恋愛初心者

鶴丸ひろ

恋愛初心者

「いや、だからね、恋愛映画でも見たらいいのよ」

 缶ビールを片手に、姉は面倒くさそうにそう言った。

「ああだこうだ言う前にさ、実際に行動に移してみなよ。考えることは大事かもしれないけどね、何も考えずにやってみるっていうのも、大事なことよ」

「だけどさ、」

 姉の前で正座した青山竜樹は、せめてもの反論をする。

「二十歳をすぎた男が、中高生が好きそうな恋愛映画を見るなんて、……恥ずかしいよ」

 かあーっ、と姉は大げさに顔をしかめた。

「恥ずかしいよ——ってあんた乙女なの? ねえ、大の男がさあ、そんな情けないこという方がよっぽど恥ずかしいって思わない?」

 ぐびぐびとのどを鳴らし、姉は丸テーブルにたたきつけるようにして缶を置いた。カコン、と空のアルミの音が六畳一間の部屋に響く。

「だいたいねえ、あんたのそのしみったれた悩み相談させられるこっちの身になってくれる? いちいち聞くのも面倒なのよ。ねえ、行動力が伴う人なら確かに相談の乗りがいがあるけど、あんたみたいにウジウジ悩むだけ悩んで何もしない奴ほど面倒なことはないわ。そう思わない?」

 竜樹は唇をかみしめている。それは確かに、その通りなのかもしれない。

「でも、……どうしても彼女が欲しいんだよ」

「だーかーらー、何度も言ってるように、恋愛映画を見に行けば良いのよ」

 姉はするめを頬張った。

「そりゃそうよ、二十年間も誰ともつきあったことがないくせに、女に突然つきあってくださいなんて言えるわけないのよ。だって免疫がないんだもん」

 パシュ、と新しい缶ビールを開ける。

「あんたはね、恋に憧れてはいても、本当は恋することが怖いのよ。あんたいつもそうじゃん。よくドラマとかでラブシーンが始まった途端にさ、早送りとかにするじゃない。あれ本当に迷惑だから。照れくさくてしようがないんでしょ。そうでしょ?」

 図星だった。ラブシーンはこっぱずかしいのだ。小説でも映画でも同じだった。歯の浮くような台詞を言われると、何とも言えない嫌悪感というか、罪悪感というか、——とにかく逃げ出したくなるのだ。洋画とかでも、突然ねっとりとしたキスシーンなんてされたらたまったものじゃない。

「だからね、どうせ今すぐ女の子を目の前にしたとしても、すぐに逃げちゃうのよ。喋ることなんてできるわけない。告白なんてもってのほか。——じゃあどうするか」

 ぎろり、と姉の鋭い目つきが竜樹を見据える。

 竜樹は正座したまま、

「……恋愛映画を見に行けってこと?」

「そ」

 ぐび、とビールを姉はあおる。

「とにかく、恋愛してるとこを見て、その空気に慣れなさい。たぶん、嫌になったり逃げ出したくなると思うけれど、我慢して見続けるの。周りには女子中学生とか、高校生とかたくさんいるわ。カップルとかもいるはずよ。そういう雰囲気に、もまれてきたら良いんだわ」

 また一本を空にした。姉は奥歯でするめをかみ切る。

「なんだかんだ言う前に、今すぐ行ってきなさい。ほら、なんかあるでしょ、いまテレビとかですっごく宣伝されてるやつ。なんだっけ、すっごい顔のちっさい俳優が高校生役でやってるじゃない」

「……いや、しらないけど」

「あるのよ。ある。映画館行ったら絶対にポスターとかあるから、とにかく行って見てきなさい。今時の高校生の恋愛を見て、キュンキュンしてきなさい」

 竜樹は正座したまま、しかしなかなか動き出せなかった。女子学生で埋まった客席にこんな冴えない男が一人でいたら、周りからどんな目で見られるだろう。

 怖い、

 怖い、

 竜樹は顔を上げて、

「……でも、」

 ビールの缶が頭に飛んできて、竜樹は逃げるようにして部屋を出た。


 

 三十分後、青山竜樹はちかくのショッピングモールの一角にある映画館の暗室の中にいた。案の定、客層は若い女性が多く、男のお一人様は見当たらなかった。竜樹は後方右側の席について、脂汗をかいていた。

 スクリーンの中では、自分とは種族が違うのではないかと思しき美男美女が、歯の浮くような台詞を連発している。

 ——おれ、お前のことしかもう見えない。

 ——はいはい、どうせ別の女の子にも言ってるんでしょ。私には分かるんだから。

 ——本当だって、もうお前しかいないんだよ。

 ——別に、私はあんたのことなんて好きじゃないんだからね。

 もう竜樹は口が閉じない。よくもまあこんなことが言えるものだと思う。こんな台詞、二十年間生きてきて、一度たりとも口にしたことがない。言われたことだって当然無い。

 ——ほら、素直になれよ。俺に惚れてるんだろ?

