あなたが赤い糸:107


 鉱石妖精は、『お屋敷』に来るなりロゼアの頭へ飛び乗った。もぞもぞと収まりのいい場所を探して動いたのち、額のあたりに足を投げ出して羽根をゆらりと動かしている。あなたなにをしているのと問えば、座り心地がいいですね、すこし揺れますが問題にはなりません、と真面目な顔で批評されたので、花妖精はもう放置しておくことにした。一緒に来たと思えばこれである。なにを考えているのか分からなかった。

 ロゼアは妖精たちの訪れを察知した様子もなく、室内をくるくると動き回っている。珍しくソキを抱き上げていない。探せばソキはふかふかのソファに腹ばいになって、真剣な顔でスケッチブックに向かい合っている。しきりにぱちくり瞬きをし、んん、と声を零しながらも手を止めないでいた。よほど集中しているのだろう。妖精がその目線の高さまで降りても、意識が向く気配は見られなかった。

 なにをしているのか、問わずとも分かった。描かれていたのは魔術師の水器だった。ソキがその胸の中に持つもの。案内妖精が訪れてからずっと書き続けているそれは、今ようやく、完成しようとしていた。うんうんと唸ってくちびるを尖らせていたソキの、手の動きが止まる。腹ばいからんしょんしょと起き上がったソキは、スケッチブックをじっと見つめ、やがて重々しくもあどけない動きで、こっくりと力強く頷いた。

「でぇーきたぁー! ですー! あっ妖精ちゃん。いらっしゃいませです」

『……これが、あなたの水器? わたしの魔術師さん』

「そうなんです。すごーいでしょう? ロゼアちゃんろぜあちゃ……おいそがしそうです……」

 しおしおと元気をなくして行くソキを、慌てて歩み寄ったロゼアがひょいと抱き上げる。抱き寄せて宥めながら、どうしたのごめんな大丈夫忙しくないよ、ソキそきどうしたの、と甘く囁かれて、『花嫁』はゆるゆると頬を緩めて行く。あのねぇ、と、とびきりの甘え声でソキはスケッチブックを差し出した。終わったんだな、とロゼアは目を和ませて微笑む。

 すごいな、偉いな、きれいに描けたな、頑張ったな、可愛いな、と囁かれて、ソキはそうでしょうふふふんっとにこにこしながら、ロゼアの腕の中でふんぞりかえった。あのね、あのね、と耳元に口を寄せてこしょこしょと囁かれるのに、ロゼアはくすぐったそうにしながらも、幸せそうに笑って頷いている。見ればしれっとした顔をして、鉱石妖精はロゼアの隣に浮いていた。

『……ねえ、今日はあなた、なにしに来たの? ヴェルタと一緒に居ればよかったじゃない……?』

『彼のことは、別に。観察と考察のしがいはありますが、仲良く一緒にいる間柄でもありませんし……それに、今日はそのうち、こちらまで来るのでは?』

『そうだけど……。ソキ、ねえ、ソキ? あなた、今日は来客の予定があるの?』

 すっかりご機嫌でソファに下ろされたソキに、妖精は言葉を選んで問いかけた。『学園』から『お屋敷』を訪れる魔術師の存在を、名を、己との関係を、ソキがどこまで把握しているのかが分からなかったからだ。ソキはまた忙しく室内を動き回り、世話役やメグミカと口々に言葉を交わしては指示を飛ばし、打ち合わせを進めるロゼアをぽややんとした眼差しで見つめ、妖精の言葉にのたくたとした仕草で首を傾げてみせた。

「来客の予定? あるの?」

『あのね……わたしが……聞いたのよ……?』

「うぅん。ソキ、分からないです。……あのね、妖精ちゃん。今日はね、『お屋敷』ね、忙しいの。御当主さまのお仕事でね、それでね、お迎え? なの。来客なの? ソキのお客様、なの? ソキ、聞いてないですぅー。しらなーぁーいーですぅー」

 仲間外れにされている気がするですううううう、とぶすくれて拗ねた声に、メグミカがはっとした顔をしてロゼアの腕を引く。ロゼアはしまった、という顔をして改めて室内を見回し、花妖精を注視したかのように、すっと目を細めて口を開く。

「ソキ。妖精さんがいらっしゃるの? いつから?」

「ちょっと前……。絵の終わった時に、いらっしゃいませをしたです……ソキは仲間外れなんです? いけないですぅ……」

「違うよ。そういうんじゃないよ。……お客様がいらっしゃるって? 妖精さんが言ったの?」

 頬をぷーっと膨らませて、ソキはしっかりと頷いた。そう、とロゼアの静かな声が室内に響き渡る。ちたちた、ぱたた、と脚を振って不満そうにするソキに、歩み寄った『傍付き』が跪いて告げる。

「御当主様のお客様だよ。仲間外れじゃないよ、ソキ」

「……ソキのお客様じゃない?」

「違うよ。違うってちゃんと言っておけばよかったな。びっくりしたな。ごめんな」

 無言で『花嫁』が両腕を持ち上げる。ん、と喉の奥で笑って、『傍付き』は『花嫁』を抱き上げた。ぎゅむぅーっと抱き着いたソキが、不満いっぱいの顔で、ぽん、と顎をロゼアの肩にくっつけた。

「じゃあなんでロゼアちゃんお忙しいです? ソキのぉー、お客様じゃぁー、な・い・で・す・の・にぃー」

「……ちょっと特別なんだよ、ソキ。特別なんだ……その方を、お迎えするのにね、たくさんの人が準備してるんだよ」

 ソキは、ふぅん、と言ってロゼアにぺとりと頬をくっつけた。納得したのかは分からないが、妖精が見た所、ソキはロゼアが構ってくれないことを最重要視して感情をこじらせているので、このままにしておけばどうとでもなるだろう。案の定、すぐ、くすぐったそうな声でふふっ、と笑い声を零し始めるソキに、ロゼアが肩から力を抜いて、ほっと脱力するのが見えた。

