希望が鎖す、夜の別称:10



 ジェイドには妖精の加護があり、それ故にこの度の凶行からも逃れたのだという。ただしジェイドがいたのは、砂漠の国の端。国境でもないただのオアシスであり、通常でも一日はかかる移動距離であるから、様々な手段を駆使して戻ったのが、ソキと遭遇した直前であるのだ、と男は言った。オアシスでは、ジェイド以外に目を覚ましている者はなく。行く先々でも、全てがそうだった。

 人も動物も深い眠りに沈み込み、砂漠という国は、いまや国の端までしんと静まり返っている。なにが起きたのかは、すぐに分かったのだとジェイドは言う。詳しい術式の内容は理解しないまでも、これが魔力による昏倒であり、そしてそれを誰が成したのか。目的は分からないが、悪巧みであることには間違いなく。

 頭の痛そうな声で言葉を語り、ジェイドはふんふんと分かっているのかいないのか、目をきらきらさせながら聞くソキに、くすくす笑いながら囁きかけた。

「だからね、砂漠はまだ回復できていません。分かる?」

「うん! ソキ、ちゃあんと分かるです。つまりぃ、こわいこわいが、いけないをして、それで、それで、まだいやんやんなの!」

「うん、そうだね。やだね。……ふっふふっ、ミードさまそっくり……」

 口を手で押さえて顔を背けながら笑うジェイドの傍らで、ハドゥルがやや苛々した気配を醸しながらも沈黙している。でしょう、ソキったらママに似てるってよく言われるです、ねえ似ていたおはなしをして、ママのおはなしをして、うんあとでね、ともう片手を越えたやりとりを、また穏やかに繰り返して。ジェイドは渋い顔をして沈黙する妖精に、ごく穏やかに笑いかけた。

「それで、『お屋敷』がなぜ無事なのか、ですが。先日のリトリアの一件があった後に、念の為、俺が呪い避け、過度の祝福避け、その他諸々魔力避けを設置してから仕事に出ていたからです。王と御当主さまに無断で」

『……ねえ、そこで無断でやる意味ってなに……? 無断の必要はどこにあったの……?』

「説明して許可を取るまでがめんどくさくて……というのは、もちろん冗談だから安心していいよ、ハドゥル」

 お前もっと怒られたり殴られたりすればよかったのに、と言わんばかりのよどんだ目をするハドゥルに、ジェイドは機嫌よく肩を震わせて笑った。ソキを連れて『お屋敷』に現れたことで、ジェイドはやや騒ぎを起した後らしい。『お屋敷』はもちろん、外の明らかな異変を察知していてどのようにするべきか揺れている最中であり、そもそもソキは『学園』にいる筈の魔術師のたまごである。それが息も絶え絶えに青ざめて、ジェイドに抱えられて現れたのだから、当然蜂の巣を突いたような大騒ぎになった。

 ジェイドは最優先事項として『お屋敷』お抱えの医師を呼び、ソキの元世話役たちを呼び出して傍にいるように求め、その柔らかな体を受け渡したのだが。そこで問題を起こしたのは、どちらかといえばジェイドではなく、やってきたメグミカである。メグミカは意識のないソキをジェイドから受け取って寝台に寝かせたあと、どこでなぜどうして、の説明を一応は冷静に聞き。見かけだけは冷静に、聞き終えて。

 それは、と言ってジェイドの胸ぐらを掴み、どうも、と言って引き寄せ。ありがとう、と叫びながら膝蹴りを叩き込み、ございましたっと告げて平手打ちまでした。ロゼアの『花嫁』であるソキさまを、『傍付き』に無断でその腕に抱き上げるとはなにごとか、というのが、彼の補佐であったメグミカの主張である。適切な他の運搬方法がなかったと知って、なおの怒りである。

 ジェイドは顔への攻撃以外は甘んじて受け、メグミカ共々、妖精まで連れて、当主に事情説明とお叱りを受けに場を離れていたのだった。メグミカは、まだ反省文をしたためているらしい。道理で世話役たちがいるのに、メグミカが顔を出さない筈である。それでまた置いて来たとなれば火に油を注ぐだろうに、と呻くハドゥルに、ジェイドはそんなこと言われても、と悪びれのない態度で言い放った。

「反省文を、書き慣れてないのがいけないだけだろう?」

「反省文を書き慣れるのが良い事である筈がないだろう……っ!」

「やだなぁ、ハドゥル。なにごとも経験だよ。真面目なんだから」

 妖精が呻きながら、砂漠の王への祈りを口にした。砂漠の筆頭は問題児とは聞いていたけれど、と続くことばに、ジェイドは恥ずかしそうに、もう児って年齢でもないんだけどね、と口にする。恥ずかしがって欲しいのはそこではない。なるほど、と心底納得しきった目になる妖精に、どこ吹く風よとにっこり笑いかけてから。

