希望が鎖す、夜の別称:12




 とろとろとした眠りとあまい覚醒を繰り返し、ソキがようやくぱちっと目を覚ましたのは、地平線に太陽が沈む頃だった。部屋が茜一色に染め上げられる中、ふあぁああ、と今日一番の大あくびをしたソキは、くしくし、と目を擦りながらむっくり体を起こす。右を見て、左を見て、こくんっ、と力強く頷き。ソキはふんにゃぁああ、と声をあげながら大きく伸びをして、自慢いっぱいの声で宣言した。

「ソキ、元気に、なったですぅー!」

『はいはい、自称自称。さ、誰かに診察してもらいましょうね。とりあえずメグミカでいいんじゃない?』

「ぷ。……ふんにゃ! きゃぁ! メグちゃん! メグミカちゃん!」

 メグちゃぁああんっ、とはしゃぎきった、とろける声で布の向こうに声をかければ、障害物を跳ねのける動きで女は姿を現した。メグミカったらもう、とくすくす囁く世話役たちの声も、布の向こうから聞こえてくる。そろそろ起きる頃合とみて、待機していたらしかった。目を潤ませつつ輝かせて素早くやってきたメグミカは、ソキさま、と言ったきり、胸に手を押し当てて深呼吸をしている。

 視線はソキに向けられたままで、どこへ逸れて行きもしなかった。ソキはにこにことメグミカを見つめ返しながら、その視線が全身をじっくりと確かめて安心していくまでの、長くも短いひとときを受けれる。あぁ、とメグミカは吐息を零し、喉にひっかかったような声で囁きを落とす。お目覚めになられたのですね、と万感の思いがこもった声に、ソキはもそもそっと寝台を移動して、泣く寸前のようなメグミカに手を伸ばした。

 腕に触れ、手を引き寄せ、頬を擦り付けてあまく囁く。

「メグちゃん。たくさん、たくさん、心配させてしまったです? ごめんなさいをするです……。あのね、ソキ、頑張りたかったの。頑張らないと、いけない、て、思ったの。だからね、とっても、とっても、頑張って来たんですよ。でもね、でも、メグちゃんのことを、心配させたい訳じゃなかったです。ほんとう。ほんとうなんですよ……。心配させたいわけじゃ、なかったの」

「はい……。はい、分かっております」

 でも、と。ソキが覚えている限り殆ど初めて、メグミカは『花嫁』の言葉に対して、その否定的な単語を吐き出して言った。

「とても……心配、しました。心配したんです、ソキさま……息、が、弱くて……」

 まだ大丈夫だ、間に合った。間に合う、と力強く断言し励ますジェイドの腕から、震えながらソキを受け取った時、その体の重みと熱に、はじめてメグミカはぞっとした。記憶しているそれより、ずっと重いようにも、失ってしまいそうな軽さであるようにも、感じて。熱は燃えるようにあつく、それでいて冷えるよう生温かった。鼓動は弱く。呼吸も弱く。繰り返す吐息の間を、乾いた咳が埋めていた。

 ロゼア、と胸中で強く、メグミカは幾度も『傍付き』を呼んだ。ここにきて。ここにいて。ソキさまが。ソキさまが、まだここにいらっしゃるのに、どうしてあなたはここにいないの。茫然と立ち止まってしまったメグミカの頬を軽く打ち、ジェイドは大丈夫だ、と鋭く叫んで、『花嫁』を抱くメグミカの背を突き飛ばすように、前へと押して歩かせた。

 消費する魔力と心身の負荷が、嫌な風にかみ合って荒れてしまっただけ。だから、それが落ち着けば安定する。『花嫁』が安心できる、魔術師が安定できる、静かな慣れた穏やかな場所で眠れば、あとは時間が解決してくれる。だから、けれど、急げ、と告げられて、メグミカはソキを抱いて『お屋敷』の中を走り抜けた。道筋はよく覚えていない。誰とすれ違ったのかも。

