あなたが赤い糸:113
どうしたいの、と聞かれたのは、思えば随分久しぶりのことだった。こうして欲しい、と願われたことは多く、こうせよ、と命じられることが殆どだった。己の意思というのは願いや命令の先にあるもので、なにかを始める前に、その手元を確認される経験そのものが乏しかった。え、と呟いたきり言葉にならないシークを見つめて、リトリアは肩を震わせながら立ち上がった。
考えてね。また、聞きに来るからね。今日はこれで、と言って去って行ったリトリアを見送った『扉』を眺め、シークはなにも考えず、そこへ手を伸ばした。いつかの記憶が頭をかすめる。それは『学園』在学中に痛いくらい願い続け、卒業と同時に瓦解し、砂漠で過ごすうち、いつの間にか穏やかな風化を受け入れた願いだった。帰りたい、と思っていた。元の世界へ。
目を閉じて、息を吐く。『扉』は砕き残されたいくつかの欠片には繋がっているものの、シークの居た世界には繋がらない。繋げることができない。残された書物はその方法を語らず、薄く残る繋がりは、時を重ねるごとに解けて消えて行く。どうしたいの、という予知魔術師の言葉が耳の奥へ染み込んで行く。帰りたい、と暫くぶりに、シークはその願いを絞り出して口にした。
擦り切れ色褪せるばかりの記憶の向こう。産まれたその世界に。ここではない、あの場所に。帰りたい、と繰り返しシークは口にした。呟いて、苦笑して、首を振る。あの屈託のない予知魔術師が問うたのは、シーク個人の願いなどではなく。今も眠る、言葉魔術師の対たる存在を、どうしたいのか。どうして欲しいのか。そういう意味の言葉だ。分かっていた。
身を翻して歩き出す。求められた時に必要なことを行い、他はなにもしないでいること。これだけを守れば、シークは『学園』の中では自由に過ごすことが許されていた。なにもしない、と言ってもそれは魔術を使うなというだけで、よく考えればそれは在学中と代わりのない日々だ。シークは好んで図書館へ引きこもり、本を読んでは時間を潰して毎日を過ごした。
言葉を追いかけている間は、なにも考えなくて済んだ。それが学術書であるなら知識を得る喜びが、物語であるならここではない何処か、己ではない誰かの目を通した風景が、そっと心を慰めた。目の前のことも、これまでのことも、これからのことも、考えることに疲れていた。なにも考えたくない。もう疲れてしまった。なにも考えないでいる時間を過ごしたくない。疲れてしまう、ばかりで。
今日も、あとはまたそうしていようかと思っていたのに。シークが足を向けたのは、独房の一室だった。見張りの魔術師に苦笑して面会の為の書類に名を記し、その場所へ足を踏み入れる。普段は隠された寮の、地下に通じる階段の先に独房がある。そこは地下牢そのものだった。各国の不用になった建物の移築群で成された『学園』であるから、その牢も、大戦争時代の遺物である。
空間に足を踏み入れるだけで、異様なまでの威圧を感じる場所だった。そこは呪われた魔力に満ちている。錬金術師たちが、黒魔術師が、あるいは白魔術師たちが、ありったけの魔術を鉄柵に、地下牢を形成す煉瓦に、水に土に灯篭に封じ込めて、そこへ放り込まれた魔術師の魔力を押さえつけている。鉄柵の向こうにいる限り、魔術師はただの人だった。
入口から、数えて三番目の独房の前で立ち止まる。あえて先へ流していた視線を室内に向けるより早く、聞きなれた声が穏やかに響いた。
「やあ、シーク。……処刑の日、決まった?」
「こんにちは、ジェイド。ひさしぶり。……その挨拶、ジェイドの持ちネタだから気にしないでいいよ? って皆に言い聞かせている、ボクの努力を誉めてくれてもいいんだけど? それに、今この状況で……どんな理由あれ、魔術師の数を減らす訳にはいかない。分かってるだろう?」
「残す利点より、置いておく損益の方が多いと考えますのでどうぞ冷静なご判断を、と王には申し上げているんだけどね」
そのせいで、砂漠の王はついに胃に穴が開いたという。それでも陳述書が届く限り、ジェイドはまだ生きているのだから、とほっとする砂漠の王に、魔術師たちは泣いたのだと聞く。シークもそれを聞いて、主君の涙ぐましさに苦しい気持ちになった。誰も、彼も、諦められなどしないのだ。己の内側に宿った好意を。捨てきれないでいる。それが悪手だと分かっていても。
鉄柵越しに対面した同僚は、不思議なくらい、特に変わりがないように思えた。面倒くさがって切らないでいる髪が伸びたくらいで、身綺麗にはしているし、服も清潔なものである。運動をしていないから、すこし、痩せたようには見える。それくらいだ。昨日、今日に、そこへ入らざるを得なかった。そういう風な出で立ちをして、落ち着いた、穏やかな微笑を絶やさないでいる。
もういい、とジェイドが言ったのは、ウィッシュをその腕の中で眠らせたあの日の一度きりだった。もういい。疲れた。そう言って目を閉じて、魔術師たちが駆け込んでくるまで、ジェイドは動かないでいた。息をしているのが不思議だと、シークは思う。あの時に、もう、シークはジェイドを諦めた。鼓動も、息も、絶えるものだと思っていた。耐えられるものではないと思っていた。
