あなたが赤い糸:90



 ラーヴェと一緒にソファに腰かけたミードは、リディオがなにを言うより早く、まずみぃがじぇいどくんとおはなしするんだからっ、と言い放った。直前まで泣いていたのがありありと分かる、そう告げる今でさえずびずび鼻をすする半泣き声である。新王が物珍しそうに『花嫁』を見守る中、『傍付き』は息を吐き、その背を抱き寄せてとんとん、と叩く。

 ずびいいいいっ、と差し出された布で鼻をかんで、多少気を持ち直したのだろう。目を鼻をあかくしながら、ミードはラーヴェの膝上でもちゃもちゃと方向転換をし、気合の十二分に入った面持ちでジェイドのことを見た。

「じぇ、じぇいどくっ……じぇいどくん!」

「はい。……はい、あの、ミードさま……?」

「じぇいどくん、だいすきよ! ほんとなの。あのね、すきなの。とーっても、すっごく、すきなの。だいじなの! わかった? わかったぁ……っ?」

 ラーヴェが、なにか不慮の事故でジェイドの肋骨が折れたりしないかな、と思っていることは長年の付き合いでよく分かった。ふわんふわんと甘やかに響く声で心から主張されて、ジェイドは口元を引きつらせそうになるのを全力で堪え、せいいっぱい自然な微笑みでありがとうございます、と受け答えをした。ラーヴェと、決して視線を合わせないよう注意しながら。

 それは『花嫁』の、心からの言葉だった。己の『花嫁』でなくとも、差し出されるこころが理解できない『傍付き』など、いないだろう。本当に伝えたいと思って、まっすぐに告げられた、『花嫁』からの告白だった。新王の視線が珍しいものを観察する色を帯びて、『花嫁』と側近を往復する。なんだろうこれ、と真剣に面白がっている顔をしていた。

 しかし、当たり前のように、ミードからの説明は一切ない。リディオは妻の言動に対して若干達観したような顔で終わるのを待っていて、特に説明や補足を入れてくれる気配は感じ取れなかった。当主がその態度であり、『花嫁』が説明をしないのであれば、『傍付き』があえて口を開く理由もない。

 もういいよね、と囁き問うラーヴェの目が、おもしろくない、と語っている。恋情ではないと分かった上で、それでも。最愛の宝石が誰かにすきすき告げているのを見て、それを受け入れるような寛容さは、どんな『傍付き』であろうと持ち合わせてはいないのだ。

 ミードはうぅんと眉を寄せてくてん、と首を傾げ、疑り深い目でじいぃっとジェイドを見つめてくる。

「ジェイドくん? ……だいすき。分かった?」

「はい。……ミードさま。ラーヴェのことは?」

「らーヴぇ?」

 きょとん、とした顔で、ぱちくり瞬きをして。一児の母とは決して思えない、あいらしく、いとけないまま完成した『花嫁』は、にこにこと笑う『傍付き』に自信たっぷりに言い放った。

「らーヴぇは、みぃの、すきすきすきすきだぁあーいすきー!」

 声の、ふわふわした甘さが桁外れである。ありがとうございますこれでラーヴェの不機嫌がマシになる『傍付き』っていうのはそのあたりちょろい生き物ですからねっ、と内心胸を撫でおろすジェイドに、新王が明らかに面白がる目で、そっと問いかけてくる。

「……どっちと夫婦なんでしたっけ?」

「リディオさまが御当主さま、ミードさまはその奥方さまです」

 ただし部屋に戻ってきてから今に至るまで、ミードはラーヴェの腕の中に納まりきったまま、どこへ座りなおされる気配もないのだが。それでも普通なら、王の御前である。ラーヴェもミードを一人で座らせるくらいのことはするのだが、その腕は『花嫁』を抱いたまま開く素振りを見せないままだ。側近の女も、リディオも、それをよしとしている。

 『傍付き』が、そうせねばならない、という判断を下したのだろうか。なにかが、いつもとは異なっている。もういいな、と確かめるリディオに、こくんと無言で頷くミードの顔がやや強張っていた。よし、と気合を入れて、すぅ、と深く息を吸い込んで。リディオがジェイドを見る。

