希望が鎖す、夜の別称:07
白雪の女王は、言葉にならない呻きをあげて頭を両手で抱えたまま、ゆっくりゆっくりと執務机に横に倒れて動かなくなった。ソキの報告を聞くにつれ、はじめは微笑んで頷いていてくれたのが額に手を押しあて、天を仰ぎ、もう片方も増えて泣き声と乾いた笑いが溢れ、ついには動きが無くなった末の事である。
女王の夫君はその動きを予想しきっていたのだろう。頭を押さえる手が片方でなくなった時点で、夫君は片手に赤子を抱いてあやしたまま、てきぱきとした動きで机の上を片付けてひとつの小物すらそこから消していた。それから離席していたと思えばいつの間にか戻ってきていて、はいどうぞ、と穏やかな笑みでソキに茶器を差し出してくる。
湯気の立たない、たくさん話し終えた『花嫁』の喉をそっと潤すぬるまった香草茶を恐る恐る受け取るソキに、女王の夫君はあくまで穏やかな顔でごめんね、と囁いた。気を取り直して戻ってくるまで、すこしだけ待っていてあげてね。あれでちゃんと話は聞いていたし、いまもどうするか考えているはずだから。こくこく幾度も頷いていて、ソキはぬるまった香草茶に口をつけた。
はふ、とひと仕事終えた息を吐くと、いまひとつ納得の行かない表情で妖精がよろよろと降りてくる。寄こされる視線が、なんでいつもはああなのに説明っていうものが出来てるのかしら、もしや普段は思考からサボってるだけなのかしら、とソキに不都合な疑いを抱いていたので気にしないことにして、ようやく、すこし落ち着いた気持ちで室内に視線を巡らせる。
『扉』を通ってやって来たソキが通されたのは、女王の執務室ではなかった。もうすこし小規模の、恐らくは私的な客室である。国内外の貴賓を出迎えるのとはまた違う、落ち着いてぼんやりと時を過ごすこともできる一室に、ソキはちょこりと首を傾げて瞬きをした。べつに、花舞のように網を投げられたかった訳では、ほんとのほんとに全然これっぽっちもほんとにないのだが。
白雪の女王は、まるで待ち構えていたかのようにソキを迎え入れてくれたのだ。ソキが妖精と『扉』から来ることも、なにを伝えたがっていたのかも、薄々は分かっていたような気がする。んん、と呟いてぱちくり瞬きをするソキに、女王の夫君は口元に手を添える、品の良い仕草でくすくすと肩を震わせた。
「気が付かなかったことにしてくれると嬉しいな。本来、やってはいけないことだからね」
「……白雪の女王陛下は、いけないさんなの?」
「ふふ。そう、いけないさんなの。……と、いうか、うーん……秘密裏にねぇ、撤去はしようとしていたんだけどね……間に合わなかったことに、こうなってしまうと感謝すればいいのか、という感じかな。まったく、彼女には天災の名がよく似合う」
内緒にして誰にも言わないでいたら『学園』の様子をすこし教えてあげると囁かれて、ソキはいちもにもなく頷いた。妖精の、アンタたちアレでしょそれ間違いなくアレでしょうエノーラが各国各所に仕掛けたってまことしやかに囁かれてた盗聴器のことでしょうアイツほんとにやってたのそしてこの場面で起動してたっていうの、と呻いているが、ソキはなんにも聞こえないことにしたので、ぴかぴかした笑顔で耳を両手で塞いでみせた。
『学園』の情報は大事である。ロゼアちゃんのことがわかったりするかも知れないのだし。ふすふす、期待に鼻息を荒くしながらじぃと見つめてくる『花嫁』に、女王の夫君は微笑みながら囁いた。
「いいこだね、魔術師さん。……『学園』のことは安心してくれて大丈夫。花舞からの白魔術師部隊も、星降、楽音、そして我が女王の白雪からの救援も、『扉』が閉じてしまうまでに間に合っているからね。当面、一番困っていたのはご飯くらいのものかな? リトリアが頑張っているようだけど、なにせ人数が多いから……食堂勤務の魔術師たちも揃っていて本当によかった。いまは臨時の、特別授業をしているよ。災害対応特別実習、といったところだね」
