あなたが赤い糸:85


 どれくらい姿を見ていなかったのだろう。主君たるその人のことを。どれくらいの間、声を聴いていなかったのだろう。ともすればその響きを思い出せない程に。どれくらいの想いを持っていたのかすら、咄嗟には分からない程に。興味はなく、関心は薄れ、忠誠は拠り所を変えてしまっていた。ジェイドが、魔術師が、城中の誰もが恐らくはそうだっただろう。

 それでいて失われたと告げられれば、身を貫いたのは言葉にならない程の恐怖だった。それは大きすぎる喪失であったし、なによりそれは、失われることすら思いつかなかいものだった。王とは長らくそういうものに成り下がっていた。永遠ではなく。それでいて、損なわれるとは思われないもの。大切に遠ざけられて、それでおしまい。差し出される手のひとつもなく。

 殺された、と聞いて胸をよぎったのは後悔だろうか。悔恨だろうか。分からないままにジェイドはウィッシュを養育部に預け、手早く準備を整えて『お屋敷』を後にした。なにがあったのか、どうして呼び出されたのか、いつ帰ってくるのか。ミードもリディオも不安がる顔を隠すことなく問いかけたが、シークもジェイドも口を閉ざして、ただ首を横に振った。

 王が損なわれたことを口外してはならない。一刻も早く魔術師は城へ戻れ。それが魔術師たちを取りまとめる筆頭と、補佐、そして代行から下された、唯一にして絶対の命令だった。その情報をいかなる理由、いかなる相手であれ、渡すことは許されていなかった。けれども、それこそ、永遠ではない。永遠にはならない。永遠に、できないことだ。

 すぐに分かります、とジェイドは言った。すぐに、でも、けど、それが本当か嘘かを確かめに行かなければ。蒼褪めて震えながら告げるジェイドとシークを見比べて、『お屋敷』の当主は眉を寄せ、温かな手でふたりの背をそぅっと押した。いっておいて、そしてどうか。帰っておいで。待っているから。はい、とジェイドは頷き、夜明けすら遠い闇の中を、掻き分けるように走り出した。

 『お屋敷』から城へ到達するまでの、短くも永い道を共に駆けながら、シークは言葉短く知ったことを語った。夜更け。代行がハレムを訪れた。王はまだ起きていた。部屋の中で二人はなにかを話していた。代行が一度、部屋の外へ出た。それからまた戻ってきて、言い争うような声と物音がした。王妃さまの悲鳴。叫び声。警備を呼ぶ代行の怒鳴り声。

 部屋に警備が踏み込んだ時には、もう全てが終わった後だったのだという。荒れた部屋の片隅で腹と喉を裂かれた王が倒れ。顔や腕、首に切り傷を負った代行が、短剣を持って茫然と座り込む王妃を抱き寄せていた。王妃は意識のない幼子を抱き寄せていて、動けないでいる警備に、たすけて、と告げたのだという。か細く、うつくしい哀願であったのだという。

 かくして。国王陛下殺害の嫌疑が、代行と王妃のふたりにかけられた。それがたったの一時間前。騒ぎが火のように回るより早く、異変を察知した魔術師筆頭とその補佐が、ハレム一帯を魔術的に封鎖した。魔術師と、それが許した者以外は誰も立ち入れず。それによって情報は物理的に封鎖されている。動ける魔術師が国中へ、同胞を連れ戻しに走っている。

 悪いことに、癒しの術を持つ白魔術師は、連絡の届きにくい僻地に。長距離の移動を一瞬にして可能とする空間魔術師は、馬を一昼夜走らせなければ辿りつかないオアシスに、それぞれ出向いている最中だった。それでも、一瞬も躊躇わず。動ける者は早馬に飛び乗り、彼らを連れ戻しに行った。戻るのは明日の昼か、夜になるか、明後日のことか。

 戻る時には全てが終わっている可能性を知りながら、それでも己の信念によって飛び出して行った者たちのことを、筆頭たちは責めなかったのだという。ただ、深く、息を吐き。目を閉じて。ゆるく苦笑しながら瞼を押し上げ、筆頭はシークに、ジェイドを呼んでくるよう頼んだのだという。理由は知らない、とシークは言った。事情を告げる言葉の、それが最後のものだった。

 駆け戻った城の空気は、拍子抜けするほど平穏だった。張り詰めた緊張など、どこにもなく。ただ眠たげな夜の空気が、朝焼けを待ちわびながら漂っている。普段と違うことといえば、灯篭を手に持ちあちこち駆け回る魔術師の姿が目に付くくらいだが、それも特別おかしいことではない。何日かに一回は目にする光景であるから、不穏を呼び起こすものにはなっていなかった。

 シーク、ジェイド、と慌ただしく行き交いながら、同胞たちは言葉短く告げていく。私はこれから南の端へ、俺はこれから北へ。西のオアシスへ、東の都市へ。白雪へ、楽音へ、『学園』へ。散り散りになっている王宮魔術師たちを、呼び戻しに行って来る。それまで、筆頭を、補佐を、そして代行をよろしく。すぐに戻るからね。必ず、すぐに、戻るから。

 連れ戻して、全員が集まって。それでなにかが助かる訳ではあるまいに、と。口にしたのはシークだった。行かないで、そこにいて。置いて行かないで、と告げられないでいる目をして。伸ばす手を震えながら握って。すがる言葉を、封じ込めて。吐き捨てるよりは弱く、吐息に紛らせるよりは強く、口にしたシークに。誰もが、そうだね、と頷いた。

