あなたが赤い糸:91



 一本の万年筆だけを持って出たのは、それがシュニーから贈られたものだったからだ。結婚して幾許かした頃。寝静まった夜にそっと灯篭に火を揺らし、終わらない書類に目を通す日が、いくつか続いた後のことだった。ジェイドがそれまで使っていた筆記具を、これはもうだめ、と取り上げたシュニーが、戸惑う手に変わりに握らせたものだった。樫の木で出来ている。

 これで、お仕事の時もわたしのことを忘れないでしょ。ジェイドはうっかりさんの、忘れんぼさんだけど、これならしゅにだって一緒にお仕事をできるでしょ。頬をぷっと膨らませながらも自慢げに告げたシュニーのことを、今も色褪せず思い出すことが出来る。声の響きも。だからこそ、それを手放すことはできなかった。思い出がそこに残っていた。

 後は全て手放した。うつくしい便箋。目を奪うような鮮やかなインク。精緻な模様の描かれた封筒。封蝋、刻印。手紙を出す為の様々なもの。それを揃えたのは言葉を待つシュニーの為で、『お屋敷』で手紙を待つミードとリディオに送る為だった。今はもう、どちらも失われてしまった。手紙を出しても、きっとふたりの元へは届かないだろう。魔術師の言葉など。

 捨ててもいい。できるなら火をつけて燃やすか、もしくは好きなひとに貰って欲しい。そう言って万年筆以外を遠ざけようとしたジェイドに、じゃあ全部ちょうだい、と告げたのはひとりの魔術師だった。会議で筆記役をすることが多い女である。それならば上手に使ってくれるだろう、と譲り渡して、ジェイドは新王に挨拶だけして城を出た。

 一月で戻って来なくても良いようになったので、国の端まで行けるだろう。しばらく戻れないと思います、と戴冠したばかりの主君へ告げた筆頭に、新王は報告書は都度書きなさい食事は日に三回とりなさい睡眠は七時間以上を厳守しなさいとつらつらと保護者のような言葉を小言めいた響きで並べ立て、ごく穏やかな笑みでいってらっしゃい、とジェイドの背を押した。

 戻りたくないのなら、せめて。楽になるようにいきなさい。生きていくことに。呼吸をすることに。辛い、と思わないでいいようにしなさい。もっと休憩させてあげたかったのですが、と新王はジェイドに仕事をさせることに申し訳なさそうな顔をしながらも、走り出そうとすることを止めはしなかった。

 それでも、あなたはもう、わたしの魔術師なのですから、と。付け加えられた言葉が、戻ってくる場所があることを、示していた。帰る場所は失われてしまったけれど。戻る場所なら、まだもうすこし、あるのだと。言い聞かせて、ジェイドは城を後にした。万年筆と、ましろいひかりだけを連れて行く。あとは全て、なにもかも、部屋の中に置き去りにして。

 砂漠の国は息をしていた。ようやく、それを思い出したかのように見えた。薄ぼんやりとした不安が押し流され、行き交う人々は皆、新王への期待と希望をこめて、あれやこれやと噂する。新王の身分は、誰もが知っていた。代行であった時分より隠されていた訳ではない。かつて封殺された王と側女との悲劇を、まだ覚えている者もいた。言葉は面白おかしく、好奇心に満ちて、また時には誠実に囁かれあった。

 とにかく勤勉で民のことを考えてくださる。中央へあげた要望が、まっすぐな矢のように届けられて帰ってくる。隣の都市の流行病に、医師と薬を直々に手配くださったのだという。見掛ける使いの方々、魔術師たちの表情が明るくなった。目を輝かせて、こどものように楽しげに飛び回っている。新王は魔術師を友のように扱われるのだと言う。

 嬉しいだろうよ、と誰かが言った。物ではなくようやく、人として扱われたのであるならば。言葉に、息苦しさがついて回るのはいつものことだった。人々の噂話は暖かくも無責任で、言葉にならない感情で、息をするのが辛くなる。物であることに、どうと感じたことはない。ただ、心ある使われ方としたいと願った。それだけのことだった。

 前王を悪しき様に罵る言葉は殆どなく。処刑された筆頭と補佐へ対する非難も、不思議なくらい耳には触れていかなかった。シークの魔術は、その魔力の影響下を脱しても人の記憶に残るものだ。記憶に刻まれた感情は、生半なことでは消えはしない。それなのに不思議なくらい、訪れる都市、様々な場所で、ジェイドは歓迎を受けた。ただの国の使者のように。

 そのからくりを知ったのは、とある都市で、ジェイドの目の前を見知った妖精が飛びすぎようとしたからだった。ヴェルタ、と呼び止められたジェイドの案内妖精は、愛しい子を目にすると、すこしばつの悪そうな顔をした。そのまま、もそもそとした声で、また今度、と言って飛び去ろうとしたヴェルタを捕まえたのはシュニーである。

 ましろいひかりはジェイドの胸元からぱっと飛び立つと、いつも砂粒の魔力を捕まえている時と同じく、ヴェルタの羽根をはっしと掴んで引っ張った。そのままぐいぐい引っ張ってジェイドの前へやってくると、シュニーはぺっかぺっかと明滅し、ふんぞり返るようにまぁるくなった。ふわふわの毛玉のようにも見える。まるくてふわふわでとてもかわいい。

 ヴェルタは、まだ妖精としての姿を保つことすらできない、幼くやわらかい同胞とジェイドを幾度か交互に見比べて、ほとほと呆れたような、諦めたような顔をして大きく息を吐き出した。見つかっちゃった、と言葉が落とされる。見つかるつもりはなかったんだけど、と続けられた意思によると、妖精たちは魔術師の目を盗み、国中を飛び回る最中であるらしい。

