あなたが赤い糸:76
作りたての金貨よりやさしいひかりで、室内は満ちていた。呼吸をするたび、ほのかに甘いと思うのは、腕の中に残ったシュニーの香りとぬくもりがあるからだった。『花嫁』の髪と肌に染み込んだ、ふわふわとした花のにおい。今日の朝もジェイドが用意して、シュニーの好みを選んで手入れしたにおいだった。
残ったのはそれだけだった。あとは、なにもかも消えてしまった。髪のひと房、身に着けた服すらも許されず、漂う魔力に溶け消えてしまった。想いを辿るよすがはなにもない。もうすこしで消えてしまうであろう香りと体温と、そして記憶が全てだった。シュニー、とジェイドはぽつりと呟く。響く声がもう、ない。記憶の中からしか響かない。
部屋には喪失を悟ったミードの泣き声が響いている。ラーヴェが固く抱き寄せて慰めても、その声は激しくなるばかりだった。異変を知った世話役たちは戸口に駆けつけていたが、誰一人として室内に踏み込もうとはしなかった。そこが境界であるように、茫然と立ちすくんでいる。口元に手を押し当て、あるいは震えながら瞬きと呼吸だけをして。
問う声は向けられなかった。それだけが、ジェイドの救いだった。なにがあったのか、など聞かれれば、笑いだしていたかも知れない。告げるべき言葉を見失って。選ぶべき意識を間違えて。じわじわと冷えていく、失われていくぬくもりと香りを感じながら、ジェイドはただ、息をしていた。呼吸と、瞬き。繰り返すのはそれが全てだった。
とうとう『花嫁』を喪った『傍付き』が胸の中で泣き叫んでいる。とうとう望みを叶えきった『魔術師』が、うすく微笑みさえ浮かべて目を閉じている。祈るように。なにを、とジェイドは思った。なにを考えるのが正解なのだろう。どんな感情を選ぶのが正しいのだろう。どういう風な表情で、言葉で。今は、誰であればいいのだろう。
と、と、と物慣れない足音が響く。ふっとジェイドが視線をあげた時には、寝台の傍にはリディオが立っていた。当主は蒼褪めた顔で、硬い表情で、幾度かそうしていたのであろう仕草で、もう一度だけ室内をくまなく見回した。シュニーの存在を探すように。シュニーの不在を確かめるように。視線は殊更ゆっくりと、室内のどこへも触れて行った。
ああ、と声にもならない吐息が吐き出された。納得と、失望と、押しつぶされた悲しみがそこにはあった。『花嫁』の喪失を、当主は悼んではならない。同じように悲しまなければならない。特別に嘆くことは許されない。平等であらねばならない、という意識が、ミードに許された嘆きを、リディオに与えはしなかった。
絶望的なまでの義務感に、その感情は擦り切れかけている。リディオさま、とそれでも名を呼んだジェイドに、当主は穏やかに微笑んだ。いつもの通りに。
「……シュニーは」
それでも、押し出された声は裏返って掠れていた。それを恥じるように握りしめられた手を、そのつめたさを、温める者を持たないまま。リディオは何度も、何度も深呼吸を繰り返して、首を振って、くるしさもかなしみも心の奥底へ沈め切って、まっすぐな目で顔をあげた。
「お前の『花嫁』は幸福に咲いた。誇っていい」
「……はい」
「葬儀の手配と、準備はこちらに任せてくれていい。日時が決まったら連絡する。墓標の希望はあるか? 色や形や……材質。なければ、当主として、シュニーにふさわしいものを……シュニーに、一番、ぴったりなものを、選ぶと約束する。どうする? ジェイド」
ジェイド、と。最後に。最後の一呼吸で囁かれたシュニーの声が、今もまだ耳の奥に残っている。己の声でそれをかき消したくはなかった。首を横に振ると、リディオは予想していた微笑みで、そっか、と呟いた。ぽん、と肩を手が叩いて行く。ぽん、ぽん、とジェイドの繰り返す呼吸の速さで。手が触れ、撫で、慰め、離れていく。
「また明日にでも……数日後でも、間に合うから。また、何度か、聞きに来るな」
返事はなく。項垂れたままでいるジェイドに、気を悪くした様子はなく。かなしく慣れた仕草で世話役と、泣くミードに視線をやり、当主は疲れた様子で息を吐き出した。
「泣き止まないなら、部屋に連れて戻れ、ラーヴェ。その状態で、ジェイドの傍にいるんじゃない」
「御当主さま、ですが」
「ジェイドと……シュニーの傍にいたい、お前たちの気持ちは分かっているよ。でも、もうすこし、後にしてやれと言っているんだ」
分かるな、と当主は仕草だけは愛らしく、こてりと首を傾げてラーヴェに言葉を突き付けた。
「静かにさせてやれ。……ああ、もう、ミード」
ばか、と頭の痛そうな声でリディオは呟いた。けほこほと、喉を傷める程に声をあげてなお、落ち着く様子を見せずに激しくなるばかりの泣き声に呆れたようでもあり。それくらい全身で悲しめることを、羨むような声でもあった。すっとジェイドの傍から離れ、当主は嘆く『花嫁』へ歩み寄った。いやいや、とむずがる顔を、覗き込みながら囁く。
「そんなに泣いたら、シュニーが心配するだろ。……それに、今ミードが体調崩したら、誰がレロクとウィッシュの面倒みるんだ? ……シュニーの分、まで。するって、決めたんだろ」
