終幕世界から、愛を込めた

【再計算】 1/3

 開始から、実に五時間。一秒たりとも手を止めずに計算式を解析し、書き連ねていたエノーラが、ぴたりと手を止め開口一番、あっこれロゼアくんの存在が想定されてないんだわ、と言い出したので、ナリアンは厳かな微笑みで稀代の錬金術師の意識を刈り取った。物理で。もちろん、場の副責任者キムルからの即座の指示によるものである。私怨ではない。私怨などではないのである。

 きっかり三十分後に顔に濡れた布をかぶせられて跳ね起きるという、拷問かつ嫌がらせしかない手段で叩き起こされたエノーラは、さすがに涙目でちょっと待ってこれはないんじゃないさすがにこれはないんじゃないの私をもっと大切に扱ってもいいんじゃないの具体的にいうと目覚めは美少女の口づけとかがよかったと騒いだが、後半の主張があったせいで、場の誰からもそれは黙殺された。

 さてどういうことなのか、と説明を求めるキムルに、エノーラは拗ねた顔でくちびるを尖らせ、談話室をぐるりと見回して息を吸い込んだ。談話室にある魔術師の数は多くない。二十と数名。これが世界に現存する魔術師の、全てだった。

「つまり、この魔術式は本来、もっと大人数での発動が想定されてるのね? 五十とか、六十とか、百人くらいの規模かも知れない。それくらいの人数がいれば、各々の代償なんて微々たるもの。楽になんて言わないけど、そこそこすんなり、世界は繰り返せるし希望もなにもかもを、次に託せる……訳なんだけど、傷病者を抜くと、動けるのは二十……二十一名……? さすがに厳しいんじゃない? って感じ」

「エノーラ。説明を果たしてくれないかな? ……ロゼアくんが、なんだって?」

「だから、もっと前段階での発動が想定されているものなのよ、これ。具体的に言うと第二次大戦争が始まったり終わったりするより前に、しなきゃいけないことなのよね。……ロゼアくん、ナリアンくん、メーシャくん。ハリアスちゃんに、そうね……シル寮長や、もしかしたらユーニャ、リトリアちゃん。彼女たちの存在が想定されてない」

 あ、でもリトリアちゃんは軸に食い込んでるから違うのかな、と今一つ己以外には理解させない呟きで首を傾げ、エノーラは渋い顔をするキムルに、私だって混乱してるし情報整理してるんだから待ちなさいよ余裕のない、と眉を寄せて言い放った。

「これはつまり、今みたいに五ヵ国が完全に分断されて、国土が焼かれて、魔術師たちが殺し合ってしまったこの十年を迎えることは、考えもされていなかった前時代の……前世界の、かしらね。完全なる遺物なのよ。今とは条件が違いすぎるわ」

「……できない、ってことかい?」

「今すぐには。……この、世界の時間を巻き戻して、やりなおすっていう方法はね、ほんと最後の最後の禁じ手みたいなものよ。みたいなっていうか、そのもの、と言う他ないんだけど。あー、でもなぁー、あー、あー、あぁー……うん、そうだよね……。こんな所で諦めて、途絶えさせてしまって良い祈りじゃ、ないよね……。なかったよね……。こんな形で、閉じる為に繰り返したんじゃ、ないよね、きっと……よし!」

 半日で目途つけるから私のことはちょっとほっといて後はよろしく、と言い残して図書館へ走って行ったエノーラを追って、数人の魔術師たちがぱらぱらと動き出す。彼らに、食事と休憩を取らせるように、と指示をして、キムルは円卓の椅子を引いた。そこに腰かけたまま動かないでいる年下の魔術師たちの顔を、面白がるように覗き込む。

「どうしたんだい? ロゼア。ナリアン、メーシャ。リトリア、君までそんな顔をして」

「……名前が、出たから」

 ぽつり、力なく呟いて、リトリアはきゅぅと眉を寄せて囁いた。

「わたし、もしかして……取り返しのつかないことを、ずっと、していたのではないかしら、って」

 魔術師の手によって、戦いの幕は切って落とされた。そのきっかけの一つとなったのが、恐らくはリトリアの失踪である、とされている。ある日、行方をくらまして楽音から逃亡した魔術師が、砂漠で目撃されたのを知るや否や、王は己の魔術師たちに武力拘束を命じたのである。王命に逆らいきれぬ魔術師たちは、国境を越えて砂漠へ入り、そこでリトリアを拘束した。しようとした。

 抵抗したリトリアは、魔力を暴走させた。首都にほど近い所にあったひとつの都市、近隣のふたつのオアシスに住む人々に、即死の毒を飲み込ませるがごとき行為であった。影響は砂漠全土に及び、五国が恐慌と混乱に陥る最中。それを狙っていたかのように、砂漠の虜囚であった言葉魔術師が反乱を起こした。その目的は未だ明らかになっていない。なることは、もうないだろう。

 彼の魔術師は砂漠の魔術師の半数と、王を道連れに、焦土へ沈んだ。それを成したのがロゼアである。なんらかの理由で言葉魔術師に操られていたその魔術師のたまごは、うつくしい少女の亡骸を胸に抱き、ひとり、荒れ狂う焔の中に座り込んでいた。少女は『花嫁』であったのだという。妖精を視認し、その夏にでも『学園』へ呼ばれる筈だった、ロゼアの『花嫁』であったのだという。

 砂漠全土を飲み込みかけた焔を消し飛ばしたのが、ナリアン。その助けとなったのが、メーシャだった。風の魔法使いは、己の水器にひびが入る程の無茶をして親友の故国と命を救い、占星術の少年はそれから半年も寝込むほどの精密な計算と集中力でもって、彼の成すことを最後まで助け切った。彼らを『学園』は保護し、世界と人々はそれを許しきれなかった。

