あなたが赤い糸:111





 明日には新年を迎えるこの日、『学園』は普段よりずっと静まり返っている。慣れた景色を歩いて行きながら、シークは一年か、と胸中で呟いた。シークが『学園』預かりとなってから。すなわち、事件から、一年。一年間を、よく保った、と思うべきだろうか。それとも案外短かっただとか。残された『お屋敷』の人々はどうしているのだろう、だとか。思うことは沢山あった。

 あの日以来、シークは王に会っていない。ジェイドも同じだろう。惨劇の部屋に魔術師たちを迎えに来たのは、砂漠の同僚たちだった。何故、と誰もが言った。どうして、と口を手で覆って、血溜まりと肉片が散乱する室内で泣き崩れ、あるいは叫び、耐えきれずに吐いた。彼らが来るまでの静寂に、響いていた声をシークは覚えている。甘い蜂蜜のような声。『花嫁』の声。

 その体で、腕で、『花嫁』を庇い、守り切って。とうに息絶えた『傍付き』を呼び続ける声。父を呼ぶ声。助けを呼ぶ声。求め続ける声。ねえ、ねえ、と泣きながら、幾度も幾度も『花嫁』は呼んだ。ロゼアちゃん、ねえ、どうしたのロゼアちゃん。お返事をして、どうしたの、痛いの、苦しいの、つめたい、つめたいの、ロゼアちゃん、ねえ、ぱぱ、ぱぱ、助けてぱぱ、らヴぇ、ねえ。

 誰か、誰か。ロゼアちゃんを助けて。けほけほ、何度も咳き込んで。ごほ、と喉が悲鳴をあげて血を滲ませても。妖精がいくら宥めて傍にあろうとも。『花嫁』は目を閉じた『傍付き』に縋り、いやいや、と首を振って呼び続けた。ぱき、と澄んだ音がして。その胸に秘めた魔術師の器が壊れてしまうまで。心を壊してしまうまで。まだ未熟な魔術で、なにを知ることもない、本能的な行為で。

 助けようとして、助けようとして、助けられなくて。ぺきぺき、ぱきん、と儚い音を立てて。予知魔術師は壊れてしまった。シークの目の前で。伸ばした手は一歩、届かずに。魂ごと瓦解するような、か細くうつくしい悲鳴を、覚えている。

「ユーニャ! こっち、こっち!」

「リトリア? どうしてこんな所に……」

「だって、どうしても一度お会いしてみたいんだもの。ストルさんだって、ツフィアだって、いいこにしてるなら、って仰ってくださったわ?」

 青年を呼ぶ声にふ、と顔を上げれば、やや気まずそうな顔で苦笑される。聞いていないよ、と首を横に振れば、青年はどこか罪悪感の入り混じる声で一礼して、数人の魔術師が見張りに立つ、白い扉の前へ駆け寄った。そこには見張りとは明らかに違う様相の、少女がひとり立っていた。まだ『学園』在籍中の魔術師である。長期休暇で恋人の家に連れ込まれたとばかり思っていたのだが、どう言いくるめて戻って来たのだろう。

 歩み寄り、ひさしぶり、と囁けば、藤色の少女はぱっと顔を明るくして笑った。

「シークさん! おひさしぶり、です……! わ、わ、本当にシークさん? 嬉しい……!」

「リトリア。この方は、遊びに来たんじゃないんだから……」

「私だって、遊びに来たんじゃないのよ。一生懸命、色んな人に聞いて、やっと教えてもらったんだから……! まさか『学園』の中に隠していただなんて。もぅ……!」

 どうしてそういう意地の悪いことをするのかしら、と怒るリトリアに、見張りに立つ白魔術師たちが苦笑する。これは五王の決定であり、命令である。『学園』の中に魔術的に封鎖した空間を作り、そこへ常時封じ込め、守護する、というのは。そして目覚める前に、シークがそこへ呼びこまれるのも。噂だけは聞いてたけど、本当だった、ときらきら輝く目で、リトリアは扉と、現れたシークを見比べていた。

 シークも普段は人前に出ないでいるから、聞くにも聞けず、会いにも来られなかったのだろう。どんな言い方をしようとも、シークは『学園』という大きな檻に収容された、囚人であるのだから。

「見つかってしまったのなら仕方がないし、どうしても、と言うのなら……ボクはいいよ。静かにしている、と約束できる?」

「約束! します!」

「うんうん。キミはね、いつも返事は良いんだけどね……。返事はいいんだけどねぇ……。ストルとツフィアが許可出す訳ないから、どう言いくるめてきたのかがすごく気になるなぁ……」

 過保護の過が五つくらい頭につくリトリアの恋人たちは、どうもいまひとつ、最後の最後で詰めが甘い傾向がある。リトリアはつんっと唇を尖らせて、ささっと周囲を確認したのち、声を潜めてあのね、と言った。

「『学園』に行くから、お部屋から出して? って」

「……あぁ、キミ、また監禁されてたの……。ああうんいいよ肯定も否定も詳しい説明とかもね、いらない。必要ないし聞きたくないからね。うん、はい、まあ……それで?」

「それでね、来たの」

 説明終わり、とばかり、少女はにこにこ笑っている。キミほんといつも大事な所言わないよね、嫌な予感するから絶対なにがあっても突っ込んで聞かないけど、と思い、シークは思い切り遠い目をした。幼い頃はシークに突かれてぴいぴい泣いてまとわりついて来ていたものを、いつの間にこんなにしたたかになっていたのだろう。

