あなたが赤い糸:89


 廊下の端。薄く開いた窓から、清涼な風が吹き込んでくる。息がしやすい気がして、ジェイドは肩から力を抜いた。筆頭と補佐を喪った日から、一週間。一度だけ強い雨が砂を荒らしただけで、砂漠の天気は穏やかだった。久しぶりに、喉をうるおす水が美味しいと感じた。そんな風に呟いたのは誰であったのか。

 洗濯物を干すと気持ちよく乾く、と下働きの者たちは笑いながら、大広場に縄を張り、一面に真っ白な布をはためかせた。清潔な石鹸の匂いが風に溶ける。ちいさな幸福を拾い集めるように、誰もがすこし、早足に廊下を行き交った。視界の端を、妖精の光がひらりと通過していく。姿を見せなかったのが嘘だと思うほど、あっけなく、砂漠は妖精の姿を取り戻していた。

 まだ城の外へは行こうと思わないけど、と。新王陛下に祝福を、と訪れた妖精のひとりが、羽根をゆらめかせながら魔術師たちに囁いた。あの愛しい子たちの、優しい子の紡いだ魔術はこの国と、その隣の端まで広がって行った。うつくしく繊細なレース模様のように。編まれ拡げられたその魔術の線が水脈のように、風の通り道のように、新王の祈りを疾風のごとく国の端まで伝えている。

 腐ったものが押し流されるまでは今しばらく。ジェイドの成した『それ』の欠片を回収するまでは、本当には落ち着いてしまわないだろうけれど。すぐに見違えるほどよくなるよ、と妖精たちは口を揃えて囁いた。新しい恵みの王に。魔術師の献身を捧げられた、同胞の祈りと希望によって戴冠した砂漠の王に。

 幸いあれ、祝福あれ、と妖精たちは口々に告げ、花園から出かけてきては、物慣れぬ青年のやり口に、ああでもないこうでもない、ときゃっきゃとはしゃいで品評しあった。姿が見えず、声が聞こえなくとも、なんとなく察するものがあるのだろう。己の魔術師たちに向ける目には助けを求める色があったが、ジェイドをはじめ、誰もがそっと、辛抱強く頷いた。諦めて欲しい。あるがまま、受け入れるしかない。それが妖精との付き合い方だからだ。

 妖精たちには様々な種族あれど、共通して彼らは気まぐれで、思慮深く、身勝手で、情愛に溢れ、薄情でありながら、献身的で、ひどく優しい。馬鹿なことを、と筆頭と補佐に怒りながら、妖精たちは血に穢れた大広場の空を、次々と飛び回った。これからずっと、こんな馬鹿にはなるんじゃないって、迎えに行く魔術師のたまごに言い続けてやる。簡単に忘れられていくだなんて、決して思うな。はらはらと。花が散るように、妖精たちの涙と怒りと、祝福が溢れた。

 結果として、城のどこより清浄な地と化した大広場は、今日は格好の洗濯日和を迎えている。ばたばたと風にあおられる洗濯物をぼーっと眺めた後、ジェイドはため息をついて廊下を歩き出した。城はすっかり活気を取り戻している。魔術師たちも多くは泣き明かした後、強く前を睨みつけるように顔をあげ、国中を飛び回る生活を再開させていた。

 一週間。ぼんやりと、漂うように日々を過ごしているのは、ジェイドとシークだけである。新王は私も滞っていたものを全部終わらせたら何日かは休みます、と言い置いて、その日から次々と仕事をさばき続けている。どうしても王でなければならない物以外は殆どやっていたことであるから、勝手も知ったことであるらしい。ああーっ、問題が解決したーっ、と喜びに咽び泣く声が、城のあちこちから今日も聞こえていた。

 その喜びを、理解はできるのに。手元に引き寄せて、同じように笑ってはあげられない。この一週間ずっと、ジェイドはそんな気持ちで鬱々としている。本当なら部屋に引きこもっていたいのだが、とぼとぼと廊下を歩いているのは、他ならぬ新王から呼び出しがかかったからである。