その言葉に込めた感情を、誰より理解できた。もういい、と思うのも。疲れた、と思うのも。同じだった。シークも全く同じ気持ちだった。それなのにジェイドは鉄柵の向こうでしれっと息をしていて、シークはこちら側で、何故だかまだ鼓動が響くままにしている。ジェイドはいくらか自殺未遂だか自傷だか繰り返していた時期があるそうだが、それも今は消えて落ち着いてしまっている。
ただ、ただ、不思議な気持ちで、ジェイドとシークは視線を交わす。それくらいに、もういいと思い、もう疲れたと思い、心底それに共感し理解して尊重さえしてやろうと思っているのに。どうしてまだ息をしているのだろう。途絶えないでいるのだろう。己も、相手も、世界も。なにもかも。
「……シーク。用事、なに? 用事ある? ……顔見て、声聞きに来ただけ?」
「顔見て、声聞きに来ただけ、かな。……ああ、さっきまでリトリアがいたけど。その話でもする?」
「うん。じゃあ、聞こうかな」
話をすることすら不自然で、不思議な行為だった。そこにジェイドが確かにいるのに、なにもない空間に言葉を響かせているような気持ちになる。鏡を覗き込みながら、ひとり言を繰り返しているような気持ちになる。顔を見て、声を聞いて、穏やかに微笑み合いながらも、なにも安心できないでいる。確かめられるものがなにもない。確かめようとすることが、なにもない。
笑って話して体温があって呼吸をしていても。ジェイドをもう、生きている、と感じることができない。鉄柵の向こうにいる限り、魔術師はただの人と同じになる。そうであるからこそ。ジェイドの目に、寄り添う妖精、かつて『花嫁』であったひかりは、映らないままなのだ。それなのに、まだ。ジェイドはふっと、困ったように笑って立ち上がった。
一歩、二歩、歩き。鉄柵の隙間から腕を伸ばし、シークに触れる。
「……シーク」
「なに」
「泣くなよ。……ああ、いや、泣いてもいいけど。……まだ辛い?」
歯を、食いしばって嗚咽を殺す。瞬きで涙が落ちて行く。服を濡らす前に、ジェイドの指が丁寧に拭っていく。悲しくてやりきれない。そこにいるよ、とシークは言った。目を伏せて、困ったように、ジェイドは笑う。うん、とジェイドは呟いた。歌うように、囁くように。穏やかに笑いながら。
「知ってるよ。……分かってる。シュニーがずっと一緒にいてくれることも、誰も、俺から彼女を取り上げたりしないことも。分かってるよ……分かってる、だから、お前が悲しむことじゃないよ。悲しまなくて、いいよ……大丈夫。大丈夫だから……」
「君の、為になんか……泣いてないよ」
「うん、そうだな。ああ……ああ、そうか。シーク。まだ、辛いのか……そうか……」
少女のように壊れないでいる心が。ジェイドのように失われないでいる心が。感情と理不尽に泣き叫んでいる。ただ、ただ、希望を目指していた筈なのに。それを託されたはずなのに。一度は、育ったその実を両手で包み込み、得たような気持ちにすらなったのに。それはどうして失われてしまったのだろう。どうすればよかったのだろう。
あの努力と献身の日々の末が、こうであることを、どうしても、どうしても。
「……ジェイド?」
「うん?」
「キミは、もう、辛くはないね」
痛いとも、苦しいとも、感じないなら。現在も過去も未来も考えたくなくて。なにも考えることさえ、したくなくて。息をして、瞬きをして、日々を過ごしていくことを。焦燥の中に、罪悪感の中に、身を浸していないのなら。それはもう、きっと、救いだ。囁くシークの言葉は問いではなかった。確認でしかないそれを、じっと見つめるように。ジェイドはシークの目を覗き込んで。
涙を拭っていた手を引き、胸に押し当てて、にっこりと笑った。
「そうだよ。……すまない、シーク。ごめんね。……ごめんね、シーク」
「ジェイド」
「君を、ひとり、残してしまった……」
一緒に死んであげられればよかった、とジェイドは言った。シークは笑う。ほんとうに、ほんとうに、その通りだ。どうして失われてしまわなかったのだろう。どうして、まだ、それでも、まだ、諦めず。誰かがシークの前に、希望を差し出して笑うのだろう。瞬きをして、まなうらに、リトリアの姿を思い出す。その声の響きを思い出す。耳の中にまだ残っていたその声を。希望を。
諦めず。何度でも、何度でも、また。
「……ひとりじゃないよ、ジェイド。ボクはまだ……また、ひとりじゃ、ない」
「そう。……そうか。それなら……よかった」
「うん。だから」
大丈夫とは、言えない。思えもしない。けれど、また、もうすこし歩けるだろう。その先にあるものを、もう一度信じて。諦められない、と呟くシークに、ジェイドがいいよ、と笑って言った。諦めないで、思う通りにしていいよ、と告げるその言葉を。許しだと、思った。
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