希望が鎖す、夜の別称:115
妖精たちがラティの目覚めに取りかかれたのは、結局その日が終わる寸前のことだった。なにか事件があっての遅延ではない。ただ単に、砂漠の国が落ち着くのを待っていたら、それだけの時間がかかってしまっただけである。午前中にはソキの魔力発動が、午後には砂漠の王を由来とした魔術師たちの爆発的な歓喜が砂漠にばら撒かれた。ソキはともかくとしてお前は邪魔したいのかと妖精は筆頭に頭を抱え込んだのだが、外見だけとてつもなく麗しく中身が香ばしい男は、柔らかな微笑みでそんなことないよごめんね、と囁いてのけた。
筆頭は、はいはい邪魔しないのせっかく助けてくれるんだからね、と部下たる魔術師たちを笑顔ひとつで呻かせ静かにさせて、妖精たちにその時を待つように懇願した。きっと、今日のうちにはもうひとつ、魔術を使えるように落ち着く筈だから。もうすこしだけ待って欲しい。その言葉は確かに正しかった。
藍色の天に星がちらつき始める頃、焦燥と共にそれを見上げていたルノンが、これなら、と呟いたのだ。これなら、もうすこし、もうすこしだけすれば、きっと。深く深く夜が濃くなっていくたび、幕を引かれた舞台から観客が退場していくように、砂漠の魔力は急激に静けさを取り戻して行った。夜に眠りにつくように。ひたひたと水が染み込んでいくような静けさと冷たさで、世界はとうとう、妖精たちの為に場を整えた。
すぐさまルノンが号令をかけ、妖精が集中なさいよと叱責し、夥しい数の魔力が、そのものが、ひとつの魔術を紡ぎあげる。ゆりかごに似ていた。眠りの場をそこへと移し、ゆるゆると揺らしながら穏やかな目覚めを促していく。途中まで、終盤まで、それは順調に思えた。誰もがラティの目覚めを、砂漠の虜囚の眠りを確信し、よかった、と胸を撫で下ろしていた。
もうすこし、ほんのあと僅かでラティは目覚める、眠りの魔術が解けきる。そんな最中のことだった。え、と声を上げたのはルノン。あ、と呟いたのはシディ。あら、と首を傾げたのが様子を見に来がてら手助けをしていたニーアで、隠すことなく頭を抱えて天を仰ぎ、度級の呻きをあげたのは妖精だった。声や仕草こそ控えめではあるものの、集まった妖精たちも一様に戸惑い、羽根を震わせては困惑混じりに視線を交わし合う。
術式が間違っていた訳ではなく、解呪そのものが不調なのではない。最後の最後で抵抗があったのだ。それは覚えのある蜂蜜色の魔力だった。最後の最後の結び目、それを解けばあとは放っておいても術式が崩れる箇所にしっかり捕まるようにして留まっていた魔力が、いやんやあああぁあっ、と叫んでだだをこねるように、妖精たちの魔術を拒絶していた。ソキである。ソキの魔力、その一欠片だった。
え、ええぇええ、と引きつった声を上げて、ルノンが妖精を見る。シディは苦笑混じりに、ニーアは助けを求めるように、仲間たちからはいかんともし難い微笑みで見つめられて、妖精は心から呻いた。こっちを見るんじゃない。
『いやこれアタシの責任じゃないわよっていうか、アタシに対処を託さないでちょうだい……ソキの責任を取るのはロゼアよロゼア。アタシじゃないわよこっち見ないでったら!』
『……魔力そのものは契約妖精の管轄では?』
『シディ。アタシいま、正論なんて求めてないのよ? 分かるわね?』
座りきった目で瞬時に胸ぐらを捕まれ、シディは達観した笑みではいそうですね、と微笑んだ。いつだって正論を求めていないようなのを、指摘するほど無謀ではない。妖精は従順なシディに理不尽な舌打ちを響かせ、忌々しそうに眠るラティを見下ろした。幸い、部屋にいるのは妖精たちだけだ。メーシャは砂漠の魔術師たちが宴に誘拐して行った為に不在である。
連れて行ったとするよりも誘拐に近い拉致をされたメーシャが、戻ってくるのはまだ先だろう。ほんの僅かな揺らぎでも遠ざけたがった王宮魔術師たちの意図を、読んで耐え切れぬほど、メーシャは幼くもないのだし。我慢し過ぎのきらいはあるが、冷静な視点と判断は妖精たちが好む所だった。あの魔術師のたまごの悲しむ顔は見たくなく、また、ラティの目覚めも妖精たちの望みである。
そうであるから、ここで諦めることなどできない。できないのだが。妖精が呆れ果てた仕草で息を吐く、視線の先。布地に精緻に施された刺繍めいた、ぞっとするほど精密で精緻で滑らかな術式の上に。蜂蜜色のまぁるい魔力がひっしにしがみついて、がびがびとした明滅をしているのが見えた。いやんやぁあああっ、あっちいってですうううっ、だめですううううっ、だめったらだめったらだめなんですううううっ、と魔力の欠片がひっしに泣き叫んでいる。