 覚えているのは寝台に横たわるソキの呼吸が深くなり、咳が止まった時からだった。こふ、かふ、と喉を軋ませていた咳の音が消えて、メグミカは己の息が止まるかと思った。大丈夫よ、とメグミカに告げたのはライラだった。いつの間にか来てくれていたハドゥルとライラは、混乱するメグミカに代わり室内を整え、ソキの元世話役たちを招集し、ジェイドと共に待っていてくれたのだ。

 大丈夫。ほら、咳も熱も引いたでしょう。落ち着いて、深く、お眠りになっただけ。よくなっているでしょう。回復してきているのよ。大丈夫、大丈夫ですからね。ハドゥルとライラに支えられながら言い聞かされて、メグミカは息することを思い出すように、肺の深くまで空気を吸い込み、吐き出してから頷いた。そうであるからこそ、ちょっとした事故である、とメグミカは思っている。

 感謝しているのだ、ジェイドに対しては。その状態のソキをすぐに『お屋敷』に連れてきてくれたことも、メグミカの背を押して歩かせてくれたことも、言葉で何度も励ましすこしばかり正気に戻してくれたことも。感謝している。だからこそ。お礼を告げなければ、と振り返った瞬間に、そういえばこのひとソキさまを腕に抱き上げていたような気がするんだけどなぜそんなことをねえロゼアどう思うロゼアのソキさまを抱き上げるとかどういうことだちょっと待て、と未だ混乱する思考が言葉を叩き出してしまい。

 結果として瞬間的な怒りに身を任せてしまっただけなのである。脳内のロゼアが、素晴らしい笑顔でやれ、と言ったのもよくなかった、とメグミカは思っている。つまり八割ロゼアに責任がある。メグミカの判断力による責任など、微々たるものである。その主張のせいで当主が頭を抱えて呻き、しかしながらまあロゼアが悪いということでもまあ、と結論を下しかけたので、共々ラギの説教を受け反省文を書かされ説教を受け反省文を書き、というのを繰り返していたせいで、中々戻ってこられなかったのだ。

 そんなことをおくびにも出さず、メグミカは苦しげに、言葉を吐き出しソキへと告げる。

「……損なわれて、しまうかと……。ソキさま……」

「はぅ、あ、あうぅ……ごめんなさいです……。たいへん、とっても、しんぱいをおかけしてしまたです……。ごめんなさいです……。ソキ、そき、はんせい、する……」

「はい……。はい、ソキさま。それでは今日は出発なさらず、こちらで療養して頂けるのですね……?」

 うんっ、もちろんですそのとおりですっ、と勢いよくぎゅっと目を閉じて力強く頷いて。頷いてから、ソキはぱちっと目をあけて、すごく不思議そうに首を傾げた。今、なんだか、不当な約束をさせられてしまったような気が、する。あれ、と目をぱちくりさせて呟くソキに、妖精は深々と息を吐き出した。成長はしているにしても、なんというか、学習と進歩がない。

 そこにすぐ気が付くことは良いにせよ、相変わらず人の話を聞かないで返事する癖は直っていないし、じつはなにもかも理解しているような素振りを見せたかと思えば、なにひとつ分かっていないようにこういう所で引っかかる。ソキらしい、とでも思えばいいのか、と妖精はゆるりと羽根を動かした。英知と無垢は、裏表のように、一面に同居しているように混在し、行き来している。

 んん、と今一つ頭の動きが鈍そうな声をあげて首を傾げているソキに、メグミカが満面の笑みで、よかった、と囁いた。

「それではソキさま! ゆっくり致しましょうね。まずはお着がえされますか? それとも先に、湯を使いましょうか。たくさん眠りましたものね」

「……め、めぐちゃん……? あの、ソキね、あの、砂漠の、陛下にね。おはなし。おはなしをね」

「はい。明日、致しましょうね。今日は療養される、と、ソキさまは先程、このメグミカとお約束してくださいましたもの!」

 心配も、言葉に込めた辛さも、本物ではあったのだろう。しかしその本当を利用してでも言質を取りに行くのが『お屋敷』のやり方であり、『花嫁』の世話役たちに共通した教育である。ソキもそれを見知っていたからこそ、昨日はあれこれ上手く行ったのだろうが。それでも、何回でも、それに自分でひっかかるのがソキである。あれあれ、と言いながら、でもぉ、とごねる声を出すソキに、妖精は額に手を押し当てながら首を振った。

