希望が鎖す、夜の別称:32




 砂漠に滞在していた錬金術師、特に要石となるエノーラとキムルに対する攻撃は、いっそのこと呪詛めいていたとジェイドは言った。妖精の祝福でも救いきれず、助けきれるものではなかったのだと。命を失うほどのものではない。元から生命の危機に直結してしまうものではなかったにせよ、両名の受けた衝撃は生半可なものではなく、そうであるから目覚めは慎重に行われた。

 ストルの状態を後ろから急に殴られて倒れたくらいだと仮定すると、二人は真正面から刃で胸を刺し貫かれたとするにさえ等しかった。心臓や臓器は奇跡的に外されていたにせよ、体には風穴が空いている。だから動くな、と言い聞かせられて顔を歪め、エノーラはジェイドの言葉を無視して上半身を縦に起こした。エノーラ、といくつもの心配、叱責が室内から響く。

 その声すら負担になって、エノーラは歯を食いしばって、胃の中をなにもかもぶち撒けてしまいそうな吐き気を堪えようとした。視界はとうにない。白く眩く塗りつぶされて、脳が焼き切れるような、言い知れない不快な感覚だけが渦を巻いている。傍らではキムルが横になったまま、なんとか息だけを意識している呼吸が響いている。弱々しく、か細い呼吸音。耳を澄まさなければ分からないくらいの。

 それに、悔しくて涙を滲ませながら、エノーラら横にして眠らせようと伸びてきた手を音高く振り払った。エノーラ、と駄々っ子を宥める柔らかな声に首を振る。視界はまだ戻らない。息を止めてしまいそうな苦しさは増すばかりだった。

「……キムルは」

「大丈夫、意識はあるし、呼吸もできてる。……落ち着くまでしばらく時間はかかるだろうが、それは君もだよ、エノーラ。動いたらいけないよ」

「煩いわね大丈夫よ……! キムル……キムルの野郎っ……!」

 魂が軋むような怒りだった。エノーラは手探りで屈み込むジェイドに掴みかかると、目を白黒させているであろう砂漠の筆頭に、八つ当たりだと分かっていて一息に叫ぶ。

「キムルは私を庇ったのよ! 分からないっ? あの状況、あの一瞬で、コイツは私を庇ったのっ!」

 瞬きよりも刹那の異変だった。予感が背を駆け上った時には、もうはじまり、幕は落ちかけていた。なにが、とも思えない一刹那。キムルはもしかすれば、それを予感していたのだろう。すっと気を張り詰めていたのだろう。だからこそキムルは、たったそれだけの時の隙間にも対応できた。錬金術師の本能が、魔力の放出を感知した、それだけのことで。

 キムルはエノーラを魔術具に見立て、ありったけの魔力を受け渡し、出来るだけの防壁を構築して見せたのだ。一息のこと、瞬きのこと。交わった視線が己の成したことに満足げに笑い、エノーラの背を押すものだった事を記憶に留めている。

「コイツは、キムルはっ……私に、行けと! 言ったのよ!」

 言葉にしたことはない。けれどもキムルもエノーラも、互いに、なにかがあった時に託すのは互いしかない、と思っていた。相手が己と同じに、そう思っているのを知っていた。後を頼む、だなんて、そんな優しい受け渡しではない。背を押すものでもない。それはまっすぐ、行く先を指し示して。二人分抱えて走り抜け、という、命令じみた意思だった。

 この才能、この能力。この天才が損なわれてはならないことを。お前も分かっている筈だろう、と。意思を投げつけ合うだけの。立ち止まるなと怒鳴りつけるだけの。震える手を握り締めて、エノーラは息を吸い込んだ。

「だから行ってやるわよ、私が! ああぁああもう気持ち悪い……っ! キムル! キムル、声くらいは聞こえてるんでしょうね! 聞いてるんでしょうキムルっ!」

 視界が戻らないっ、といらいらしきった声で叫びながら、エノーラはジェイドを突き飛ばして、キムルの魔力を感じる方に顔を向けた。反応は、うめき声ですら帰ってこない。しかしエノーラは確信していた。聞こえている、でもなく。キムルは、聞いている。そういう可愛げのない男だ。息を吸う、瞬きをする。無理だと悲鳴を上げる周囲も、己さえ、無視してみせる。

 だってキムルはエノーラに託したのだ。エノーラに、行け、と言ったのだ。それは行けるということだ。己の意思が無理だと叫ぼうと。誰がそれを止めようと。キムルがそう告げたのなら、エノーラには、それができる。その判断を、己のものより信じていける。

「覚えてなさいよ……覚えてなさいよ! キムル! 失われたりするんじゃないわよ分かってるんでしょうねっ? お前が! いなくなったら! チェチェ先輩が! 泣くだろうがっ!」