 大体二股というか、恋人がふたりの時点でしたたかを通り越した小悪魔である。

「……仲良くやってる?」

「うん。ストルさんもね、ツフィアもね、やさしいよ。……だからね、えっと……ここにいるのは、内緒にしてね?」

「あぁー、やっぱりキミそういう……」

 顔を手で覆って呻くも、リトリアはにこにこ笑うばかりで、気を取り直してどこかへ行ってしまうようなことはしなかった。それ所か、早くしないでいいの、と扉を見てシークを促してくるありさまである。見張りの白魔術師が焦れたように、怯えるように、シークをちらちらと見ていたせいだろう。シークも、目覚めが近いことを感じ取っていたから、溜息をついただけだった。

 足を踏み出す。開いて、と告げれば、白魔術師たちは緊張した面持ちで扉に手をかけ、ゆっくりと内側へ押し開いていく。とと、と小走りに行こうとするリトリアの首根っこを掴んで額を指先ではじき、シークは一礼して待つ青年に頷くと、少女より先に部屋へ足を踏み入れた。入るなりすぐに、扉が閉められる。リトリアは拍子抜けしたように、ぱちぱちと瞬きをした。

 部屋としては、特別なものはなにもない一室だった。平均的な寮の部屋となんら変わらぬ、広さも間取りも、同じものである。ただそこは、しんと静まりかえり、花の甘い香気に満ちていた。いいにおい、とリトリアが呟く。そうだね、と言い置いて、シークは寝台へと歩み寄った。とと、と後をついて動くリトリアの足音が、止まる。息を飲んだ視線の先。鎖が少女を繋いでいた。

 両手首に、両足首に。よくなめした皮の枷が巻かれ、そこから寝台の四隅へ鎖が伸びていた。ぐるぐるととぐろを巻く程に余裕があり、眠る少女も体を丸くしているから、動きを制限するものではないと分かる。しかし、それは鎖だった。魔術師たちの、魔力が眩暈をするほど込められた、魔術具だった。なに、とリトリアは呟く。少女に視線を引き寄せられ、魅入ったままで。

 ん、と眠る少女がまぶたを震わせた。慣れた仕草で、シークは枕元に腰を下ろす。手を伸ばして、シークは少女の髪に触れた。滑らかな金糸の髪が、指先を零れ落ちてシーツへと広がる。のろのろと持ち上げられるまぶたから現れたのは、とうめいな翠の瞳。光を浴びて眩く輝く宝石、そのもののような。少女は蜂蜜みたいな声で、ん、ん、と幾度か零すと、ぼんやりとした視線でシークを見た。

「……だ、ぁ、れ……?」

「……ん? 誰だろうね。気になる? ……ほぉら、まだ、眠いね。寝ていていいんだよ……」

「……ん、ん……。だれ……だ、れ……? ここ、ど、こぉ……?」

 とろとろとした声で少女が囁く。その、なににも答えずに、あやしながら。シークは少女をもう一度眠らせようとしていた。リトリアはその光景を、息をつめて見ていた。ぐずぐず、鼻をすすって、少女がくちびるを尖らせる。

「わ……わか、らな……。こ、こ、ど……こ……? わ……わた、し……だ、れ?」

「……キミは、ボクのお人形さん。かわいい、かわいい、お人形さんだよ」

「……おにんぎょうさん?」

 そうだっけ、と言わんばかり、少女はぱちくり瞬きをした。じぃ、と無垢な瞳でシークを見つめる。そうだっけ、そうかな、でも、このひとがいうのなら。ぱちぱち、ぱちん、と瞬きをして少女は首を傾げた。少女の髪に結ばれた、赤いリボンがふわりと揺れる。あ、と少女が声をあげてリボンを握る。あ、えっ、と急に不安げに、少女は室内を見回した。

「こ、これ、これ……! え、あっ、あれ……? あれ、あ、あ、れ……わ、わたし、わた……し……? ……ちゃ……は……?」

 ぐっ、とシークが息を飲んで少女を引き寄せる。落ち着かせようとシークが肩に触れた瞬間、少女は弾かれたように顔をあげた。

「ろぜあちゃんは?」

「……ソキ、ちゃん」

「シークさん、ロゼアちゃんは? ロゼアちゃんは? ロゼアちゃんはっ? ねえ、ねえロゼアちゃんはどこどこねえそき、ソキのろぜあちゃ、ロゼアちゃんロゼアちゃん! いやいやいやぁああああああああっ!」

 絶叫に。歯を食いしばって、シークが力任せに少女の体を寝台に押し付ける。じゃらじゃらと鎖が鳴り響き、そこへ書き込まれた魔術式が起動した。ソキの意識を混濁させ、眠りへと引きずり込む呪いの術が。シークはそれがソキを絡めとるまでの保険だ。万一。もう一度、予知魔術師が、その力を暴走させてしまった時の為の。

 血を吐くような声で。ソキはたすけて、と訴え続けた。シークの名を呼び、リトリアには分からない何人かの名を呼んで。必死に手を伸ばして、届かないそれに触れようとした。ロゼアちゃん、と何度も叫んで、その声がやがて、ぴたりと止まる。あ、れ、とぎこちなく、油の切れた操り人形のように、言葉が強張って行く。のたのた、眠そうに瞬きを繰り返して。

 少女は首を傾げて、わたしはだぁれ、とシークに問いかけた。言葉魔術師は柔らかな声で応える。キミはボクのお人形さん。だから、なにも考えず、思い出さずに、どうか。眠っていて。おやすみなさい、と囁かれると、少女は甘く淡くくすぐったそうに笑って、ことり、と意識を手放した。懺悔の滲む眼差しで、シークが少女の頬を撫でる。

 リトリアはただ、それを見ていた。この世界でたったひとり、同じ適性を持つのだという。予知魔術師。ソキのことを。

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