「……ろぜあちゃんは? ロゼアちゃん……ロゼアちゃんは?」
「君の彼なら、もうすこしお休みが必要だね。彼のことは、ナリアンとメーシャが見ているよ。あと……妖精たちも一緒にいる。彼の案内妖精を、その二人の案内妖精たちが見てくれている。回復は早いはずだ」
ナリアンとメーシャの名に、ソキは目を瞬かせた後ふんにゃりと笑み零してそうなの、と言った。二人はね、と相手を落ち着かせる穏やかな声で夫君が続ける。
「砂漠から、『学園』に戻ってきていていたんだよ。怪我もせず、いまは元気でいる。……君のことを心配していたから、用事が終わったら『学園』にお行き。花舞のことは……まあ、彼女の決定次第ではあるけど、任せてくれて構わないからね。君が心を砕いて、苦しく思わないでもいいことだ。……ありがとう、よく頑張ったね。君の情報は金にも勝った」
褒められたことより、ロゼアを君の彼、と表されたことにこそ頬を染めはにかんでこくりと頷き、ソキは胸に両手を押し当てた。そろそろかな、と夫君が倒れたままぴくりとも動かず、呻きすらしなかった女王に視線を向ける。それを合図にしたように、女王は頭を抱えた姿のままよろよろと体を起こし、この世のどこも見ていないような虚ろな目で、えぇ、と言った。
虚無そのものの目だった。
「え、えぇー……そ……いや、ま……まっ……え……ええぇ……? う……あぁ……」
「……お客様がいるからね。もうすこし口だけ閉じてようか」
ため息をついて。すっと歩み寄った夫君が、穏やかに身を屈めて女王に手を伸ばす。するすると、その指先が女王のくちびるをなぞって閉ざすのに、ソキはきゃあと声をあげて赤らんだ顔を手で覆った。とみせかけて、指の間から熱心に凝視した。うんざりした顔で妖精が顔の前に降りてきて邪魔するのを、ソキは右に左にけんめいにぴこぴこ揺れ動きながら、ふんすふんすと息をあらくする。
「リボンちゃ! リボンちゃ! いけないです! いくないです! みえないですうううやややんやややん!」
『はいはい人様の秘め事を見ようとするんじゃないの。ソキ? はしたないことだとは思わないの? 普段よく、はしたないだの淑女だの言ってるのに、これはそうじゃないの? 淑女の行いなのかしら?』
「ソキぃ、まだ、十四歳なんでぇ……!」
時と場合と都合により自己主張を変えている、ように見せかけて、内容そのものは一定であるのが妖精には腹立たしい所である。はー、と心から息を吐きながら、ソキにあわせて右に左に動いていると、くすくす、やたらと楽しげな笑い声が穏やかに空気を震わせた。
「ほら、待たせているよ。もう大丈夫だね?」
「……お待たせしました……ごめんね……」
顔に押し付けた両手をのろのろと外し、白雪の女王は深すぎる息を吐き出した。その目はまだやや虚ろだが、言葉は戻ってきたようで、女王は首を横に振りながら息を吐く。
「そんな……そんな気はしてたんだけどね……でもあの、ほんと……ほんとまさか……そこまでブチ切れてるだなんて……そ、そんな怒ることなくない? とちょっと思わなくもないけど、でもこれそんな怒るとこだね……フィオーレだけならまだしも、ロリエスも、ナリアンくんまで巻き込まれたと来たらね……いやほんと、薄々気がついてはいたんだけど……気がついてたっていうか、聞こえちゃ」
「はい、陛下。そこまでそこまで。秘密裏に撤去できなかったら謝ろうねって決めたろう?」
それはつまり。秘密裏に撤去できたらしらばっくれるということで。そのままにしておくような可能性も、なきにしもあらずな予感を妖精に感じさせた。大問題も大問題である。思い切り白んだ目で睨む妖精に、夫君は妻の口を手で塞ぎながら、それを感じさせない穏やかさでやんわりと微笑んだ。
「今回のことは事故なので。事故は起こさなければいいのでは?」
