希望が鎖す、夜の別称:11




 ソキは真夜中に目を覚ました。まだ体の芯は疲れ切っていて、はたはたと瞬きをするのが精一杯の目覚めだった。薄闇の中、ソキはロゼアを呼ぼうとして、枕の傍で羽根を休める妖精に気がつく。ぼんやりとひかる妖精の輝きのおかげで、ソキは塗りつぶされた暗闇に閉ざされることはなく、恐怖に震えることもない。リボンちゃん、と響かない声で、ソキは眠る妖精に囁いた。

 約束、守ってくれているです、嬉しです、ありがとうです、だぁいすき、です。そっと手を伸ばしてちょいちょい、と指先で羽根を撫でると、くすぐったかったのかゆうるりと一度だけ開閉する。それがなんだか嬉しくて、しあわせで、ソキはくすくすと笑った。けれども、とたんに、こほんっ、と咳が出る。体を熱っぽく傷ませ、喉を軋ませる咳ではなかったけれど、両手を強く押し当ててなお、咳を止めることができない。

 どうしよ、どうしよ、これじゃリボンちゃんを起こしちゃうです、とけふけふしながら混乱するソキの名を、落ち着かせるように呼ぶ女の声があった。ソキさま、大丈夫ですよ。落ち着いて。すこしだけ、失礼致しますね。声の響きですら丁寧に調えられた滑らかな、それは『傍付き』の囁きだった。ぱっと目を向けると同時、寝台を覆う布の向こうから現れたのはライラだった。

 ロゼアの母親。ライラは甘えて手を伸ばしてくるソキを微笑みながら抱き起こし、背を撫でて呼吸をすこし落ち着かせると、ほんのりと湯気の立つ陶杯をちいさな手に持たせてくれた。まだすこし熱いですから、ゆっくりと。囁きにこくんと頷いて、ソキはお茶にふぅっと息を吹きかけて褒めてもらいながら、それをひとくち、喉に通してうるおした。

 不思議なもので、ひとくちでも胃に落ちていくと乾きと空腹を自覚する。なんだかお腹がすいたです、と呟くソキに、ライラは幸せそうなはにかんだ笑みで、うっとりと、なにか召し上がりますかと問いかけた。ソキはしばらく言葉に悩み、果物がいいです、と要求する。あのね、あまいの。それでね、お水がいっぱいなの。たべたいです。

 ライラは『花嫁』の要求をあらかじめ予想していたのだろう。視線だけを動かして、寝台を覆う布の向こうにアーシェラの名を呼びかけた。きゃあん、とソキは目を輝かせる。アーシェラはラーヴェの補佐であり、ソキが旅立つ随分前に国内を巡回する外部勤務に転属していたから、もう数年ぶりに見る顔だ。

 慌てて、ちたちたっとした動きで髪と服を整えていると、思わず、という風な笑みを零したアーシェラが、ちいさな硝子の器を持って現れた。中には、ソキの口に合わせたひとくちに切られた、桃とオレンジが盛り付けられている。よく冷やされて瑞々しいそれを、ソキはアーシェラに強請ってあーん、と食べさせてもらった。合間に、あのね、あのね、と話をする。

 魔術師として秘匿しなければいけないことを、ソキは分かっていたから多くは話せなかった。それでも精一杯に言葉を選んで、ソキは『学園』で騒ぎが起こったこと、それからロゼアが助けてくれたこと、ロゼアを助けて、皆を助けに呼びに来たこと、砂漠の陛下とアイシェの仲のむつまじさ、星降で網でつかまったこと、花舞でけんめいに頑張ったこと、白雪でいけない陛下とおはなしをしたこと、楽音の陛下が助けてくれたこと、砂漠の陛下にそれをみんな伝えに来たことを、次々と話した。

 誰かに聞いて欲しかった。眠って起きた夜の中では、なんだかそれが全て夢のように感じて。夢ではないと確かめたかった。女たちはソキの喉が軋まないかを慎重に確認しながらも、その警戒を表に出すことはなく、『花嫁』のどこか切実さを宿した言葉をひとつひとつ、丁寧に聞き届けた。

 とてもよく頑張ったのですね、と囁いたのはライラ。ラーヴェも誇らしく思うでしょう、と告げたのはアーシェラだった。ほんと、ほんとっ、と頬を赤くして喜ぶソキの手から空の器を取り上げて、アーシェラはもちろんです、と力強く頷いた。そんなに頑張られたのに、お水も飲めて、お食事もできて、本当に偉いですね。

