希望が鎖す、夜の別称:31


 甘露を飲み込んだあとのように、喉は潤っていた。咳き込むことなく瞼を持ち上げれば、ほっとした微笑みがひとつ。透き通る水のような声で名を囁かれ、ストルは愛しい少女に手を伸ばし、その頬に触れて名を呼び返した。

「リトリア……」

「ストルさん。よかった……痛いところは、ある?」

「ストルは大丈夫よ、リトリア。……さ、離れましょうね」

 頬を触れる手が首の後ろに回りかけたのが、見えたのだろう。リトリアの口の前にぱっと手を差し入れ、立ち上がらせたのはツフィアだった。言葉魔術師の名を呟き、不思議そうに瞬きをするストルに、リトリアからは心配そうな、ツフィアからはやや呆れた視線が向けられた。現状の把握より早く、リトリアに手を出そうとするのはどういうことなのかしら、と言葉魔術師の視線が歌っている。

 仕方がないだろう、と息を吐きながら身を起こし、そこで己が横たわっていたことを自覚して、ストルは急に目隠しを取り払われたような気持ちで辺りを見回した。最後の記憶は砂漠の城である。残存魔力の調査に出向き、メーシャになにか告げようとした。ぶつり、と記憶が途切れている。メーシャは、と掠れた声で問いかけながら、ストルは談話室の中にその姿を探そうとした。

 見慣れた場所である。記憶が途切れ、場所が移動している以上、異常が起きたのは確かなことだった。血の気が引く。なにが、メーシャは、と呆然と口にするストルの手を、柔らかな熱が包み込む。嬉しそうに微笑む、リトリアのてのひらだった。大丈夫よ、とストルの愛しい少女は囁く。

「あのね、まず、メーシャさんは無事。いまも、元気でいるわ。今、ここにはいないけど、でもこの状況でも……私を気遣ってくれた。ストルさんを、探して、連れてきてくれた」

「……俺を?」

「うん。そう、あのね……あのね、ストルさん」

 どこから話せば良いのだろう、とリトリアの眉が困っている。ストルは、ロゼアがソキの言葉を待つのと同じ気持ちで、穏やかにリトリアの声が響いていくのを待った。どんな言葉でさえ、どんな響きでさえ。少女が己に向かって奏でるなら、それをいつまでも待つことができる。ロゼアと違うことがあるとすれば、待つ過程で唇を重ねたくなることだろうか。しらんだ目でツフィアが息を吐く。

 うん、と優しい声で促すストルに、リトリアはもじもじ恥ずかしそうに身をよじってから、内緒話をするような声で、あのね、と甘く囁き落とした。内容はとても、甘くも優しくもなかったが。

「砂漠は攻撃を受けてるの。その……ほぼ確実に、シークさんから。ストルさんたちはね、その攻撃を受けて、五日間眠っていたのよ。昏睡、していたの。……砂漠の、筆頭の、ジェイドさんが手を講じて、体にも魔力にも影響が出ないように、保って下さっていた、と聞いたけど……ね、ほんとに大丈夫? 痛いとこない? くるしく、ない?」

「なんかあったら、遠慮なく言ってね、ストルちゃん」

 ひょい、と顔を覗かせたのはフィオーレだった。その呼び方をやめろと言っているだろう、と眉を寄せるストルに、白魔法使いはくすくすと、平和な顔つきで笑った。

「うん、これならホントに元気だよ。大丈夫。……我らの筆頭には感謝しかないというか、恐ろしいというか……なにしたのあのひとっていうか……」

「……妖精の祝福を使ったのですって。メーシャさんは、そう聞いたって」

 そっかあ、と言って白魔法使いは微笑みを深めて遠い目になった。奥さんに頑張ってもらっちゃったのかぁそっかぁ、そっかあ、と言葉を何度か繰り返して。砂漠の国の魔術師は、訝しげな視線を浴びながらもそれをひとつも見返すことをせず。ふふっ、と虚ろに笑いを響かせ、深くふかく息を吐く。

「ほんと緊急事態だったんだなって感じ……。あのひとがそこまでするなんて、相当だよ……」

「ストル、私が説明するわ。いいわね?」

 埒が明かない、と思ったのだろう。リトリアに温かいココアを差し出しながら告げるツフィアに、ストルは素直に頷いた。結局、ツフィア相手が一番分かりやすいのは確かなのだった。むぅ、とやや不満げにするリトリアに柔らかく微笑み、あなたは疲れているでしょう、と言葉魔術師は囁く。少女は反論しかけ、はく、と口を動かしてから、しぶしぶとくちびるに力を込めた。

