あなたが赤い糸:116


 エノーラの多忙は、『扉』を繋ぎなおす必要がある為である。それは五王から錬金術師に下された正式な命令であり、実行しなくてはならないことでもあった。砂漠の国は、もう数年でこの欠片の世界から切り離される。それはこの世界が存続して行く為にはどうしても必要な作業で、そうする為にも、繋いでいた『扉』を切り離し、やり直すことは逃れられないことだった。

 砂漠の国を『接続』したままでいられないのかという議論は、その決定がなされるまでの一年でされつくし、それから半年が経過した今も諦めきれずに続けられている。ほぼ不可能だろうな、と感情を切り捨てた結論として、エノーラは思う。砂漠の国が続いていくことが、というよりも、欠片の世界として『接続』し続けておくことが、である。元より、世界は安定したものではない。

 欠片、なのだ。そう呼ばれる通り、エノーラたちの存在する世界は残された欠片。それを無理やり繋ぎ合わせているだけの。大戦争時代、五つの国はてんでばらばらの土地に存在していた。接地してはいなかった。他の国を挟んだ陸続きであり、隣国ではなかったのだ。それを縫い合わせたのが、魔力を込めた城壁と、魔術的な術式を含めた国境。そして、いくつもの『扉』である。

 様々な調整の末、『扉』は国を縫い合わせる糸となり、癒着させる糊となった。それを断ち切り、剥がし、繋げなおして、安定させること。それがエノーラたち錬金術師に下された王たちの命令であり、それは同時に、この欠片の世界が存続して行けるかどうかの命運すら担う仕事だった。けれども。ひとつを切り捨て、四つを残し、そして安定させるなど。ほぼ、不可能な作業である。

 それがなぜ、完全に不可能、と断定してしまえないのかと言えば、原因も理由もエノーラである。エノーラは今代の錬金術師において、たったひとり、『扉』を複製する技術を持っている。その類稀なる技術故に、王たちから打診され、可能か不可能かと問われた際に、エノーラたったひとりが回答を濁したのだ。できる、とは思えなかった。しかし、できない、とも、言い切れなかったのだ。

 それは恐らく、いくつかの奇跡と数十の偶然と、数百の知識と数千の手順を越えれば、もしかしたら、万にひとつ、可能、であることがあるかも知れない。それくらいのことだった。けれども、星の数より膨大なその可能性を潜り抜ければ、できるかもしれない、とエノーラは思った。だから即答できなかったのだ。稀代の天才がそう告げたからこそ、王は錬金術師に命じたのである。

 出来る限りのことを、出来る限り、成せ。また、エノーラの思う通りに、言う通りにせよ。告げられた瞬間にエノーラは己の誇りやら何やらを全てかなぐり捨てて、ああああやっぱりできませんできませんごめんなさいできませんと頭を抱えて叫んだのだが、聞き入れられず。錬金術師たちには、お前なにしたか分かってるのかこれだから天才はこの天才かつくそ馬鹿がと盛大に罵られた。

 才能を評価されきった上で、馬鹿と怒られたのは殆ど初めての経験である。エノーラはさめざめと泣いたが、すぐに気を取り直して図書館へ駆け込んだ。エノーラは天才だ。天才であって、万能ではない。知らないことも、たくさんある。必要な知識が、経験も、まだ足りないことを知っていた。それを埋める為にどうすればいいのかを知っていた。だから、泣きながらでも、そうした。

 錬金術師たちは頭を抱えながら、王の命ずるまま、また己の心のままに、エノーラに従いそれを手伝った。元より、『扉』を繋ぎなおす必要がある、ということは確かなのだ。この世界の延命の為に。砂漠の国を切り離さずに置いておくよりも、まだ、そちらの方が存続の可能性が高い、と判断は下されていた。砂漠の国は不安定な小舟。いつ他国を巻き込み転覆するかも分からない。

 砂漠の国の王宮魔術師の転属準備、および、国民たちの移転準備は錬金術師の成否を待たず始められていた。切り離したとて、国として消滅してしまう訳ではない。日々は続いていく。ゆるやかな死の帳が、国に降りきるその時までは。王は少数の、動けぬ者たち、動かぬ民たちと共に残ると告げた。幾人かの魔術師は、転属を断って国と、王と、人々と命運を共にする。