 ——もう、バカ。

 逃げたい。早送りしたい。見ているだけで、恥ずかしい。

 けれど、たぶんそれは自分が恋愛というものに疎いからなのだろう。

 こうやって他人がやっていることを斜に構えて見てしまうのは、自分の悪い癖だ。きっと姉は、そんな今の考えを正そうと思ってこの映画を薦めてくれたはずなのだ。もっと視野を広げろ、と言うことなのだろう。世の中の男は、きっとみんなこんな台詞をたくさん言っているはずなのだ。だから、スクリーンの中のイケメンたちの台詞を薄ら寒く感じいている場合ではないのだ。

 自分も、当たり前のように言えるようにならなくてはいけないのだ。

 小声で、練習する。

「……すなおになれよ」

 素直になれよ、素直になれよ、——ぶつぶつと台詞を練習していると、横の席の女子がちらちらとこちらを見るようになった。

 なるほど、確かに効果はありそうだ。



 映画が終わると、早速試してみることにした。

 隣に座っていた女子は友人と来ていたようだ。仲むつまじそうに映画の感想を話しながら改札を抜けようとしているその子の元へとおもむろに近づいた。できる限りあの登場人物に似るように雰囲気を作り出して、練習したとおりに言ってみた。

「——ほら、素直になれよ」

「は?」

「俺に惚れてるんだろ?」

 

 ビンタされた。

 

 冷静になって考えてみたら、ビンタだけですんで良かったと竜樹は思う。

 言い訳になるけれど、映画を見終わったときの自分は少しおかしかったのだ。いつもと違う体験をしていたから、頭の思考回路がほんの少しショートしていたのかもしれない。恋愛というのはいわば脳内麻薬のようなもので、初体験の自分にはちょっと衝撃が強すぎたようだ。

 我に返った竜樹は、頬を押さえながらこそこそと改札を出た。あんな人通りの多いところでビンタされたのだから、かなりの人に見られただろう。

「……はあ、」

 これからどうしようか。フードコートでちょっとだけ腹ごしらえでもして帰ろうか。今日は疲れた。キュンキュンしたかどうかはわからないが、自分の中の新しい感情に気付いたのは事実だった。



 フードコートに付いた途端、いきなり声をかけられた。

「ど、どうせ他の女の子にも同じこと言ってるんでしょ!!」

 声のする方を見ると、一人の女の子が立っていた。可愛らしい口をへの字に結んで、ぷいとそっぽを向いた。チェックのパーカーに、黒いスカートをはいた、女の人だ。普段はあんまりおしゃれなんてしないけど、今日は頑張って気合い入れてきました——そんなように竜樹には見えた。

「あ、あの、」

「どうせ、他の女の子にも! 同じこと言ってるんでしょ!!」

 腕を組んだまま、女の子は同じ台詞を繰り返した。

 その台詞を、竜樹も知っていた。

 ついさっきの映画で、ヒロインが主人公に向けて言った台詞だ。

 ——この人、もしかして、

 竜樹は、試しに言ってみた。

「本当だって、君しか好きじゃないよ」

「もう、私は別にあんたのことなんて好きじゃないんだからね」

 なんだこれ、

 なんだこれ、なんだこれ、

「素直になっちゃえよ。俺に惚れてるんだろ?」

「もう、……ばか」

 楽しい、

 かなり楽しい。

 ドクドクと心臓が脈打つ。体中の体温が高まる。恋愛経験者とは、こんなに心弾むことをしていたのか。許せない、——こんな楽しいことがあるのを黙っていたなんて、許さない。


 端から見たら、本当にバカな二人組でしかなかった。竜樹もあたまのどこかでは、一体自分たちは何をしているのだろう、今日はじめてあっただけの名前すら知らない女の子と、なに変な「ごっこ遊び」をしているのだろう、——そんなことを、思っていたような気がする。

 けれど、そのごっこ遊びが楽しかった。いつまでも恋愛映画の主人公でいられたらいいなと、竜樹は思った。


 しかし、いつまでも幸せな時間は続かない。

 物語は佳境に入る。主人公とヒロインがほんの些細なすれ違いから、喧嘩をするのだ。

「ねえ、どうして嘘なんかついたの?」

「違うんだ、聞いてくれ、誤解なんだ」

「嘘よ! ひどい、もう知らない!」

 女の子が、ヒロインよろしく去って行く。

 竜樹は律儀にも、映画と同じくその背中を呆然した表情で見送った。階段を下っていき、その姿が見えなくなっても、主人公のようにフードコートの一角で立ち尽くしている。ごっこ遊びは相手がいるから成り立つもので、その相手がその場にいなくなったら別に素面に戻ったって誰にもとがめられないのに、竜樹はまるで本当に喧嘩別れしたかのような悲壮感をかもして突っ立っている。

