希望が鎖す、夜の別称:16



 翌日の朝、入念に準備とお手入れをした上で、ソキはハレムに足を踏み入れた。先日のような不慮の事故とは違う、正面からの訪問である。正式な形でその門をくぐるのは一度目ではなく、けれどもソキは初回より余程緊張して、ジェイドと手を繋ぎながらとてちてと廊下を歩いていく。なにせあの時も、前回も、周囲を見回すなんてことをしなかったのである。

 陛下にぽいっと放られた時も。うっすらと覚えがある空間と比べれば、そこは恐ろしい程しんとして静かだった。生きた人々の気配がどこにもない。異質な空間。『お屋敷』とはなにもかもが違うのに、建物の作り、装飾の印象がひどく似通っていて、ソキは混乱して目を瞬かせた。大丈夫よ、怖いことはないからね、と妖精にもジェイドにも囁かれながら、こくりと頷いたソキはもしかしたら、と思う。

 『お屋敷』と、王のハレムを作った人が一緒なのかも知れなかった。そうだとしたら、似ているのは道理である。いろんなことが終わって、落ち着いたら、調べてみるのがいいかも知れない。だから、いまは、また前を向いて。歩いていくことに気持ちを向けなければいけない。不安げな瞬きと、恐怖のちらつく瞳が、ゆるゆると沈み込んでいく。

 『花嫁』の敏感な脆さを眠りにつかせる魔術師としてのソキを、ジェイドはすこしだけ懐かしそうに、痛ましそうにも見つめて手を引いた。あんまり、しなくていいよ。このことが終わったら、そういうことは、しなくていいようにしておくからね。囁くジェイドの言葉の意味を理解しないまま、ソキはこくりと頷いて、妖精と共に歩いて行く。

 早朝とも呼べぬ、光が満ち切った空気は、どこか冷たく冷えていた。常なら緊張もあってこふんと咳き込む喉を、しかしすっと通らせて。ソキは導かれたひとつの扉の前で、妖精が思わず感嘆の息を吐き、ジェイドが誇らしく目を細めるほど、うつくしく滑らかな仕草で一礼した。

「おはようございます、陛下。ソキ、参りました。……お部屋に入りますこと、お許し頂けますでしょうか」

「許可する」

「ありがとうございます」

 ソキがそう答えるのを待っていた動きで、内側から扉が開かれる。女官たちが目覚めている筈もなく、そうしたのはアイシェだった。ソキは礼儀的ではない、ぱああぁっ、と輝く笑みでアイシェさん、と呼びかけ、あっあっと声を上げてもじもじと指先を擦り合わせたあと、なにごともなかったかのような装いで一礼した。

「おはようございます。王のうつくしい方には、ご機嫌麗しく。お目にかかれて光栄です……」

『……ソキ、こっち見て、どやっとした顔するのも堪えましょうね。そうすれば、ほんとのほんとに完璧だったんだからね……』

 アイシェは思わず、という風にくすくすと笑い、御機嫌よう魔術師の方、とソキに囁いてくれた。うふん、と機嫌よく頷いて、ソキはジェイドと手を繋ぎ直し、とてちて室内に入っていく。ゆったりとしたソファの上で、砂漠の王が額に手を押し当てているのが見えた。くて、と首を傾げ、ソキは陛下体調が悪いの、と不安をジェイドに問いかけた。

 そういえば、入室を許可する声にも、なんだか眠たげだった気がする。どうなんだろうねぇ、と危機感なく笑いながら囁くジェイドに、額から手を退けた王が深々と息を吐き出した。

「やれば出来る……お前、ほんとにやれば出来るんだよな……やれよ。いや、やっぱしなくていい……よくないけどな……体調崩すくらいならしなくてもいい。分かったな?」

「は、あー、い!」

「ともあれ、よく頑張ってくれた。話は妖精と、ジェイドからも聞いている。……よく、勤めてくれたな、ソキ」

 ぴしりと手をあげていいこの返事をするソキに苦笑しながら、王は心から魔術師の奮闘を認めて告げた。その上で報告を求めたのは、細部の差異を確かめる為である。妖精とジェイドの報告に虚偽はないだろうが、客観的な伝聞でしかないものだ。ソキもそれを分かっているから、はぁい、と言ってソファに座り、肺いっぱいに空気を吸ってくちびるを開く。

