あなたが赤い糸:118


 問題点を整理するから十分待って、と告げたエノーラが作業を始めて終えるまでを、リトリアはツフィアに腕を絡めて見つめていた。ツフィアは一度だけ溜息を付いて、甘えたね、とリトリアの前髪をくすぐるように撫でただけで好きにさせてくれた。レディは口に角砂糖を詰め込まれた者の表情で、うぅ、と呻き、首を振ってから同じく、エノーラの作業を見ることに集中した。

 類稀なる錬金術師は大きな一枚の紙を、四人がそれぞれに作業できる広さの机をひとつ完全に覆ってしまうくらいのそれを広げ、身を乗り出しながら迷うことなく文字を書き入れて行った。書かれていくのは単なる文字列と数式であるのだが、あまりに精密な印象で綴られていくそれは、幾何学模様にすら見えてくる。またそれは、自然発生の魔法陣ですらあった。錬金術師の、物質に魔力を付与するに長けた性質が、書き記す文字ひとつにさえ、淡いひかりを宿して魔術師の目を眩く細めさせる。

 エノーラはまずてきぱきと問題点を記し、解決策とそれによって生じる利点損失長所短所を書き入れ、眉を寄せながらもひとつひとつに可能性を表す数字を書き入れて行った。いくつかは成功確率が半分を超え、いくつかは片手の数で足り、いくつかは小数点以下を数えるのも間違えてしまいそうなくらいにか細いものだった。共通していることは、ひとつも、確実なものがないということだった。

 時間を戻す。やりなおす。根本的なその願いですら、占星術師たちの禁忌として語り継がれ、多大なる犠牲を前提とした術式がはきと確立されているそのことにすら、エノーラは百という数字を使わなかった。息をつく間もなく。勢いを緩めず、早めず、途切れさせることはなく、言葉と数字が紙面を埋め尽くしていく。紙に燃え移る火のように。夥しく、ただ、それは広がって行く。

 紙の端まできっちりと文字を書き入れ、こんなものかしら、と呟いたエノーラが顔をあげたのは、宣言の十分が残り数秒となった頃だった。エノーラは眉を寄せながら時を零し終えた砂時計を横倒しにして、万年筆を指先でくるくると回転させる。

「……確認する時間がないからこのまま説明に行く、から、訂正があったら都度修正させてね?」

「確認する間くらいは待ってるけど……?」

「ありがとう。でもね、申し訳ないけど、私に時間がないのよレディ。そもそも本当なら、私は調べものをしてさっさと白雪に戻るつもりだったし……」

 なにより、と珍しく焦りを隠さない顔で、エノーラは談話室の柱時計を確認した。

「夕方に、陛下にお茶に呼ばれているの」

「……進捗確認とか、報告じゃなくて?」

「それもあると思うけど。お茶をするからいらっしゃい、と仰られたのよね……。よく分からない服装指定もあるから、一度戻って着替えなければならないし。だからね、申し訳ないけれど時間がないのよ。さっさと説明させてちょうだい」

 もちろん、と頷きながらも、レディは付き合いの長い親友らしい気安さで、さりげなくその服装指定を聞き出した。連日の睡眠不足と過労で注意力が抜け落ちているのか、エノーラは疑うこともなく、よく分からないけれど眠りやすそうなゆったりとした服、と言った。時間があれば湯で体を清めて来るとなお喜ばしく、その後外出の予定がなければ普段使っている寝間着でもいい、らしい。

 普通なら据え膳を心配する所だ。しかしそれを聞いた三人の脳裏に、笑顔で睡眠薬の小瓶を振る白雪の女王の姿がよぎって行く。確実に寝かしつけられる流れである。彼の女王は目的の為なら手段を全然選ばない所がある。一服盛るくらいのことは、瞬きのような自然さでする。そもそも言いつけられたエノーラが陛下陛下と興奮していない所で、限界を超えているのは誰の目にも明らかなことだった。

 まあ、とレディは顔色の悪さも目の下の隈も、化粧で隠している親友の顔を、じっと見つめながら微笑んだ。

「ゆっくりしておいで、エノーラ。陛下もきっと、お喜びになるでしょう……お風呂入って寝間着で行くとさらに喜ばれると思う」

「……そう? まあ、レディがそう言うなら……」

 そうしようかしら、と呟いてあくびをかみ殺すエノーラに、レディの微笑みが深くなる。魔術的な思考を十全に保つのに意識を傾けるあまり、それ以外が停止しているに違いない。口に両手をあててうかつな発言と零れる笑みを隠しているリトリアに不思議そうな目を向けて、ゆったりとした瞬きを繰り返し、エノーラはまあいいか、と呟いた。

「じゃあ、まずは最終的な目標から。これは、現在に至るまでの数々の事件を未然に防ぎ、あるいは被害を軽減して、砂漠の消失、世界の分割、それによる消滅を回避する。こんな所で合ってるわよね?」

「ん……。うん。はい」

 リトリアの歯切れが悪かったのは、訂正があるからではなく、言葉の正確さを吟味して飲み込むのに時間がかかったせいだった。傍らでは、ツフィアが満足げに目を細めて笑っており、レディが無言でグラスを手に水を一気に煽っている。なにが始まったのか、と机を囲むストルとシークに、他意はなく純粋に、男という存在が増えたことだけで嫌そうな顔をして、エノーラが続ける。