 ジェイドはむむぅ、とくちびるをとがらせて首を傾げているソキに、聞く者がくすぐったくなるくらい甘く優しい響きで問いかけた。

「どうしたの? なぁに、言ってごらん」

「……あのね、あのね、ありがとうございます、なんですけどね。……どうして、『お屋敷』を守ってくれたです? ジェイドさんは、『お屋敷』のひとなの? でも、ソキ、『お屋敷』のひと、魔術師さんがいるって、知らないの……」

 妖精が訪れてロゼアに会いに立ち寄った時だって、年末年始の帰省の時だって、月に一度届く定期便の手紙にすら、誰もそんなことを言っては来なかった。しかも他国ではなく、砂漠の、それも筆頭という立場ある者なのにも関わらず、である。なんで、なんで、と目をぱちくりさせるソキに、ジェイドはそっと身を屈めて囁いた。悪意を知り、拒否を受け、それでも。

 それを知らぬ者に告げはしない魔術師の男は、きょとん、とするソキにやんわりと微笑む。

「理由はね、俺が内緒だからだよ」

「……ないしょなの? なんで?」

「なー、いー、しょー」

 きゃあっ、とはしゃいだ声をあげて、ソキはちたちたと手足を動かした。内緒ないしょと繰り返して笑うのに、ジェイドは心から和みきった顔で、さぁ、とソキを促した。

「気になってたことは解決したかな? 横になろうね、かわいい魔術師さん。眠れないなら、ハドゥルがなにかお話してくれるよ。……俺がハドゥルの話をしてもいいけど」

「ちょっと。あなたはなんで余計なことしかしないんですか?」

「興味あるだろうな、と思って」

 言われた通りに素直に横になり、ソキはきらきらした目でハドゥルさんのおはなし、と言った。お許しください、とハドゥルが顔に両手を押し当てて呻く。そうだよね、と笑みを深めて、ジェイドはそっと声を潜めた。

「それじゃあ、ハドゥルのはじめての反省文の話から」

「は? なんで知ってるのか教えてくださいあなたその時いなかった筈でしょう」

「決まってるだろ? ラーヴェから手紙が来た」

 しかもわざわざ速達で来た、と言い添えられて、ハドゥルの目が遠くなる。ふんにゃっ、と興奮した声をあげて、ソキはもちゃっと起き上がる。

「ラヴェ! ラーヴェのおはなし! して! あっ、ママのおはなしもして!」

『興奮させないでちょうだい! ちょっと、アンタろくでもない大人ねっ? ソキ、だめよ。寝てなさいコイツのはなしは聞くんじゃない! 教育に! 悪い!』

 全力の意識を迸らせた妖精の叫びに、ソキはええ、と声をあげて横になった。起きているのは自分でもすこし辛いらしく、珍しいまでに素直な態度だった。

「でもぉ、でもぉ……! パパと、ママのおはなしぃ……! ジェイドさんは、パパとママのおともだちなの? そのおはなしもして?」

「パパ……? ……あぁ、ラーヴェ、そう言ったんだ?」

「誤解を招く誤解を招く誤解を! 招く! ソキさま……! ラーヴェ、でしょう……お間違えのないようお願い申し上げますジェイドは再度御当主さまに呼び出されて反省文でもなんでも書いてこい話があるから廊下にも出ろ」

 だからやだって言ってるだろ、とまるでハドゥルが聞き分けの無いような顔をして言い聞かせ、ジェイドは目をきらきらさせているソキの顔をひょいと覗きこんだ。おはなしぃ、と甘くいとけない声でねだられるのに笑みを深め、ジェイドはどんなのがいいの、と囁いた。ぱあっと顔を明るくしたソキが、えっと、えっと、と悩みだすのに、ジェイドはうんと相槌を打ちながら薄い掛け布団を手に取った。

 どうしようね、ゆっくり考えていいんだよ、と囁きながら、ソキの全身を包んでしまう。ぽん、ぽん、と手で肩のあたりを叩いて悩んじゃうねと囁くジェイドは、あからさまに寝かしつけに入っていた。妖精が黙って見守る先で、ソキはうと、うとっとしながらもふにゃうにゃとなにかを訴え、眠りたくなさそうな顔をしている。いつでもいいよ、とジェイドはソキの耳元で囁いた。

