あなたが赤い糸:77



 当日と翌日の記憶は乏しく、なにをしていたのか、どうしても思い出すことができなかった。水分は口にしていたものの、どうも食事は忘れていたらしい。思いつめた顔の世話役に食卓まで引っ張られ、椅子に座らせ給仕までしてもらって初めて、ジェイドは空腹を思い出した。生きることを。これからもしなくてはならない、という当たり前のことを。

 ありがとう、食べるから、と言えば世話役は顔を覆って泣いた。生きてくださるんですか、と絞り出された声に、ジェイドは微笑みながらうん、と言った。だから安心していい。これからは、ちゃんとするよ、と告げれば世話役は何度も声を出さずに頷き、よかった、と掠れた声で囁いた。

 食事を終えると湯に叩き込まれ、着替えまで用意され、逃げられないようにか腕を引かれて当主の元へと連れて行かれる。当主の執務室にぽいとばかり放り込んで、そこで世話役たちの仕事は終わりであったらしい。それでは、と頭を下げて何処へ立ち去られるのを扉が閉まるまでしぶい顔で見送って、ジェイドはため息をついてリディオと向き合った。

 腹が満ちて、体がさっぱりとしていて温かだからなのか。驚くほど落ち着いた、穏やかな気分でいた。リディオは向き合ったジェイドを探るようにしばらく見つめ、うん、とだけ言って机の引き出しを開けた。取り出したのは見覚えのある、城からの印がある書状だった。ジェイドの状態が悪ければ、焼却処分にでもされたに違いなかった。

 ありがとうございます、と受け取るジェイドに、リディオはため息交じりにミードの様子を教えてくれた。泣いて、落ち着いて、赤子たちの世話をして、泣いて、寝て、の繰り返しであるらしい。ラーヴェはミードに付きっ切りで、傍を離れようとはしていない。行くなら顔を出してからにして欲しい、と言われてジェイドは書状に視線を落とした。

 城からの呼び出しに、当主が案にでも許可を出し背を押すのは、シュニーの出産以後はじめてのことだった。行くと思いますか、と呟くジェイドに、リディオは目を伏せてほろ苦く笑う。どちらでもかまわないよ、と当主は言った。ただ、けれど、もう、『お屋敷』は、ジェイドを留め置く理由を失ってしまったから。

 好きにしていいよ。自由に。心の望むままにしてくれて、もういい。ありがとう、と告げるリディオに、ジェイドは一礼してから退室した。ミードの区画に辿り着くまで、誰かに声をかけられることはなかった。さわさわとした話し声と、視線だけがジェイドの姿を追いかけていく。腫物に対する扱いに、ふと昔を思い出した。結局、そこへ戻っていく。

 ミードの部屋は、陽光のきらめきと暖かさ、人の気配とやさしい笑い声に満ちていた。広々とした寝台の上に、ミードと、レロクとウィッシュの姿がある。ふたりの赤子はもちゃもちゃと絡まるようにくっつきあって、子猫同士が毛繕いするのに似た動きで、きゃっきゃと笑い合っている。機嫌は良いらしい。ほっ、と思わず息を吐き出した。

 ジェイドくん、とミードが呼ぶ声は奇妙に落ち着いた響きだった。パパが来てくれたよ、と抱き上げてレロクと離そうとするのを首を振って止めて、ジェイドはただ寝台に歩み寄った。傍らに立つラーヴェにありがとう、と告げてから、ミードに微笑んでその様子を見る。泣き腫らした目をしていた。悲しみのこびりついた、演技ではない笑みがあった。

 さびしいね、とまだ泣きそうに震える声でミードは囁く。言葉を出さず頷いて、ジェイドは我が子に視線を向けた。ウィッシュは、よくよくシュニーそっくりの赤子だった。ま白い髪も、なめらかな肌も、ふくふくとした柔らかそうな頬も。赤い柘榴のような瞳も。シュニーの面影を濃く残している。きっと、そのままに成長するだろう。

 痛みに触れるような気持ちで。溢れる、愛おしさを堪えきれない想いで。ジェイドはウィッシュに手を伸ばし、無垢に見つめてくる視線に微笑みかけた。頬に触れて撫でれば、あまく、とろけるように笑われる。そっくりだ、と思わず呟く。あまいぬくもりに指先が震えた。

 ジェイドくん、とまたミードが呼びかける。あのね、わたしがお世話をします。大丈夫、まかせてね。安心していてね。しゆーちゃんとふたりで、ママだったの。だからね、これからも、ふたりで、ふたりの、ママをするの。だからね、安心していてね。安心して、行ってきてね。帰ってくる時は、ちゃんと、おかえりなさいを言わせてね。

 そっと、背を押す手があった。振り返ればラーヴェが苦笑していて、行くんだろう、と問いかけてくる。ジェイドに今度こそ逃れられぬ呼び出しがかかっていることは、自失している間に、周囲がすっかり知るものとなっていたらしい。行かないといけないかな、と気乗りしない気分でジェイドは呟いた。

 行きたくない訳ではないのだが。まだすこし、この場所で微睡んでいたい気持ちがあった。そこかしこに、シュニーの気配が残っている。思い出に溢れている。もうすこし、この場所で息をしていたい。駄目かな、と眉を下げて呟くジェイドに、ミードがふわふわした声で、じぇいどくんっ、と言った。怒っているような声だった。

