希望が鎖す、夜の別称:09



 宵闇が日中の暑さを拭い去り、涼しくきよらかな風を室内に満たさんと木々の葉を揺らす頃。火の揺れる灯籠によって明かりに満たされた部屋の中、ソキはもそもそと寝台に体を起こした。ぺたんと座り込みながら、不思議な気分でふわふわとあくびをする。なんだか、とってもよく眠れた気がする。

 目をくしくし擦りながら、まだ夢うつつにロゼアちゃん、と呼ぶと、静かな笑みに満ちた穏やかな声が、おはようございます、と囁く。

「とてもよくお眠りでしたね、ソキさま。お加減はいかがですか?」

 心得た動きで、すこし冷たい香草茶に満ちた陶杯が手渡される。んん、と眠たげに呟きながらそれをはっしと受け取り、ぐびーっと飲み干した所で、ソキはそれが誰であるのか気がついた。ぷは、と息をしながら、目をぱちくりさせて呼びかける。

「ハドゥルさん、ですぅ……! ……ふにゃっ、ハドゥルさんですぅっ?」

「はい、ソキさま。……ああ、よかった。もう痛みはありませんね?」

 体調を問われて、ソキはこくこくと頷きながらも室内を見回した。よく眠れたと思ったのも当たり前のことで、ここはソキの部屋である。『花嫁』としてのソキの区画。もう、ここに『花嫁』として戻って来ることのないソキには必要のない場所だが。部屋を片付けて誰かにあてがわなければ空きがない、という状況ではないのだからと、当主たるレロクが維持させていることを、ソキは知っていた。

 片付けると、年末年始に帰ってこなくなると思われているらしい。ともあれ、慣れ親しんだ部屋があることは嬉しいし、とても落ち着けるので良いことではあるのだが。砂漠の王宮に辿り着いた筈の己が、なぜ『お屋敷』にいるのか分からず、ソキは不安げな顔できょろきょろとあたりを伺った。起き出したことに気がついたのか、ソキの世話役たちが廊下から顔を覗かせてくれる。

 おはようございます、ソキさま。まぁ顔色もよくなりましたね、よかった、と見知った顔に口々に囁かれてほっとしながらも、ソキはくちびるを尖らせるのを辞めずにそこかしこを見て探し。やがて、ぷぷっと頬を膨らませてちたちたと手足を振り回した。

「リボンちゃんはぁ……っ? リボンちゃん、どこどこぉですううぅう! ソキ、おきた! 起きたもん!」

「ソキさまの案内妖精でしたら、すこし傍を離れると、先程」

「ふんにゃっ? ……ハドゥルさん、リボンちゃんが分かるの? おはなし、したの?」

 びっくりして目を見開くソキに、ハドゥルは珍しい表情をした。すなわち、しまったと言いたげな意思を過ぎらせたあと、視線をすいと反らし、言葉を探して黙り込んだのである。それを不思議に思うより早く、ソキはハドゥルの横顔をじっと見つめた。ロゼアの造作は母親、ライラに似ている。しかし、ハドゥルに似ていない、ということはないのだ。横顔の印象、頬の線が大人びたロゼアを思わせる。

 思わず。そっと手を伸ばして顔にぺたりと触れてくるソキの目が、あんまり寂しがっていることに気がついたのだろう。ハドゥルはソキを叱ることなく甘やかに笑い、『傍付き』特有の丁寧な仕草で、『花嫁』の髪を丁寧に撫で下ろした。

「とても……とてもよく頑張られたのだと聞きました。努力されましたね。素晴らしいことです」

「……うん」

「ですが、限界を知りながら動くのも大事なことですよ、ソキさま。……あぁ、本当に顔色がよくなられて……咳も出ませんね。でも、今日はもう、あまり話さないでいましょう。いいですね」

 うん、とじわじわ泣きそうな気持ちでソキは頷いた。頑張りを褒めてもらえたことが嬉しい。それを認めてもらえたことが嬉しい。ロゼアに。褒めてもらえないことが。ロゼアでないことが、さびしい。拳をまぶたの上から押し当てて、くすん、と鼻をすするソキの背を、ハドゥルが鼓動と同じ早さでとんとんと撫でる。もう大丈夫ですよ、と囁かれて、ようやく、ソキは己の中の不安を手に乗せて自覚した。自覚することを、許した。

 怖かったのだ、ずっと。恐ろしかった。歩けなくなってしまうから、その感情はなかったことにして、遠くに置いて、見ないふりをしていただけで。怖かった。目の前で起きたなにもかもが、いま、起きていくなにもかもが。ソキには到底追いつけない速度で流れていく。でもそれと一緒に走らなければ、なにもかも、間に合わなくなる。

 だからこそ、ソキはいっしょうけんめいに話して、歩いて、できることをいっぱいにこなし続けた。立ち止まれば捕まってしまう気がした。怖くて、恐ろしいものは消えてなくなった訳ではなかったからだ。咳をしても、喉が痛くても、目眩がしても、体がいたくても、だからソキはそれをないことにした。『花嫁』として悲鳴をあげているのを知っていて。『魔術師』として、顔を背けて歩き続けた。