 こういう状況で、自分は一体何を言ったら良いのか。さっきの主人公は、なんて言ったっけ、ヒロインに去られた男は、確か——

 そうだ、

 あのイケメン俳優は、地面に両手をついたのだ。そして、ヒロインがいなくなったことが悲しくて、大声で泣き叫んだのだ、

 そうだ、

 こうやって、

 地面に這いつくばって、


「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああん!!」


 警備員が来た。

 走って逃げた。


  * * *


 とんだ災難だった。あとで姉に文句を言わなくては。

 竜樹はショッピングモールの自転車置き場で肩で息をしている。呼吸が苦しい。こんなに本気で走ったのなんて小学校の鬼ごっこ以来だ。汗が噴き出して、気持ちが悪い。

「はあ、——はあ、」

 何をやっているんだろう、と思う。普段体験しない気持ちだったから、ちょっとだけ舞い上がっていたのかもしれない。いつもの自分ならあんなこと、絶対にしないのに。

 でも、と思う。

 ほんのちょっとだけ、楽しかったと言えば楽しかった。

 けれど、それもすべて一時的なものだ。もうさっきの女の子も去ってしまって、行方なんてどこにいるのか分からない。向こうもたぶん、自分と同じように舞い上がっていたのだろう。気持ちはとても分かる。

 まあ、ほんの一歩くらいは進めたかもしれない。確かに、恋愛は楽しいのかもしれない、女子学生たちがキュンキュンしたいという気持ちも、多少は分かった。それだけでも今日は良い収穫だ。

 さて、今日はもう帰って、すぐ寝よう。新しいことをすると、やっぱり多少は疲れるものだ。

 そう思って、竜樹は自転車を押して小屋を出た。


「お、遅かったじゃない」


 さっき女の子がいた。パーカーを着た、黒いスカートの女の子。この展開、さっきの映画の中で見た。主人公がヒロインと離れ離れになってしまったことを悲しんでいると、そのヒロインが校門の前で待っていたのだ。遅かったじゃない、と。そして、不機嫌そうなヒロインは、腕を組んだままそれに続いてこんな台詞を言うのだ。

「女の子を待たせるなんて、なってないんじゃない」

 そう、まるで目の前の女の子のように。

 このあと、主人公は手にしていたカバンを落とし、走ってヒロインのことを抱きしめるのだ。「ごめん、遅くなっちゃって」そして、頭をぽんぽんと優しくなでる——

 はずだが、そのときの竜樹は、そんな器用な動きは出来なかった。自転車を持ったまま、呆然とした表情で彼女を見ている。

 えっと、

「あの、もしかして、ラブシーンとかで逃げ出したくなるタイプの人ですか?」

 彼女は、シナリオと違う言葉に目を丸くした。ふいに素面に戻る感じ。そして、顔を真っ赤にして、うつむいた。消え入るような声で、

「……は、はい」

 それだけ言うと、彼女はきびすを返して走り出そうとした。

「——ま、待って」

 その腕を竜樹は掴む。初めてつかむ女性の腕に、竜樹は鳥肌が立ちそうになる。男性とは違う、想像以上に細い腕。なんだこれは、昨日と今日で、まるで違う世界にいるようだ。

「ぼぼ、ぼくも実はそうなんです。恋愛したいなって思いはあるのに、実際にそういう場にいると逃げ出したくなって、」

 女の子は、その場で硬直したように立ち止まっている。逃げようとも、手をふりほどこうともしない。

 ええっと、ここからどうしたら良いんだろう。あのときの映画は、

 ——いや、

 やっぱり無理。スクリーンの中の人たちのことをまねるのは、合わない。

 だったら、後は自分らしくやったら、いいはず。恋愛に、正解も不正解もないのだから。

 後は、自分の判断だ。息が震えた。手も震えていた。掴んでいるのは自分のほうなのに、今すぐ逃げ出したい、

 けれど、

「こ、これから、お茶でもどうですか?」

 声が裏返った。かっこわるすぎて、泣きそうになる。女性をお茶に誘うなんて初めてのことで、もうまるまる一年間のエネルギーを使い果たしたような気がする。もう今すぐすべてを投げ捨てて、部屋に帰ってパソコンの電源をつけたい。お菓子を食べながら横になってユーチューブが見たい。

 ゆっくりと、彼女が振り返る。

 彼女も、竜樹に負けず劣らず、泣き出す三秒前の顔をしている。

 お互いに、泣きそうな顔をしながら、震えながら、見つめ合う。

 やがて、彼女はおそるおそる頷いた。

「……よ、喜んで」

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