 連れて行くって言ったでしょう。ミード、ちゃんと聞いていたもの。だったら、もう行かないといけないでしょう。しゆーちゃんを、ちゃんと、連れて行ってあげなきゃいけないでしょう。言葉に、応じるように。ふわん、と何処から、ましろいひかりが現れる。未だどこか安定しない、弱々しい気配を漂わせながら。しろいひかりが、ふわふわ、揺れる。

 肩の上に引き寄せながら、ジェイドは見えているんですか、と問いかけた。『花嫁』の視線はしっかりと、そのましろい輝きを追いかけていて、今も目はジェイドの左肩を捉えている。ふふんっ、とこの上なく、ちからいっぱい自慢げに、ミードは腰に手をあててふんぞりかえった。

 おともだちだもの、とミードは言った。すごいでしょう、えらいでしょう。ミード、しゆーちゃんのおともだちだものっ、とさらにふんぞる『花嫁』に、しろいひかりはぴかぴか、喜ぶように明滅した。沈黙するジェイドの耳に、特に変調を感じはしないが、とラーヴェがそっと囁いた。真実、見えているようだから、そのことの調査も頼みたい。

 一も二もなくジェイドは頷いた。『魔術師』の目で見ても、ミードに変質の気配は感じ取れない。人の中には時折、妖精の姿を見る者もあるとは聞くが、確認できることはしておくべきだった。落ち着いたら、信頼できる仲間を寄越すよ、と告げるジェイドに、ラーヴェは今度こそ苦笑して、君もちゃんと帰ってくるようにね、と囁いた。

 ここは君の家でもある。戻るべき場所のひとつでもあるのだから。うん、と幼い気持ちでジェイドは頷いた。ウィッシュを腕に抱いてあやしてから、ミードに託して部屋を出る。帰って来ますから、と約束すれば、ミードは明らかにほっとした様子で、いってらっしゃい、と囁いた。しゆーちゃんも、ジェイドくんも、いってらっしゃい。

 いってきます、という風にちかちか瞬いて。淡いひかりは、またすぅっと空気に溶け消え見えなくなってしまった。存在があることは分かるので不安にはならず、ジェイドは足早に『お屋敷』を移動していく。医局に顔を出し、女性と言葉を交わし。控室に寄って己の世話役や、アーシェラたちにも声をかけていく。

 不在の間、どうぞよろしく、と告げれば世話役たちは笑いをこらえた顔で、はじめて言われましたよそんなこと、と囁いた。不在は、いつものことでしょう。どうぞお気になさらず。さあ、行ってらっしゃい、と誰もがそうして背を押すから、ジェイドはとうとう諦めて、その日の午後、砂漠の城へ戻ることにした。

 城は、意外な程に変わりがなかった。見覚えのある者たちとばかりすれ違い、長く不在にしていたとは思えない態度で、代行なら王の執務室におられますよ、と声をかけられる。魔術師の方々も、今日は何人も一緒におられます、と言われることから、方々顔を合わせてジェイドを待ち構えているらしかった。憂鬱の一言である。

 こそばゆい、嬉しいような気持ちも感じながら、ジェイドは気負いのない足取りで執務室の扉を開けた。即座に、いくつもの視線がジェイドに向けられる。部屋にいたのは四人だった。魔術師筆頭と、その補佐。ついに王の代行扱いされている、側近たる青年。そして、不安でいっぱいの、蒼褪めた顔をしたシーク。

 視線が向けられるだけで、誰も言葉を話さなかった。青年は言葉に迷う顔で首を傾げていて、三人の魔術師たちは食い入るように、ジェイドの左肩の上を見つめている。いやん、と恥ずかしがるように、人見知りをするように、現れたましろいひかりがふよふよと肩から移動する。もぞぞぞぞ、と首のあたりから服の中に入られてしまった。

 あんまり見ないであげてくれますか、とジェイドは言った。俺の妻、恥ずかしがり屋で人見知りの気があるもので。笑顔でさらりと告げると筆頭は天を仰いで呻き、補佐は胸を手で押さえてしゃがみこみ、シークが達観しきった表情で、死んだ魚の目をしながら君ってそういうところあるよねほんとどうかと思うよ君のそういうところ、と言い放つ。

 ふ、と青年の笑いが空気を震わせた。事前に魔術師たちから、あれこれと話されていたのだろう。情報は間違いなく共有されている、理解した顔で、青年は落ち着き払ってジェイドを見た。視線が合うと、にっこり笑われる。思わず背を正すジェイドに、青年は走り出す背を送り出した日と同じ響きで、おかえりなさい、と言った。

 大体の事情は聴きましたが、あなたからも弁解くらいは聞きましょう。話してくださいね、と椅子を進められて、ジェイドは苦笑しながらはい、と言った。頷く以外の選択肢は、許されていなかった。とりあえずこれに目を通して、そのあとこちらに署名をお願いします、と差し出された紙束には、分かりやすく、始末書、と書かれている。

 従順にジェイドはそれを受け取った。もぞっ、と首元から顔を出したましろいひかりが、控えめに、申し訳なさそうに、ぺかぺかちかかと明滅する。それに手をやって撫でながら、ジェイドは『魔術師』として、深く潔く、息を吸い込んだ。息をして。生きていかなければ。この先も、共にある為に。

 ジェイドが砂漠の城に戻ったその日。王の顔を見ることは、叶わなかった。



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