 それは大戦争終結の、世界分割を思わせた。やりたくない、と素直にエノーラは思う。残していきたくない。別れたくない。けれど、全員で、死ぬ訳には行かない。切り離さなければいけない。それがただの延命行為にしかならないのだとしても。十年でも二十年でも、百には満たない時だったとしても。まだ産まれてくる命があり、生きている命があり、そして、未来には可能性がある。

 託さなければ、とエノーラは思う。それは未来の己かも知れない、知己かも知れない。これから目覚める魔術師の誰か、錬金術師のひとりかも知れない。それは進化や、いくつかの発展を飛び越えた先の発想を得ることを願う、天才の到来を希うこころだった。奇跡を願って、それでもエノーラは、未来を見据えて動いていた。それなのに、他の魔術師たちは、もしも、なんてことを言う。

「……自分たちがなに言ってるか分かってる?」

 それは、諦める、ということだ。この未来を諦めて、もしも、なんて可能性にすがるということだ。やり直せるとしたら、だなんて。不可逆な時を巻き戻したいなどと願うだなんて。そんなことで、ここからの未来を諦めるだなんて。怒気を乗せて吐き捨てたエノーラに、酷く静かな、穏やかな声で、レディが息を吐いた。

「あなたの怒りはもっともよ、稀代の錬金術師。……でもねエノーラ、よく考えて? いい? よく、よ」

「なによ」

「……ほんとに『扉』繋ぎなおせると思ってる? 出来るにしても、間に合うと思う? ほんとー、に」

 きっかり、二秒の空白をおいて。あああぁああもうやだもおおおおっ、と半泣き声でエノーラは絶叫した。人が忙しさと義務感と諦めない心、諦めたくない心、そして諦めない心で全力で目を逸らしていた問題を、直球で顔に叩きつけてこないで欲しい。それが分かっていたからこそ、錬金術師たちは密かに、エノーラの元を離れてリトリアと合流していたのだろう。キムルでさえ。

 諦め時だよ、とやはり一定の距離を保った遠くから、憎きキムルの声が響く。

「君だって、一度は王にできないですって言っただろう? 徒労にしかならない努力より、実る可能性の高い仕事をしなくてはね」

「でも、それは……ここからを、諦めるってことよ。この先の途絶を! なんの努力もせず! 諦めるってことなのよ!」

「なんの努力も、せずに? 馬鹿を言うんじゃない、エノーラ」

 静まり返る談話室に、二人の錬金術師の声だけが響く。

「君の半年の努力を、君自身が否定してどうする? ……それでも、存続ではなく、延命の努力だ。最初から分かっていただろう」

「そっちこそ、どれだけのことを言ってるのか分かってるの? 今後百年を……それに満たないとしても! その存続を、命を、希望を今私たちが諦め手放すっていうことよキムル! 未来を! そこにあるかも知れない希望を! い……いま、そこに、ここにっ……生きて、私たちが……生きて、いけないっていう、ことよ……分かってるの? キムル、ねえ、皆! 分かってるのっ?」

「諦めたんじゃないの」

 響く。声が響く。痛いほど張り詰めた談話室に、リトリアの柔らかな声が響く。祝福を歌うように。愛を、世界にぶちまけてしまうように。いとしいと。いとしいと、思うことを途絶えさせない声が、響く。

「ここから、先。私たちから、先を……今と、私と、わたしたちを。諦めたんじゃないの、エノーラさん。……最初は、もしも、っていう話だった。もし、あの日、あの時に、ああしていたら? なにか違ったかも。もっと、よくできたかも。今が全く違う結果だったかもっていう、慰めで……希望で、夢だった。他愛ない、夢の話。そんな、もしも、だった。……砂漠の国が切り離されて、なお、それが延命にしかならないと知るまでは」

 きっと、後悔だった、とリトリアは言った。一番近い感情が、後悔。二番目が、期待。三番目くらいにあったのが、懺悔。砂漠の国が壊死しかけていたのを、魔術師なら誰もが感じ取っていた。ゆるやかに回復してはいたけれど、それが完全ではなかったことも。穏やかに安定してしまうより早く、あの事件が起きてしまったことも。出来ることをしていたかな、って、思った。

