あなたが赤い糸:109


 抱き留められた腕の中で、息を止めてしまいたいとウィッシュは思った。こんな幸せはもうない。この先に、そんなものはない。そう思った。目を閉じて体を押し付ければ、耳元で懐かしい声が穏やかに笑う。ウィッシュ、と名を呼んで。くすくす、と笑うような声で魔術の詠唱がいくつか零れ落ちる。ふ、と体から力が抜ける。眠ってしまいそうになりながら、ウィッシュはとろとろと瞬きをした。

 よいしょ、と満ち足りた声がして。抱き上げられる。花びらが風に掬い上げられるように。あまりにもあっけなく、簡単に、その腕の中に取り戻される。『魔術師』は『花婿』の『傍付き』から向けられる獰猛な視線を完全に無視しながら、満ち足りた息をやんわりと吐きだした。

「ああ、重い……。大きくなったね、ウィッシュ。……いいこ、いいこ」

「……ぱぱ?」

「うん? うん。そうだよ、そうだよ……。俺のことがよく分かったね、偉いね……」

 分かる。胸がいっぱいで、喉が軋んで、声にもならない意思を揺らめかせて。ウィッシュは眠らせるように頭を肩に抱き寄せ、うっとりと背を撫でてくる感覚に酔いながら、響かせることを叶えられないまま、幾度もその言葉を繰り返した。分かる、分かるよ。いつだって求めていた。いつだって、会いたかった。いつだって。目が合った瞬間に、そう、と確信した。疑いもしなかった。

 だからこそ。くちびるを尖らせ、詰る響きでウィッシュは呟く。

「じゃあ、やっぱり……あれも、パパだったんだ」

「……どれ?」

「新入生の。パーティーの日。……目が、合った。合ったよね……?」

 ああ、とため息交じりに肯定する男の手が、ぽん、ぽん、と背を撫でてくる。吐息に馴染ませるように、心音と重ねるように。とろとろと落ちて行く瞼を拗ねた怒りで叱咤しながら、ウィッシュは無視した、と頬を膨らませる。いつか、いつでも、そうしてくれていたように。擦れて消えてしまいそうな記憶そのままに。困った微笑で、する、とジェイドの指の背が頬を撫でて行く。

 かわいい、いとしい、と。ちっとも困っていない穏やかな目が、告げている。

「ごめんね。……眠いね、ウィッシュ。眠って、起きたら、話をしようね。そのことも」

「……もういなくならない? 一緒にいる?」

「ああ、約束しようか。ずっと、ずっと、一緒にいる。……一緒にいるよ、だから」

 おやすみ、お眠り、可愛い子。この世界でたったひとり、ウィッシュにそう囁くことのできる声が、耳に言葉を吹き込んでいく。耳を手で塞がれるように。目を覆われるように。世界そのものが遠くなるような気持ちで、ウィッシュはうとうとと、『傍付き』の誘導のままに目を閉じた。息を、深く、眠りへと受け渡そうとする。いいこだね、と囁きに笑みが零れ落ちて。

 眠る、寸前のことだった。

「――離しなさいよっ!」

 切り裂く。なにもかもを。塞がれ覆われ隠されて、守られていた安堵、ゆらゆらとした揺り籠の世界を。裏返り引きつった、怒りに狂った声が、確かに聞き覚えのある、けれども記憶のなにもかもと一致しない、その声が。己の。『花婿』の。『傍付き』の声が、叩きつけられていく。

「ウィッシュを離しなさい……! 今すぐっ、いま! すぐにっ……! なんなのっ? なんでっ、どんな権利があって……っ! わたしの、わたしの『花婿』を……!」

 その、名前が。思い出せない。編み上げられ、染み込んだ魔術がそうと気がつかれないようにウィッシュの邪魔をする。傍らでは呆れた息が吐き出される。君、なにをしてるのか分かっているの。ウィッシュを城の一室まで迎えに来た魔術師の声が、『傍付き』に、父たる人に向けられて響いていく。分かってるよ。そつのない声でジェイドが囁く。悪いこと。

 これはとびきりの悪いこと、と告げながら、ジェイドはその腕に『花婿』を抱き上げたままでいる。ウィッシュはその腕の中で、眠り切ることが出来ずに、まどろんだままでいる。なにか、大切なことを、ひとつ。ひとつ。いくつか。忘れているような気がした。耳を塞がれ、目隠しをされているように。胸をかきむしられるように、息をする。

 この声は誰のものだっただろう。

「……リディオさま、説明をお任せしても? こちらの用事は済みましたし、王の追っ手がかかる前に城に帰りたいもので」

「ジェイド……さすがに、それは……。ウィッシュを置いて行って欲しい」

「一緒にいると約束したもので。お許しください」

 靴音、ひとつなく。頬にあたる風の動きで、ジェイドが身を翻したことを知る。ここから離れるつもりなのだろう。呼び止めるいくつもの声も、慌てた魔術師の言葉も、ジェイドはなにひとつ聞く気はないようだった。女の叫び声、宥めながらも敵意をぶつける男の声。ウィッシュ、と縋るように女が呼ぶ。泣き声だった。そんな声を聞いたことがない。そんな声は。一度も。いいや。

