あなたが赤い糸:110



 とこ、とこ、とこ、とウィッシュは歩いていく。『花婿』が室内を制圧してのけるまで、瞬き一つで事足りた。ウィッシュの魔術師としての属性は風。まつろわぬ大気の流れ。それを思うままに操れるのが風属性の魔術師だ。黒魔術師は特に、その意思を鋭く形に表せる。風を刃のようにしてなにかを断つことは簡単で、そうしたい、と思うだけで十分だった。

 誰かの動きを止めたい時には押さえつければいい、ということをウィッシュは知っていたので。邪魔だと見做した者も大切な存在もなにもかも、無差別に、ただ押えつけた。歩くことは未だに難しかったが、風を下から吹かせてすこし体を浮かび上がらせるようにすれば、楽に足を踏み出せた。室内には呻き声が満ちている。そのひとつにも、ウィッシュは注意を払わなかった。

 夢を見ているようで。夢ではないことは分かっていた。まどろんで誤魔化していた感情が目を覚ませば、呼吸のたび、深まって行くのは悲しみと憎悪だった。だって、シフィアはしあわせになれると言ったので。それをずっと信じていたので。あの悪夢のような日々が夢ではなくほんとうのことだと分かったので。けれどもそれを、しあわせじゃないよ、と誰もが言ったので。

 嘘をついた人たちを、誰も許すことなどできなかった。とこ、とこ、歩いて、ウィッシュは床に腹ばいに、あるいは仰向けになったまま息も苦しげにして動けない者の顔を、ひとりひとり覗き込んだ。世話役、輿持ち、『運営』に、衣装係だろうか。室内に集まっていたのは見覚えのある者ばかりだった。当主に、その側近。ラーヴェもいた。父のように、懐かしいひとだった。

 見覚えの薄い青年は『傍付き』だろうか。体の下に誰かを庇っていた。ひょい、と覗き込む。彼の腕に抱かれた『花嫁』は声も出せずに怯えきり、幼子の傍にはなぜか、妖精たちがいた。妖精たちは口々に『花嫁』に、立って、動いて、逃げるの、というようなことを言っていたが、ウィッシュは柔らかな微笑みさえ浮かべて肩を震わせた。

 妖精が傍にいるのだから、この『花嫁』は魔術師なのだろう。怯え切った翠の瞳がウィッシュを見て、甘やかな声がふわふわと漂う。

「ろ……ロゼアちゃ……。苦しそ、です……。み、みんな……どうし、ど……だ……だ、れ……?」

『ソキさん、駄目です。いけない……! 逃げましょう。あなたは動ける。いま、この部屋で正常に動けるのはあなただけです。逃げて! さあ!』

『ソキ、ソキ。いい子だから、言うことを聞いて。お願い。お願い……!』

 妖精たちが、『花嫁』の服を握って引っ張っている。呼吸さえおぼつかなくさせる大気の圧迫を、妖精が言うように、『花嫁』は受けていないようだった。不思議に思って目を凝らせば、幼子には魔力による守護が見えた。ひとつは拙く、今にも消えそうな、光と熱の魔力。もうひとつは強固な盾。檻のようにも見える、幼子を完全に包み込んで守る鉄壁の魔力。

 すい、と視線を動かして、ウィッシュは魔術師に目をやった。城の部屋まで迎えに来た魔術師が、顔面を蒼白にして歯を食いしばりながら、立ち上がった所だった。

「まったく……やってくれるよね。随分、思い切りのいい、ことを……!」

「……俺は、あなたにも動いて欲しいと思ってないんだけど」

「魔術を操るに長けた先達を、そう簡単にどうにかできると思わないで欲しいものだね……。さあ、落ち着いてこちらに来るんだ。風の魔術師。君は、今、してはいけないことをしている。……分かるね?」

 まるで、今なら許してあげられる、とでも言うような囁きだった。瞬きをして、ウィッシュは花のように微笑む。

「嫌だ」

「……ウィッシュ」

「嫌だよ。どうして? どうして? だってこのひとたち、皆、俺がしあわせになれるって言ったんだよ? 大丈夫って言ったんだよ? 嘘つき。嘘つき、嘘つき! だって寂しかった! だってつめたかった! 悲しかった! ずっとずっと迎えに来てくれると思ってたのに、誰も来てくれなかった! 嘘つき! ……う……嘘、じゃ、なかったら……あれが、しあわせ、なの? あれが? あれが、あんなのが、あんなのが! あんな、あんな風にされるために、その為に、俺を育てて嫁がせたのっ?」

