あなたが赤い糸:112


 大丈夫かい、と尋ねられて、リトリアはぼんやりとした気持ちを持て余しながら空ろな気持ちで頷いた。はぁ、と呆れと心配が等分になった溜息でシークが眉を寄せる。飲みなよ、とシークが言う。リトリアは瞬きをしながら、手元に視線を戻した。そこにはココアが置かれていた。湯気はすでになく、表面にはうっすらと膜が張っている。陶器に指先を触れさせれば、まだほんのりと温かさの名残があった。

 ひとくち、飲み込んで、その甘さにすこし肩の力を抜く。ええと、と呟いてリトリアは首を傾げた。飲み物を頼んだ覚えもなければ、そういえばどうして、こんな場所に座っているのだろう。丸く小さな、お茶を楽しむ為の机の上には、それぞれの飲み物だけが置かれている。リトリアとシークは机を挟んで向かい合わせに座っていた。周囲には誰の姿もない。静かだった。

 ここは、どこ、だっただろう。ぼぅっとしていて思い出せないのを揶揄われるのが嫌で、だからこそ問いかけず、リトリアはそろそろと周囲に視線をさ迷わせた。シークはちょうど片肘をついて、行儀悪く本を読み始めていたから、気が付かれはしない筈だった。現在位置を確認する。外である。寮の前の、森に囲まれながらも開けた空間。中庭のような、広場のような一角。

 晴れた日には木々の間に縄を張り巡らせ、シーツやら洗濯物が風を受けてばたばたとはためくのが日常の光景である。今日もそれを見ることはできたが、覚えているよりずっと数が少ないのは、『学園』が長期休暇の最中だからである。長期休暇。つまりは年末。つまり、そう、真冬のまっただなかである。えっ、とリトリアは声をあげた。困惑と怒りにも塗れた声だった。

「寒い……。やだ、ココア冷めちゃった……」

「……ああ、うん。そうだろうね……」

 正面からは、いっそ哀れみすら感じる声と視線がかえってくる。もう、と頬を膨らませて怒りかけて、リトリアは瞬きの隙間に眩暈を感じた。息が詰まる。机に倒れ込むことは堪えて、なんとか、額に指先を強く押し当てて目を閉じた。悲鳴を堪えた喉が軋む。悲鳴。どうして。なんでそんな声をあげる必要があるのだろうか。外。温かな飲み物が冷えるまで。どうして。

 意識が怯えるように、木漏れ日のように明滅する。リトリアちゃん、とシークの声が響く。大丈夫だ、息をして。もう、大丈夫だから。そっと、優しく。リトリアの肩に手が触れて行く。その体温に、その、優しさに。胸が確かに軋んだ。ああ、と息を吸い込む唇から声が漏れる。まだ意識がはっきりとその形を成さぬまま、言葉が先に、それを思い出した。

「……あのこ……あの子は……?」

「白の部屋で、また、眠ったよ。……無事に眠った。だからもう、大丈夫だ。大丈夫なんだよ……」

「待って……待って、私……わたし……」

 呼吸と、言葉の隙間を縫い合わせるように。溢れ出る感情が涙となって零れて行く。己の感情がなにを思っているのか分からない。悲しいのか悔しいのか、衝撃を受けただけなのか。憐れんでいるのか。息をつめて、背を丸めて、口元を強く、手で押さえて。ぼたぼたと涙を零すリトリアを、シークは声をかけずに見守っていた。どんな言葉も今は無意味だと、知っているようだった。

 瞼の裏の薄暗がりで、リトリアはなにが起きていたのかを思い出す。消毒液の匂いがしそうな白い扉のあの部屋で、少女は眠っている筈だった。シークが少女を眠らせ終わった後、溜息を零してリトリアに言った。彼女が件の事件の生き残り。ボクとジェイドと、この子だけが、魔力を持つ魔術師であるが故に、あの惨劇を生き延びた。リトリアは確か、こう言った。なにが起きたの。

 この子はなにを見てしまったの。呟いて、リトリアは閲覧した調書の内容を思い出そうとしたのだ。そこに書かれた文字は少なく。そこに記された事実はあまりに残酷だった。そのことを胸の中で、何度か噛み砕いて。リトリアは見せて、と言って少女に歩み寄った。それは恐らく傲慢な行いだった。思い上がりだった。シークは、それを分かっていて、リトリアを止めなかった。

 たったひとり、生き残った、己と同じ適性を持つ魔術師を。理解し共感し、助けたいと思う気持ちを。遠ざけるのに必要なものは言葉ではないことを、理解していたようだった。気をつけて、とも言わず立ち上がったシークと入れかわりに寝台に腰を下ろし、リトリアは眠る少女へ指先を伸ばした。触れて、そして、望むだけでいい。予知魔術師の魔力は、リトリアの願いをそれだけで叶えてしまう。

 それは記憶を読み取るというより、眼前に映し出される同じ映像を眺める行為だ、とリトリアは思う。同一になりきるのではなく。ただ、同じものを見る。真っ先に飛び込んできたのは、心を刺し貫く程の叫びだった。たったひとりの名を呼んでいた。たったひとりを求めていた。目の前で、目を閉じ、冷たくなっていくその存在を求めて、少女はずっと泣いていた。むせかえる程に血の匂いがした。

 周囲の視認は殆どできなかった。あたりを見回すことすらせず、少女はたったひとりだけを見つめていた。濃密な魔力が完全に周囲を支配していて、魔術行使の気配があるたびに、ひとつ、ひとつ、命の灯火が消えて行く。未熟な魔術師は、半狂乱になりながらも、それを感じ取っていた。未熟であろうとも、魔術師であった少女は、不幸なことにそれを正しく認識していた。