息を、たどたどしく、殺しても沈めても溢れてくるかなしみで途切れさせて。だから、そんなに泣いたらいけないだろ、と不器用に慰める当主に、ミードは口を両手で押さえて忙しなく頷いた。瞬きで涙を振り払う『花嫁』の顔には決意がある。それでも滾々と湧いてくる押さえきれない悲しみが、やわらかく響く嗚咽と涙を途切れさせはしなかった。
ラーヴェが立ち上がる気配がする。さわさわと柔らかく空気を揺らすだけの響きで、ラーヴェと当主がなにか言葉を交わすのを感じても、それを音の連なりとしてしか受け止めることができない。意味のある言葉を意識に触れさせるには、ジェイドは疲れ切っていた。どういう意識でそれに向き合えばいいのか、まだ分からないままだった。
当主が、『傍付き』が、世話役たちがいるのだから、『お屋敷』の中に身を置くのにふさわしい者であるべきなのだろうか。しかし『傍付き』としてのジェイドは、ミードのように泣き叫ぶばかりで、呼吸を止めたがるばかりで、胸が感情で塞がってしまうばかりで、他者に応対するというそれだけのことが、今はどうしてもできそうにない。
『魔術師』なら、まだ対応できるだろうが、それに切り替えたくはなかった。満ちた思いで目を閉じ、微笑む意識には。笑いたくなかった。それが反射的な仕草であっても、なにかの感情から来るものであっても。笑いたくなど、なかった。今はまだ。呼吸、瞬き。鼓動。かつてシュニーとぴったり重なっていた心音は、いまは一つきり。
これからずっとジェイドは、己の鼓動一つきりを抱えて、生きていかなければならない。なんという途方もない喪失だろう。その空白をどうして、ひとは乗り越えていけるのだろう。ぼんやりとした瞬きの間に、膝の上に撒かれた、ざらざらとした金の砂粒が目に入る。砂金にも似た魔力の欠片。シュニーがそこにいた、という証。
ひとつ、ひとつ、ふわふわと浮かび上がっては、世界になろうとするひかり。世界とひとつに戻ろうとする。ジェイドの中へ、溶けて戻ろうとする魔力が、それでもまだ、今はそこに残っている。両手ですくってまだ溢れる程の量に、ジェイドは手を伸ばして触れた。ざらりとした質感に、ぬくもりが宿っている。シュニーの熱だった。
ああ、どうしてもこれを、失いたくない。
「おいで。……おいで、シュニーさん」
からかうように。幾度も口に乗せたその響きは、滑らかに零れ落ちていく。ラーヴェとリディオが振り返って目を向けてくるのにも構わず、ジェイドはほの甘い光沢に艶めく、魔力の砂金へ呼びかけた。
「世界になんて、いかなくていいよ。俺の所においで。俺のもとへ……戻っておいで」
連れて行くって。いつまでも、どこまでも一緒だって。いなくならないって。約束しただろ。だから、ね。おいで。ここにおいで。俺の可愛い『花嫁』さん。いとしい、可愛い、シュニーさん。
「君のことが、本当に好きだよ……」
その囁きが、いかなる奇跡の引き金を引いたのか。あるいは何らかの魔術詠唱の形を持ったのか。祝福を成したか、呪いと化したのか。ざらり、と砂が動く音がした。ほの甘いひかりが、さざ波のように揺れ動く。ふわ、とひかりが舞い上がった。ひとつ、ふたつ。たんぽぽの綿毛が風にあおられ飛び立つように。ふわ、ふわ、いくつも、舞い上がっていく。
いくつかは室内の輝きに紛れ、いくつかは世界へと溶け消えていく。いくつかはジェイドの内側へと戻り、枯渇していた魔力の器をそっと潤した。そのうちの、ひとつ、だけ。まあるい、柔らかそうな、ふわふわと漂う魔力のひとつだけが、いつまで経ってもなににもならず。何処へ溶け消えて行こうともせず、ジェイドの前に残っていた。
瞬きを、して、瞼の裏に一瞬の白昼夢を見て。ジェイドは、昔のことを思い出していた。そのひかりがジェイドに、もう一つの運命を告げた。『魔術師』たれ、とジェイドに言った。妖精のひかり。意思ある魔力。信じられないような、信じていたような、ただただ確信だけがある名前の付けられない気持ちで、ジェイドはそれに指先を伸ばした。
ふわふわした魔力は、それでようやく拠り所を見つけたように。ふるる、と嬉しそうに震えて、ジェイドの指先へすり寄ってくる。ほんの少し周囲の魔力と色合いの違う光だった。金の光沢を持ってはいるが、全体的な色合いが淡く甘く柔らかい。ふわ、ふわ、と頼りなく点滅するたびに、金が黄色に、黄色もすこしづつ、色が抜けているようにも見えた。
白く、なっていく。魔力のひかり、その色から、ジェイドが知る、見覚えのある輝きへ戻っていく。新雪のような。風に揺れた花のような。眩しい陽光のような。愛した、シュニーの髪の色。息をつめてじっと見つめていると、ましろくほわほわとした、綿花や綿毛を思わせる風になったひかりは、満足そうにふるふると震え、ちかちかと瞬いた。
ジェイドの方へ近寄って来るのを待てず、指でそれを包み込みながら引き寄せる。そっと、それに口付けを送った。
「……シュニー」
ジェイド、と響く声はない。ぬくもりも、香りも、重みも、鼓動もない。それでも、そのひかりは嬉しげにふんわりとまあるくなって、ジェイドの頬に、指先に、すり寄ってくっついた。息を、つめて。震えながらくちびるを開いて。そこで、ようやく、ジェイドは微笑んだ。頬に涙を伝わせながら。
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