 告げていく。言葉は甘い歌のようだった。きよらかに耳に触れ、心の柔らかい場所をくすぐりながら意識に染み込んでいく。魔術師の、ではなく。それはどちらかといえば、『花嫁』の報告だった。魔術師として、『花嫁』が成したその結果を、ソキは織物を紡ぐかのように語っていく。物語のように。言葉を響かせ終わっても、喉を軋ませることはなく。

 ただ、すこし疲れたように息を吐くソキに、ジェイドがそっとぬるまった花梨湯を差し出した。ソキ、これ、好きです、と言ってにこにこと喉を潤すと、アイシェがふわりと笑みを深める。それをなんとなく面白くなさそうな顔で見たあと、王はアイシェにずいっと手を差し出した。

「アイシェ。俺にも」

「……はい、陛下。すぐにお持ちしますわ」

「陛下? 怖い顔しないんだよ。勘違いされるよ。……ふふ、あのね、寵妃さま。ご安心くださいね。陛下、これ、拗ねているだけなので」

 ソキの好きなものは持ってくるくせに、とか思ったんでしょう、とたしなめるジェイドに、砂漠の王はぷいっと子供っぽい仕草で顔を背けた。

「そういうことじゃない」

「そういうことでしょう。別に、ソキとお揃いしたいとか、かわいい理由じゃないので。安心してくださいね。……は? なんでそうなるんだよって顔しないでくださいね、陛下。そうなるんですよ」

 大体、別に花梨湯が飲みたい訳じゃなくて、寵妃さまの入れてくれた飲み物が欲しいだけでしょう、と言葉を重ねられて、王は不機嫌な表情でジェイドから視線を反らした。アイシェは口元を手で押さえ、視線を伏せて黙り込んでいる。こくこくこく、ぷはっ、と花梨湯を飲み干したソキが、どきそわしきった顔つきで、いやん、と楽しそうに身をよじった。

「ソキ、知っているです。陛下はソキにやきもちさんです。でもね、陛下、しかたのないことです……かしこくかわいいソキが、あんまりにもかわいいから……!」

「おいジェイド、コイツの躾をやりなおさせろ」

「言わんとすることは理解もしますが、駄目です。完成しているんですよ、陛下。つまり、もうどうにもならない、ということです。……でも、まあ。……ふふ、いい? ソキ。しー。しー、だよ」

 図星を刺されると、陛下だって恥ずかしいんだからね、となんの助けにもなっていない言葉を響かせて。ジェイドは柔らかな表情で、まったく、と王に囁きかけた。

「仕方のない方だ。ところで、ハレムでひとつ気にかかることがあったのですが、お尋ねしても?」

「……なんだ?」

 昨日もジェイドはハレムを訪れ、眠り込む女たちの様子見や各所を点検して回っていた。だからこそ、なにかおかしい所があったのかと眉を寄せて問いかける王に、ジェイドは優しく笑みを深めて身を寄せた。

「あの部屋なんですか?」

「……分からん。どの部屋だ。具体的に」

「あっちの」

 だから、と場所を告げろと言おうとした王は、ジェイドの指差す方向に視線を流して硬直した。もちろん、室内であるからその方角には壁がある。なにが見えた訳ではないのだが、王にはひとつ、心当たりがあった。わざわざジェイドが耳元に顔を寄せ、声をひそめて問いかけてくる理由にも納得がいく。あれはだな、と言葉につまりながら、王は視線を彷徨わせた。

 花梨湯を作りに離れているとはいえ、アイシェがいつ戻ってくるか分からないこの場所では、なんとなく口にするのに躊躇いがある。当事者である筈のソキに目を向けても、全くもって察していないらしく、あっちはなぁに、と妖精に問いかけていた。妖精には、なんとなく分かったのだろう。もう分からないならそのままでいなさいよと遠い目で呻いているのがジェイドには見えた。