 これで横になってお休みされれば、なんと素晴らしいことでしょう、と微笑まれ、ソキは自慢げな顔をしてころろんとすぐさま横になった。まぁ偉い、かわいい、素敵、素晴らしい、かわいい、さすがはロゼアのソキさま、かわいいかわいいえらいと二人がかりで心から褒め称えられて、ソキはそうでしょうそうでしょう、とふにゃふにゃゆるんだ笑みで頷いた。なんといっても、えらくてかしこく、かわいいソキなのである。

 ふふんと自慢げにしながらも、ソキはライラの膝にもそもそと頭を乗せた。おひざまくらする、と強請れば、ライラの手がうっとりするような優しさでソキの頭を撫でてくる。ロゼアには内緒にしましょうね、とその母がいたずらっぽく囁く。ぷーってしちゃいますからね、とアーシェラが笑いを堪えながら言い添える。大丈夫ですよぉ、とソキは頷いた。

 ライラさん、ロゼアちゃんのおかあさんだもん。ソキ、ひとりじめしないもん。あっでもロゼアちゃんもライラさんのおひざまくらをするのはちょっともやもやするです、とくちびるを尖らせるソキに、女たちはくすくすと笑って顔を見合わせた。ロゼアが頭を乗せてくれたのなんて、本当に幼い時だけですわ、と告げられて、ソキはそのおはなしをして、と言った。

 言った、筈、なのだが。言葉はふわふわとあくびになって漂い、すぐにソキの記憶は途絶えている。そういうわけですから、リボンちゃんの勘違いというやつなんですぅ、とごねるソキに、妖精は額に強く手を押し当てて沈黙した。だからどうして行く先々で好みの顔にふらつくんだ寝台にひっぱり込むんじゃない身の危険を自覚しろはしたないに該当するでしょうが、と朝から叱り飛ばした直後のことである。

 百歩譲って身の危険云々は置いてやらない気がしなくもないが、納得しにくいものがある。しかも母親似と聞くロゼアの、その母親であるから、ソキの好みでない、筈がないのだ。ああぁあもう、と頭を抱えて呻き、諦め、それについてもう考えないことにして。妖精は気を取り直して、頬をぷっとふくらませ、寝台に座り込むソキを、上から下まで眺めて言った。

『調子はどうなの?』

「げんきだもん」

『ソキ?』

 拗ねた返事を許さず問いを重ねれば、ソキはぷーぷくくくくっと頬を膨らませ、ぷふっと吹き出してしぼませると、不満いっぱいにくちびるを尖らせた。

「ソキ、もうげんきだもん。ほんとだもん。だから、さばくのへいかのとこいくもん。レディさんのとこもいくもん。いくも!」

『はいはいはいはい。療養しましょうね。せめてアンタの……メグミカ? ソイツが出歩くのを許可したら信じてやるわよ。ふんわふんわ話してもう……』

「いやぁんや! ソキ、げんきなったあぁあ……にゅ……う、ぅ……けふふっ」

 なにがどう元気になったっていうのかしらねはい駄目、と冷たくあしらわれて、ソキはいやんやああぁあっ、と聞き分け悪く寝台の上でちたぱたした。だってもう朝なのである。ロゼアの所から助けを呼びに出たのが一昨日で、昨日は五ヶ国を行ったり来たりして、それで今日なのである。

 言葉魔術師が動き出す気配はなく、もう数日は猶予があると確信していたが、だからこそ問題はもうそれではないのである。今日にはもう絶対にロゼアちゃんにぴとっとしないと足りなくなっちゃう、と主張されて、妖精は呆れた顔で室内を見回し、戸口に立つ男女を指さして言った。

『両親で我慢しなさい』

「いやんやぁあぁあああぁあ! や、や……かふ、けふ、こふん!」

『ほら、もう……いい? ソキ。いくら大丈夫だと思っても、砂漠の陛下に事の次第を報告しないといけないでしょう? 分かる?』

 口を両手で押さえるソキに、歩み寄ったハドゥルがぬるまった香草茶を飲ませる。ジェイドは早朝にソキの顔を見に来たあと、その砂漠の王の元へ向かっていた。個人的な事情により、ハレムに立ち入ると心の傷でじんましんが出るからほんとに行きたくない、と呻くジェイドを、働きなさい魔術師でしょう、とハドゥルが部屋の外に押し出していた。