 魔術が働いていることも、それが成されれば命が消えてしまうことも、己にそれから逃れる力がないことも、己をそれから守る術がないことも、大切なその人が死を宿すその術に捕まってしまったことも、大切なそのひとをそれから逃す術がないことも、それから守る力がないことも、なにもかも、なにもかもを、理解してしまっていた。いやです、と少女は泣いて、それでも抵抗していた。抵抗しようとしていた。

 予知魔術師としての本能が、少女の中で魂を切り裂く程に絶叫し、成長したがっていた。助けることが出来る筈だった。助かることが、叶う筈だった。己も、大切なひとも、周りの今消えて行く親しい命たちも。助けられる筈だった。予知魔術師なら、それが出来る筈だった。万能とさえ囁かれる適正。不可能を可能に書き換えるたったひとつの術。予知魔術なら。予知魔術師なら。助かる。助けられる。己も。なにもかも。

 助けて、と少女は叫んでいた。己の喉が裂けるまで、己の魂が裂けるまで。幾人ものを名を呼んで、助けてと手を伸ばしていた。助けて、助けて。シークはその声をどう聴いたのだろうか。理解したのかも知れない。理解、できなかったのかも知れない。少女が助けを求めていたのが、誰であったのか。なんであったのかを。リトリアには分かってしまった。

 少女は、はじめから、誰にも救いを求めていなかった。助けの手を伸ばしていたのは他者ではなかった。少女が求めたのは、完成した予知魔術師に対してだ。己がこの先、成長していく姿。その夢想。完成した姿に、救いを求めていた。助けを願っていた。ソキが手を伸ばしていたのは己自身に他ならなかった。助けて、助けて、と叫んだのは未分化の己の魔力、魔術、奇跡の術。その行使。

 器が壊れたのはそのせいだろう。少女の身に宿る魔力は魔術師の叫びに確かに応えようとして、急激に成長し完成しようとして、耐えきれなかったのだ。予知魔術は万能の術である。なんでもできる、とされている。それは正しく、それは決して、正解ではない。万能になる為には、万物を知る必要がある。白魔術と同じ結果を出す為には、白魔術を知らなければ、そこへ至れない。

 結果だけを持ってくるには、道筋となる知識が必要だ。基礎なくして応用はできない。魔術とは知識であり、数式であり、計算であり、設計である。ソキのしたことは、設計図さえないまま、建物を完成させようとしたことに等しい。必要な材料もなく、知識もなく、経験もないまま。方法すら分からないまま、それだけを望んだ。結果として、暴走した魔力が魔術師の器を破壊したのだ。

 できるのに、と少女は泣いていた。泣いている。できる、のが、分かるのに。助けられなかった。大切なひと、大切なひとたち、己の身ひとつだって。助けられなかった。それができると分かるのに。泣き叫ぶ少女を鎮めたのはシークだった。言葉魔術師。予知魔術師の対。ありったけの力を込めて、言葉魔術師は予知魔術師の意識を支配し、そして、書き換えた。その名を。存在を。

 ソキ、というのが少女の名だ。今や慟哭と絶望に満ちた少女の意識だ。それにシークは名前を付けた。お人形さん。そう呼ぶことで、言葉魔術師の支配を上書きしたのが、あの結果だ。少女は書き入れられたその空白故に、普段は己を手放しで眠っている。記憶も、感情も、そこにはない。名がないからだ。だからこそ穏やかな眠りが少女を包み込んでいる。

 そこに、破壊された予知魔術師の魔力は及ばない。そう呼ばれている限り、彼女は言葉魔術師の人形として存在する。魔術師として、ではなく。けれども、確かに少女は魔術師であるので。引いた波がまた海岸へ寄って行くように。沈んだ太陽が昇ってしまうように。眠りから目覚めてしまうのだ。己を取り戻してしまうのだ。それを、王たちは禁じた。眠りは幽閉と同義となった。

 目を覚ませば少女は泣き叫ぶ。制御を失った予知魔術が世界に解き放たれる。未熟な魔術師にその制御を取り戻す術はなく、『傍付き』を失った『花嫁』に待つのは死でしかない。だからこそ少女は眠っている。眠り続けている。その死を先延ばしにされている。助けられなかった、と慟哭する夢の中で。リトリアは震えながら、息を吸い込んだ。瞼を指で擦って、涙を拭う。

 荒れ狂う感情に己を失いかけたリトリアを、ここで落ち着かせてくれたのはシークに他ならない。寒い場所にいることを、冷静な気持ちでリトリアは感謝した。温かな気持ちで、そっと、待たれていたなら泣き叫んでいただろう。守られたくない。傷つけられたい。罪悪感のあまりそう願う気持ちを、冷たさが幾分か、埋めてくれた。

「……あの子、もう、眠っているしか、ないの……?」

 ゆるやかに、ゆるやかに。眠り続け、死を待つしか、ないのだろうか。あんな絶望を抱えさせたままで。救い出すことも、安らがせることすらできないままで。うん、とシークは言った。リトリアの苦しみを肯定して、その上で。言葉魔術師は目を逸らして、でも、と呟く。諦めてあげることができない。それが少女の眠りのことなのか、遠からず訪れる死の回避についてかすら、分からないままで。

 リトリアは、うん、と言った。ちからになれる、と思う。胸に手を押し当てて息を吸う。リトリアは予知魔術師だ。不可能を可能に書き換える。万能とすら呼ばれる。奇跡を導く魔術師だ。まだ完全とは言えない。けれども知識があり、経験があり、成長の余地がある。壊れてはいない。壊されてなど、いない。唇を噛む。前を向く。シークさん、とリトリアは呼んだ。

 予知魔術師の声は、静かに。言葉魔術師の決意を導いていく。


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