 『お屋敷』の当主夫婦が挨拶に来るから顔を出すように、というのがその内容だった。




 ちょうど、決めなければいけないことは、終わったばかりであるらしい。いくつかの書類を手に文官と、見覚えのある『お屋敷』の事務方が連れ立って部屋を出て来たのに一礼して、ジェイドはなるべくため息をつかないよう、気を引き締めて室内に体を滑り込ませた。あ、とまっさきに目を向けたのは、気配に敏い『お屋敷』の当主、リディオだった。

 その顔色が、ひどく蒼褪めている。ジェイドは思わず立ち止まり、随行している側近の女を凝視した。リディオの体調が悪いことに、女が気が付いていない筈がない。ジェイドの目から見てさえ動かすのをためらうくらいの状態であるのを、なぜ『お屋敷』の外へ出してしまっているのか。一刻も早く穏やかな場所へ戻さなければ。死を近くに感じ続けた心が、血の気の引く焦燥に鼓動を早くする。

 しかし、ジェイドがなにか言うよりも早く。きゅ、と口唇に力を込めたリディオが、顔をあげてまっすぐに魔術師を見た。

「いい。……なにも、言わないでいい。自分でも、分かってるんだ。無理を、言って……」

「……私が話しておきますから。もうお帰りになられては?」

 眉を寄せながら囁く新王の言葉にも、リディオは頑なに唇に力をこめ、無言で首を左右に振った。幼子のわがままじみた仕草に、溜息がひとつ。苛立ったそれを吐き出したのは側近の女だった。いいから、はやく、座りなさい。そして一刻も早く用件を終わらせて帰らせなさいと言わんばかりの烈火の視線に、ジェイドはささっと足を進め、王の背後に立ちなおした。

 ゆったりとしたソファに身を沈めたまま、新王が苦笑いをして隣の空間を手で叩く。おいでなさい、と声にも出して求められて、ジェイドはなんでですか許してください、と首を横に振った。

「仲良く隣り合って座るような関係でもないでしょう……。というか、あなたの隣に座れる筈がないでしょう……なんですか寂しいんですか王陛下?」

「寂しい、と言ったら座ってくれますか?」

 これはもしかしてうわきのけはいなのではないだろうか、と疑う目でリディオがちらちら見てくるので、からかうのは本当にやめて欲しい。身の潔白を証明するのに両手を肩の高さまであげながら、御存知かとは思いますが、とジェイドは呻くようにして言った。

「あなたの隣に親しく座るには、立場、というものが御座います陛下……。ところでお妃さま決めたんですか?」

 新王は、藪蛇だったか、という顔を隠そうともせず。極めて不思議なことにごく気品あふれる仕草で、思い切り盛大な舌打ちをした。嘆かわしい、とばかり首が横に振られる。

「次の王がもういらっしゃるのに、わたしに世継ぎを求めるとか乱世の元だと思いませんか思いますよねわたしはそう思いますので生涯独身で通します。なにか問題でも?」

「問題がないとどうして思えたんですか……? いいんですよ、陛下。男子でも女子でも年上でも年下でも。ご結婚されてる相手以外で、とりあえず人類であったのなら、それで。支え、というのは必要でしょう。……それともまさか、人に話すのに憚られるような趣味があったり……? なんというかこう、無機物じゃないとダメ、みたいな」

「今思い出しましたが、ジェイド。わたしは不敬罪というものの施行に強い憧れを抱いていました」

 とても心が躍ります、と微笑む新王に、ジェイドはきらびやかな笑顔で冗談を申し上げました、と言い切った。ぷふっ、と堪えきれなかった笑い声が響く。口に両手を押し当てて、我慢しようとして、それでも駄目だったのだろう。リディオは肩の力が抜けた表情でしばらく笑い、はぁ、と息を吸い込んでからジェイドを見た。

「よかった……」

「え……なにがでしょう……? 王陛下の性格が香ばしいことが……?」

「ジェイドが、ジェイドのままで……。よかったなって、思ったんだ。ごめんな。……ごめん、ジェイド。顔が見られて、よかった。元気そうで安心した。声が聞けて、嬉しい。ほんとだ。ほんとだからな。……大好き、だよ」