 いつでも、なんでも、聞いていいよ。今じゃなくていいよ。眠いね。寝て起きてからで大丈夫。おはなし、しようね。さ、目を閉じて。うん、そう。いいこ、いいこ。ぽん、ぽん、と撫でる手は、ロゼアと同じ優しさに満ちていた。ソキはふにゃりと気持ちよさそうな笑顔で目を閉じ、かけ、眠くて眠くてたまらない顔で、妖精にのたのたと手を伸ばした。

「りぃ、ぼ、ちゃ……いっ、しょ……ねう……。そき、ね……て、どっか、いく、だぁ、め、ですぅ……」

『はいはい、悪かった悪かった。……なぁに、あまえんぼ。実家なんだからそう寂しくないでしょう?』

 口でそう言いながらも。差し出された手の届く所へひらりと舞い降り、妖精はソキの指先を撫でてやる。さびしいのないもん、と眠りに溶ける声でソキは訴えた。いっしょにいたいだけだもん。どこでもいっしょって、いったもん。いったぁ。はいはい、と笑って、妖精はソキの瞼を撫でてやった。

『分かったわよ。ここにいるわ。……さ、おやすみ、ソキ。たくさん眠って、もっと元気になりましょうね』

「……うん」

『コイツらのぐたぐたした説明やら、コイツらに対する説教やらは、とりあえずアタシに任せておきなさい。ソキには手に負えない相手だわ。……あとね、アンタのお兄さんも、すごく心配していたわよ。起きて、元気だったら、顔を見せてあげましょうね』

 うん、と言葉ではなく、声の響きだけに反応して返事をして、ソキはするりと眠りに落ちてしまった。とろとろと、蜂蜜のように満ちていく魔力の流れも、変調はなく穏やかで落ち着いている。息を吐いて。よかった、と呟く妖精に、ジェイドは本当にね、と頷いた。

「間に合ってよかった。……『お屋敷』にも、対策しておいて正解だったね。手の施しようがない所だった」

『……無理をさせすぎた、ってこと?』

「簡単に言うとね。……でも、彼女が、というより……魔術師であり、『花嫁』であったから、かな。どちらも、うんと頑張って、どちらも、うんと無理をした。片方だけならね、なんとかなったかも知れない。でもね、両方は、難しいよ。両立するっていうのはね、本当に、難しい……」

 目を閉じて。言葉に、万の想いを込めて。けれどもそれを語らず。ジェイドは悔いて険しい顔をする妖精に、君のせいではないよ、と言った。

「恐らく、彼女は自分でも意識せず、ごく微量の魔力を消費し続けている状態だった。恐らくは『花嫁』として、王陛下方の説得をする為に。魔術で惑わしたんじゃない。世界の加護を持つ陛下に、そんなものは無意味だ。彼女がしたのは……推測しかできないけれど、恐らくは己の調整だ。発声や呼吸。息継ぎ。仕草。体の動かし方。ひとつ、ひとつ。望みが叶えられるよう、教育の通りに振る舞えるよう、そうし続けられるよう……ごく微量の身体の強化、回復、維持。それに加えて……あの状態の『扉』を使った」

 不可能なんだよ、と砂漠の筆頭魔術師は告げる。あんな状態の『扉』は、どうあがいても飛べるようなものじゃない。その不可能を可能にするのが予知魔術師。その不可能を可能に書き換える為に、彼女はつまり、魔力を使った。入口と出口がある場所を繋げるだけだ。そう大がかりなものじゃない。下書きをなぞって線を描くようなものだろう、予知魔術師という存在にしてみれば。

 けれども。怖いという意思を置き去りに、必死に前だけを見て走り続けることを課した、それだけでも負担となるであろう『花嫁』の、脆い体に。その、ほんのすこしの魔術ですら、耐えられなかったのだ。ひび割れるように体調は悪くなり、それを拭うように、また微量な魔力によって補填されていく。輪を描くように悪化していく。その限界が、砂漠に戻るまでだった、ということだ。

 それでも彼女の努力は報われた、と砂漠の筆頭は言い切った。妖精が告げた国々の顛末を聞き、吐息と共に胸を撫でおろした。立ち止まってしまえば、平和は絶えたことだろう。諦めてしまえば、ジェイドが救うことさえ出来なかったかも知れない。努力は全て未来へと繋がり、なにもかも、全てが、ソキを支えきり救いあげた。

 よく頑張ったね、と心から、ジェイドは眠る『花嫁』に囁いた。起きたら、これからのことを、話そう。たくさん、たくさん、話そうね。よくお眠り、と髪を撫でられて。ソキはふんにゃりと笑み崩れ、寝ぼけた声でろぜあちゃん、と『傍付き』を呼んだ。


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