「方法は、ひとつ。それが始まる前に戻って、やり直すこと。手段は、ひとつ。占星術師の先見の力を反転させて、今を未来、過去を今と定義づけて、世界そのものの時間を巻き戻す術式を発動させること。この手段行使における確実な損失は、存在の希薄化。すなわち、術者の記憶の損失と関係性の抹消。加えて、現在の術式で可能なのは、戻ること、のみ。戻って、やり直して、行きつくのは、またここ。同じ今なのよ。……もしも、私のこの発言すら……一度目ではないとするならぞっとしないわね」

「戻るだけだと、絶対に同じになってしまう? ……それは、その……どうして? 経験とか、記憶を持っていけないからっていうのは、その……なんとなく、分かったんだけど」

 手をあげて発言し、リトリアはそろそろと机を囲む魔術師たちに視線を向けた。分からないのが自分だけだったらどうしよう、という不安顔に、ストルが甘やかす時の表情でふと笑う。大丈夫だからと少女に囁いた男は、エノーラに無言で視線を向けることで説明を促した。分からないのは構わないので説明を求める時にはもうすこし殊勝な態度を取って欲しい特に男は、と思いながら、エノーラはリトリアだけを注視して、持っていた砂時計を反転させる。

 コン、と音を立てて、砂時計を机の中心に置いた。

「つまりね、リトリアちゃん。こうなるの。……魔術と犠牲によって、私たちは砂時計をひっくり返せる。例えば十分の時間を戻せる。でも、そこからは……同じ。また十分、砂が零れ落ちる。それを変えることはできない。十分を、十一分にすることも、九分にすることも……砂を零さないでいることも、例えば、砂を入れ替えて別のものにすることさえ」

「……ひっくり返すだけの術、だから?」

「そう! そうよ。簡単に言うとそういうこと。単純な話よ。戻すってね、そういうことなの」

 だからね、とエノーラは砂時計に指を触れさせ、その流れを見つめながら言い切った。

「この中の、砂粒の零れ落ちる順番を入れ替えたりしても、殆ど無駄ってことなのよ。結局最後は全部落ちるから……という結論に至る計算式がこれとこれ。解決策改善策として提示してるのが、これとこれとこれ。その結果として、最終的にどれくらい解決するのかがこれ。……分かる? そうね。なにひとつ解決しないし、なにひとつ改善しないとは、言わないわよ? ……ここまでが現実の話。で、ここから先は理想の話するわね」

「……理想?」

「そう、理想。現実はいくらひっくり返しても現実な訳。分かる? 現実的に物事を考えるとね、まあこういうことになる訳よ? でも私たちはあいにくと魔術師だから? そこに理想があるなら辿りついて見せるわよ。その為の力を、世界がくれたんだって信じぬいてね」

 不屈、という言葉と、意思を、その瞳ひとつで信じさせて。エノーラは指先を弾いて砂時計を倒すと、書き連ねた文字に込めた術式を起動させた。夥しい文字列の上を、魔力のひかりが駆け巡って行く。インクが生き物のように動き回る。数秒で内容の全てが書き換わった紙面を前に、エノーラは自身に満ちた顔つきで笑った。

「理想から逆算して行くの。問題があって、途中式があって、答えを書くんじゃないの。答えを決めて、途中式を考えて、問題を出すの。お分かり頂けるかしら?」

「……んと、んと。つ、つまり?」

「つまりね、リトリアちゃん。問題を解決する為に戻るのではないの。結果に至る為の出発地点を変えて行くのよ」

 この山の攻略を諦めて別の山に行きましょってこと、とエノーラは砂時計を摘み上げ、机の端へ放り投げた。

「役者は同じで台本をすげ替えるの。結末から逆算して書いたはじめから、やりなおすのよ。戻すのは時間だけ。幕が開く前、というだけ。あとは全部入れ替える」

「……どうやって?」

「予知魔術師」

 歌うように、からかうように、エノーラはリトリアをそう呼んだ。思わず背を正す少女に向かって、錬金術師は静かに、確信のある声で言い放つ。

「あなたが、起点と終点を作る。……リトリアちゃん」

「はい」

「その胸の希望に殉ずる覚悟はある? その魂を、灯台のように輝かせ続けると誓える? ……ここまで言っておいてなんだけど、きっと、上手くは行かないわ。やり直そうとした筈なのに、やり直した筈なのに、私たちは何度でも、何度でも、同じ問題に行きついて、同じような答えを出し、同じような失敗を繰り返すでしょう。繰り返して、私たちは、摩耗して変質していく。存在も、関係も、願いすら……変わってしまうかも知れない。……世界を、覆していける? 一度では終わらないやり直しを、何度でも、何度でも……もう一度、と言って、起点へと戻していける?」

 できない、と言えばそこまでだ。リトリアはすんなりと、その事実を受け入れた。いつの間にか談話室は静かになっていて、魔術師たちは誰もが神妙な面持ちでリトリアを見ていた。緊張することなく、すこし困ったように眉を寄せて、リトリアはちいさく首を傾げてみせた。

「私……わたしね、ほんとうは」

「ええ。……本当は?」

「世界、とか。国、とかじゃ、なくて……それも、それも、ほんとうなんだけど。続いて行きたいっていうのも、ほんとう、なんだけど……あの、あのっ、笑わないで聞いてね!」

 胸に手を押し当てて、恥じらいに顔を赤くして。リトリアは涙ぐんで、俯きはせず、顔をあげて息を吸い込んだ。

「み、みんなが、幸せになって欲しいの! みんなの、願いが、叶いますようにって思っているの。だ……誰かが、悲しい想いをしたり、苦しかったり、そんなのもう嫌なの。頑張った人が、報われますようにって、思うの。だからなの! だから、今、こんな終わりが嫌なの。そっ……それだけなの!」

「……だから?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る