 ひとつの国の死が、この世界の安定、存在をも根底から揺るがしてしまうと知っていたら。もっときっと、皆、死に物狂いで助けようとしたよね。私も、あなたも、皆。そうしたって言いきれるよね。でも、しなかった。ただ応援して、心配して、ちょっとだけ助けて、見守って、祈って、それだけ。だって知らなかったもの。知らなかったことすら、知らないままでいた。無知でいた。

 この世界が、欠片の世界と呼ばれるこの場所が、どれだけ繊細な天秤の上に乗っていたか。知っているつもりで、なにも知らなかった。皆そうだよね。今はすこし、知っていると思う。その上で、もう駄目だって諦めたんじゃないの。見切りをつけたのでもないの。決して、諦めたくないの。そんなことしたくない。なにひとつ。なんであっても。どんなことであっても、この先も、今も。

 私たちは、今、この先へ行きたい。

「だからね……だから、その為の、もしも、なの。もしも、あの時、ああしていたら? あの願いが叶っていたのなら? 全然違う今になってるかも知れない。私たちはこんな風な想いじゃなくて……ただ、生きて行くことが、できるかも知れない。あのね、エノーラさん。全然違うの。私たちは諦めたんじゃなくて……この、先を。ここからの未来を覆したい。過去から、今を覆して、未来まで繋げたい。それだけなの」

「……今、これからを諦めるのとなにが違うの」

「見えている崖の向こうに、もしかしたら着地できる所があるかも知れないっていう、よく分からない可能性に目隠しして飛ぶの? それなら、道を戻ることのなにがいけないの? 分かれ道まで戻って、別の道を選んで歩いていくことを、それを試すことのなにがいけないの? それは諦め? ……エノーラさんが言ってることはね、私だって分かってるの。もしかしたら、この先、助かるのかも知れない。でもそれって、どうすれば助かるの? この世界には、後どれだけの奇跡が必要なの?」

 だって『扉』も間に合わないんでしょう、とごく素直に言い放ったリトリアに、エノーラは胸を押さえて蹲った。お手柔らかに、という錬金術師たちからの視線にきょとんとして、リトリアは黙して見守るストルとツフィアに、困って縋る目を向けた。

「……それとも、ほんとの、ほんとは、間に合うの?」

「聞き方を変えましょうね、リトリア」

 穏やかな笑みで、鋭利に切りつけるように言ったのはツフィアだった。

「どういうことが起きれば、間に合うと思っているの? エノーラ」

「……あんまり口には出したくなかったんだけど」

 うん、とリトリアが無垢な目を向けてくる。事情を知っているキムルが、むごい、とばかり視線を逸らすのを意識の隅で捉えながら、エノーラは泣きそうな気持ちで口を開いた。

「い……一年以内に、私と同じくらいの天才が、さん、し……う、うぅん、さ、三人くらい、魔術師として、目覚めて……いや、今いる誰かが突然変異的に、できるようになってくれてもそれでもいいというか、私みたいに、こう、段階を踏まずに飛躍した発明とか……でき、れ、ば……。……つまり私があと三人必要っていうか、わたしがあとさんにんいればまにあうっていうか」

「うん、うん。エノーラ」

 優しい笑みで立ち上がり、錬金術師の肩を叩いたのはレディだった。火の魔法使いは呆れることなく、慈母のような微笑みで言い切った。

「それね、一般的な感性でいうと、現状不可能ってことだから。奇跡とも呼べないから。あなたが諦めましょうね」

「ふ、ふたり! ふたりでもいいから! そしたら私が不眠不休で頑張ってなんとかするからぁああ!」

「言ったろ? エノーラはね。まず間違いなく極めついた天才ではあるけど、紙一重の馬鹿も兼任する稀有な存在だって。この発想力で、あっもしかしたら出来るかも? と思われた錬金術師の絶望を理解したまえよ」

 聞こえてんのよキムルこの野郎かくなる上は私が魔術で増える方法を探すのが一番はやいあっお願いリトリアちゃんそんなかなしそうな目でわたしをみないでつらい、という声が、談話室に力なく響いた。



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