 ふ、と確信を深めてジェイドは微笑む。

「まさか、陛下が、俺に内密でそんなことをなさるとは思いませんが。相談も事後報告すらなく」

「……お前最近城に寄り付きもしなかったじゃねーか」

「すこし前に立ち寄ったでしょう。その時だって聞きませんでしたよ、陛下」

 はい逃げない、とおよび腰になる王の両肩に手のひらを食い込ませるように置いて。王の筆頭魔術師は、話す時は目を合わせなさい、とぴしゃりと叱ってから言葉を重ねた。

「砂漠の王陛下、尊き方、我が主君。貴方様がこの国の為、どのようなお考えでどのようなご決断をなさり、どなたの為にあの部屋を整えたのか。俺にはまったく推測ができないのですが」

「嘘つけお前わかってんだろ……」

 まったく、推測、できないのですが、と笑顔でゆっくりと繰り返して。ジェイドはその身に宿す『花婿』の血を感じさせるような仕草で、ゆる、と首を傾げて囁いた。

「あの部屋は片付けて頂けますね?」

「……有事の際の用意だ。今から整え始めて置かなければ間に合わない」

「ふふ。そう仰るとは思っていました……ですので、どうぞお気になさらず。こちらで勝手にやっておきました」

 言葉の意味を王が理解して、は、と声を漏らすのと。ぱたぱたと慌てた様子で帰ってきたアイシェが、シア、と悲鳴じみた声で王を呼ぶのは同時だった。

「大変! あの、お部屋が……! よ、用意してらしたお部屋が、なにも無くなっていて……!」

 狼狽したアイシェに王と見比べられても、まだ分からないらしい。なぁに、とのんびりと目をぱちくりさせているのに、ジェイドは頭を抱える王から離れて歩み寄った。ひょい、とソキの顔を覗き込んで微笑む。

「なんでもないよ。いらないものは出しっぱなしにしてないで、お掃除しておこうね、っておはなし。ソキも、お掃除できるよね。散らかしておくの良くないもんね」

「うふん。ソキねぇ、お掃除、得意なんですよ!」

「そうなんだね。偉いね、かわいいね……。俺がちゃんと守ってあげるから、ソキも、変な気の迷いを起こさないでいようね。できるね? ……かわいいかわいい魔術師さん。いいこのお返事、できるかな? はーい、って言ってごらん」

 察した妖精が、あ、と声を上げる間もなかった。かわいいと褒められて上機嫌になったソキは、しゅぴっ、とばかり手をあげると、はーいっ、と元気よく声を響かせる。はーい、と褒めるように繰り返して囁き、ジェイドはちらりと王に目を向けた。

「……そういうことですので、よろしくお願い致します。陛下」

「お前……お前、王の意思に反してここまで好き勝手するのお前くらいだからな……なんでいつも進言してくると思ったらその時には全部終わらせてるんだよ事後報告大好きかよ……。なんでいつもやり方が実力行使なんだよ……」

「すみません。俺の教育をしたのが『お屋敷』であるばっかりに」

 見かけだけは申し訳なさそうに微笑みつつ、全く謝罪をしていない、かつ責任を『お屋敷』に押し付けきった物言いに、王は頭を抱えて蹲った。だいたい、本人がなにも言ってきてないんだから置いといていいやつだろ、と往生際の悪い言葉に、ジェイドは今度は真面目に申し訳なさそうな顔をして、そのことですが、と言った。

「恐らく、本人の中ではもう無いことになっているので、告げるのを忘れていると思われます。今は、厳戒態勢でもありますし……意識に乗せる優先順位として極めて低いのかと。本人としては、もう無いことなので」

「……ソキ。なにか俺に、言うことあるだろ? な? 聞いてやるから言ってみろ? 今回の事件とは関わりない、なんか俺と約束したことあるだろ?」

 もう、この際だと思ったのだろう。達観した表情で顔をあげた王が、確信に切り込む言葉を丁寧に差し出してくる。ソキ、ほら、と促されて、ソキはむむむむっとくちびるを尖らせた。

