あなたが赤い糸:115

 窓の外、視界の端を掠める新緑のうつくしさに、眩暈がした。エノーラは『扉』から出たばかりの壁に片手をつき、瞼に力を込めて深呼吸をする。何度かそうしているうちにざわめく魔力も吐き気も落ち着いたので、エノーラは脱力気味に顔を上げ、ぼんやりとした視線を窓の外へと投げかける。『学園』を取り巻く森の木々は、来るべき夏を、喜ばしく迎える準備に忙しない。

 夏。夏至の日。そのことを考えて、エノーラは憂鬱な気持ちで額に指先を押し当てた。星降の王から新入生がないことを告げられたのは、年明け早々の頃である。しばらくはない、気がする、とも告げられた言葉を、喜びをもって受け止めた魔術師はいないだろう。ただ、そこには確かな安堵があった。魔術師たちは確かに排斥され始めている。今はまだ、五国に滞在を許されているにしても。

 ああ、もうなにも考えたくない。休みたい。そう呟き、思考を手放しそうになる己を脳内で殴り倒して、エノーラは唇に力を入れて、瞬きをして深呼吸をして、睨みつけるように前を向いた。エノーラは今現在、最も多忙とされる錬金術師の中でも頭一つ飛びぬけて忙しく、そろそろ己がもう一人いないことに疑問を感じるくらいの状態ではあるが、気持ちはまだ立ち止まってはいなかった。

 足を踏み出す。『学園』の廊下を歩き出す。訪れた目的は、『学園』の図書館である。いくらエノーラが稀代の天才と言えども未知の疑問に対して全てをひとりで解き明かせる訳でもなく、必要なのは知識と積まれた経験であるから、それを得にやってきたのだった。必要な知識が記されているであろう本の場所に、目途をつけながら歩いていく。

 あと何回こうすれば終わるのだろう、と不確かな先行きに弱音を吐きたがる己を引きずりながら。やけにざわめく談話室の前を通り過ぎ、玄関から出ようとした時だった。はしゃぎ声と共に、柔らかな衝撃が腕を抱き留める。

「エノーラさん、エノーラさん!」

「……え? リトリアちゃんだと思ったら天使だった……? ……あっ違うわこれ逆だわ? 天使かと思ったらリトリアちゃんだった? リトリアちゃんどうしたの? 天使になったの? 私死ぬ?」

「お疲れのエノーラさん。あのね、お茶にしませんか。……それでね、すこしお話があるの。ね? こっちに来て?」

 慣れ切った対応として錬金術師の妄言を受け流し、リトリアは照れくさそうな笑顔でエノーラの腕をくいくいと引っ張った。かねてより可愛がっている年下の可愛い女の子からそういう風に誘われて、断れる存在がいたら教えて欲しい、とエノーラは思った。思ったのだが、しかし。

「ご、ごめんね。リトリアちゃん。私その、ちょーっと、いま、忙し……」

 えっ、とちいさな声があがる。叱られたような顔をしたリトリアは、ちょんと唇を尖らせて、やや潤んだ目をして首を傾げてみせた。

「……だめ?」

 いや無理これ絶対無理だから。私無理とか言うの嫌いだからあんまり言いたくないんだけど無理だからさよなら私の行動予定。そしてこんにちは盛大なる遅延。仕方がないから後のことは後で考えるのよだってかわいいなにこれ絶対無理。ああぁあ、と呻いた後に脱力気味の息を吐くエノーラが、腕を振り解いて行ってしまわないことが分かったのだろう。

 にこにこにこ、と上機嫌な顔をして、リトリアはエノーラの腕を引いて歩き出した。

「よかった。あのね、ちょっと困ってたことがあったんだけど、ストルさんとツフィアが、それならエノーラさんを連れて来なさいっていうから。来てくれないかなぁって思ってたの。よかったぁ……!」

「あっ駄目だわこれ死ぬわ……」

 その二人からの指名など嫌な予感しかない。ふたりの危険性を分かっているのかいないのか、リトリアは大丈夫大丈夫、と歌うように繰り返して、エノーラをずるずる引っ張って歩いていく。談話室へ踏み込むと、いくつもの視線がエノーラを出迎えた。同情と苦笑いに満ちたそれをいくつも睨み返しながら、エノーラは訝しく談話室を見回した。

 記憶にあるものと、机の配置が変わっている。それだけなら単純な模様替えであるのだが、机の種類すら変わっている。談話室に多く置かれているのは、どちらかと言えば意趣を優先した家具ばかりである筈なのだが。集まってくつろぐ為のそれより、見慣れた武骨で頑丈な量産品ばかりが、部屋を埋め尽くそうとしていた。そして机と椅子の狭い隙間を行き交うのは、生徒たちばかりではない。

 教員の姿も多く、王宮魔術師の数も多かった。半数以上が卒業生だろう。中にはエノーラと同じ錬金術師たちの姿もあり、視線があうと微笑みながら、ひらひらと手を振って来た。眩暈がする。こんな所でなにをしているのかと怒鳴りつけてやりたいが、リトリアに捕まった腕を今も振り解いていない以上、もはやエノーラも同罪である。計画の大幅な遅延が決定づけられたに等しかった。

 ああぁあああ、と心底なにかを悔やんで呻くエノーラをいっしょうけんめい引っ張って、リトリアは一仕事終えた上機嫌な笑みでもって、錬金術師を用意しておいた椅子に腰かけさせた。ふう、と満足しきった息で、予知魔術師は胸を張る。

