あなたが赤い糸:108


 葬儀のような押し殺された静寂と、祝祭のような華やかな騒めきと興奮が、奇妙に入り混じって渦を巻いている。『お屋敷』の空気は奇妙だった。廊下を行き交う人々は常の様子ではなく、誰も彼も足元がおぼつかない様子で、酒に酔ったようにも、疲れ切って意識がハッキリしないようにも見えた。笑顔の者も、表情を失う者も、潜めた声でなにかを囁き合っていた。真偽を問う言葉だった。噂であり中傷であり、祝福であり笑い声だった。

 ソキはまあるく見開いた目で、ロゼアの腕の中から興味深そうにあちらこちらを眺めては、甘えた声で『傍付き』を呼んだ。あのひとはだぁれ、なにをしてるの、どこにいくの、だれがくるの。好奇心いっぱいの幼い『花嫁』の声に、向けられる反応も、また様々だった。足を止めてロゼアを非難がましく見る者もあれば、ほっとしたように微笑み、ソキに一礼する者もある。

 共通したのは、声をかける者がない、ということだろうか。ソキが疑問に思わぬ程度の密やかさで、『花嫁』に近寄らないよう、ロゼアとメグミカ、世話役たちが、視線や仕草で周囲にそれを訴えていた。あっち、あっち、次はあっちへ行く、とソキが廊下の方を指さして強請る。ロゼアは笑って、いいよ、と言った。駄目な時は向こうにしようと告げるので、問題のない方角であるらしかった。

 ただ散歩をするように、ゆったりと、ロゼアはソキを抱いて『お屋敷』を歩いていく。混沌とした空気をかき混ぜるように。隅々まで、様子を、その目で確かめるように。声がかけられたのは、とある休憩室を覗き込み、小皿に盛られたマシュマロを発見したソキが、きゃぁああきゃぁあああロゼアちゃんソキましゅまろーましゅっ、ま、ましゅまろーを食べるですううううっ、と大興奮して騒いでいる、その最中のことだった。

 優しく笑う、優しい、穏やかな、甘く低い声だった。

「ソキさま、ロゼアを困らせない」

「ぱっ、ぱぱですうううう! ぱぱっ、ぱぱぁああああうゃんや! やにゃ! やんやー! ソキ、いま、ちゃんと、ラーヴェっていたもん! いったもん! 言ったですうぅうううぅ!」

 ソキの頬をもにもにと押しつぶして反省を促し、ラーヴェと呼ばれた男は深く息を吐き出した。その名を、妖精たちは幾度も聞いていた。どんな風に生きて来たのかを、知っている気がした。語られる時の中で何度も出会っていた。だからこそ、始めて会う気がしないまま、妖精たちは男のことをまじまじと見つめる。

 幾度かソキとラーヴェを見比べて、鉱石妖精は首を傾げた。

『彼女は御当主の娘である筈では……?』

『やめてお願い言わないで。知らないでいましょう。ええと、ええと……偶然すごくとてもよく似ているわね!』

 特に笑った顔と、瞳の色がそっくりである。隠された事実なら隠しておきましょう誰もが知る時までわたしも特に知りたくないの、と首を振る花妖精に、鉱石妖精は面白そうに羽根を震わせて笑った。ソキはきょとりと妖精を見上げて首を傾げたが、なにを言うでもなく意識を手元に戻し、ロゼアの腕の中から、ラーヴェにだっこを強請っている。

 さりげなく、さりげなくソキが伸ばす腕を妨害しながら、悪意はない笑みで、ロゼアがラーヴェに目礼する。

「お久しぶりです、ラーヴェさん。外部勤務に転属したと聞いていましたが……今日は、お戻りに?」

「……いや、用事をいくつか頼まれてね。出張みたいなものだよ。転属はしていない」

「うややゃや! だっこ、だっこっ……だっこ、だっこぉ……! だ、だっこ……だっこ……」

 泣き出す寸前まで目を潤ませて手をちたぱたと動かすソキに、ラーヴェは柔らかな笑みでロゼアの名を呼んだ。

「すこしだけ。すぐに終わりにするから」

「……どうぞ」

 気持ちは十分に分かるよ、すまないね、と苦笑して。ラーヴェはぐずぐず鼻をすするソキに甘く笑みを深め、ロゼアの腕からひょい、と抱き上げた。縋りついてくる体を、やんわりと抱き留めて。ふふ、と満ち足りた笑みが零される。