「陛下とぉ……? お約束ですぅ……?」

「ああー、ほらね。完全に無かったことにされてますよ、これ」

「嘘だろ……」

 妖精も、王に全面的に同意したい。え、ええぇ、と信じられない気持ちで呻いていると、ソキはちょこちょこと首を右に左に傾げ、不思議そうに呟きをこぼしだす。

「なにかなぁ……? なんのことですぅ……? アイシェさんと、ハーディラさんにご挨拶したいです、のこと……? それとも、ロゼアちゃんのお呼び出しをやめてもらうこと……? ハレムのお部屋は、ロゼアちゃんとナリアンくんに頼むことにしたですし、ソキはロゼアちゃんを幸せにするおんなのこになるんで、もうないないですしぃ……あ! 分かったです! 花舞の魔術師さんと、レディさんのことです! レディさんには、これから会いに行くです。白魔術師さんと一緒じゃなかったのは、投網がいけないです。そうでしょう? あたりでしょうー!」

「ほーら、無いことになってる、無いことになってる」

『ソキ……。まだ、まだ陛下に、そのおはなし、してないでしょう……? したの? してないでしょう?』

 おはなし、したもん、とソキは自信たっぷりに頷いた。してねぇよ、と王が即座に呻きながら突っ込む。えっ、と声をあげて驚いたソキは、どこまでも純度の高い無垢なまなざしで王を見た。

「陛下……。お忘れに違いないです……」

「おっまえふざけんなよ……してないからしてないって言ってやってんだろうがよ……」

「しょうがないんでぇ、もう一回言ってあげるですけどぉ」

 お前その王に対しての上から目線なんなんだよやれば出来るんだから改めろよ、という言葉をぐっと飲み込んで。ああ、と促す砂漠の王に、ソキはふんぞり返ってじまんげに告げた。

「ソキぃ、ロゼアちゃんをめろめろにする女の子になるんでぇ、陛下とのお約束は取り止めにするです。陛下には残念なことですけど……ごめんなさい、というやつです……あ、それでね? ロゼアちゃんと、ナリアンくんに、予知魔術師の守るのをお願いするの。ソキがお願いするんですから、陛下方もきっと! いいよ、って言ってくださるに違いないです。つまり、もう決まったことなのでは?」

「……もうどこから突っ込んでいけばいいのか分からないがな……お前……お前が俺を振ったみたいな言い方すんのほんとやめろよ……」

 心底息を吐き出して、言葉にも、結論にも迷ったあとに。王は静かな声で、分かった、と言った。

「一度だけ確認する。それが、お前の……心からの望みだな? ソキ」

「はい」

 すっと背を正して、『花嫁』の顔をして。ソキは魔術師として、王の言葉を肯定した。

「それが、わたしの心からの望み。願い、です。陛下」

「……分かった。では、諸々の条件や……あー、いい。この一件が落ち着いたら、書状で通達する。読めよ」

 もう、けろっとした顔をして、ソキがはーい、と返事をする。そして、ソキは訝しげな顔をして首を傾げて。あれぇ、と拗ねたような声で呟いた。

「……もしかして、なんだか、言ってなかったような……? 気がするです……?」

「言ってなかった。言ってなかったんだよ、お前は……!」

「……きのせいということにしておくです。これはなんだか、おこられちゃうことです。きのせいです!」

 ぺっかーっ、と輝く笑みで言い放ったソキに、砂漠の王はふふっと笑い。ジェイドに止めるなよ、と言い置いて両手を伸ばした。きょとん、とするソキの頬を掴んで、左右に引っ張る。折檻である。ぴぎゃああああぁああぁいやあああぁんですううううっと泣き騒ぐソキを、王は許さず。見かねたアイシェが、あの、それくらいにしてあげて、と止めるまで、ソキの頬を溜息をつきながら引っ張っていた。

 それを、妖精は黙認した。最もなことである、と思ったからである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る