 先輩を未亡人にするんじゃないわよあっちょっと待ってそれはそれでもしかして、と悩み始めるエノーラに、周囲の緊張がほっと解けていく。あ、これはちゃんとエノーラだし、なんというか心配ないやつだいつものあれだもん、と緩む空気の中で、錬金術師は音高く舌打ちをした。

「あぁああもう! フィオーレはっ! いないのっ?」

「ここにはいない。彼、一度敵の手に落ちたものでね。砂漠に戻すには、まだ危険すぎるという判断だよ」

「根性なしっ! これだから男は役に立たないって言うのよっ!」

 魔術師の半数を性別だけで罵倒して、エノーラは苛立ちのままに意識を集中した。視界が戻らないままでは、錬金術師にとって致命傷となる。しかし、悠長に待っているだけの気持ちの余裕はなく。そしてまた、状況も許さないであろうことが感じられた。エノーラとキムルの意識が戻されたのがその証拠だった。用がないなら、ほとぼりが覚めるまで寝かされていただろう。

 そうしておかなければいけないくらいの状態だ。それなのに吐き気が治まらない。体の中をめちゃくちゃにかき回されたかのような、痛みと不快感がある。魔力が荒れ狂っている。キムルに庇われてなお、エノーラを食い破らんと暴れまわっている。白魔術師を、はやく、とジェイドが冷静な、しかし有無を言わせぬ声であたりに命じるのを聞きながら、待たず。

 エノーラは集中の階段を踏み切って、己の意識の底まで飛び降りた。

「……我が身こそは、女王の道具である」

 魔力を乗せ切るには、まだ弱い。集中も意識も練り上がっていない。それでも声に出して、エノーラは言った。我が身よ道具であれ。女王陛下の物であれ。溢れ出て行こうとする魔力の流れを、力ずくで制御する。それほど満ちて、満ちて、吐き出されようとするのなら。使ってしまえばいい。視界を回復しないままで、エノーラは痙攣する瞼に力を込めて押し開いた。

 百億の孤独と共に時を止めた宝石の、琥珀色の瞳が魔力をこめて鈍く輝く。

「道具であれば言うことを聞けっ! 私は……『我が身は錬金術師なれど! 我が身こそが女王の道具! 道具に意思を込めることこそ、我が術なればっ……いっ……言うことをっ、聞けーっ! 見て! 立って! 歩いて! 今すぐっ! 今すぐ、にっ! 魔力よ巡れっ、私は……私の……っ!』」

 ばつん、となにかが断ち切られる音がしたのを、場の魔術師は誰もが耳にした。エノーラが幾度か咳き込む。は、はっ、と荒く短い息をして、エノーラはゆるゆると顔をあげた。なにかの羽ばたきめいた瞬き。あぁ、と疲れきった吐息で、エノーラはすっと立ち上がる。

「……はぁ。ちょっとアンタたち、いい? 私が頑張ってたって、私がいる時いない時、誇張して私の陛下に伝えなさい? ご褒美に踏んでもらわなくちゃ割に合わないわ」

「……と、とんでもない無理をして、君はもう……」

「錬金術師が必要なんてしょう? それも、私か、キムルでなければいけないくらいの。なら……なら、キムルに托されたのはこの 私。無理でも無茶でもなんでもしないといけないのよ。……よく考えたらこの男、私に押し付けたんじゃない?」

 とてつもなく嫌そうな顔をして爪先でキムルの腹を突いたあと、エノーラはもう平然とした表情で立ち直した。血の気の引いた顔こそしているものの、瞳にはしっかりとした意思が宿り、全身に魔力が巡っている。ため息をついて、ジェイドは言った。

「シュニー、たくさん頼んでごめんね。エノーラに改めて祝福をしてくれるかな。……後遺症が残らないように」

「ふん。私がそんな不手際を踏むものですか! でもジェイドの美人さんの贈り物なら大歓迎よ。……ありがとう。助けてくれて」

 ジェイドの傍らからふんわりと飛んできたましろいひかりは、エノーラの頬にほよほよと体当たりをした。叱っているようだった。いけないさん、いけないさんっ、とひとしきり怒ってから祝福を振りまいて戻っていくましろいひかりに、エノーラは胸を手で押さえて身悶える。

「なに今のかわいい……かわいい……。かわいいこに叱られちゃった気がする」

「気のせいじゃなくて、叱ったんだよ。ね、シュニー?」

 そうなのっ、とばかり、ましろいひかりがふっこふっこと伸縮する。そっかぁ、と言ってエノーラはさらに胸を手で押さえた。かわいいが殴りかかってくる。このかわいいの過剰摂取は、なんというか、寝起きにはつらい。万全の体制を整えた上で怒られたりしたかった。叱責もまたご褒美である。妖精のもたらしたかわいいが落ち着くのを待ってから、ふと気がついてエノーラは辺りを見回した。