 室内で成り行きを見守っていた世話役たちも、緩んだ笑みで視線を交わし合う。なんとも言えない表情で寄って来た鉱石妖精と同じ気持ちで、花妖精はそっとソキから離れて浮かび上がった。ロゼアは嘘をついていない、と直感的に思う。しかし、真実でもないだろう。そのような準備を、当日に至るまで、こんな風に慌ただしくする不手際を犯す者たちとは思えなかったからだ。

 なにか事故か、予期せぬ騒ぎでも起こっているに違いない。ソキの元には届いていないだけで。考える花妖精の見つめる先、ご機嫌になったソキが、にこにことソファに滑り落されながら告げる。

「ロゼアちゃん!」

「ん? なぁに?」

「あのね、あのね、その、特別のお客様をね、ソキ見てみたいです!」

 ぴしっ、と室内の空気が凍り付いたのを妖精たちは感じ取る。え、とひび割れた、ぎこちない声で呟くロゼアに、ソキはすっかりその気で目をきらめかせ、ふんふんと興奮した様子で鼻を鳴らしている。この説得は難航する。確信する妖精たちの視線の先で、ロゼアは無言で胃のあたりに手を押し当てていた。珍しい仕草だった。




 両手足に重りをつけられたが如き眠りから、痛みがジェイドの意識を覚醒させた。呼吸と、鼓動と、同じ感覚で頭の芯が鈍く痛む。喉が詰まって息が苦しい。咳を何度も繰り返し、込みあげてくる吐き気を堪えながら、ジェイドは寝台に手をついて体を起こした。やぁあああんっ、と泣くように明滅したシュニーが、ジェイドの頬に激突するようにくっついてくる。

 ぐずっ、くすん、としゃくりあげるに似た震えですり寄ってくるシュニーを指先で撫でながら、ジェイドは室内に視線を巡らせ、戸口に見知らぬ香炉が置かれているのを確認した。風か、燃料が尽きたのか、黒い煤を残した香炉からは嫌な匂いがする。ジェイドは思い切り舌打ちをして、寝台から起き上がった。毒ではなく、眠り薬の類だろう。使われた理由は明白だった。

 よろけながら窓に歩み寄り、新鮮な空気を室内に招き入れる。はっ、と喘ぐように息をして、ジェイドは笑った。恐らく一日眠らせておくつもりだったのだろう。目覚めてなお痺れたように四肢は重たく、頭は痛みを発していて、すぐにでも意識が途切れそうだった。『傍付き』は毒の耐性訓練をも義務付けられている。今は遠い過去の経験が、かろうじてジェイドを救っていた。

 目が覚めたのも、そのおかげだろう。加えて、シュニーの加護もあったに違いない。ぽろぽろと涙を零すように震えて心配するシュニーを、ジェイドは手で包み込むようにして顔を寄せ、目を閉じた。息を吸う。

「大丈夫……。大丈夫だから。シュニー、シュニー……」

 愛しているよ、と囁く。何度でも、その言葉を心から告げられる。その想い一つで走って行ける。真珠のように淡く、うつくしい煌めきでシュニーは応えた。愛してる。ずっと、一緒。うん、と囁いてジェイドは目を開いた。四肢の重たさも、頭の痛みも、澱みが押し流されたように楽になっていた。ジェイドは窓辺から扉を振り返って見た。人の気配はないままだった。

 見張りはいないのだろう。元より、幾重にも魔術のかけられた廊下を進み、いくつもの鍵を開かなければ辿りつけない場所が、この部屋である。魔術的な封鎖は強く、例え妖精であろうとも、その力を万全には振るうことが出来ない。残念だな、とジェイドは目を伏せて呟いた。その信頼を、なにもかもを、踏みにじって行かなければいけないことが苦しかった。

 それでも、行かなければ。その時が来てしまった。間に合わなければ全てが無駄になる。ぐっと口唇に力を込めて、ジェイドは扉へ歩み寄った。鍵のかかっていない扉を手で押すが、抵抗があって全く動かない。試しに蹴っても同じことだった。派手な音と衝撃は扉に吸収されて、どこへも行けず消えてしまうだけだ。やりたくなかったんだけどなぁ、とジェイドは呟いた。

 仕方がない。諦めた囁きと共に疾走したジェイドは、窓枠に手を乗せて跳躍した。目に見えぬ魔力の檻がその体をからめとろうとするが、勢いの方が強い。縄が引きちぎられていくような不快な感覚と音が、体に直接響いていく。絡め留める見えない手を振り払い、ジェイドは檻の残滓を地に叩きつけるように着地した。手足を振って衝撃を逃がし、すぐに走り出す。

 脱走はもう知れているだろう。その為の魔力、その為の檻だった。悲鳴をあげて混乱するであろう同僚たちに胸中で謝りながら、あらかじめ調べておいた道筋を辿り、ジェイドは『お屋敷』を目指して走って行く。シュニーはジェイドを導くように、すいすいと魔術師の先を飛んだ。なにをするか知っていて、どんな意味があるか知っていて。全てを、シュニーは許して受け入れている。

 先に、ジェイドが、そうするしか。残されていないことを、知っている。あの日、あの夜に。凍り付いた『花婿』の瞳を覗き込んだ日から。シュニーはその復讐を肯定し、それが成されないことを祈っている。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る