 はぁい、と拗ねた返事がひとつ。大丈夫だもの、と強情に言い貼らないだけの疲労が、リトリアを襲っているらしかった。なにが、とまだぼんやりとした頭で、ストルは談話室を見回した。そこはさながら、野戦病院を思わせるありさまだ。殆どの机と椅子が乱雑に壁際に押し退けられ、分厚い絨毯やら布やらが敷かれた場所に、見覚えのある魔術師たちが等間隔に横になっている。

 その間を白魔術師たちが駆け回り、ああでもないこうでもないと意見を交わし合いながら、回復魔術をかけたり、体温や脈拍を計っていた。血の匂いと、苦痛の呻きはない。清潔に保たれた空気があり、健やかな寝息だけが幾重にも重なっている。いったい何が起きて、どうなった後なのか。ソファに横になっていたストルは、室内では最も上等な扱いを受けていた。

 しかしそれはストルが、ではなく。椅子にちょこんと座ったまま、恐らくは必要以上に動けないでいるリトリアの為の措置であることは、間違いがなさそうだった。ストルがそこへいたら、リトリアは休むことをせず、ずっとその傍に付き添っていたのは間違いない。沈黙するストルに、言葉を受け止める準備ができたと見たのだろう。ツフィアが静かに口を開き、情報を語り、告げて行く。

 発端は砂漠から。調査に出向いていた魔術師たちが昏睡し、人々もそれに巻き込まれた。狙いは恐らく『学園』の魔術師、ロゼアとソキ。二人を狙ってフィオーレが操られ、同じく『学園』の魔術師たちも倒された。辛くも逃れたソキと、ナリアンとメーシャが五国を駆け巡り、異変を知らせ、魔術師たちを集めた。王たちを宥め抑え落ち着かせ、体制を整えた。

 攻撃されてから、今日で五日目。一瞬の隙をつかれてソキが連れ去られ、それによって一刻の猶予もないと断じた寮長の命により、救出部隊として魔術師たちが動いている。『扉』の不通は、リトリアの予知魔術が。足りない魔力は、ナリアンとフィオーレが交代しながら供給して。魔術師たちがいま、砂漠と『学園』を往復している。

 砂漠の筆頭が『お屋敷』の人たちに頼み込んで、魔術師や城の人々を一つの区画に集め、妖精が守ってくれていたおかげで、想定していたよりずっと状態は軽度で落ち着いている。だから動かせる者から回収して、魔術師たちは『学園』に戻されている。ストルが回収されたのは早かった。リトリアを心配したメーシャが、師を託してくれたからだ。

 メーシャはロゼアとレディ、ラティと共に、まだ砂漠の城にいる。救出部隊と一緒に城を駆け巡り、人々と魔術師の状態を確認しながら、ソキのことを探している。ソキは、まだ見つかっていない。ここまでで質問は、と問うツフィアに、ストルはいや、と首を横に振った。

「十分だ。よく判った、ありがとう。……そうか、メーシャが……。ソキは、なぜ見つからないんだ?」

「地下牢への入り口が、魔術的に破壊されて隠蔽されている、のですって。だからね、代わりの入り口を……いくつかある、のでしょう? それを、ひとつ、ひとつ、いま、点検しているの」

 誰が、なんの為にそうしたのかは明白に過ぎた。ソキの居場所は明らかである。地下牢に辿り着けないと知ったロゼアは一時半狂乱になりかけたが、それをジェイドが制して事なきを得たのだという。ジェイドが、と思わず呟いて、ストルはフィオーレに視線をやった。彼の男と付き合いは深くないが、性格と、やりそうなことならばストルは知っている。

 同僚として側にいるフィオーレには、もっと理解できるだろう。ストルの視線の意味を違えず、ああうん、と曖昧な言葉を発して顔を背け。いや俺も見た訳じゃなくてぶすくれた顔のロゼアをつれたメーシャから聞いたんだけど、と白魔法使いは言った。

「なんか……なんか、死角から殴りかかったか襲いかかったかして、ロゼアを床に組み伏せたとかなんとか。不意をついて魔術まで使ったらしいよ。一瞬、動きを拘束してね、こう……」

「……そうだな、ジェイドならそれくらいやるな……かわいそうに……」

「だよね……俺ほんとロゼアに同情したもん……。それでなんか、『傍付き』がどうのこうの、『花嫁』がどうのこうの、落ち着けないならハドゥルとライラを呼んでくるって言ったんだって」

 聞き覚えのない名を問えば、ロゼアの父母であるという。そうか、とストルは微笑んだ。さすがジェイド、やり方がえぐい。あの目的の為に手段選ばないとこ変わってないよね、男相手だとすぐ手が出るとこほんとそうだな変わらないな、見かけはあんなに優雅に笑って動きも洗練されてるのにね、その優美な印象のままとんでもない威力で殴ってくるんだよな、死角から、そう死角から。