 会いたかった、と囁く声が、それでも不安定に震えている。不安そうに胸元に押し当てられた手が、服の布を握りしめていた。リディオさま、と訝しげに呼ぶと、返事までに僅かばかり間があった。すぅ、と息を吸い込んで。一度だけ、目を伏せて。

 それからようやくいつものように、すこしはにかんで、リディオはうん、とジェイドに柔らかな笑みを向ける。

「うん。大丈夫。……大丈夫だよ、ジェイド。ごめんな」

「いえ……あの、体調が優れないのでは? というか……ミード様もいらっしゃると聞いたのですが」

 室内にいるのは、新王とジェイド、リディオと側近の女の四人ばかりである。廊下にも隣室にも護衛の姿はあるものの、部屋には立ち入らないままだった。もしや飽きて城内でも散歩しているのだろうかと訝しむジェイドに、新王は困った顔をしてなにかを告げかけ。それを遮るように、リディオがちょっと、と声をあげた。

「ラーヴェが落ち着かせに、出ている……。もうそろそろ、戻ってくると思う」

「……なにか、いえ……なにが、ありましたか?」

 リディオが、ミードが、という個人ではなく。『花嫁』『花婿』に及ぶなにかが、起きていたのだ。あるいは、今も。だからこそ、それを告げに。『お屋敷』の当主は不調をおしてでも新王に面会する必要があり、それを側近の女も認めたからこそ、ここに姿があるのだろう。うん、とリディオは口ごもって視線をさ迷わせた。

 何度も、何度も手を組み替えて、落ち着かない様子ではくはくと口を動かして。何度も、言葉を探して。やがてリディオはそっと、ジェイドを覗き込むようにして囁き告げた。

「……この一週間で、二人枯れた」

「は……え、と。え……?」

「一人も、今日が峠だろうと思う……。助かるかどうかは……」

 分からない、と告げるリディオに、殆ど無意識に。ジェイドは、ウィッシュは、と問いかけていた。許されるなら今すぐにでも『お屋敷』に駆け戻っていきたい、とするジェイドを、『お屋敷』の当主はなぜか嬉しそうに眺めてから。だいじょうぶだよ、と柔らかな声で微笑んだ。

「ウィッシュは、助かった。……熱は出たけど、今は落ち着いてる」

「そう、ですか……よかった……」

 それでも、今すぐ顔を見て抱き上げたい気持ちが勝る。終わったら帰宅していいですか、と新王に問うと、リディオが困ったように眉を寄せた。ジェイド、あの、と声があがるのと。みぃだってだいじょうぶなんだからぁあああっ、と半泣きのずびずびした声が扉の向こうから響いたのは、同時のことで。思わず笑って脱力したジェイドに、リディオは静かな声で告げる。

「話をしよう、ジェイド。その為に来たんだ。……ミードが来たら、話を」

「……はい」

 不安が。リディオの瞳の中にあるその感情が、伝染したようにジェイドにも広がっていく。うまれゆく感情を言葉にする術を持たない。それでもなんとか拾い上げ、声に成そうと苦心している間に、ミードを抱き上げたラーヴェが、ひょいと応接室に現れた。だいじょ、だいじぶ、ああぁううう、と鼻をずびずびすすりながらむずがるミードが、ラーヴェにぎうううっと抱き着いている。

 ミードさま、と呼ぶと金の瞳が向けられた。魔術師の祝福、世界に満ちゆく魔力の色彩。妖精を視認する瞳が、ジェイドをまっすぐに、見て。ミードはぎゅっと目をつぶり、でもでもだってみぃはジェイドくんがだいすきすきなんだからぁあああっ、と絶叫した。は、とその唐突さに声をあげるジェイドに、ラーヴェがふんわりと笑みを深めて首を傾げる。

 それから、いつものように、ジェイドちょっと後で話がある、と続けられなかったので。ジェイドはハッキリと眉を寄せ、なに、とその違和に問いかけた。目の前に、ジェイドには隠されたものがある。うん、と『お屋敷』の当主は言った。はなしをしよう、と柔らかな声で。覚悟を持った者の声で、囁いた。


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