「ああ、重たい。……大きくなりましたね、ソキさま。健やかにお育ちだ」

「ラーヴぇ、ラーヴェはどこに行ってたの? そき、さびしかったです。会いたかったですぅ」

 頬をぴとんとくっつけてうりうりこすり付けながら訴えるソキに、ラーヴェは光が零れて行くような笑顔で、静かないくつかの言葉だけを落とした。乾いた土をゆっくりと宥めて行くような、雨にも似た声だった。

「ロゼアの言うことをよく聞いていましたか? ……そう。そうですか、いい子ですね」

「ぱぱ、あ、あぅ、にゃ、ラーヴェ、ソキね、ソキね、おはなし、たくさん、たくさん、あるです……。たくさん、あるです!」

「ふふ。……そうだね、おはなし、しようね。また後で」

 ええぇ、と声をあげるソキをぎゅっと抱き寄せ、ラーヴェはきゃらきゃら笑い声をあげる『花嫁』を掲げて、くるくると回った。ぽすん、と落とすようにもう一度抱きしめてから、額を重ねて甘く微笑み、いい子だね、と囁く。ふにゃ、と笑み崩れるソキをそっと撫で、ラーヴェはロゼアの腕に『花嫁』を受け渡した。

 嬉しくてふにゃふにゃになっているソキを抱いて、ロゼアはほっと息を吐く。二人を穏やかな笑みで見守りながら、ラーヴェは声を潜めて問いかけた。

「……ロゼア。この後、夕方には訪ねられると思う。聞きたいことがいくつかあるが……時間は取れそう?」

「はい。もちろんです。こちらからも、相談と……報告が、いくつか」

「あのね? らヴぇ? ソキね、まじちしさんになったの。それでね、今日はね、ごとーしゅさまの、お客様を見に行くの。ラーヴェは、これから、なんの御用なの? ソキと一緒にお散歩をして、お客様を見に行く?」

 それはそれとして夕方には訪ねるが、聞きたかったことの大部分は分かった、という苦笑をして、ラーヴェはわくわくした目をしたソキに、見には行きませんよ、と囁いた。

「私は御迎えの為に戻りました。……ロゼア。どなたが戻られるかを、話しては?」

「……ラーヴェさん。この件で、『お屋敷』はほぼ完全な分裂状態に陥りました。とても、話せる状態、では」

「ああ……。ああ、そうだろうね。……御当主さまにも、困ったものだ」

 ふ、と息を吐くラーヴェの声は、困ったと告げる程には、そう思っていないようだった。幼子の悪戯を、あまく窘める好意にすら満ちている。沈黙して目を伏せるロゼアにくっつきながら、ソキは不満げにぷーっと頬を膨らませた。もしかしてぇ、と機嫌を損ねた声が、ふよふよと淡く漂っていく。

「ラーヴェったら、ラーヴェったらぁ……ごとうしゅさま派、なんですぅ?」

「……そのような派閥が?」

 えっ、と困惑も露わなロゼアの腕の中で、ソキはこの上なく自慢げに言った。これはぁ、秘密なんですけどぉ。

「ソキ、ちゃんと知ってるです。あのね、ごとーしゅさま派、とね。おにーさま派とね、えっと、んっと……しふぃあさん派? 勢力? なんです。みっつあるの。それでね、全部仲が悪いの。皆ね、ぷぷぷなの。それでね、いまね、喧嘩しているの。これは『花嫁』ねっとわぁくの情報だからね、確かなことなの」

 ソキ、ないしょできるっ。ロゼアちゃんに、秘密だって、ちゃぁんとできたんだからっ、と主張するのは、先日城で御当主に言われた言葉があってのせいだろう。妖精たちは遠い目で、穏やかな笑みを浮かべて頷き合った。ソキには、秘密や内緒は一度口に出したらもう駄目、という観点が圧倒的に足りない。

 落ち込むロゼアの肩に、ラーヴェが励ましの手を置いた。

「ロゼア……。ロゼア、宝石の方々が、一部、極めて敏いのは、昔からのことだからね。落ち込むのではないよ」

「……はい……ありがとうございます、ラーヴェさん」

「それにしても……そうか、そんなことに」

 どうしたものだろう、とラーヴェは呟いた。そわそわと落ち着きなくあたりを見回すソキに苦笑して、かつて最優の『花嫁』の『傍付き』と呼ばれた男は、困惑するロゼアに落ち着いた声で言い放った。