 ジェイドだな、ジェイドだよね、としみじみ頷きあう男子たちに、ツフィアが嫌そうな顔をして息を吐いた。

「あなたたち……本当に、いつまでも幼いんだから」

「ツフィア。一緒にしないでくれ」

「なんかその言い方だと、俺たちもすぐ殴り合いの喧嘩とかしそうじゃないっ? えー! 俺そんなことしないよー、痛いの嫌いだもん。ねー、ストル」

 同意を求めないでくれ同類だと思われるだろう、とげっそりとした息を吐き、ストルはこちらを見つめてくるリトリアに、柔らかな笑顔で囁きかけた。

「それで……俺が起きるまで看病してくれていたんだな。ありがとう、リトリア。もう、ゆっくりできるのか?」

「ううん。ソキちゃんが見つかって、皆が戻ってくるまで……『扉』が元に戻るまで、私が『扉』なのよ、ストルさん」

 今はね、ほんとに、ほんのすこしだけ休憩中なの。罪悪感の入り混じった笑みと、言葉が響き終わるより早く。談話室の入り口から、ナリアンがリトリアを呼ぶ。うん、すぐ行くねっ、と元気よく返事をして、リトリアは椅子からぴょんっとばかりに立ち上がった。それから走り出しかけ、すこし迷う素振りで視線を彷徨わせて。よし、と気合を入れて、リトリアはこっくりと頷き。

 少女はツフィアの手をきゅむっとばかり握り、お願いね、と目を潤ませて囁いた。

「ツフィア、ストルさんのこと、見ていてあげて。私は大丈夫だから……!」

「駄目よ、リトリア。ひとりで動いて、あなたまで連れ去られるようなことがあったら……!」

「うふ。ツフィアの心配さん。大丈夫! ナリアンさんと手を繋いでいくから!」

 魔力を供給してもらうのには手を繋いでもらわないと大変だもの、と告げて。そういうことじゃなくて、と頭が痛そうなツフィアに、リトリアは今ひとつ深刻さのないふわふわとした微笑みで、鈴が鳴るように笑った。

「それじゃあツフィア、ストルさんをよろしくね! フィオーレ、いーい? ちゃんと見てくれなくちゃ駄目なんだからねっ!」

「はいはい。行ってらっしゃい。なるべく早く帰ってきてな、リトリア。俺の命、これから風前の灯だから。主にツフィアとストルのせいで」

 心底本気のフィオーレにも、きょとん、とした顔をして。もう、変な冗談ばかり言うんだから、と苦笑して、リトリアはぱたぱたと走り去ってしまった。談話室の入口で、宣言通りにナリアンと手を繋ぐ。仲睦まじいその様子に、和んだ視線がいくつか。駆け寄る者が何人か。白魔術師たちは口々に、運び込まれた者達の容態をリトリアに告げては、少女の言葉を求めていた。

 藤の花色の瞳が、深い思慮に沈むのを、談話室の誰もが見る。はたはたと、瞬きをして。リトリアは清らかな水のような声で、大丈夫よ、と言った。予知魔術師の声だった。そこに魔力は滲まず。けれども誰にも、確定した未来の、その希望を信じさせる声だった。白魔術師たちが、ほっとした様子でそれぞれに頷く。彼らに安心していてね、と笑って、リトリアはナリアンの手を引いた。

 みんな、つれてくるからね。みんな、砂漠で、頑張ってくれているからね。私たちも、頑張ろう。頑張らなきゃ。ね、大丈夫、大丈夫よ。今行くからね。今、またすぐ、戻ってくるからね。寄せては返す波のように、希望を連れて、引き寄せて。リトリアは笑って、行ってきます、と言って談話室から姿を消した。

 火のような、陽のような。木漏れ日のきらめきを、まぶたの裏に残すような気配が、しんとした中に響いていく。ツフィアはその光景を、胸に手を当てて見つめていた。泣くのを堪えているということに、気がついたのはストルくらいのものだろう。追いかけなくていいのか、と問うストルに、ええ、とツフィアは悪戯っぽく笑う。

 あなたのことを頼まれてしまったし、それに。もしも、万一。あの子が連れ去られるようなことがあれば。私はもう我慢なんてしない。どんな手を使ってでも、それを成した者を決して許さないでしょう。リトリアはちゃんと分かっているわ。だから戻ってくるまで安静にしていなさいな、とストルに言い聞かせるツフィアの傍で、フィオーレは深く息を吐き出した。

 そういえばツフィアも、砂漠出身でないだけで、その血を引いていることを思い出してしまったからである。両親が他国に移住しただか、商家だったか、そういう理由で出身地が書き換えられているだけなのだ。あーリトリアほんと早く一刻も早く無事で帰ってきてなほんとほんと、と祈るフィオーレは。瞬きをして、一瞬。意識が明滅したことに。気がつくことは、なかった。


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