それを、妖精たちの魔術、魔力がどうにか宥めて落ち着かせ、説得しようとしているが、一向に上手く行かないのだった。触れられるたび、囁かれるたびに、小さな魔力はさらにがびがびとした明滅を繰り返し、いやいやと周囲を拒絶してはひっしにひっしに泣き叫び、しがみつき、離さなくなっていく。
それを無理に剥がして解呪することも、できなくはない。できないことではないのだ。なんといっても、魔術師の魔力、その欠片である。いかな予知魔術師といえど、妖精相手に抵抗しきれるものではない。だから、やろうと思えばできる。できるのだが。泣き叫ぶ幼子をつまみ上げ、ぽぉんと彼方へ放り投げるような所業を、やればできると言っても実行するとなると。
仲間たちの困りきった視線を一身に受け、妖精は堂々と腕組みをしながら、いやアタシだってこんなの無理に決まってんでしょう、と言い放った。
『この状態のソキが、アタシの言うこと聞くと思う? いやソキじゃなくて魔力だけど、これはもう同じことよ。ソキよ。つまりまぁ……言うこと聞くだなんて、アタシは思わないわ。というかロゼアだって無理なんじゃない?』
『ど……どうしろと?』
『どうするもこうするも。ソキだったら疲れて寝落ちするのを待てばいい話なんだけど……』
相手は魔力である。ソキではない。ソキの魔力であるというだけで、本人ではないのだ。そうであるから、持久戦を挑んでどうなるものではなかった。妖精がうんざりしながら魔力を響かせて様子を伺っても、ひっくひっくと泣いていやいやとむずがられるばかりで、説得に応じそうにはない。妖精は無慈悲に頷いた。
『よし、撤去よ』
『これをっ? こっ、これを……っ?』
『そっと摘んで、ちょっと移動させればいいじゃない。……ほら、大丈夫だから。ちょっとこっちに来てなさい』
しかし。魔力は結び目にしっかり絡みついたまま、いやんやああああっ、と泣き叫ぶばかりだった。仲間たちが、あっひどっ、えっそんな手荒な、まってかわいそう待ってあげてまって、泣いてる泣いてるから、あぁああぁあ、と声を上げる中、妖精はその魔力をなんとか退かそうと、引っ張ったり突いたり怒ったり宥めたり叱ったりしたのだが。
引っ張っても、みょーん、と伸びてどうにも離れないとなると。やることはやったわよ、とばかり、ぱっと触れるのをやめてしまった。
『無理。……そうね、やっぱりロゼアで釣るのが一番じゃない? シディ、ロゼア持ってきなさい。ロゼア』
『せめて言葉を選んで連れてきて、と仰ってくださいね、リボンさん。……ロゼアですか? ソキさんではなく?』
『本人連れてきたら、さらに拗らせる気がしない? アタシはするわ』
そうですねしますね、とシディは苦笑しながら頷いた。しかし、ロゼアを連れてくるとも言わなかった。シディの守護する魔術師のたまごを連れてきたとて、成功するとは限らないからだ。妖精もわかって難癖を付けているだけなので、腕組みをして舌打ちしただけで、シディの羽根に手を伸ばしも、いいから連れてこいとも言わなかった。じりじりと、焦げ付くような時間が過ぎていく。
どうしたらいいんでしょう、と困り果てたニーアの声に、知らないわよ、と妖精は告げかけて。閉じていた筈の部屋の扉の隙間から、そーっとそーっと入ってきたましろいひかりに、思わずはぁっと声をあげた。ましろいひかりが、見つかっちゃったっ、とばかりびくりと跳ねる。いじめないでね、とばかり微笑む筆頭の姿が閉じられる扉の向こうに消えた。えーっと、と妖精たちは一様に沈黙した。なにをしにきたというのだろう、と思うより、あの筆頭は今度はなにを企んでいるのだろう、と思う。
ましろいひかりは妖精たちの思惑を察したように、じぇいどわるいことしないものっ、とぷんすかした様子でちかちかぺかりと光ったあと、えっちらおっちら漂うように、眠るラティの方へと移動した。展開する、その魔術の上に。ひっくひっくと泣いて、起こしちゃだめだもん、だめだもん、けんめいにがんばるもん、と主張する、蜂蜜色の魔力の欠片に。寄り添うように、ましろいひかりはふわりと揺れる。
大丈夫よ。怖くないの。よく頑張ったね。いっしょうけんめい、したね。もういいのよ。大丈夫。怖いことないからね。起こしてあげようね。囁くように。ましろいひかりは、とろとろした蜜のようなひかりで、魔力の欠片に語りかけていく。ぐずっ、と蜂蜜色の魔力が震えた。己と同じものに対する無警戒と、甘えた気配を感じ取る。呆れるほど、ソキの魔力。その一欠片の反応だった。
