希望が鎖す、夜の別称:114
話し声とは違うなにかに瞼をくすぐられたような気がして、アイシェはぼんやりと目を開いた。おぼつかない視界に入ってくるのは、戸口に立つ王の姿だった。どこか雑に服をまとった、どこかに出かけるとは思い難い姿で、誰かと立ったまま話し込んでいる。緊急の要件や、差し迫った指示を必要とする内容ではないのだろう。王の背に隠れて姿の見えない話し相手からの、くすくすとした笑い声が早朝の空気を揺らしている。
まったく、仕方のない方だ。不意に鮮明に飛び込んできた声は穏やかな響きをしている。聞き覚えのある声だった。ふ、と息を吐いて、目を覚ましていながらも寝台から動けないでいるアイシェに、王と話し役の声がさわさわと響いては素通りして行く。起きて、瞼を開いて、身体を起こさなければ、という意思は、眠気と疲労の前にゆるゆると形を成さず溶けていく。それでいて眠りに落ち切らない意思が、言葉をぼんやりと受け止めた。
笑い交じりの囁く声と、頭の痛そうなうんざりとした声が交互に空気を震わせる。ハーディラがかんかんでしたよ陛下、悪いとは思ってるがなんで俺のハレムの女の感情を把握してるんだお前は、仲良しの昔なじみなものですからお手紙が来るんですよねほんとかんかんでしたよ陛下、繰り返さないでいい、一応はなだめておきましたけどあとで陛下もちゃんと謝りに行ってくださいね、やだ、謝りに行きましょうね、やだっつってんだろ、謝りに行きなさいね。
嫌だって言ってんのか分からないのか、理解はしますが受け入れませんと申し上げております、いーやーだーなんで俺がハーディラに謝らないといけないんだ、だだをこねないでくださいね王の女の管理は彼女の仕事だからですよ、俺の女を俺が連れ出してなにがいけないんだよ俺のだぞ俺の、俺は同意とか合意の話をしております陛下結果ではなく過程のね、なんかお前今日機嫌よくないかジェイド。
機嫌がよくても悪くても疲れるのでやだ、と言わんばかりの王の声に、アイシェはゆっくりと瞼を開いた。ようやく意識が手元まで、はっきりとした形で戻ってくる。それでいて全身を支配する倦怠感に眉を寄せながらも、アイシェは寝台の上でなんとか身を起こした。幸い、起き上がれるほどの衣服は身に着けていた。そうであるからこそ、王は戸口で人と話しているのだろうが、非礼を晒すことにならずに安堵する。今からでも挨拶をすべきなのだが、寝起きの喉はまだ擦れて水を求めていた。水差しに手を伸ばして陶杯に注ぎ込み、先に喉をうるおす。
微かな音に気がついたのだろう。はっと振り返った王が、戸口にジェイドを置き去りに寝台まで戻ってくる。しまった、と言わんばかりしかめられた顔は、女を寝かせておきたがる意思に満ちていた。アイシェ、と王は寝台に屈みこみ、その頬に手を伸ばしながら告げる。
「起こしたか。……まだ眠っていていい」
「陛下、わたくしのことは、お気になさらず……。戻られないと」
もう何日も、王をこうして独占してしまっている。そのことに対する申し訳なさ、罪悪感に眉を寄せながら囁けば、王はあからさまに不機嫌そうな顔をした。頬を撫でていた指が、もにもにと摘まんで弄んでくる。怒り、というよりは拗ねきった目の色に、アイシェはくす、と笑って男に囁いた。
「……シア? ね? 私はもう、大丈夫だから。もう……分かったわ」
そう告げるのにも、未だ勇気のいる言葉だった。王はながく、その存在を恋しがる女を遠ざけて来た。単純な好意から、恋という感情に変化した瞬間、王はその女の部屋には訪れなくなったからだ。それは鮮やかな程の区別だった。その女が嫌いになった訳ではない、と王は何度も苦言を呈すハーディラに言い訳をしていた、と伝え聞いたから知っている。ただ、もう傍にはいたくないのだと。それがどうしても耐えられないのだと告げて、王はふつりとその花に、水を与えることを止めてしまった。
繰り返し、繰り返し、何年も。アイシェはその王の行いを、女たちの嘆きを、一番近くで見つめ続けた。だからこそアイシェは、己の感情を隠し続けた。そうすることに長けた己に、心から感謝さえした。喜びに目や口元が緩みそうになるたび、睨みつけるようになる無礼を、幸い王は許していたから苦労はしなかった。赤らんでしまう頬は、怒りや、体質のせいだと誤魔化してしまえばいい。幸福なことに、王はアイシェの言葉を疑わなかった。疑われない為の下地は、ただ苦労して作り上げたものだけれど。
信頼を得るのは簡単で、重用されるのに長い時は必要ではなかった。ただ、それを続けていくのには努力と苦労が必要だった。恋しく、愛されたがる女の心は時に悲鳴をあげて泣き叫び、もうやめたい、と口に出しそうになったこともある。それでも、その意思を殺し。恋を押さえつけてでも、アイシェは王に『恋をしない女』としてありがたがられ、信頼を寄せられ、重用される茨の道を選んで歩いた。それもまた、己の意思だった。