 新王は『花嫁』『花婿』の愛らしい姿で時間を潰しているように、黙って静かにふたりを見つめ。見守っていた。

「さっきも、言ったけど……陛下にも、お伝えした通り、ですが」

「私のことは、気にしないでいい。申し訳ないね、家族会議に邪魔をして」

「いえ……なら、お言葉に、甘えて……。……だからな、ジェイド。その、さっきも言った、けど……」

 苦しそうに、眉を寄せて。何度も、何度も、浅く息を吸い込んで、吐き出して。視線を伏せて、ジェイドを見て。逸らして、それを幾度も繰り返して。ようやく、絞り出すように、リディオはもう一度その言葉を告げた。

「一週間で、ふたり、枯れた。もうひとり、今日にも、そうなるだろう……『花嫁』『花婿』は例外なく体調を崩してる」

「なにが、あったんですか?」

「……ジェイドが一番よく知ってるだろ?」

 ふ、と。笑顔しか作れないような笑い方で。すこし、相手を責めるように。憐れむように目を細めて、リディオは王の背に立つジェイドを見た。その、僅かばかりの距離を。手を伸ばしても届かない、親しくあっても近しくはない、その距離を。侵しがたい断絶だとでも、言うように。

「ジェイド」

 大好きだ、と告げたその声で。

「魔術師はなにをしたんだ?」

 『お屋敷』の当主は、拭えぬ怒りを宿した瞳で、魔術師をまっすぐに見据えた。

「……前王陛下に、魔術師は、なにをしたんだ?」

 魂を引き裂くような泣き声が、今も耳の奥にこびりついている。国中に放たれたその魔術が、人々の記憶と心に偽りの言葉を刻み込んだ。ちがうのに、と父を呼び血を吐きながら叫んだ娘の怒りが、首を絞めるように息を苦しくしていく。その言葉が感情を湧き上がらせていく。怒りにも似た判断。魔術師筆頭と補佐が、王陛下を殺害した者であるのだと。

 吐き気を堪えるように。口元を手で押さえたジェイドに、リディオはそっと目を細めて囁いた。

「……怖いんだ、ジェイド」

 訴えるように。

「よく分からない気持ちが、心の中にずっとあって、誰かに対してずっと怒っていて……誰かのことが、ずっと、ずっと、怖いんだ……。だって、その、誰か、が……魔術師が、前王陛下を、殺した、って……。理由も分からないのに、そう思うんだ……怖い。怖い、怖い。ジェイド。魔術師が、怖い……そう、言って、ずっとそう、言って……!」

 まだ『傍付き』さえ持たない『花嫁』の候補がひとり、『花婿』の候補がひとり。恐怖に狂って枯れたのだという。なにかが怖い。誰かに向ける怒りを、ずっと収めることができないでいて。誰かが。誰か、魔術師が、魔術師のことが、怖い。その恐怖は『花嫁』『花婿』が飲み干した毒だ。言葉を話せぬ赤子は延々と泣き叫び、『花嫁』『花婿』は『傍付き』の傍を片時も離れず震え続けた。

 『お屋敷』と魔術師の関わりは、浅く、広く、あるいは深い。そこにジェイドが居たからだ。魔術師であると、誰もが知っていたからだ。その心に書き込まれた憎悪の種に、悲鳴をあげたのはミードだった。魔術師、と思えば浮かぶのはジェイドであるから。ジェイドくん、と悲鳴をあげて、否定して、嘘、違う、なんで、嫌、と叫んで。怖い、と身を縮めて震えて泣いた。

 魔術師が、怖い。ジェイドくんが、怖い。『お屋敷』の知る魔術師は、ジェイドそのひとであるからこそ。魔術が植え付けた言葉は、感情と共に口に出されるに従って、まっすぐにジェイドの形を成した。だから、こそ、と。当主は震えながら顔をあげ、蒼褪めるジェイドを見て、息を吸い込んで告げる。

「……『お屋敷』に、戻らないで……欲しい。ジェイド、違う。ごめん。会いたいって、顔を見たいって、声を聞いて、話したいって、思うのに……!」

 怖いんだ、とリディオは言った。好きだよ、大事だ、家族だって思う。でも、怖い。そんな風に思いたくなんてないのに、どうしてそういう風に思うのかも分からないのに。魔術師という存在が、怖くて怖くて、仕方がない。