『良い訳ある訳ないでしょう……?』
事故にせよなににせよ、そんなものが仕掛けられている、ということからすでに問題は発生している。そうだよね、と女王は夫君の手を外して呟いた。その目はまだ淀んでいるし、虚無を見つめ始めている。
「私もね……今度の今度こそはエノーラを叱らなきゃ叱らなきゃとは思ってるんだけどね……! でも今回みたいな緊急事態にすごく便利だって分かってしまったので実用化するしかないと思うんだけどそれには経緯の説明からがどうしても必要でそれってつまり各国王宮執務室に盗聴器あるわけなんだけどっていうところからせつめいをしたくないなんとかこのままごまかしきりたいきもちがあふれている」
「あーあ、言っちゃった。駄目だよって言ったろう」
「……ねえねえリボンちゃん? とう、ちょー、き! って、なぁに?」
じつは分かっていなかったらしい。ねえねえ、なーに、と不思議そうに問われた妖精は、いいかお前らのせいでアタシがそんなことを説明するはめになってんだ分かってるんだろうな、という怒りを込めた苛烈な視線を女王の夫君に向け、ソキには腕組みをして言い聞かせる。
『良くないものよ。知らなくていいの』
「でも? でもでもぉ? 白雪の陛下は、それだから、いけないさんなんでしょう? それで、なにをしたから、いけないさんなの?」
「えっ、すごい……心がごりごり削られていく……ごめんね、いけない統治者でほんとすみませんごめんなさいエノーラに対しての責任を取りきれない……」
涙声で呻く白雪の女王をちらりと見やり、妖精はいいのよ、と再度言い聞かせた。
『知らなくていいのよ。ロゼアだってそう言うに決まってるわ。これだけ分かっていなさい。白雪は、だいぶいけない』
「だいぶ、いけないです。……白雪の陛下は、もしかして、なんですけど……」
ちら、とソキはやや怯えたような視線を女王に向けた。統治者たちの心を無意識にごりごり削りながら、ソキはきゅうっと眉を寄せて甘く呟く。
「……いけないひと、です?」
『そうよ。……そうよ、その調子でもっと言ってやんなさいソキ』
「……ソキ、ソキ……いけないひとと、口をきいたらいけません、て言われているです……どうしよです……。まさか、陛下がいけないひとだなんて思わなかたです……どうしよです……」
うるり、と目に涙を浮かべて怯える『花嫁』に、白雪の女王は頭を抱え、またぱたりと机に倒れてしまった。くすん、すん、すんっと泣きべそをかく『花嫁』の、切なくいとけない響きがふわふわと空気を揺らしていく。やがてよろけながら起き上がった女王は、ふっとなにかを諦めた顔つきで、それでいて憑き物が落ちたかのようにさっぱりとして言った。
「そうだね。いけないことだもんね。やめよう。……止めよう? 今回のことが落ち着いたら、即日撤去。ただ、混乱状態であっても情報を流せるという得難い点は発展させていきたい。これを一方通行ではなく、相互にしてこそ、だと思う……から……謝ろう……なんて言って謝ろう……詳しく言いたくないけどごめんなさいじゃだめだよね……だめだよね……」
「はいはい、陛下の仰せのままに。謝罪については落ち着いたらゆっくり、考えましょうね。……ま、分かってたよ。君は悪いこと、しても最後まではやりきれないもの」
『いい話みたいにしないでちょうだい! 教育に! 悪い!』
主に夫君に対して雷を落とす妖精の背後で、もう終わったと判断したのだろう。ふあふあ、とあくびをして、ソキは眠たげに目をこしこしと手で擦った。もちろん、涙のあともなく。けろっとした表情で顔をあげたソキは、甘くふわふわと響く声で、ソキはおなかがすきました、と言った。おねだりのようだった。口止め料なのかも知れなかった。
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