希望が鎖す、夜の別称:13


 ジェイドはソキが湯を使い、早めの夕食をもちもちと頬張っている最中に帰ってきた。くすくすと笑って戸口で幸せそうに目を細める男を見るやいなや、ソキはぱっと頬を染めておかえりなさいませです、と言ってもじもじし、メグミカは苦虫を噛み潰した表情を一瞬だけ浮かべて、ソキさまのなさりたいように、と告げた。

 ソキはもじもじもじもじ指先を擦り合わせたあと、ちいさな声でどうぞおはいりください、と言った。『花嫁』の許可なくば、部屋に立ち入ることあたわず。『お屋敷』におけるその大原則を忠実に守りながらも、ジェイドは気負いのない姿で入室すると、寝台をひょいと覗き込むようにして甘やかに笑った。

「療養しておいでだね。いいこ、いいこ。……陛下がね、焦らなくて良いから体調良くしてからおいで、と仰せだよ。ゆっくりね」

「うん。あの、ソキね。いいこなの……」

 なんと言ってもメグミカとお風呂に入って、ぴかぴかふわふわいーにおいになったのだし、わがままを言わないで寝台の上でじっとして、そこで食事だってしているのだ。体調を元に戻すのが、いまのソキの第一優先である。だからね、ソキは元気になるの、大事なことなの、分かっているの、つまりいいこで褒めがたくさんなの、と言うようなことをぽしょぽしょと恥じらいながら訴えるソキに、ジェイドはふふっ、と微笑んで、満ち足りた息を吐き出した。

「いいこだね。ソキは偉いね、かわいいね」

「でっしょおおおぉお……? あ、ねえねえ、ジェイドさん? おはなし! おはなし聞かせてくださいです。あのね、あのね、陛下のおはなし!」

 ソキさま、ご飯は食べてしまいましょうね、とメグミカに促されて野菜とお肉を挟んだ薄いパンを、再びはっしとばかりに持ちながら。それに口をつけることなく、わくわくどきそわした目で、ソキはジェイドの話を待った。ジェイドは苦笑しながら寝台の傍に椅子を引き寄せると、そこに音のない仕草で腰を下ろし、困ったように囁いた。

「いいよ。でも、ご飯食べようね」

「ソキ、じつはぁ、おなかがいーっぱい! なんですよ?」

「そうなの? じゃあ、こっちにしようか。ヨーグルト、美味しそうだね。はい、どうぞ」

 ソキの手からパンを取り上げ、器を持たせるのは慣れきった仕草だった。ロゼアがするとは、すこし違う。ソキではない誰かに、幾度もそうしていた動きだった。それを不思議に思いながら、おなかがいっぱいなんですぅと訴えると、ジェイドはにこにこ笑いながらそうなんだね、と首を傾げてみせる。

「なら、もう、寝ようか。ご飯、あまり食べられていないね。おはなしは、また今度。ゆっくり寝ないといけないよ」

「……そき、なんだか、よーぐるとをたべたくなてきたです。すごくです」

 これは、おなかいっぱいの主張がちいぃっとも通じない相手である、と判断したソキの返事は、そこそこ早かった。しぶしぶ木の匙を手に取り、ちま、ちまっとした動きでヨーグルトを口に運び始める。元から満腹でもなければ、嫌いなものでもない為に、ぱくぱくと食べはじめるまでは早かった。椅子に逆さまに座り、背もたれに肘をついてそれを眺めながら、ジェイドは感心しきった声で言う。

「偉いね。とっても偉いね……かわいいなぁ。ふふ。じゃあ、そのパンも食べたら、お薬を飲もうね。そうしたら、すこし、おはなししてあげる。陛下のおはなしね」

「ソキ、がんばるです!」

「頑張るんだね。かわいいね、偉いね。とっても偉いね、いいこだね」

 はうぅはううう、と照れながらやる気を出してパンをもちもち食べはじめるソキの傍らで、妖精はこの上なく白んだ目でジェイドを睨んでいた。これは間違いなくロゼアと同じ人種である。間違いなく。その上で、顔がよくて声がよくて心からソキを褒めて来るだなんて、教育に悪いことこの上ない。

 あぁあやだやだなんでソキはこういう手合いばっかり引っ掛けてくるのよと頭を抱える妖精に、そっと角砂糖が差し出された。ジェイドからだった。受け取らず、睨み返す気力もなく、息を吐く。

『……なによ』

「うん? 疲れたかな、と思って。召し上がりますか?」

『いらないわよ。ソキからさっきもらったし……』

 言ってやりたいことはたくさんあった。例えば、ソキを甘やかさないで欲しいだとか。砂漠の王がなんと言っていたのかとか。『お屋敷』に自由に出入りしているように見える、その理由であるとか。しかし、にこにこと嬉しそうに笑って、なんですか、と囁いてくるジェイドを見ているだけで、毒気が抜けていく。怒りを持続するのが難しい、と思ってしまう。