 休みましょうね、と懇願した妖精の声。悲鳴そのものの響きで、ソキ、と呼んだ妖精の声が、耳の奥にじんとこびりついている。

「ごめんなさいです……。ソキは、ソキをあんまり大事にしなかたです……いけないこと、です。……ロゼアちゃん、怒るかなぁ。ソキのこと、嫌になる、かなぁ……」

「いいえ、そのようなことは決して。ただ……そうですね、心配します。悲しく思います。……そして、誇りにも思うでしょう。ロゼアの『花嫁』、ソキさま。あなたがこんなにも、強くあられたことに」

 でも、もうこんなことはいけませんよ。今日はしっかりと休まなくては、と言い聞かされて、ソキはこくんと頷いた。窓の外はもう暗い。ハレムを訪ねていくに相応しい時間でないことは確かだし、寝て起きてすっきりしただけで、ソキの体はもうくたくただった。歩こうとしても、きっとすぐ転んでしまうし、咳も出るだろうし、熱だって出てしまうかも知れない。

 間に合わなくなる、という不安はまだくすぶっていたけれど、ソキはそれをぎゅっと我慢して瞬きをする。楽音の陛下は、任せなさい、と言ってくれた。すぐに行きたい、というソキの意思を尊重してくれただけで、休ませようともしてくれた。なら、大丈夫なのだ。いますぐ、ソキが走っていかなければいけないことは、ない。きっと、もう、ないのだ。

「……でも、リボンちゃんと、相談しなくちゃです。ねえねえ、ハドゥルさん。リボンちゃん、どこに行ったの? すこし離れるの、すこしは、まだなの?」

「……申し訳ありません、ソキさま。そう、としか」

 どこかぎこちなく返事をすらハドゥルに気が付かず、ソキは落ち着きなく、きょろきょろきょろりと室内を見回した。

「あっもしかして? リボンちゃんたら、おなかがすいたの? 朝にお砂糖を食べたきりだたですから、ご飯を探しに行ったの? あのね、ほんとは、一日一粒なんですけどね、リボンちゃんたらきっとお腹が空いてるの。ソキと一緒に、けんめいに頑張ったからなの。きっと、ニーアちゃんみたいにたくさん必要になったに違いないです!」

『そんな訳! あるかーっ! ニーアと一緒にするんじゃないわよあんなに食べたら気持ち悪くなるでしょうが! ちょっとソキ! なんで起き上がってるよの横になりなさい! 横に! 喉はいたくない? 目眩は? あぁもういいから横になりなさいったら……!』

 飛び込むように廊下から戻ってきた妖精に叱責されて、ソキはふにゃふにゃ笑いながらころろんっとばかり横になった。おや、とハドゥルが目を和らげて笑う。

「お眠りになりますか?」

「ちがうの。リボンちゃんたら、ソキに横になりなさいって……あれ?」

 ハドゥルの目は妖精を素通りしている。ソキを怒る声も聞き届けた素振りはない。あれ、あれれ、と目をぱちくりさせるソキに、目の前まで滑空してきた妖精が、不機嫌に腕組みをしてなによ、と言った。

『まったく、無理をして! ここまで運び込んでもらえなければ大変なことになってたでしょう? ……もうしないのよ。分かった?』

「あれれ? ねえねえ、リボンちゃん。ソキ、どうして『お屋敷』にいるの? ハドゥルさん、なんでお城にいたの? ハドゥルさんが連れてきてくれたです? ……ハドゥルさんは、どして、起きられてたの? あ、あれっ? なんで、なんで皆起きてるの? 砂漠はもう、みんな、元気なの? あれ?」

 あれ、と目をぱちくりさせながら起き上がろうとして怒られて、ソキは頬をぷっくり膨らませて、寝台を右に左にころんころんと転がった。おしーえーてー、くれなーいーですぅー、いけなーいーことーでーうぅうきもちわるくなてきたです転がるのはおしまいにするです、と寝台にへっちょりしていると、戸口からくすくす、聞き覚えの薄い笑い声がした。

 ハドゥルが、あからさまに視線を反らして息を吐く。

「まだ居たんですか……? いいんですよ、城にお戻りになられて。後は任せてください。おつかれさまでした。……ありがとうございました」

「うん。そこでちゃんとお礼が言えるのが、ハドゥルの可愛い所だよ。偉い、偉い」

「せめて礼儀正しいとか言えないんですかあなたという人は……!」

 ああもう、と言って寝台のすぐ隣に寄せていた椅子から立ち上がったハドゥルは、ソキがあまり見たことのない顔をしている。面倒くさそうというか、気乗りがしないというか、嫌そうというか、それでも無視しきれない好意も確かに見え隠れしている。ふんにゃ、と不思議がる声を零して、ソキも改めて戸口を確認した。立っていたのは、魔術師のローブに身を包む端正な男だった。