 特に、生き残った被害者であり、主犯でもあるロゼアは引き渡しを要求された。残った四ヵ国の、どの人々からも。民衆は魔術師の存在そのものを恐れ、消えゆく定めを追うこととなった砂漠の国のようになることを恐れ、文献の中から読み取れる大戦争の再来を恐れた。連日、王の耳には魔術師の排斥を願う声が吹き込まれ、他国のそれらを恐れる悲鳴ばかりが響いていた。

 火の魔法使い、レディが人々の手によって撲殺されたのは、砂漠が焦土と消えて二ヵ月も経過せぬある真昼のことであった。星降りの城下で買い物をしている最中、暴徒の手によって拘束され、半日後の死体が城の前へと打ち捨てられた。そこから、残った四ヵ国で暴動が起きるまでは、ほんの数日。鎮圧の為に魔術師が駆り出されるまで、半月。戦争が起こるまで、半年。

 第二次大戦争の終結まで、十年の月日を必要とした。少年少女は、それぞれに青年と女性と成り。五国は、滅びの運命に飲み込まれてしまった。失われたものはもう、戻らなかった。残された魔術師は戻る故郷の代わりのように、ひとりひとり、『学園』へ現れ今日へと至る。残された時間は決して多くない。この世界はもう、とうに壊れきっていて、あとは終わってしまうだけだった。

 その、砂粒が零れ落ち切る音を聞くように。俯き悔恨を口にするリトリアに、キムルはしっかりと言い聞かせた。

「取り返しは、つく。……まだ、エノーラが諦めてはいないからね」

「……うん」

「だから、君も諦めてはいけないよ。……リトリア。泣いたかい?」

 リトリアは、祈りの形に手を組み合わせて、無言で首を左右に振った。そうか、とキムルはその肩に手を置いて静かに囁く。落ち着けたと思ったら、すこし泣くといい。予知魔術師、君が手に持つのは希望であって欲しいのだ、と囁く錬金術師に、リトリアはかたく目を閉じ、震える息を繰り返しながらつよく、一度、頷いた。メーシャが視線をそらして、先生、と震える声で呟く。

 彼の師であり、リトリアの夫であった魔術師が息を引き取ったのは、この日の早朝のことだった。もうひとりのリトリアの片翼、言葉魔術師たるツフィアは、大戦争の中で行方不明となっていた。リトリアを逃がす為、ひとり敵地に留まった為であるという。戻った時に、そこに姿はなく。そのようにして行方不明となったままの魔術師の数は、もう数えきれない程だった。

 あぁ、と祈りのような吐息を零して、黙していたロゼアが口を開く。

「もし……やりなおすことが出来たら、こんなことには……なりませんか」

「断定してあげることは出来ない。が、エノーラが解析した術式を解釈する分に……今は恐らく、想定外の最悪の事態の、ひとつだ。ここまでのことには、そうならないだろうさ。なぜ?」

「思い出したんです。いえ……忘れたことは、なかった。でも、いま」

 ふと。暗闇の中に浮かび上がる灯火のように、やわらかなひかりを感じるように、それを思い出したのだとロゼアは微笑する。

「ソキは、最後に、微笑んで……またね、と言いました。ソキは……きっと、こうなることが分かっていたのではないかな、と」

「それは……君の、『花嫁』の……?」

「はい。ソキは俺にまた会えると、最後の最後まで信じてくれていた。……世界が繰り返す方法が、残されていた。これはきっと、一度や二度のことじゃない。もし、それを、知っていたのだとしたら……迎えに、行かないと」

 世界の果てで、次の世界で。俺のことを待ってる、と呟くロゼアのぞっとするような微笑みは、すでに正気の者のそれではなかった。キムルは慎重に、そうかもしれないね、と告げ、ナリアンとメーシャに目配せをして、ロゼアを談話室から休憩室へと移動させる。心配そうに見送ったリトリアは、額に手を押し当てて呻くキムルに、でもね、と控えめに囁いた。

「もしかしたら、ロゼアくんの言うことは……ほんとう、なのかも知れないわ」

「リトリア。君までなにを」

「わたし、一度だけ見たことがあるの。その、ソキちゃんを。……砂漠の城を目指して、私が脱走する、何年も前のことよ。ロゼアくんが『学園』に来た次の年の長期休暇。遠目に、一度だけ見たの。視線は合わなかったけど……わたし、おなじだ、って思ったのよ。キムル」

 だからあの子は予知魔術師だったのかも知れない、と冷静な判断力を残した瞳で、リトリアは言った。今はもう確かめる術のないことだけれど。だからこそあの子はシークさんの凶行に巻き込まれ、あんなことになって。だからこそ。その言葉を告げられたのかも知れない。一度目ではないこの世界で。一度目ではない繰り返しのことを、もし、知っていたのだとすれば。

「わたしたち、きっと、また、あの子に会える。……そっか。ソキちゃん、って、言うんだ……」

 あまりに失われて、壊れ果てた世界では、希望を見出すことすら難しい。だからこそリトリアは、その願いひとつを希望にして、砂時計をひっくり返した。いつか会えますように。皆の願いが叶いますように。ここが一番悪いものになりますように。これ以上はどうか誰もなにも喪わない世界でありますように。悲しいことが終わりますように。

 それでも。世界を貫くもうひとつの呪いさえ、繰り返されてしまうが故に。長い旅路の果てが、見えない。

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