 なんとなく理解したが、つまり、ソキに与えられた教育はそういうもので、そういう風に整えられたのが『花嫁』であるに違いない。すなわち、行使する手段と知識を持ちながらも、自分にそれをされるとあっさり、疑いもせずにひっかかる。

『いいから、湯でさっぱりして来なさい。どちらにせよ、寝起きのそんな状態で陛下の御前に出られる訳はないでしょう? 陛下がどこにいると思ってるの? ハレムよ、ハレム。……ほら、よく考えなさい、ソキ。あの女の前に湯も使わな』

「ソキ! おふろへゆく! きれいになる! ぴかぴかほわほわ、いーにおいになるです! して、メグミカちゃんっ。してしてぇっ!」

 たっ、たいへんな、たいへんなことをする所だったです、と打ち震えながらやる気を出すソキに、メグミカはもちろんですっ、と輝かんばかりの笑顔で頷いた。それではロゼアのいないこの隙にごほんごほん、もとい、邪魔の入らないうちにレースのたくさんついた服なども着ましょうねちょうど新調したものがこちらにっ、と言い放つメグミカは輝いていた。この世の春、とでも言わんばかりである。

 もしかしてソキになにかをさせたくなったら、ロゼアを餌にするより好みの女を置いておく方が釣れるのでは、という可能性に思い至り、妖精はしぶい顔をした。今後の為にぜひとも検証実験をしておきたい所ではあるのだが、それでいて積極的にやりたくはないし、ロゼアの不機嫌が目に見えすぎている。選択肢が己の他にあるという時点で、ロゼアの機嫌など直角で下降する。賭けてもいい。

 それを、るんたるんたと鼻歌を歌いながらお風呂の準備をするソキだけが分かっていない。もしかしたら本当は、どこかで理解しているのかも知れないが。ソキが日夜繰り出す、『ロゼアちゃんめろめろにしちゃうです大作戦』や『これでロゼアちゃんもしっとしてソキにめろめろきゅんです大作戦』や『こあくまけいのあくじょになってロゼアちゃんをもてあそんじゃうです大作戦』の、ありとあらゆる方向性から間違っているのを見る分に、その可能性は薄そうだった。

「さ、リボンちゃん? おふろ、おふろに行くですよ! それで、ソキはぴかぴかの、ふわんふわんの、いーにおいソキになるです。だいじなことです。……それでぇ、仕方がないですからぁ、おにーさまにもご挨拶行くです……なんだか心配していたと、聞くですしぃ……心配は、よくない。よくないですからね……」

「まあ! 素晴らしいですわ、ソキさま! さすがはロゼアのソキさまです……!」

 それでは、御当主さまにもそのようにお伝えしましょうね、と告げられて、ソキはくちびるを尖らせ、不承不承という顔を作りながらこくりと頷いた。ソキがそのようなことを促されず、自分から言い出すのはごく稀なことである。心配をかけていた、というのを申し訳なく思っているのは、妖精にさえ伝わることだった。全く、素直じゃないんだから、と笑いながら、妖精はソキの隣へ飛び立った。

 用意されていた湯へ向かう間も、出てからも、ソキの喉は咳を思い出すことはなく。魔力も機嫌も体調も落ち着いていたので。妖精は胸を撫でおろし、これでばっちりです、とふんぞりかえるソキに頷いてやった。明日まで、このままなら、また旅をすることも叶うだろう。これは旅だった。ソキと、妖精の、ふたたびの長旅だった。

 五国を巡り、『学園』へと向かう。その先でロゼアに会う、旅路である。


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