 一度、だけ。

「……ふぃ、あ?」

 その響きを耳にしたことがある。一度だけ。たった一度だけ。うとうとしながら目を開くウィッシュの視界を遮るように、ジェイドが瞼を手で覆ってやんわりと囁く。おやすみ、ウィッシュ。いいんだよ。なにも気にしなくていい。なにも考えなくていい。疲れただろう、大丈夫。大丈夫だから、このままお眠り。どうか、どうかと願い囁くようなその声に、頷いてしまいたいのに。

 指先を冷やす焦燥が、記憶を蘇らせていく。その声は誰のもの。その響きをいつ耳にして。覚えがあると『花婿』の本能が囁く。どうしてか思い出せないと思う。けれどもくちびるは、その名の動きを、まだ忘れないでいた。

「シ、フィ、ア……? ……フィア。シフィア、どうして……」

 涙が滲んで震える声には聞き覚えがある。それはこの『お屋敷』を旅立つ日に。別れの日に。最後に交わしたその言葉を。今もまだ覚えている。しあわせになれるよ、と彼女は言った。しあわせになれるよ、ウィッシュ。しあわせに。祈る、ように。祝福を送るように。言祝ぎのように。頬に触れ、幾度も撫で、目を覗き込んで微笑んで。告げられた言葉を、響きを、今もまだ覚えている。

 しあわせになれるよ、ウィッシュ。わたしの『花婿』。

「どうして……」

 嫌だったのに。ずっと一緒にいたかったのに。でもその先にしあわせがあると告げられたから。ここではないよ、とシフィアが告げたから。そうしなければいけなかったから。しあわせになってみせる、と思って。そのことを、誇りのようにも感じて。誰よりしあわせになれる筈だった。そのことをずっと信じていた。しあわせは、もっとずっと、温かくて楽しいものだと。

「どうして……」

 辿りついたその場所はつめたかった。さびしかった。泣いても、呼んでも、誰も来てくれない。扉の向こうにひとの気配を感じるのに。手が痛くなるまで、血が出てしまうまで、骨が痛くなるまで扉を叩いて呼んで叫んでも、声ひとつ帰ってこない。泣き疲れて眠る。目を覚ますと手当てがされている。空腹を満たす以上の食事も菓子も、いつの間にか机の上に置かれている。それだけ。

 飲み込む水はいつも薬の味がした。こういう味がしたらね、飲んだらいけないよ、と教わっていたのに。それを決して忘れた訳ではなかったのに。喉の渇きに耐えかねて、いつもいつも、それを飲み込んだ。うつくしく着飾られ、誰も知る者のない夜会に連れ出され寝台やソファの上で動くこともできず横たわりながら、観賞なのだ、と理解する。宝石や、絵画と、一緒。

 しあわせになれるよ、と囁く声を覚えていた。つめたくて、さびしい日々の中で、それだけをずっと覚えていた。縋りつくように何度も、何度も思い出を辿った。何度も、何度も夢を見た。しあわせな昔の日々を。あるいは、夢想を。迎えに来てくれる夢を。これは間違いだったと囁いて、つらかったね、と抱きしめられるたび夢から醒める。繰り返して、繰り返して、摩耗して行く。

 迎えは来ない、と理解したのはいつだっただろう。夢は夢でしかなく、ここに送り出されたのだと。ここで、しあわせになれるよ、と『傍付き』は告げたのだ。さびしくて、かなしくて、つめたくて。気持ちが悪くて。たったひとりで。でも、しあわせになれると、『傍付き』が言ったのだ。だから迎えが来ない。だから迎えに来てはくれない。だから、だから。だから、どうしても。

 しあわせじゃないよ、と、言うことができなかった。

「ねえ、シフィア。どうして……」

 でも。ある日やってきた妖精が、ウィッシュに。ひどいことをされたら怒ってもいいんだ、と告げたので。それは、なら、やっぱりひどいことで。しあわせである筈がなかったのだ。

「……いい。ウィッシュ、ウィッシュ……考えないでいい。いいんだ……!」

「かえして! 離してっ、離しなさいよアルサール! 馬鹿っ! ウィッシュ、ウィッシュ!」

 しあわせなんてなかった。ひとつも。それを認めてもいいんだよ、と誰もが言う。ひどいことだったね、つらかったね、かなしかったね、くるしかったね。ウィッシュが感じていた気持ちに、間違いはなかったのだと誰もが言う。妖精も、教員も、魔術師の卵たちも。皆、みんな、ウィッシュに言う。これからは、もう我慢しなくていい。嫌なことをされたら怒っていい。許さなくていい。

 だって、しあわせなんかじゃなかったんだから。

「……シフィア」

「ウィッシュ……!」

 呼んで。ゆっくり、瞼を開く。『傍付き』がそこにいた。ふふ、とウィッシュは笑って、ジェイドの胸を両手で押した。柔らかなその求めに、ジェイドは苦しげな顔をしてウィッシュを立たせる。ウィッシュはふらつきながらもシフィアに向き合い、両腕を伸ばして微笑んで。

「……ねえ?」

 一分の狂いなく、魔術を発動させて。

「どうして、しあわせになれるなんて言ったの? ……嘘つき」

 己に触れようとしていたシフィアの、手首を切り落とした。

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