「仕方がない、ロゼア。ついてきなさい。……ソキさま、静かに、いい子でいられますね?」

「うん! ソキね、いい子。いい子なんですよぉ?」

「……ラーヴェさん?」

 しゅっぱーつですよ、ロゼアちゃん、と腕の中から指示をするソキに微笑み、ラーヴェは身を翻して歩き出した。慌てて後を追うロゼアと、ついてくるソキの世話役たちを振り返ることなく、ラーヴェは妖精たちをも引き連れて『お屋敷』の廊下を歩んでいく。君たちの怒りと困惑、悲しみは最もなことだ、と手を伸ばしてじゃれついてくるソキをあやしながら、ラーヴェはロゼアたちに言った。

「それでも……あの方がどれだけ苦しみ、今へ繋いだかを私たちは知っている。私たちの世代は、それを、知っていながら『お屋敷』の存続の為、目を逸らして祈り続けた。……あの方がどんな願いで、彼らを欺いたのか。……ああ、だが、そうだね。許されることではないよ。決して許されない。許していいことではないさ。だが……それでも、ロゼア」

 己の目ではきと見なさい、とラーヴェは言った。困惑し、止めようとする者たちを穏やかな仕草で下がらせながら、ロゼアとソキを広々とした特別面会室の前まで導いて。扉に手をあて、押し開いた。

「彼の方は、幼い頃から妖精の見える魔術師だった。それを……私も、御当主さまも、知っていたのだよ」

「……お前には、ほとほと、呆れてはいるが」

 ロゼアたちを出迎えたのはいくつもの視線だった。当主から向けられる苛立ちの視線、シフィアをはじめとした、ウィッシュの世話役たち十数名の信じられないと告げる眼差し。部屋はしんと静まり返っていた。扉越しにも震える程響いていた、怒りや罵倒の声はひとつもなくなっていた。その、恐ろしい静寂の中、リディオはゆるりと腕を組んで問いかける。

「俺は、ロゼアとソキを同行させて良いと言ったか? ……その機密を今この場で漏らす意味はなんだ?」

「お久しぶりです、御当主さま……リディオさま。この件における処罰は、のち、いくらでもお受けいたしましょう。……せめて、知られて御迎えなさい。あなたは、彼に、夢を託したのだと。……そこが地獄だと知りながら、その先の希望を知って突き落としたのだと。許されなくとも、理解されなくとも……ジェイドも、未だそれを知らないのでしょう?」

「言ってない。……言う、必要もないだろう。こうなることは分かっていた」

 許されることでもない。そう素っ気なく言い放ち、リディオは入室を許可する、とロゼアを手招いた。失礼します、と言葉短くロゼアは応じ、半ば怯えたように身を寄せてくるソキを抱きなおす。ソキを、見て。リディオはすこしだけ柔らかく、笑ったように見えた。息を吹き返すように誰かが声を上げかけるのを制して、リディオはロゼアたちが入室してきた内部と繋がる扉とは別の、外から人を招き入れる為の扉へ、合図した。

 控えていた側近の女が、リディオに対して恭しく一礼する。そして、お待たせ致しました、と告げて扉を開いた。

「……ウィッシュ!」

 シフィアの。『傍付き』の悲鳴じみた叫びに、言葉魔術師に連れられてふらりと歩む『花婿』が、のろのろとした仕草で顔をあげる。青年は柘榴色の瞳でゆっくりと室内を見回し、幾度か瞬きをして立ち止まった。こて、とあどけない仕草で首が傾げられる。くちびるが開く。声を。誰かを、『花婿』は呼ぼうとして。

 直前に、つむじ風より鋭く室内に飛び込んできたひかりに、ぱっと目を見開いた。

「……あれ?」

 呟いたのはソキだった。ソキと『花婿』だけが、おなじものを見ていた。それを魔術師だけが視認できる。妖精のひかり。ソキがあわあわと花妖精と鉱石妖精を見あげ、あれ、あれ、と困惑の声をあげる。その様に、リディオとラーヴェが顔色を変えた。まさか、と戸口を見た瞬間に、ようやく足音がそこへ辿りつく。そのひとを、振り返るより、はやく。

 ひかりに手を伸ばし、『花婿』が母を呼ぶ。

「ママ……?」

 ぱっ、と『花婿』は振り返る。息急き切って駆けてきたジェイドに、夢から醒めた眼差しで、ふらつく足を踏み出して叫ぶ。

「――パパ!」

 ジェイドは、泣き出しそうな顔をして。ウィッシュの腕を引き寄せ、うん、と言ってその体を抱きしめた。

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