あなたが赤い糸:114



 その日様子を見に行ったのは気まぐれだったが、もしかしてなにかを感じたのかも知れない。そうシークが思ったのは白い扉を開いた先に、妖精のひかりが見えたからだった。ほの甘い暗がりの中、妖精は、ソキの顔を照らし出すように傍らに寄り添っている。溜息をついて、シークは室内に足を踏み入れた。靴音が響いても、妖精はシークに意識を向けないまま、ただ眠るソキのことを見つめている。

 妖精を呼ぶ名は、無いままだった。

「……見ていても、今日はまだ起きないと思うよ」

 ゆるゆると繰り返す瞬きのような動きで、花妖精が羽根を揺らめかせる。そっと持ち上げられた目は泣いていたように、赤く擦られ潤んでいた。ひとりなの、と問うシークに、花妖精は俯いて頷く。彼は、とかつてはずっと傍にいた鉱石妖精のことを問いかければ、きゅぅと口唇に力を込めたまま、花妖精は首を横に振った。

『知らない。……会ってない、見てないの。今、どこにいる、のかも……知らない』

「……責任を感じている?」

 花妖精は毅然として顔をあげ、しっかりと一度、頷いた。惨劇を起こしたウィッシュの、案内妖精は鉱石妖精。生真面目で世話焼きだった彼とは、同種族である。なにか思いつめていたのを見知っていて、放置した。相談に乗っていれば、なにか言葉を交わしていれば、気が付けたかも知れない。なにか出来たかも知れないのに、と苦しんだ末に、姿を見せなくなったことは、聞いていた。

 妖精としての姿を成さず。どこかで鉱石へと変じたのかも知れず、行方は誰にも分からなかった。花妖精も、あの日が最後であったのだという。ソキを守ろうとして、守り切れなかったあの日。ソキと共に『学園』へ招かれ、少女の枕元で共に眠りにつき。目を覚ませば、もうどこにもいなかった。一年が経過した今も、会うことは出来ていない。

 鉱石妖精とも、ソキとも。会うことができないでいる。ソキの意識は狂乱の中、表層に浮かび上がってはまたすぐに沈められるだけのものだ。時折、目を覚ませばそこにいるのはシークの『お人形さん』であり、花妖精の魔術師ではない。失われてしまったに近しく、けれどもまだ、花妖精の魔術師はそこにある。眠る少女の頬に寄り添って、慈しむ視線で、花妖精は囁く。

『どうすれば、よかったのかしらって……ずっと、思ってしまうの。あの時、どうすれば……わたしは、この子を、守れたかしら……』

 言葉はひとつも届かなかった。悲鳴じみた声でいくら声を投げかけても、そのひとつもソキには届かなかった。視線はたった一人に向けられていて、意識はたったひとりで占められていて、そこに妖精たちがいたことを認識していたのかすら定かではない。混乱と恐怖で押しつぶされて、絶望で壊れて行くその様を見て、その音を、妖精は聞いていた。その傍らで。

 ずっと、ずっと、見ていた。

『……前に、ね。彼が……その、鉱石妖精の、わたしと一緒にいた、彼が……もっと、言い返したり、大きな声で誰かに助けを求めるくらい、できるようになりなさい、とわたしに、言ったのよ』

 溜息のように、妖精は言葉を零して懺悔する。

『もっと……もっと、もっと、わたしが……わたしの気が強かったら、もうすこしくらい、この子に、声が届いたのかしら……』

 言うことを聞いて、逃げてくれたのかしら、と呟いて。ふふ、と花妖精は肩を震わせて笑った。

『いいえ。そんなことはないわね。そんなこと……あなたは、きっと、聞こえていても……わたしの言うことなんて、聞いてくれなかったわ。ロゼアを……置いて、逃げるだなんて。あなたが、そんなことを、してくれるはずが……』

「聞いてくれたかも知れないよ。もしかしたら。……例えば、そこがもう安全だったら。助けを求めにその場所を離れるくらいのことなら、彼女だってしてくれただろうさ」

『……この子を』

 導いてあげたかった、と花妖精は両手で顔を覆って囁いた。ほたほたと零れた雫が枕に染みをつくっても、少女は瞼を震わせない。なにもかも失った安らぎの中で、穏やかな顔で眠りについている。

『こんな風に、『学園』にいるだなんて、考えたことがなかったのに……。この子は……もっと、きっと、ずっと苦労して、旅をして……たくさん周りに迷惑をかけて、でも、きっと皆に助けてもらいながら、この子は『学園』まで旅をする筈だった。絶対に、そうなると思っていたの……わたしはきっと、困ったり、悩んだり、怒ったりもしながら、一緒に行くのだ、って』

「……そうだね。きっと、王宮魔術師たち皆で心配して見守っただろうさ」

『そうよ。それで、どんな魔術師になるのかしらって、どんな……どんな風に……』

 顔を隠す手を震わせ、握り、うずくまって。花妖精は、こんな筈じゃなかった、と繰り返した。

『わたしは、迎えに行ったのに。わたしが、迎えに行ったのに……ソキ。ソキ、ソキ。……ソキ』

 ごめんなさい、と花妖精は繰り返しすすり泣く。あなたを導くのがわたしの役目。あなたを守り、この場所まで連れて行くのがわたしの役目。それなのに。ごめんなさい。ごめんなさい、ああ、どうして。どうしてこんなことに。繰り返される慟哭を、慰める言葉を持たず。シークはただ、花妖精に寄り沿った。