でもでもだってぇ、だめだもん、だめなものはだめだもん、けんめいにがんばるんだもんっ、とばかり。ひしいいいいっ、と術式の結び目にひっつく蜂蜜色の魔力に、ましろいひかりは諦めず、もういいの、よく頑張ったね、と語りかけていく。妖精はため息をつきながら、丸っこくてぽわぽわしたものたちのやり取りを見下ろした。なんというか、ぐずっているソキを宥めるのと全く同じ作業である。
妖精はやや不得意なそれを、ましろいひかりは丹念に、上手くやっているようだった。一進一退の、じりじりした時間が過ぎていく。集中は途切れさせず、しかし完全に飽きた気持ちで、妖精が幾度目かのあくびをする。そろ、と蜂蜜色の魔力が結び目から離れた。はっとした妖精たちが固唾を飲んで見守る中、そろそろ、と警戒したどんくささで結び目を離した蜂蜜色の魔力を、ましろいひかりがぎゅうと抱きしめるようにして引き寄せ、明滅する。
偉いね、とっても偉かったね。頑張ったね。ありがとうね。もう、いいよ。蜂蜜色の魔力は嬉しそうにほわりと光をこぼした後、溶けるように解け、世界に消えてしまった。妖精たちが見守る中、魔術の結び目が綻ぶように解けていく。硬い蕾から花が咲くように。そうしてほとほとと、花びらを散らしていくように。すぅ、と魔術が消え去っていく。
えへん、しゅにー、すごいでしょう、しゅにー、がんばったでしょう、ほめて、とばかりふよふよ浮かび上がって漂ってくるましろいひかりに、はいはいよく頑張ったわありがとうね偉い偉い、と言葉をかけて。妖精はため息をついて、まっふまふのもふもふに自慢げにするましろいひかりを、保護して部屋の扉まで飛んだ。
で、見覚えないけどあの幼いのなに、という同胞たちの好奇心から守ってやる為である。思った通り、砂漠の筆頭は扉のすぐ向こうで待機していた。男に、しばらく傍から離すんじゃないわよ、どうもありがとう助かったわ、と告げると、くすくすと幸せそうに微笑まれる。どういたしまして。いじっぱりになった『花嫁』の説得は、同族か専門職じゃないとちょっと難しいからね、と笑う男は、中の様子を聞かなかった。
聞かないでも、自慢げにまるまるふこっとするましろいひかりが全てを物語っていたからだ。それでも妖精は一応、解呪が成功したことを砂漠の国の王宮魔術師、その筆頭たる男に告げた。うん、と目を細めて幸せそうに笑われる。
「ありがとう。これで憂いなく、陛下のお祝いができるよ。……明日には目を覚ますかな?」
『そこはちょっと分からないわ。ただ、もう普通に寝てるだけだから、そう構えてなくても起きるでしょうよ』
「そっか。……これでメーシャも落ち着くね」
その、メーシャの姿はないままである。どこの宴会に拉致したのかを問えば、砂漠の筆頭は麗しい笑顔でもちろん王宮魔術師のだよと告げ、ただ、と言葉を切ってゆるりと首を傾げてみせた。花の芳しささえ感じさせる、やわらかでうつくしい仕草だった。
「今日は起こすのはかわいそうかな。酔い潰した所だからね」
『……はぁん?』
「たくさん飲ませちゃった」
語尾に花が咲きそうな声で可愛こぶられても、実際は酔い潰しただけである。妖精はなにしてんのアンタ、と心からまっすぐに問うた。ジェイドはそれはそれはうつくしい、うっとりとした笑みでやったのは俺じゃないよ、と言った。信憑性がまるでなかった。疑いの目で睨む妖精に、砂漠の筆頭は楽しそうに言った。
「まあ、注がれてるのを止めもしなかったけど」
『ああぁあぁああぁやだこの男! ろくなことしない! ろくでもない!』
「不安になるよりね、酔ってでも寝ちゃった方が良い夜ってあるよ。さすがに、お祝いにも乗り切れてない様子だったし……まあ、二日酔いしない処置はしてたから、白魔術師たちが。大丈夫、大丈夫。ね?」
ね、ではない。同意を求めて来ないで欲しい。もういいから行きなさいよ、と手を振って追い払えば、筆頭は悪戯っぽい笑みではぁい、と言った。それじゃあ、またね、と去っていく筆頭を見送って室内に戻ると、すでに同胞たちも解散していた。術式は問題なく解除された。念の為確認しても、ラティは魔術の影響なく、ただ眠っているだけである。
ほっと安堵して、妖精はルノンとニーアと別れ、シディの羽根を掴んで『お屋敷』へと戻った。明日には、遅くとも夜には、ラティが目覚めたと知らせが来る筈だ、と思って。しかし翌日の夜になっても。年があけても、数日が経過しても。ただ眠っているだけの筈なのに。ラティが目を覚ますことは、なかった。
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