離れたくない、どうしても。傍にいたい、どうしても。突き放されたくない、失望されたくない、どうしても、どうしても。どうしても、恋しく。どうしても、愛おしかった。矛盾はあまりに長く時を重ね、ソキの部屋の準備を始められるに至り、そこからの王の感情の変化を、見逃してしまっていた。だって、想いもしなかったのだ。ほんとうに、心から、安心できる場所になれていただなんて。ゆっくりと、ゆっくりと、恋しい、とそう、思われていただなんて。
愛を。厭うて遠ざけて、どうしようもなく拒否していた筈のその感情を、王が抱いてくれていただなんて。そんなことは。どうして思えるだろうか。どうして期待できるだろうか。どうして、信じることができただろうか。その言葉を受け入れ、その言葉を認めた先に、もし別れがあるのならば、そんなものは到底、承服できることではなかった。だって傍にいたい。離れたくない。その為にどんなことでもすると決めて、そうして、アイシェは長年、王に重用される女として歩んできたのだから。
しかし、だからと言って。冗談でしょう、だとか。どうしたの、だとか。罠だとか、そんな言葉や、内心を、動揺のあまり全部口に出したのはあまりに悪手であったと、アイシェも己の言動を振り返れば思えるのだ。王が部屋に訪れて、あまりにまっすぐ、好きだ、と告げられて。傍にいて欲しい、と希われて。ぽかん、として、次いで動揺して、感じたのは恐らく恐怖が先だった、とアイシェは思う。喜びよりも恐怖が先だった。期待するより早く、離れたくない、とそう思った。
信じなかったのではなく。ただ、受け入れがたかった。内心を見透かされたのだ、とすら感じて、だからと言ってどうしてそんなことを告げるのだろう、と思った。重用の価値すらなくなったのだと、そういうつもりなのだろうか。だって王を恋しがる女は、皆遠ざけられてきた。これまで、ひとりの例外もなく。許されるのは親愛だけだった。アイシェの恋は許されない。愛されたい、この気持ちは、王に許されるものではない。
数日、不毛なやりとりが続いた。王はただ愚直に言葉を告げ、女はそれを受け入れなかった。困っていた。夜も上手く眠れない程に。離される恐怖ばかりがアイシェを支配していて、ハーディラの呆れと困惑と心配と苛立ちの入り混じった、王へのお説教も意識を上滑りしていくだけだった。これまでどんな仕打ちをしてきたか思い出しなさい、と王に怒るハーディラに、いいの、と告げる言葉は喉にひっかかって、上手く吐き出せもしなかった。
選んで望んでそうしたのだ。アイシェが、他ならぬ自分と見つめ合って決めたのだ。だから、それを、そんなことを、王に怒らないでいて欲しい。言葉を選んで、そうするに至ってもまだ内心を押し殺して、隠して告げたアイシェに、王もハーディラも溜息をつき。確か王は、もういい、と言ったのだ。分かった、と言って立ち上がり、アイシェについてくるようにと命じた。見送らせる為だ、とアイシェは思って従った。ハレムの出口まで見送って、そして。また訪れてくださる時を、きっと息を殺して待つのだろうと。
それは半分正解で、もう半分は完全に間違っていた。ハレムの出口まで視線を交わさず、言葉もなく付き従わせた王は、それでは、と見送ろうとするアイシェに無言で向き直って。唐突にその体を横抱きにすると、堂々とした態度でアイシェをハレムから連れ出した。ぽかん、としたのはアイシェだけではない。ハレムの門番も、遠くから見守っていたハーディラも、口を半開きにして王の行いを茫然として見送った。
ハレムの女は王のものである。王の財産である。しかしながら、そこから勝手に連れ出すということは、王とてそう許されることではない。ハレムに住む女たちの規約がそれを固く禁じ、また、王もそれを遵守させる立場だからである。許可なくその外へ足を踏み出すことは、女にとっては脱走となる。王がそれをさせたら、どうなるのか、はアイシェには分からない。分からないまま連れ出され、王のごく個人的な部屋に連れ込まれて。
分かった、と寝台に下ろされて、アイシェは告げられた。ちゃんと分かるようになるまで、ずっと愛させろ。それから、ずっと。時間と日の間隔が曖昧になるくらい。アイシェはただ、王に寵愛された。ただ体を繋げて欲を吐き出されるばかりではなく。触れる手はいとおしく、向けられる目は優しかった。顔を覗き込んで言葉は重ねられ、視線をそらすことは許されなかった。謝罪と告白は、繰り返し重ねられた。何度も、何度も、何日も。
言葉が零れたのは事故だった、とアイシェは思う。信じたのではなく、受け入れたのではなく、それはただ事故だった。疲れ果てて、混乱して、ようやく浮上してきた期待と、それを押さえつけようとする恐怖と混乱が、アイシェの口から言葉を零してしまったのだ。好き、と。言った。あなたが好き、と。その瞬間の王の顔を、シアの表情を、アイシェはこの先きっと、永遠に、忘れることができないと思う。