 こちらに戻ってくるのは、王への報告と相談が済んでから。夕方か夜になる、と妖精は聞いていた。メグミカも、まだ姿を見せない。反省文は終わったみたいだけど、担当部署が忙しいみたいだね、とジェイドが言い残して行った。それもあって、ソキの機嫌はさほど良くないのである。寝起きにはメグミカに会えると思っていたらしい。

 陛下におはなしする、と仕方がなさそうな顔をしつつ頷くソキに、妖精はよろしい、と息を吐いて続けた。

『どういう態度でなにを話すにせよ、いまの状態ではまた体調を崩すでしょう。自分でも分かっている筈よ。……別に、何日も寝て過ごせだなんて言ってないでしょう? でも、今日は、まだ駄目よ』

「……リボンちゃんが、ソキに、だめっていったぁ……」

 みるみるうちにしょぼくれるソキに、すこしだけなら、という気持ちを感じつつ、妖精は言葉をぐっとこらえて視線を逸らした。昨日、よくよく分かったことがある。つまりソキはその発声、仕草、言葉の内容のひとつまで、全部分かって計算した上でやっているのだ。相手にするには強すぎる王もいたものの、どういう時にどうすればいいのか、それをソキは意識的に、無意識に至るまで、理解して計算してやり遂げていた。

 もちろん、心身に莫大な負荷がかかることも、ソキは知っている。そうであるからこそ普段は一番楽な、負担のない、あるいはロゼアの一番の好みかつ甘えられる状態で過ごしている、だけなのだ。ソキはまさしく『最優』と誉れ高く呼ばれた『花嫁』であり、そしてまた、しっかりとした知識を積み重ねて行っている最中の魔術師でもあった。

 だからこそ。駄目よ、としっかり声に出して言い切って、妖精は膨れるソキを見つめて言った。

『ロゼアの所へ戻りたいなら、ここでしっかり回復なさい』

「ぷぷぷ。そき、ロゼアちゃんにあいたい」

『あぁあもう……いいから、ソキ? よく考えてもみなさい。ロゼアのヤロウが起きた時に、咳をしてしまったとしましょう。大変ね? ロゼアはさぞ心配するでしょう。どうしたの? って聞かれるでしょうよ。なんていうつもり? アタシも、周りも、休みなさい元気になったらにしなさいって、みーんな止めたのに、無理して咳して熱だして寝込むの? ……一月は部屋から出してもらえないわよ』

 期間をかなり甘く見積もった妖精の言葉に、ソキはやぁああんちたちたちたちたけふんこふん、と暴れて咳をして、くったりして寝台に横になった。微笑んで歩み寄ったライラに薄布で包まれて寝かしつけられながら、ソキは涙目で、ぐずっ、と鼻を啜って呟いた。

「ソキ……ソキ、お咳が出なくなったら、ロゼアちゃんの所に帰るです……? すぐ、出なくなるぅ……?」

「偉いですね、ソキさま。それでは、ゆっくり眠りましょうね。お傍におりますからね」

「……あっ、よぉく眠って起きたソキなら、ロゼアちゃんをごまかせちゃう、とっておきの、すばらし方法を思いつくかもです。そうするです!」

 だからなんでそういう、駄目な方駄目な方に思考が飛躍し、かつ上手く行かない可能性まで辿りつけないのか、と頭の痛みを堪えながら、妖精は息を吐く。誤魔化そうとする時点で、すでに勝率が片手程も残らない。ことロゼアを相手にして、ソキがそんなことをできた試しがないからである。隠し事を隠しおおせたことは、あるにせよ。誤魔化す、というのは、出発地点から無理である。

 さすがはソキ、かわいくかしこくすごぉーいです、と増長しきった自慢げな呟きでふんすと鼻を鳴らし、ソキは気合の入った表情で、ぱちっ、とばかりに目を閉じた。おやすみなさい、いい夢を。囁きは輪唱のように、子守唄のように、室内からいくつも、いくつも響き。その音色が空気に溶け込む頃、『花嫁』の寝息が健やかに、甘く室内へ滲んで行った。



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