1830年後の現代においても十分に評価が高い体型と面立ちである。

 湯浴みをすませ、それまで控えていた侍女たちも加わって綺麗に拭き上げる。

 当時、香水の代わりに使われていたのが、桔梗の花である。根は生薬として使われる。

 少女の体から立ち上る香りは桔梗とは明らかに異なる爽やかな柑橘系の香りで、ついぞ嗅いだことのない臭いであった。侍女たちはそれはもう、うっとりしながら拭き上げ作業を続けていた。

 仲津彦が寝所に入ってきたのは、1時間ほど経ってからのことである。

 疲労が全身を覆っていたが、高鳴る鼓動と、慣れない床の感触に、かえって目が冴えて眠るどころではなかった。

 そして仲津彦が入ってきた瞬間、臭いだけでも誰だかわかるほどの体臭に、思わず跳ね起きてしまった。

「なんだ、まだ寝ていなかったのか」

 寝入ったところを襲うつもりだったのだろうか、と思って、少女は居住まいを正した。

「あ、あのう、私はこういうこと、初めてで・・・・・・。ふつつか者ですが、よろしくお願いいたします」

 そう言うと三つ指をついて頭を下げた。

 だが、仲津彦は入口近くにゴザを敷いて、予備の夜具を持ってこさせると、呟くように言った。

「俺は神であるお前を抱く気はない」と言って、なんと夜具を引き被り、背を向けたまま、そのままいびきをかいて眠ってしまったのである。

「えっ?」

 いびきを耳にした少女は、腕を枕に眠っている男をまじまじとみつめた。

 大人への階段を昇る瞬間をまったく期待していなかった、と言えば嘘になる。

 しかし少女の決死の覚悟は脆くも崩れ去り、安堵とは別の、得体のしれない喪失感を味わうこととなった。

「な、なんなのよぉ~っ」

 すでに男を迎える心と体の準備が整いつつあった少女は、帯びたその熱をどう処理すればよいのか、まだ識らなかった。

       *

 その夜、息長姫は夢を見た。少女が泣いている夢だ。

 まるで自分が泣いているような、リアルな感情がこみ上げてくる。

「ママ、パパ、どこにいるの? 帰りたいよぉ。寂しいよぉ」

 頭の中に、直接響いてくる、胸が苦しくなるような叫びにも似た声だった。

「なぜ泣いている?」

「だって、変なところに連れて来られちゃったんだもの」

 少女の瞳に映っていたのは、粗末な薄い布団だった。

 月明かりが建物の隙間から入ってくる。

 どこか見覚えのあるような部屋だった。

 背中越しに人の気配がする。しかもいびきをかいて寝ているようだ。

 寝返りを打って、いびきのする方を見る。

 暗くて顔はわからないが、体型からして男のようだった。

「そうか。男に捕らわれ、体を穢されたのだな」

 ちょっと間があった。

「ううん、違うの」

 また間があった。

「その人、私に指一本触れないの。俺はお前を抱く気はない。共に戦った、あの娘でなくてはならんのだ、と言うの」

 安堵の感情と、大切にされているのかもしれないが、他に愛する人がいて、自分には手を触れることもない切なさがこみ上げてくる、複雑な心境。

「そうか。男には他に想う人がいるのだな」

 だが、息長姫は首を傾げた。当時の男はそんなストイックな輩は皆無だったからだ。

 少しでも気に入った娘がいたら自分の名を名乗り、相手の名を訊いて、それはすなわち妻問いなのだが、そのままお持ち帰りして、行為に至るのが当然の世の中であった。

 戦の中、いつ果てるとも知れない命を少しでもその種を残しておこうとする、生物学的な本能のようなものである。

 しかしその男は確かに少女には指一本触れなかったらしい。

 もし自分が男の寝所に連れて行かれ、指一本触れられずに放置されたら、まだ生理の来ていない子供の身だったとしても、絶望に打ちひしがれることだろう。

 少女のすすり泣きとともに、引き被っている夜具を握る手に力がこもる。

 すすり泣いているのは、自分とは別の人物なのに、まるで自らがそうであるかのように、息長姫の胸が痛んだ。

 息長姫は薄目を開けてみた。

 窓からカーテン越しに差し込む月明かりが、いっそう寂しさをかき立てる。

 この光景は、確かに今、息長姫自身がいる、沙織の部屋に間違いなかった。

「あなたはいいわね。私の部屋で・・・・・・」

 声が頭の中に直接響いてくるようだった。

「あ、そうか、これは夢だものね。私がそちらにいた頃の夢。ぬいぐるみやアイドルの写真に囲まれ、パパやママがいて、学校のと・も・だ・ち・も・い・・・て・・・・・・」

 息長姫は一気に眠気に襲われた。

(まだお前には訊きたいことがたくさんある。お前は誰じゃ。そしてお前がいるそこはどこじゃ。男はひょっとして・・・・・・)

 だが睡魔は息長姫の脳細胞を次第に占拠してゆき、息長姫も深い眠りに落ちていった。

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