 意思のない風が、足元から逆巻き立ちのぼって行く。魔術師が舌打ちをした。暴走しかけてる、という言葉の意味が分からずに、ウィッシュは目に拳を押し当てた。

「嘘つき……嫌い……みんな、みんな嫌い……。しあわせ、に、なんて、思ってなかったんだ……嘘つき……嘘つき……!」

「……ちがう。ウィッシュ、ちがうの……」

 痛かったんだね、と声がした。顔を向けると、床に倒れ込んだまま、シフィアが泣いていた。『傍付き』は断ち切られた腕を隠すようにしながら、残った手を『花婿』に伸ばして微笑む。

「痛かったんだね……。辛かったんだね。ごめんね……ごめんね、ウィッシュ」

 その声を、言葉を。どんなに聞きたかっただろう。あの日々、あの眠りから醒めて泣くばかりの夜に。どれ程その声を聞きたかっただろう。いまは、もう、どんなものもいらない。それでも、すこし触れたい気がして。歩みより、ウィッシュはシフィアの手に触れた。ウィッシュ、と名を呼ばれる。片手を繋いだまま、微笑み。魔術師は女の首に、そっと指先を押し当てた。

「ずっと……」

「……ウィッシュ?」

 思い出の中で凍結した幸福。そのものである人が、眩しげに目を細めて名前を呼ぶ。目を閉じて、それを焼き付けて。『花婿』は心から、『傍付き』に向かって囁いた。

「ずっと、シフィアの『花婿』でいたかったよ……」

「……わたしも、ずっと」

 あなたの『傍付き』で、ありたかった、と。告げるシフィアに微笑んで、ウィッシュは指先に力を込めた。

「――嘘つき」

 風はただ、刃のように。『魔術師』の望むまま、それを寸断した。ごとん、と音がした。頭が体から離れて床に転がるのを無感動に眺め、血濡れた指先に口づける。もうなにも聞きたくない。なにも欲しくない。欲しかったものは全部、過去の記憶の中にある。それでいい。だから、もう、いらない。全部全部消えて、なくなってしまえ。

 するする、風が動いていく。滑らかに。鋼の糸が首に食らいつくかのように。

「……ふふ」

 ごと、ごと、ごとん、と音がしていく。そのひとつも、もう見ることはなく。ウィッシュは目を閉じて、シフィアの体を腕いっぱいに抱きしめていた。これでもう、なにも言わない。これでもう、どこにも行かない。これでもう、昔のまま、あの記憶を、永遠にしていける。大好きよ、と記憶の中で『傍付き』が笑う。うん、と甘えて、おさなく、『花婿』は微笑んだ。

「うん。あのね、シフィア。俺もね、俺も、ずっと……ずっと」

 血溜まりと屍のただ中で『花婿』はうつくしく笑う。最後に、とん、と響く足音を聞いて『花婿』は目を開いた。そのくちびるが、誰の名を呼んだのかを。なんと、言ったのかを。抱き寄せて、『傍付き』の剣で貫いた、ジェイドだけが知っている。




 十二月初旬。魔術師による、大量殺人事件。心神喪失状態であった犯人をその場で処分。当主を失った『お屋敷』は壊滅状態に陥り、国庫そのものを喪失したに等しい砂漠の、存続が危ぶまれる。

 生存者三名。共に、魔術師。名を、ジェイド、シーク、ソキ。


 記録には、ただそれだけ、書き残されている。





 地図を描き変えることになるそうです、と告げられた言葉を飲み込むまで時間がかかったのは、掲げられた灯篭の火が眩しいからだった。顔の前に腕をあげる仕草に気が付いたのだろう。すみません、と声がして、すっと灯りが遠ざけられる。大丈夫ですか、と案じられるのに頷くまでの沈黙は、居心地の悪いものではなかった。

 瞬きをする。四隅まで塗りつぶすような暗闇の中、埃っぽい空気を、シークは吸い込んだ。

「……地図を?」

「描き変える準備に入った、と連絡が来ました。もちろん、今すぐではなくて……二年、三年は先のことになるでしょうが」

「二年でも三年でも……時間がいくらかかろうが、もうそんなことに意味はないね……」

 肺の奥まで息を吸い込んで。ゆっくりと吐き出すまでの時間は、また沈黙で埋められる。そこからも、互いに言葉はないままだった。砂漠から『学園』預かりの身になったシークと、王たちの意思を伝える伝令として動く青年は頻繁に顔を合わせているが、それだけの間柄だった。シークは青年の名を知らない。魔術師のひとり。分かっているのはそれくらいの、単純な事実ばかりだった。

 地図が描き変えられる。つまり、とうとう、砂漠の国というそのものが、無くなる日が来たということだ。二年先であろうが、三年先であろうが、無くなるということが覆される奇跡が起きないのだから、もう同じことだった。無くなるのだ、あの国は。あれ程までに、祈り、絶望に胸を食い荒らされようとも、先へ、先へ、繋いで渡して行こうとした、あの国は。