 悪いことはしてないよ、と叱られるこどものような顔をしてヴェルタは言った。くちびるを尖らせてぷいっと顔ごとそむける姿からは説得力が欠けていたが、妖精のまとう淡い祝福のきらめきが、言葉の正しさを証明していた。シュニーは物珍しそうにヴェルタの周囲をふよふよと漂っては、ちかちかぺかかと不思議そうに明滅する。

 シュニーはヴェルタのことがどうにも気になるようで、四枚羽を引っ張ってみたり、腕や顔にふこふことじゃれついてみたりと、ひっきりなしにちょっかいを出した。ヴェルタは慣れた様子で幼い同胞をいなしていたが、あからさまに面白くなさそうな顔をするジェイドに、ふふっと笑いに吹き出した。

 だぁいじょうぶだよ、ちいさいこさん、とヴェルタはシュニーに囁いた。いつかはお前も語る言葉を取り戻し、触れる姿を得ることだろう。ただそれはお前が欠けたものをすべて取り戻した後のこと。人のように、流れる時が成長をもたらすことはないけれど、そのまま、ということもない。羽根は生えるし手足も、体もちゃぁんとできるからね、と囁かれて、ようやく納得したように、シュニーはふわふわとジェイドの元へ戻ってきた。

 満足しきった綿毛のように、まんまるくなって肩の上へ落ち着かれるのにほっと胸を撫で下ろしていると、ヴェルタがそろそろと飛び去ろうとする。悪いことをしていないなら、なにをしているのか教えてから行ってほしい。そう呼び止めたジェイドに、再びばつの悪そうな顔で振り返った妖精は、そこでようやく諦めたのだろう。祝福してる、と視線をそらしたままで教えられた。

 そもそも、妖精は各国の城以外へそう出歩くものではない。欠片の世界の大気が、妖精にとっての毒だからである。すこしばかりであればさしたる影響があるものではないが、長期間ともなれば弱りもするし病にもなる。毒から守る祝福を期間限定で授けられ、案内妖精としての役目は果たせるのだ。

 シュニーがジェイドにくっついていられるのは、魔力の供給を直に受けているからである。空気清浄機を持ち歩いてる状態だと思えばいいよ、という詳しい者たちからの説明には思う所もあったが、実際にはそのとおりなのだろう。新王との接続によって正常に戻り始めた砂漠の国は、それでも妖精にとって生きられない場所であることに変わりない。

 その毒がたとえ、花園で一日休めば問題なく回復してしまえるくらい、弱いものなのだとしても。あえて飲み込み動くだけの理由は、普段であるなら無い筈だった。ジェイドが訝しみ、あるいは咎めるより早く、ヴェルタはだって、と吐き捨てた。このままだと魔術師が排斥されるだろ。でも、お前たちにはなにもできないだろ。それなのに助けも求めてはくれないだろ。

 だったら勝手にやるしかないだろ。それのなにが悪い、さあ言ってみろ、とばかり腕組みをして胸を張る己の案内妖精に、ジェイドは無言で額に手を押し当てた。妖精たちの祝福が成したのは、シークの魔術の緩和、その結果による恐怖心の清浄化だろう。偽りによって書き込まれた恐ろしさに、それを覚えていなくてもいいんだよ、と耳元で優しくささやくような。

 どうして、と問うジェイドに、妖精はいっそ相手を馬鹿にした表情で言い切った。できることが目の前にあるのなら、お前たちだってそれを成すだろう。ちょっと疲れて、大変でも、放置すれば成すすべもなく迫害され排斥されていくと分かっているなら、それを放置するのも忍びない。哀れみだよ、と妖精は言った。砂漠の魔術師、お前たちを哀れんでいる。

 かわいそうに思っている。だから、助けてあげるだけ。分かったら別に感謝とかしなくていい、同情してるだけだから、と腰に手を当てて力説しながらもぷいと顔を背けたヴェルタに、肩の上でシュニーはちかちか明滅した。あまのじゃくさん、いじっぱりさん、いけないさん、とジェイドに言いつける動きに、ヴェルタが耳まで赤く染め上げる。

 ジェイドに、まだ、シュニーの言葉は届かないのだが。ともかくっ、と裏返った声で叫んだヴェルタは、ぎっとましろいひかりを睨み付けた。よけいなことを言うんじゃない、と怒られたシュニーは、しらないもん、とばかりにジェイドの服へ潜り込んでしまった。

 服の中にもぐってぬくぬくするのが、最近のシュニーのお気に入りである。くすぐったいのであまり動かないでいてほしい。しばらく待ってもシュニーが出てこないので諦めたのだろう。ともかくそういうことだから、言いふらしたりしないこと、と告げ、ヴェルタはさっと飛び去ってしまった。

 言いふらすのと書くのは厳密にすれば違う気がするし、と、ジェイドが王への報告書にしたためさせたのは、その日の夜のことである。情報は瞬く間に共有され、ジェイドは行く先々で、顔を赤くした妖精に髪を引っ張られることになった。じぇいどをいじめちゃだめぇえええええっ、とばかり、最近のシュニーはぷうぷうふくれてばかりいる。

 城に、戻ることはなく。砂漠をめぐる旅を続けるジェイドのもとに、それがやってきたのは、出発から半年が経過した頃だった。旅装に身を包み、ジェイドの前に現れたのは前当主の側近の女性。『お屋敷』からの使者だった。


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