 それでも、行かなければいけない。その先の希望が潰えてしまった今であっても、今だからこそ。一人では到底、立ってはいられない不安に立ち向かっていく為に。縋りつく誰かを、探しに行くだけなのかも知れない。それでも。立ち止まっていられないの、走っていないと不安なの、その弱さをどうか。許してね、と言って同胞たちは駆け抜けていく。

 手に灯篭を。揺れる火を。暗闇を切り裂く灯り、ひとつだけを手に。走って行く仲間たちの背を見送って、シークは、行こう、とだけ言った。行こう、ジェイド。筆頭たちが呼んでる。そうして、ふらり、と歩き出したシークの姿に、ジェイドはなぜ自分が呼ばれたのかを知った気がした。シークが、どこかへ行ってしまわないように、繋がれたのだ。

 最近は、すこし悪戯っぽく笑うようにもなって。楽しさと、喜びと、安堵と、そして未来に希望をひとかけ、見出したかのような。この不安定な、異邦から落とされた魔術師が。その心が。どこかへ行ってしまわないように。目の届く所に行かせて、目の届く場所へ戻したかったのだ、と。それに、なにか言い知れない予感を覚えながら、ジェイドは黙ってシークの後を追った。

「……シーク」

「なに」

「いや……手でも、繋ごうか」

 はぁ、と思い切り裏返った声を出して、シークが立ち止まる。まるく見開かれた目は、『学園』時代よりずっと感情的で、そのことに、ごく自然に笑みが浮かんだ。シークは言葉にならない様子で、はくはく、幾度か口を動かして。それからなにかを残念がるように、平坦な目をして大きく首を横に振る。

「ジェイド……。君、状況分かってる……? どうしたの大丈夫眠い……?」

「眠くないよ。状況も、分かってる。……ただ、えっと……あのな」

 なぜか、そうしなければいけない気持ちになって。ジェイドは幼子にそうするようにシークの前にしゃがみこみ、訝しむその目を、覗き込むようにして言った。勿忘草の、その瞳に。

「さびしいかと思って」

「ジェイド君ちょっとどうか……してるのは……前からだったか……」

 憐れむような目で見つめられて、いいから行くよ、と先を急かされる。筆頭たちが閉鎖してるとは言え、ずっとできるものじゃないんだから、と告げられる通りに、城の奥深くからは、発動され続ける魔力の気配を感じ取れた。魔力切れを考えずとも、四十八時間が限度として封鎖された場所に。なにが待っているのか、考えると息が苦しくなる。

 こどもじゃないんだから、と手を繋ぐことを再三拒否されて、ジェイドはやれやれと息を吐きながら立ち上がった。どうしてこっちが聞き分けを悪いみたいな態度されなきゃいけないんだ、とぶすくれるシークに、ジェイドはちらりと目を向けて。さびしいくせに、と呟く。瞬間、思い切り足を踏まれた。

「さ……びしくなんて、ないけど……!」

「痛い。……痛い、痛いって言ってるだろ……!」

「皆、帰ってくるって言っただろ! ばーかっ、ばーかっ!」

 悪口の語彙が乏しい、と呟くとさらに体重がかけられる。はいはい寂しくないのな分かった分かったと早口で言うと、シークはふんっと鼻を鳴らして足を退け、忌々しそうに舌打ちまで響かせた。

「寂しがり屋はそっちだろ。あんなことまでしたくせに、人に対してよく言う……」

「……返す言葉もないけど……。だって、シーク、さびしそうな顔してたから。本当にいい? やっぱり手、繋ぐ?」

「……うん。ジェイド、深呼吸して行こうね。疲れてるトコ呼んだもんね、ごめんね」

 だめだこいつ早く終わらせて眠らせないと、という顔をされたので、ジェイドは微笑んでシークの手を握ってやった。は、という虚を突いた声が零れるのに頷いて、さあ行こうか、と歩き出す。え、あ、え、と声を漏らしながらずるずると引っ張られて数歩を歩き。シークは声にならない呻きをあげて、手をぐいぐいと引っ張りながら天を仰いだ。

「意味が……意味が分からない……! なにかなこれ……! ちょ、あぁー! 手繋いで歩くとか、あー! やだー!」

「シークって混乱すると語彙が幼くなるよな」

「……なにか『お屋敷』であったのかと思えば」

 呆れに塗れた声に、ジェイドはシークの手を離さないように力を込めながら、向かおうとしていた方角へ顔を向けた。魔術師筆頭補佐が、苦笑しながら壁に背をつけて、ふたりの姿を見つめている。補佐、と口々に呼びかけるふたりに、男は苦笑しながら立ちなおし、おいで、と言って歩き出す。

「ちょっと大変なことになってるから……シークから事情は聞いた?」

 まさか知らないのでは、と思われたらしい。心配そうに問いかけられるのに頷けば、補佐は苦笑を深めてジェイドを眺め、だったら安心かな、と呟く。ジェイドも、シークも。ふ、と肩の力を抜いて零される言葉に、なにかを感じて問うよりも早く。筆頭補佐たる男は、さあ、とハレムの門の前に立って告げる。

「ここからは、時間との勝負になる。……あと四十六時間。ふたりとも、代行と……筆頭の言うことを、よく聞くこと」

 はい、と頷く二人に、補佐は満足そうに頷いて。ありがとう、と言って、封鎖区域へと足を踏み入れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る