 ソキの眠る封じられた部屋に、花妖精とリトリアの姿が増えたのは、年明けを迎えた頃だった。どちらも、特に理由があって訪れている訳ではないらしい。花妖精は少女の傍を離れがたく、リトリアは単に顔が見たいだけのようだった。話が出来ればいいな、とは思っているの、とリトリアは言った。でもね、難しいでしょう。それは分かってるの。でもね、もしかしたら、って思うの。

 リトリアの屈託のない希望は、すこし、シークと花妖精の希望になった。そうね、と花妖精は穏やかな笑みでもう一人の予知魔術師に囁きかけた。もし、この子がふつうに目を覚まして、そうしたら、どんな話をしましょうか。ふたりはくすくすと笑い合い、ああでもない、こうでもない、と楽しげに言葉を交わし合った。その笑い声だけで、またすこし部屋に光が満ちて行く気持ちになる。

 リトリアが部屋に常駐しだす頃になると、少女を追ってふたりの魔術師が姿を見せることとなる。ストルは額に手を押し当て、リトリアにここは遊ぶ所ではないよと窘めたが、それだけで、積極的に追い出したり連れ出すことはせず。ツフィアは渋い顔をして腕組みをし、眠り続けるソキとリトリア、シークを見比べて、深く息を吐いただけだった。予知魔術師を持つ言葉魔術師、という共通項が、シークとツフィアにある。なにか思う所もあるようだった。

 三人が部屋に出入りするようになると、なお騒がしくなる。見張りの白魔術師たちは苦笑いから、やがて悪戯っぽく目を輝かせて笑い合うようになった。今日はまだ大丈夫、ゆっくり眠っていますよ、と訪れたシークに囁き。扉の中から零れ落ちるリトリアの子守歌は、うつくしく柔らかな祝福に満ちて世界を輝かせた。

 年始を超えると、ぽつりぽつりと『学園』に人が戻ってくる。在校生たちはソキの元に足繁く通うリトリアの姿を見るとぎょっとして、それを止めないで好きにさせつつ後をついて回るストルとツフィアの姿にはどこか引きつった顔で笑い、どうすればいいのか分からなくなってきた顔で呻くシークの肩を、気安くぽんぽんと撫でては触れ、慰めた。

 悪いことなんてしてないもの、とリトリアは笑いながら言い放った。ざわめく在校生たちの前でも、聞きつけて呼び出された五王たちの前でも変わらず。まっすぐに前を見て、きらきら輝く目で笑いながら胸を張った。別に起こそうっていう訳じゃないでしょう、お世話しているだけ。歌をうたったり、髪をとかしたり、可愛い寝間着に着替えさせたり、お部屋に良い匂いをさせたり。

 あのね、皆もう駄目って言っているでしょう。あの子は元に戻らない。眠らせて、眠らせて、じわじわ死に向かっていくのを見守るだけ。ふつうに生きられることはない。諦めなさいって、言うでしょう。わたしもそれは正しいと思う。あの子がいつかのように笑って、それで、魔術師として生きていけるだなんて思わない。でも、とリトリアはまっすぐ、前を睨みつけるようにして言った。

 話してみたい。会ってみたいの。もしかしたらって、夢を見て、希望を抱いて、可能性にすがるの。あのね、皆知らないでしょうけど、あの子、子守歌をうたうと笑うのよ。良い匂いがすると、体からほっとして力が抜けるの。うなされている時に手を握ったら、握り返してくれた。生きてるの。まだ生きてるの。例え反射だとしても、そこにいるの。諦めたくない。諦めたくなんてない。

 だから、今できることをする。したいことをする。無理に起こして引っ掻き回したりなんてしない。ねえ、なにが悪いの、と開き直られて、リトリアに甘い五王たちは、それぞれに説得を諦めてしまったらしい。なにかあったらよろしく、という責任の全てをこちらへ投げてきた雑な書状を、それでいて王たちの連名が刻まれたそれを受け取って、シークは頭を抱え込んで呻いた。

 ねえなにかあったらってどういうことかな、なにがあると思われてるのかなねえ、とうつろな目で呟くシークに、ストルは視線を逸らしてすまないと告げ、ツフィアはきちんと見ておくから、と額に手を押し当てながら約束した。恋人たち、兼、保護者であるふたりをもってしても、なにもしない、あるいは、なにもおきないとは断言が出来ないらしい。

 ソキの状態はよくならなかった。半月、あるいは一月に一度目を覚ましては、そのまま眠ることもあり、泣き叫んで術式の発動を待たなければいけないこともあった。リトリアは二度と己を失わずにその光景を繰り返し見つめ、目の奥に焼き付けるよう瞬きだけをしていた。予知魔術師は決して、少女が目覚めている時にはその名を呼ばず。シークさんのお人形さん、とからかうようにして囁いた。

 狂乱と平穏の狭間で日々が流れて行く。じわじわ、ソキは弱って行った。眠り続け、目覚めれば水を口にすることがあれど、食べ物を飲み込むことはもうずっと、ないままだった。荒れ狂う魔力だけが、魔術師の体を維持してしまっている。それでも、それは永遠ではない。砂が零れ落ちて行くように、命は終わりに向かっていく。それを、誰もが理解していた。

 とある日に。なんの気なしに、リトリアが言った。もしも、私がその時、あの場所にいられたら。助けてあげられたのかな。シークは笑って、そうだね、と言った。もしも、キミがあの場所にいてくれたなら、もしかしたらもうすこし、結果は違っていたのかも知れない。もしも、という言葉は、毒に満ちた希望のように。胸の深くまで落ちて行く。




 もしも。

 あの日、あの時の選択を。

 やりなおすことができるなら。

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