 それは『花嫁』に感じるものと同質の感覚だった。もちろん、ソキよりはずっと弱い。比べれば微弱、とさえ思えるだろう。しかしその性質が、目の前の男には確かにあった。加えてなにか、妖精という存在からは無視しておけないような、ひっかかりすら感じ取る。このような出会いでなければ、好ましい魔術師だと思っただろう。

 いまも、ソキにちょっかいさえ出さなければそこそこ、と思わせる。妖精は眉を寄せてジェイドを睨んだ。ロゼアに似ていて、ソキの性質を持つ、妖精を惹き付ける魔術師。ろくなものではない。

『……アンタなに? 砂漠の筆頭魔術師。あんまりソキに近寄らないでちょうだい。教育に悪そうだし……』

「そんなことないよ。ね」

「ねー。……ね? ねえねえ、リボンちゃん。なにが、ねー、だったの?」

 分からないなら同意をするな、と言う気力もなく、妖精は両手で頭を抱え込んだ。これはもしかせずとも、とんでもない相手である。魔術師であるから妖精は隠れられないし、『お屋敷』から出ても『学園』で会う可能性がある。妖精の不安をよそにもちもちもくくとパンを一生懸命食べ終えて、ソキはおなかに両手をあて、えへんえへんとふんぞりかえった。

「たーべたぁー! ソキ、おなかいぃーっぱいになったです!」

「偉いですわ、ソキさま……! さすがはロゼアのソキさまです。メグミカは嬉しく思います……!」

「あ、すごい。よく頑張ったね、偉いね」

 よってたかって褒められて、ソキは極めて上機嫌だ。ろくでもない場所に連れてこられてしまった、と遠い目になっているのは妖精だけである。これなら明日はお出かけだってできるにちぁいないですっ、とこれ以上なく調子に乗った声でふんすふんすと鼻息あらく言い放って、ソキはねえねえ、と甘えた声でジェイドのローブをひっぱった。

「ソキ、ご飯食べたです。だからね、おはなしして。おはなし! 陛下の、おはなし、して?」

「いいよ。お薬飲んだらね」

「ソキ! おくすり! のむです! なんといってもぉ、かしこくかわいいソキなんでぇ」

 コイツ調子に乗り過ぎなんじゃないだろうか、とため息をつく妖精をよそに、『お屋敷』の面々はさすがはロゼアのソキさまその通りですかわいいです素晴らしいですかわいいですと褒めながら、ちょこちょこと約束させて言質を取るのに忙しい。おかげで、ソキが気がついた時にはよく効くとても苦いお薬をみっつも飲まなければいけなくなっていたし、ジェイドと話している途中で一度でも咳をすれば寝なければいけないことになっていた。

 ひとつ目の苦いお薬をぐびーっと飲んで涙目になりながら、ソキはしょんぼりした声でげせぬですぅ、と言った。

「なんだかだまされた気がすぅです……にがいです。にがいにがいです……なんであとふたつもあるですかぁあああぁあうにゃああぁあやんやんやんやんやん!」

 賢いの意味を考えながら、まあ元気になっているのに間違いはないな、と妖精は思った。もちろん本調子ではないだろうが、騒いでもけふんと嫌な咳をしなくなっている。ソキは飲み干した器を嫌そうにメグミカに押し付け、入れ代わりに持たされた陶杯をくちびるを尖らせて睨んでいる。妖精には、いつもの香草茶と変わりないように見えるのだが。

 目を潤ませて鼻をすすり、ソキはその陶杯をジェイドに向かって差し出した。

「ソキは知ってるです。これは美味しくないお茶です。だからぁ、ジェイドさんに、あげます!」

『不味いと分かってて人に差し出すってどうなの……やめなさいこら……!』

 だってええぇ、といやいや身をよじるソキに、ジェイドは甘く目を細めて囁いた。

「くれるの? ……いいよ、貰おうか?」

「わぁーい!」

「でも、じゃあ、陛下のお話しは駄目だからね。もう眠ろうね」

 ささっと陶杯を差し出そうとしていたソキの動きが、ぴしりと止まる。や、やぅ、やぁあう、と悲しげに鳴かれても、ジェイドは柔らかな笑みを崩さなかった。お薬飲んだらって言ったよね、飲まないならおやすみしようね、と囁くやり方に覚えがあって、妖精は天を仰いだ。これはロゼアのやり方である。

 もしかしたら『傍付き』のやり方なのかも知れないが、詳しくないし詳しくなりたくもないので、ロゼアの、ということで妖精は思考を止めている。つまり、そうであるからこそ、ソキに勝ち目はなく。しおしお、と萎れるように俯いたソキが、だってええぇ、とまだ抵抗して悲しげに呟く。

「ソキ、知ってるです。このお茶は、にがにがなんですよ。ソキ、これ、嫌いです。……どしても、飲まなきゃ、だめなの?」

「どーしても、飲まなきゃ駄目なの。……そうだな。じゃあ、頑張れたら、ラーヴェの話しもしてあげる。それでどう?」

「ぱぱ!」

 俄然やる気を出したソキは、それでも、眉を寄せてお茶とジェイドをしばらく見比べていた。パパはだめって聞いたからいけないよ、と笑いをこらえた声で囁きながら、ジェイドはつんと指先で陶杯を突いて促した。