「それは、魔術だって……王陛下が仰った。そう、なんだろう……?」

「……はい」

「なら……それが、終わるまでで、いい。『お屋敷』が落ち着くまで……怖い気持ちが、なくなるまでで、いいから……」

 戻らないで欲しい、と告げられて。ジェイドは言葉を返せなかった。あの日から数日で、風に煽られた火のように。国の端々に広がった魔術は、魔力を介さないただの言葉によって嵐と化した。その嵐が収まったあとに残るものが、記憶だ。その言葉を発した記憶。その感情が心にあった、記憶。恐怖を感じたという記憶が残るのは、魔術によってでは、ない。

 その恐怖が例え、魔術によるものであっても。記憶は残り続ける。そしてそれは、消えることがない。

「……ウィッシュは、泣きましたか……?」

 リディオは、一度だけ頷いて。それからゆっくりと、否定の形に首を振った。怖いとは泣いた、だけどでも、すぐに。ぱぱ、ぱぱ、とジェイドを呼んだ。他の者のように、恐怖の正体を作り上げたのでは、なく。

「だっこ、って。泣いた。……助けて欲しかったんだと、思う」

「……そうですか」

「あ、あの、あのっ、ま、まかせて、ね!」

 告げられて、ようやく。ずっと怯えられていたのだと、理解する。視線を向けた先で震えながら、泣きそうなのを我慢して忙しなく瞬きをするミードにも、リディオにも。恐らくはラーヴェや、側近の女にも。怖がって、それでも。ちがうの、好きなの、と胸を張ったミードが、ぷるぷると震えながらも言葉を告げた。

「ウィッシュくん、育てるの、ジェイドくんが帰ってくるまで……!」

 それが、限界だったのだろう。ジェイドを前にして、怖い、という言葉を零すことなく。それだけは、決してすまい、とくちびるをかたく閉ざしたミードが、ぎゅぅっと目を閉じてラーヴェに身を寄せ直す。ちがう、ちがうの、ちがうんだからぁっ、と言葉を、感情を否定したがって、苦しんで、ミードがふるふると首を振っている。

 その葛藤がさらに、『花嫁』の体調を削っていく。リディオも、似た状態ではあるのだろう。焦れたように歯噛みする側近の女が、ずっと緊張しきっているのはその為だった。

「……ジェイド。どこへ」

 ふ、と前触れなく部屋の外へ出ようとするジェイドの背に、新王から咎める声がかかる。それに挑むように振り返って。ジェイドはきつく響く言葉で、御前失礼致します、と告げた。

「これ以上は。お許しください……陛下。陛下、許してください、家族なんです」

 はっ、と息を飲んで。リディオが視線を向ける。追い縋ろうと立ち上がりかけたのに首を振り、ジェイドは柔らかく微笑んだ。

「ウィッシュを……よろしくお願いします」

「……分かってる」

「リディオさま。ミードさま、ラーヴェ」

 さよなら、とは。どうしても言えなかった。

「……行って来ます」

 家族。家族だった。帰る場所だった。シュニーが残してくれた、大切な、暖かな。それを、ずっと、大事にしていたかった。早足に部屋から出ていくその背に、ジェイド、といくつもの声が引き留めたがって名を叫ぶ。いってらっしゃい、とぐしゃぐしゃの、引きつった涙声でミードが言った。待ってるから、とリディオが祈るような声で叫んで告げた。

 は、は、と笑うように息を零して、ジェイドは廊下を駆けて行く。しんと静まり返った、呼吸のしやすい、いつかと比べれば光に溢れた、人の笑顔とざわめきが、どこか遠くに満ちた城の片隅で。ジェイドは立っていることができず、壁に背を預けて座り込んだ。何度か咳き込み、口元を拳で拭う。

 ふんわりと、現れたましろいひかりが、ジェイドの頬に身を寄せてくっついた。それを、抱き寄せるように、指先で触れた。

「……ごめんな、シュニー」

 ふるふる、否定するように、ましろいひかりが揺れ動く。ありがとう、と囁いて目を閉じた。眠りたかった。今すぐに。朝が来て、目を覚まさなければいけないのだと、知っていても。




 姿が見えないジェイドを探して、シークがやってきて、揺り起こされるまで。夢を見ていた。陽だまりの中に座り込みながら。醒める時が来ないことを祈り続ける、夢を見ていた。




 家族がいて、シュニーもいて、笑っている。

 辿りつけなかった幸福な未来の、夢だった。

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