 終わりはあっけなかった。恐らくは誰もが、そう思っていることだろう。『お屋敷』という主要産業、国庫そのものを喪失した砂漠には、余力がなかった。『お屋敷』が、そもそも復興途中であった最中の悲劇だ。他に外貨を稼ぐ手段はなく、あったとしても早急ではなく、また国の隅々にまで届けられるほど、膨大なものになる筈もなかった。

 あの日。失われたのは、部屋に集っていた者たちばかりではなかった。ウィッシュの魔術はお屋敷全域を襲い、脆い者の命も強靭である者の命も等しく、無差別に奪って行った。純度の高い魔力をたっぷりと乗せた、大気そのものの圧迫である。身体の自由、呼吸すらおぼつかなくなる上で、ただ人には毒でしかない魔力が叩きつけられたのだ。部屋に集められていた者の殆どは、首を落とされる前に絶命していたのだと聞く。

「……砂漠の魔術師たちは? どういうことになりそう?」

「白雪、楽音、花舞、星降に移籍、という形で落ち着きそうです。花舞の王宮魔術師の方々が、それはもう張り切ってくじ引きを作っている最中です。それはもう張り切って」

 二回も言うということは、恐らく花舞では祭りに近しいなにかが開催されている筈である。その光景をすぐに思い浮かべる。いつもの通りであることが嬉しかった。いつもの通りにしてくれているのだとしても。それじゃあ『学園』には来ないんだね、と呟くシークに、青年は静かな声で、はい、と言う。

「シークにも、ジェイドにも……酷だろうと」

「……ジェイドはどうか分からないけど、ボクはいいんだよ? 別に。そんなに気を使ってくださらなくても、とお伝えしておいてくれるかな? ……それに、責められても、いいんだよ。あの日の、あの時の、彼の守護……保護責任者はボクだったんだから」

 もっと寄ってたかって怒られてもいいくらいだ、と苦笑するシークに、青年はお伝えはしますが、と丁寧な口調、恭しい態度を崩さずに、沈痛な面持ちで首を横に振った。

「シーク。貴方のせいではありません。……ジェイドのせい、とも、言い難いものがありますが」

「でも皆半分くらいは思ってるよね。ジェイドのせい……ではないにせよ、責任はあるだろうと。親だし、それに」

 彼はかなり正確な所まで、あの惨事発生を予想していたことだし、と。遠い目をしてげっそりとした声で告げるシークに、青年も同じような声で、ええ、と言った。

「まあ、言えなかったのは……相談、できなかったことについては……一定の理解もできますが……。告げられたとて、理解をして対策を講じられたかと言われれば、難しかっただろうとは誰もが思いますが……思うんですけれども……」

「そうだよねぇ……。まさかねぇ、ウィッシュくんが現状を理解したら恨みつらみのあまり殺戮に奔る可能性が非常に高いから、そうなる前に主要な人物全員殺させてください、親として責任を取って自分でやりますから、とか言われても……言われてもねぇ……。ジェイド大丈夫? 頭痛いの? 悲しいことあった? あと責任て言葉の意味知ってる? ってなるよね絶対……」

 はいそうですその通りです、と言って青年はため息をついた。シークの改めて額に手を押し当てて首を振り、そのことに関しての考えを、いったんは打ち切る。考えても、考えても、あの日から。その前からも、ずっと。なにが正しかったのかを考えている。どうすればよかったのかと思ってしまう。息をするのを辞めたいくらいに。

「……そのジェイドだけど、調子どう? 元気にしてる?」

 同じ『学園』預かりとはいえ、比較的自由なシークと違い、ジェイドは独房暮らしである。本人は淡々と、シークに言わせればしれっと、居住環境を整えて毎日まったりと暮らしているので、特別そう心配している訳ではないのだが。問えば青年は顔をゆがめ、落ち着いては見えますが、と告げて首を振った。

「だめですね……。心神喪失から脱しているとは、とても」

「……ボクが会いに行くと普通にしてるけど」

「開口一番に処刑の日付決まった? って言って来るのを普通って言うの辞めて頂いていいですか……」

 えづいているような声で懇願してくる青年に、シークはもう持ちネタだと思って受け流しなよ、と苦笑する。意識がハッキリ戻ってきて、反射的な自傷行為に走らなくなったのだから、あれは回復したと見るべきである。ただ、もう、元には戻らないだけで。

「……まあ、早く諦めてあげなね。お互いの為に。……それで、今日は地図のお知らせだけ?」

「いえ。……そろそろ、またお目覚めになる頃合だと、白魔術師たちが」

「だよね。そろそろだと思ってた。……諦めなよ、って言った口で悪いけど。ごめんね、こっちは、諦めきれなくて」

 ふふ、と笑って立ち上がったシークに、青年はながく、言葉に迷い。やがてくちびるを噛んで視線を落とし、いいえ、とだけ言った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る