「エノーラさん! 連れて来ちゃったっ!」

「やあ。ようこそエノーラ。歓迎するよ」

「シーク。……ツフィア、ストル。レディまで……。えっなにこの集い……巻き込まれたくない感じが半端じゃない……」

 現存する言葉魔術師二人に、稀代の占星術師。火の魔法使いに、予知魔術師が同席する場に、連れてくることのできる錬金術師がいるとすれば、それはエノーラくらいだろう。エノーラは天才だ。自分でそれが分かっている。だからこそ、己が選ばれ連れて来られたのだ、ということを理解してしまっている。エノーラの代わりが出来るとしたら、キムルくらいしかいないだろうか。

 しかしそのキムルは、エノーラのこよなく愛するチェチェリアの夫たる憎々しい楽音の錬金術師は、先程涼しい顔をして手をひらひら振って来たばかりである。どうせ、これはエノーラではないと、など、意見した後に違いない。あぁあああああ、と頭を抱えて涙声で呻くエノーラに、何処から茶器一式を運んで来たリトリアが、きょとん、とした顔で瞬きをした。

「ええっと……? エノーラさん、やっぱり難しいって……?」

「いや、まだ話してはいないよ。発作だから放っておきなさい」

「ちょっと病気みたいに聞こえるでしょうが辞めなさいよストル……! あぁあもう、えっ、ねえ、なに……? なに……? あのね、知ってるとは思うけど、私今すごく、すっごく、とんでもなく忙しいの……。どうして私が分裂できないのか、そろそろ理解できなくなったくらい忙しいの……。誰のせいとは言わないけど。誰のせいとは」

 思い切り見られながら言われたシークが、ほの甘い笑みさえ浮かべながらひょい、と肩を竦めて目を和ませる。エノーラは隠さず舌打ちした。誰も彼もが同情して、君のせいではないよ、なんて言葉で、真綿で首を絞め続けたせいで、シークはこれくらいの嫌味でさえ喜ぶようになってしまった。誰か一人くらい、泣き叫びながら掴みかかって、この男に言ってやるべきだったのだ。

 お前のせいだ。どうしてくれる。責任を取れ、くらいのことは。言うべきだった。そう思いながらも、エノーラも、シークにそれを言ってやることはなかった。誰にそれが出来ただろう。迷子のこどものような顔をして、ぎこちなく笑って、ごめん、などと囁く男に。全部自分の責任だ、などという逃げで独房に引きこもって出てこないジェイドのことも連想的に思い出して、エノーラは机に拳を叩きつけた。

 深呼吸をする。

「……今、この状態で、錬金術師を拘束する、その意味は分かってるんでしょうね?」

「はい。分かっています」

 椅子に座り、まっすぐに背を伸ばして。まっすぐな目と、声で告げたのはリトリアだった。その場の誰もが、返答を少女に委ねていた。つまりは、リトリアが代表なのだ。この場の。あるいは、もしかすれば、談話室全体の。エノーラにしては珍しく、リトリアに向けても緩めはしない視線の鋭さに臆することはなく。予知魔術師は華やかな笑みで、ろくでもないことを囁いた。

「大丈夫! 私最近、五王の追及をちょろまかす方法を学んだの。なんとね、勝率十割なのよ。えへん」

「なっんにも大丈夫じゃないわよなにがどう大丈夫なのよどうして大丈夫だと思っちゃったのよおおおお! 止めなさいよアンタたち保護者でしょっ? なんで視線を逸らしてるのよこっち向きなさいよアンタたちに向かって言ってんのよツフィアにストル! 馬鹿っ! というか最近の進捗状況がいまひとつ思わしくないと思ってたのはまさかこれっ? これなのっ? アンタたちに聞いてんのよ返事しなさいよちょっとおおおおお! あぁあああもうキムルーっ!」

 絶叫された錬金術師は、予想しきった笑みで椅子から立ち上がり、エノーラたちの方へ顔を向けていた。距離を詰めることはなく。なにかな、と遠くから問いかけてくる同僚に、エノーラは胃に手を押し当てながら叫ぶ。

「アンタいつからこれに首突っ込まされてたのっ?」

「半月くらい前かな。ねー」

「ね、ねー」

 一瞬戸惑いながらも、首を傾げてにこにこと応じるリトリアが、今日もエノーラの天使すぎてなにもかも許したくなった。顔を両手で覆いながらもその場にくずおれたエノーラに、しかし、心配そうな目を向けたのはリトリアひとりだけだった。大丈夫、と問うてくる声に首を横に振りながら、エノーラは頭の中でぱちぱちと、様々なものが組み合わさって行く音を聞く。

 よろけながら立ち上がって、椅子に座りなおして。エノーラは疲れ切った気持ちで、ねえ、と少女に向かって問いかけた。

「なにしてるの? これ」

「な、なにって、その……。わるいこと……」

「わるいことかー。へぇー、ふうーん。そっかぁー。わるいことかー……わるいことかー……」

 そんなことは薄々分かっていたが、あえて口にしては欲しくなかったし、なんというか具体例が欲しかった。でも、もじもじしながら上目遣いで、わるいこと、と言うリトリアは最高に可愛かったので全ての罪は許される。真顔で息を吐き、エノーラはシークに問いかけた。

「なにしてるの? これ」

「うーん。設計とか計算かな?」

「具体的に言えって言ってるのよ私は」

 キミのその清々しいくらい態度違うトコすごく好きだよ、と苦笑してくるシークにどうもと素っ気なく言い返し、エノーラは言葉魔術師を睨みつけた。他の三人は、えっあれ私今説明した、えっ、とおろおろするリトリアを宥めるのに忙しいらしく、会話に介入してくる気配はない。シークは言葉に迷うように視線をさ迷わせた後に、ぽつりと、もしも、を実現する為にはどうすればいいのかと思って、と言った。

 エノーラは隠さず、額に手を押し当てて溜息を付く。一から順番に、全部、説明を求めて言わせる必要がありそうだった。

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