「どんな話しがいいの? ……さ、飲んだら聞かせてあげようね」

「う、うぅ……。ぱ……うんにゃ、ラーヴェは、ラーヴェは、苦いお薬を飲めたの……?」

「飲んだらおしえてあげようね。飲んだら、だよ。飲めたご褒美に教えてあげるからね」

 砂糖菓子のように甘い声なだけで、一切の譲歩がないのもロゼアにとてもよく似ている。ソキはしばらく嫌そうな声でうにゃうやと鳴き、きゅっ、と目を閉じて陶杯に口をつけた。ぐびいいぃっ、と飲み干す仕草は勢いだけで出来ている。奇跡的に咽ず飲み干し、ぷは、と息をついて。ソキはじわわっと涙を浮べ、もうややゃんですぅ、と元気のない声で訴えた。

「もう、おくすりは、おなかがいっぱいです。いっぱいだもん。やだもん。おしまいにするです。……ねえねえ、ラーヴェのおはなしして?」

「んー? ラーヴェもね、苦いお薬嫌いだったよ。普通に飲むけど、飲んだあと二秒くらい、口に手をあててなにも言わなくなってた」

「そきも、こんどから、おくちに、てをあてることにするぅ……」

 偉いですわソキさま素晴らしいですかわいいですと褒められても、ソキはつーんと顔を背けて最後の薬を拒否していた。ひとつひとつにそう量はないにせよ、全てが錠剤などではなく、液体の飲み薬なのもへそを曲げる一因なのだろう。持たせても、あっ手がすべっちゃったですうううっ、と満面の笑みで取り落とされるのを分かっているからか、メグミカも困った顔をして手元に置いている。

 ねばれば勝てるです、とろくでもない算段をつけたソキに、妖精が雷を落とそうとした時だった。ふむ、と首を傾げたジェイドがメグミカから薬の入った陶杯を受け取り、飲み口に唇をつけて柔らかに笑う。

「苺の味がするよ。おいしいよ?」

「え、えぇ……ええぇ……ほんと? ほんと?」

「おいしいよ。……いらないなら、もらっちゃおうかな。苺味」

 え、えっ、とそわそわするソキはいちごが好きである。ヨーグルトにもよく混ぜられているし、飴だってよく甘い匂いをさせながら舐めている。室内の世話役たちが固唾を飲んで見守る中、ソキは疑いの眼差しでジェイドをじーっと見て。やがて、こくり、と頷いて、にょっとばかり両手を差し出した。

「ひとくちなら、飲んであげても、いいんですよ? お試し、ということです」

「そうなの? はい」

 あまりにあっさり渡されたからだろう。気が変わって全部飲んでもいいんだよ、と囁くジェイドに、ソキはこくこくと頷き。見守られる中、にこにこ笑って薬に口をつけた。ぐび、と飲もうとした動きがぴたりと止まる。ジェイドは優しい微笑みのまま、口に入れたら飲み込もうね、と囁いていた。

 妖精は見ていたから知っている。ジェイドは陶杯に口をつけただけで、舐める程度でも、その中身を飲んでなどいない。ぴるぴるぷるるるる、と細かく震えて涙ぐみながら、ソキはごくりと薬を飲み込んだ。そのまま、もう一口飲んだのは、もしかしてもう一回飲んだらいちごの味になるのでは、とソキが思った為である。

 なんでそういう所がどんくさいのかしらと呆れて見守る妖精の視線の先、ついに飲み干したソキは、わっとあがった歓声に包まれながらも泣きべそをかいて訴えた。

「だまされたですううう! ジェイドさん、ソキをだましたですうう! あまりに、あまりに罪深いしうち! ゆるされないことですううううう!」

「あっ、ごめんね。苺の飴を食べてたの忘れてた。苦かったね、よく頑張ったね。飴は好き? 甘いからこっちを食べようね。はい、あーん」

「……あーん」

 そこでぱかりと口を開いて飴を食べさせてもらうんじゃない、と妖精は頭を抱えて首を振った。毒だったらどうするつもりなのか。というか、数秒前に騙されていてなぜ警戒したりしてくれないのか。ソキはぐずっ、すんすん、と鼻をすすって不機嫌にしていたが、ころころ、口で飴を転がすにつれ、にっこりとご機嫌の笑顔になった。はい、とばかり、ジェイドに両手が差し出される。

「このいちごの飴、とってもおいしです! ソキがぁ、貰ってあげてもぉ、いいんですよ?」

「気に入った? それじゃあ、お薬のご褒美にあげようね」

 御当主さま検品済みだから安心してね、とメグミカと世話役たちに囁き告げてから、ジェイドはソキの手に、ぽんと小瓶を乗せてくれた。飾り気のないちいさな硝子瓶に、あいらしい、手毬の形をした飴が詰められている。それを、どこかで。昔、どこかで。見たことがある気がして。懐かしいもののような、気がして。目をぱちくりさせるソキを、ジェイドは慈しむように。愛おしむように目を細めて、眺めていた。

 失われた、暖かな場所を。家族のよすがを、そこに見出している。

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