 見覚えがない一室だが、気候や景色、前後のことから考えても砂漠の国であることは間違いないだろう。あの後どうなって、いまはどうってるの、とようやくその情報を求めたエノーラに、言葉を受け入れる体制が整ったと踏んだのだろう。歩けるかを尋ねられたので頷けば、ジェイドは移動しながらね、と言ってエノーラを先導していく。

 ゆっくりと、見知らぬ廊下を歩きながら、エノーラは砂漠の現状を知った。なにが起きたか、それによりどうなったか、の説明は簡単に。リトリアが予知魔術を使って『扉』の役目を果たしてくれている、と聞いて、エノーラは隠すことなく顔を歪めてみせた。

「大丈夫なのそれ? とも聞く必要のないくらい荒療治ね……。魔力の補充は誰が?」

「魔法使いたちが。フィオーレと、魔術師のたまごナリアンが担っているよ」

「……レディは?」

 リトリアのことなのに、火の魔法使いの名がないのは違和感だった。まさかレディにもなにかあったのでは、と顔を強張らせるエノーラに、ジェイドは別件だから安心していいよ、と告げた。

「彼女にはいま、砂漠の城で捜索に入ってもらってる。君も……『扉』がすぐに復旧しないようなら、リトリアに任せてそちらに合流して欲しい」

「いいけど……すぐって、どれくらいの猶予ある話? 即時ってこと?」

 エノーラにも見覚えのある、『扉』へ続く廊下を曲がりながら、ジェイドはそうだね、と考える素振りもなく言った。

「即時、だ」

「……分かったわ。即時はまず無理、と分かっていてのことだと思うけど、リトリアちゃんは大丈夫なのね?」

 魔力の補充をしながらの魔術行使は、途方もない負担となって魔術師に襲いかかる。本人は大丈夫だと言っているよ、と告げるジェイドを睨みつけて、エノーラはしかしなにも言わなかった。信じずとも、それを受け入れるしかない苦しさがあったからだ。そう、とエノーラは息を吐く。まあ、ツフィアが居ると聞くし。彼女が止めていないのであれば、まだ大丈夫なのだろう。

 それこそ、後遺症が出ないように見極めなさいよ、とエノーラが小声で告げたのは、妖精を伴うジェイドであれば、その判断ができると信じていたからだ。視線の先に、『扉』の前にすとん、と着地するよう現れたリトリアの姿を捉えながら、ジェイドは必ず、と囁き返す。ましろいひかりはジェイドから離れ、リトリアの周囲をふよふよと飛び回った。

 ちかちかぺかか、とあいらしく明滅したましろいひかりは、すいっと空を泳ぐようにジェイドの元に戻ってくる。そして、ぺとん、とジェイドの頬にくっついてもぞもぞしているので、リトリアに緊急の措置は、まだ必要ないらしかった。いまのなぁに、と目を瞬かせて首を傾げるリトリアに、エノーラが一歩進み出て声をかける。

「リトリアちゃん、調子はどう? 今日のパンツ何色?」

「えっ、し、しろ……? えっ? え、あっ! エノーラさん!」

「白かー! やっぱり美少女の下着として白は基本よね……! 夢と希望をありがとう、リトリアちゃん……!」

 予想しきった微笑みで耳を手で塞いで聞かなかったジェイドの視線の先で、不幸にも知ってしまったナリアンが、顔を赤くしたり青くしたりして呻いている。耳から手を外しながら、純情な青少年に被害を広げない、と叱るジェイドに、エノーラは全く反省の見えないきらびやかな笑顔で、ごめんね、と言ってのけた。そうしながらも錬金術師の手が、不通の『扉』に触れて行く。

 ふむ、と首を傾げながら、例え同じ錬金術師であっても中々理解の届かない感覚でもって、それを探り。数秒であっさりと、これはだめね、とエノーラは結論を下し、言い放った。

「妨害、阻害が跳ねあがったわ。私が起きたのも分かったのね……」

「……え?」

「……私は誰を探せばいいの? ジェイド」

 声を漏らすリトリアに詳しくは説明せず。あの男の居場所かしら、と問うエノーラに、ジェイドは緊張した顔つきでそうだ、と言った。砂漠の虜囚、そして、そこに捕らわれているであろうソキの探索を、お願いしたい。魔力を見るに長けた稀代の天才、錬金術師たる女は、任せなさい、と自信に満ちた表情で告げて。おいで、とリトリアとナリアンに声をかけて、返事も聞かずに歩き出した。

 その『扉』の近くに。魔術師を、誰も、置いておきたくない。そういう意思のある、歩き方だった。

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