White and Huge
箱津瑞幸
White and Huge
ここで生まれ、ここで生きてきた。それに、何の疑いも持たなかった。
このままここで生きていくのだと思っていた。これからもずっと、変わることなく。
あまりにも怠惰なその思いは、突然に裏切られた。
文字通り、なんらの前兆ももたらさず。
「……誰?」
「誰でもいいだろう、私のことは」
「……でも……」
影は、言いかけてその先に澱むわたしの言葉を一方的に遮った。
「私は、キミに用があるだけだ」
わたし以外、何も存在しない部屋。けれど、相手はわたしのことをよく知っているようだった。まるでこの空間が生まれたその瞬間から、ずっといたような気がするほど、違和感がなかった。
限りなく素っ気なくも、一方でひどく親しげな、わたしを多少侮るような視線が印象的だった。
その人は、わたしを【キミ】と呼んだ。
誰かから、そのように呼ばれたのは初めてだった。思わず、聞き返した。
「それがわたしの名前ですか?」
「違う」
切り落とすような鋭さのあと、その人は、視線をわたしから外した。視線だけではなく、顔ごとそっぽを向いた。
けれどわたしはなぜか、そんな動作にさえ慣れ親しんだものを感じていた。それでも、【では「キミ」とは何なのか】と聞き返すことができなかった。
唯一の発信手段である言葉を失って、ただおろおろとするだけのわたしの空気に気づいたらしい。その人は視線を戻してくれた。
紆余曲折のような、多少の彷徨を含みながら。
「ここは、黒だ」
「……はい?」
「キミは黒いここから出て、白へ向かう」
黒とは。白とは。
出るとは。向かうとは。
意味が、分からなかった。
「……”街”から、キミを解放する」
有無を言わさぬ強い口調に、息を飲んだ。今わたしは何か、とても重要なことを言われている。それだけはよく分かった。だから、呼吸を一瞬、忘れた。
「そんな不安そうな顔をするな」
言葉が継げない。呼吸すらまだ、うまくできない。苦心したけれど、黙ってうなずいてみせた。その人も、わたしの目を見てうなずいてくれた。満足した表情と読み取った。
「それでいい。ここには刹那の時間さえも存在しないからな。……行くぞ」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「……なんだ」
不機嫌そうな顔が、たまらなくつらかった。ここにいてから一度も苦しくならなかった胸郭のあたりが、初めて激しい動作を繰り返していた。
けれどわたしは、ここにいなければならないのだ。
ここで、これからも時を過ごしていかなければならないのだ。
ためらいがちにもそう打ち明けると、その人は目を伏せてから——つまりまた、視線を逸らして——独り言のようにわたしに伝えた。
「ここは、閉ざされている」
その人がわたしを見ていないことを知っていて、それでも首を折った。
それだけは知っていたと、伝えたくて。
この空間の外に自分の知らない世界があることは知っていたと、ただ。
「キミの名前は、あるいはマリーと言うのかもしれないな」
「マリー?」
「おそらく、違うとは思うが」
なら、なぜそんなことを言うのだろう。
わたしの顔を見たその人は、目を細め唇をゆがめた。
その表情の意味する感情を、わたしは知らない。自然と手が触れたその皮膚の奥深くが、痛いように、苦しいようにただ騒がしい。
「わたしの……名前」
欲しいと思った。
わたしの存在を証明してくれるそれが、今、たまらなく欲しくなった。片眉をひゅいと動かして、その人は低く疑問符を打つ。
「……欲しいのか」
「……はい……」
「けれど、な。それは今のキミには必要ないものだろう。なぜか?
名前など、記号に過ぎないからだ。記号そのものに意味を持たせようとするな。自分の存在を、他者から与えられる何かで証明しようとするな。
キミの存在は、キミにしか証明できない。私はそれを手助けしてやるだけだ。……それも、私の勝手でな」
意味がわたしの中で、不明瞭に揺れ動く。
激しく動作を繰り返す肋骨の中のものに響くほど、初めて深く理解できるような、それとも、自分が自分に触れているものすら分からない、馴染み深い感覚のような。
「そんな、勝手なことを……しないでください」
「だがそれでないと、私が困るんだ」
「……困る……」
それなら、わたしはこの人を困らせたくなかった。自分でも驚くほど早く、聞き返していた。
「それならわたしは、何をすればいいんでしょう」
その人は、わたしの瞳をまっすぐに見つめる。呼吸がまた持って行かれそうな感覚に陥った。いや——違う。この人が我とみずから持っていくのではない。わたしが望んで失うだけだ。
「キミに、私がこれからすることを受け入れるんだ。そこから……未来を好きなように、好きなだけ刻め」
緊張のために、ごくりと喉を鳴らした。後半の意味はまったく分からない。けれど、とてつもなく巨大で重大なことをする感覚だけはあった。
「キミはこれから、量子レベルで分解され、さらに量子テレポーテーションが行われる。そしてかの地でキミは再構築される。けれど、キミの存在は混合エンタングルだ。だから各々のカテゴリには確率が存在する。従ってキミの存在は、かの地での再構築が確約されているわけではない」
「じゃあ……わたしは……無くなってしまうかもしれない、ということですか?」
「そういうことになる」
「……それは……いやです」
わたしがそう言うと、その人はふっと視線を細めた。微笑むような、かすかに柔らかいそれを、ひどく懐かしく感じた。それこそにわたしの存在が証明されたような気がした。この人は、わたしを認めてくれている。
もしわたしがいなくなっても、この人の中で、【わたしがいた】というデータは残るのだ。
わたしそのものはデータだ。記号の集合体とも言える。ならば、そのデータが分解され、どこかへ転送されることは不自然なこととは言えない。データに過ぎなかったわたしは、この人の記憶というデータバンクに今、転送された。
現象だったわたしは、この人の中で、存在になった。
「キミは光速を越えるだろう。この部屋の拘束から逃れるためには、それしか方法がない。そのための鍵を、今、私が与える」
「……はい」
こわくなかった。それは今のわたしにとって、ちっとも不思議なことではなかった。わたしは確信を持って、その人の顔をまっすぐに見つめた。
少しだけ気まずそうな顔をしたその人は、わざとらしく咳払いをしてから、わたしを見据えた。
「準備はいいか?」
「はい」
「そうか。……それでは、ごきげんよう」
「……ごきげんよう」
初めて耳にするそれが別れの言葉であることは、彼の表情から明らかだった。
次の瞬間、”鍵”が渡される。顔の前にその大きな掌がかざされ、わたしはそれを受け取った。
「ここに有る存在、現象、そしてすべての未来は、キミ次第だ」
//以上
White and Huge 箱津瑞幸 @misaki_baco2
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