 ハドゥルよりは年が上、ラーヴェと同い年くらいに感じたが、ふとした瞬間に、まだ二十代くらいにも見える。男はソキと視線を合わせて、にこ、と笑った。

「こんばんは。……入っても構わないかな?」

「うん! ……あ、あの、あの、えっと……えっと……はい、ですよ。はい、どうぞ。おはいりください」

 妖精が、名前も知らないような相手をほいほい招き入れるんじゃないわよと言いたげに苦虫を噛み潰した顔をしているのが見えても、ちがうんですよ、と言うこともなく、ソキは男の顔をじぃっと見つめた。ハドゥルが額に手を当ててため息をつく。

「お前……お前、まさか、ミードさまに続いてソキさまにまでも……」

「なにをどう誤解してるのか分からないから、全部否定しておくよ、ハドゥル。それ誤解だから。俺はなにもしてないから。……あぁ、よく眠れたのですね。顔色が良い。……ふふ、こんばんは。俺のことが分かるかな? 前に一度だけ、会ったね」

「は? ソキさまに? お会いした? ……お前まさか」

 呻くハドゥルに、男はうんざりしつつも面白がる顔つきで、ぽんぽんと言葉を投げかける。まさかなんだよ。あまり関わらないという話だったと思うのですがなぜ面識がおありなのか説明を頂きたい。ハドゥルの敬語きもちわるい。ちょっと後で廊下に出て頂けますか話がある。やだ。出なさい。やだ。出ろ。やだ、普通に城で会ったというかすれ違っただけだよ特別会いに行った訳じゃない時間がないし。

 でもひと目で分かったよ、ミードさまそっくりで本当に可愛らしい方だから。お前だからそれをやめろと何回言わせるんだ。いやだって可愛らしい方には可愛らしいって言うし思うだろ普通。そういうことを言ってるんじゃないああぁおまえまた砂漠のそこかしこで事故起こしてるんだろ知ってるんだぞ報告あがってるんだからな。だから誤解だって、誤解。

 放っておけばいつまでも仲良く仲悪くじゃれあっていそうな会話に、ソキは目をぱちぱちさせて。くてん、と首を傾げて、ねえねえ、と男の服を摘んでひっぱった。

「ジェイドさん、でしょう? 砂漠の、筆頭魔術師さん、でしょう? あの、あのね、いちど、おあいしたの。ソキ、ちゃあんと覚えてるです……」

 そのあと、『扉』の不具合でロゼアの元に帰れなくなったのが衝撃的すぎて、中々思い出せなかっただけである。ああ、とジェイドは満面の笑みで、うっとりとソキを見つめながら囁いた。

「そう。その通り。覚えててくれたの、偉いね。……嬉しいな、ありがとう」

「お前のその、『花嫁』に対する言葉遣いから物申したい」

「言ってることは分かるけど、魔術師筆頭として、できることできないことがあるんだよ……。ウィッシュにだって同じにしてるし……まぁ、休暇になったらちゃんとするよ。今は魔術師としての仕事中。……カリカリするなよ、ハドゥル。陛下みたいに胃を痛くすると大変だよ?」

 陛下の胃痛の原因はお前だろうがいい加減にして差し上げろお前ほんっとそういうところだぞそういうところだぞ、と呻くハドゥルに全力で物珍しさを感じながら、ソキはなんだか照れくさくて、頬を赤らめて手をもじもじとさせた。転がっていたのから起き上がって、んしょんしょ、と髪を手で整える。なにしてんだと妖精がしらんだ目を向けてくるのに、ソキはだってえぇ、と声をあげた。

 ん、と視線をソキに戻したジェイドが、蕩けるような優しい顔で笑う。

「横になっていて、よかったんだよ。まだ辛いだろう? ……でも、かわいい顔がよく見えるのは嬉しいな。うん、かわいいね。……ん? なぁに、どうしたの?」

「あの、あのね、あの……そ、ソキを助けてくれたのは、もしかして、ジェイドさんなの? あの、あの、あ、ありがとうです……!」

「はい、どういたしまして。……ちゃんとお礼が言えるの、偉いな」

 掛け値なしに、心から褒め称える声だった。はうぅ、と照れてもじもじするソキを見たハドゥルが、だからおまえほんとそういうところすぎてあぁああ、と呻いている。妖精は冷静な目でソキとジェイドを見比べて、はぁん、と極めつけに機嫌の悪い声で言った。

『ソキ。なんで行く先々で好みの顔を引き寄せるの? なんでなの?』

「ちっ、ちがうんですぅ。そういうのじゃないもん。た、だだ、お礼! お礼を言わないといけないです。あとあと、あの、あのね、あの……ハドゥルさんの、お知り合い、なの?」

 それだけはどうか聞かないで欲しかった、という顔をしてハドゥルが天を仰ぐ。ジェイドは口を手で押さえ、こらえ切れずに吹き出して笑って。そうだよ、と柔らかく響く声で言った。

「ハドゥルとは、先輩後輩の仲なんだ」

「その縁は切った」

「また、そういう、つれないこと言うんだからお前は」

 切れてないから『お屋敷』に入れたに決まってるだろう、と告げるジェイドに、ハドゥルは深々とため息をついた。ジェイドが魔術師であるから、ロゼアとも縁があることを。その事実を、心から消し去りたいと思っている、深すぎる息だった。


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