なんて嬉しそうに笑うひとだろう。心の奥底まで、まっすぐに、その喜びが落ちて来たから。ようやく、アイシェはもしかしたら、と思ったのだ。ほんとうに、愛してくださったのかと。ほんとうに、恋しいと、思ってくださったのか、と。アイシェが、シアを愛していても。王の傍にいて、離れないで、遠ざけないでいてくれて、そして。それを、望んでくれているのだと。想いを交わす。その言葉の意味を。
差し出して、差し出されて。受け取って、受け取られて。それを、この先ずっと、大事にしていく。大事にされていく。それがようやく、許されたのだ、と知って。アイシェは少女のように、声をあげて泣いた。はじめて、言葉にして王を詰った。辛くて、苦しくて、どうしようもなく。愛していたけど、愛していたから、耐えられなかった。怒って泣くアイシェを、王は愛おしそうに抱き寄せて。どんな言葉も、否定することなく、遮ることなく聞いて、受け止めて、悪かった、と言った。
ずっと悪かった。ありがとう、と告げられて、アイシェは己の献身も正しく、報われていたことを知った。心を殺して、それでも、心から王に仕えた。捧げて、支えたいと願って、そうしてきた。それも正しかったのだと。それも、報われていたのだと。知って、アイシェは泣いて泣いて王を困らせたが、遠ざけられることはなく。室内から出されることもなく。ハレムから連れ出されて何日経過したか分からないまま、今に至る。
そろそろ戻して、もう疑ったりしないし、隠したりしないし、あなたの気持ちは分かったし嬉しいし、と告げたのは恐らく、昨日、もしくは一昨日くらいのことである、とアイシェは思っているのだが。やだ、とこどもっぽくぶすくれた王に抱きつぶされて、動けず、朝を迎えてしまった、ような気がしているのだ。もう、シアったら。本当に大丈夫よ、あなたの想いを疑ったりしないわ、とくすくす、心からの幸福にアイシェは笑って囁くのだが。
シアはいまひとつ疑いを消さないまなざしで、アイシェの頬をもにもにと摘まんで弄んだ。
「……どうだかなぁ」
真剣味のない、それでいてため息混じりの疑いに、アイシェはむっとして王を睨みつけた。大丈夫ったら、なにがだよ、分かりましたと言っているのよ、だからなにがだよ、とさっそく言い争いが始まりかけるのを、おかしくて堪らない、というような笑い声が打ち破っていく。肩を震わせて笑いながら、戸口からジェイドが王を呼ぶ。
「俺はお暇しましょうか、聞かれるのは恥ずかしいでしょう? 我が王妃」
「しっし、さっさと帰れ。お前ちょっと顔の良さと声の良さを控え目にしてから出直してこい」
「シア! もう、シアったら……!」
子供じゃないんだから、とアイシェがたしなめても、王はむっつりした顔で黙り込んで、嫌そうな視線を戸口へ向けるばかりだった。本当なら追い払いたくはないが、居続けられても困る、というような矛盾した感情がありありと見える。それにまた、楽しそうに。嬉しそうに爆笑する砂漠の筆頭は、王が言うように確かに機嫌が良いらしい。
笑いすぎて浮かんだ涙を拭う仕草さえ、どこか麗しく人の目に触れる男だった。
「よかったですね、陛下。聞いてはいましたが、目にすると安心感が違います」
「……シア。あなた、なにを仰ったの?」
「なんだその疑いの目は……」
疑ってはいない。恥ずかしいことまで暴露されていないか、と思っているだけである。いいから、と促すアイシェに、シアはむっとした顔をして。お前が、俺がお前を好きだって理解したし、お前も俺を好きらしいって聞きだせたから。そろそろ政務に戻る、などという報告をしただけだ、と告げる王に、アイシェはため息をついて手を伸ばした。そうされていたように、もに、と頬をつまんで軽く引っ張る。
なにしてんだお前、と怒った声を出す王に、アイシェはきっと目を怒らせて、違うでしょう、と言い切った。
「らしい、ではないわ。……好きよ、シア」
「……ああ、俺もだ」
ふふ、と穏やかな笑い声と共に扉が閉められる。はーい、解散、午後にもう一度様子を見に来るくらいで大丈夫だから解散、安心していいよこの国の未来は明るいからね、というジェイドの笑い声と共に。いっそ怒号に近いような勢いで、やったーっ、と魔術師たち、兵士たち、古参の家臣たちの声まで、泣き声交じりに響き渡ったので。王は脱力して寝台に沈みこみ、アイシェは恥ずかしさで顔を真っ赤にしながらも。くすくす、と笑って王の髪をそっと梳るように撫でた。
もう明後日で新年になる、と知ったアイシェが。いいからお仕事に戻りなさい陛下、と怒って王を不機嫌にさせる、数時間前の出来事である。
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