あなたが赤い糸:63


 あのね、またね、と言ってミードは目に涙をいっぱい溜めてシュニーに告げ、それからラーヴェに抱きついた。ラーヴェはすこし悪戯っぽい顔をして、ジェイドの言うことをよく聞いてくださいね、とシュニーに囁き、『花嫁』の部屋を後にする。当主の少年はシュニーの顔をひと撫でして、頑張ったな、と穏やかに告げて立ち去った。

 女はジェイドにもシュニーにも微笑みかけたあと、言葉はなく、深く頭を下げて当主の後を追う。彼らを見送ったあと、世話役たちもひとりひとり、シュニーに声をかけていった。シュニーは誰にも、どの言葉にも、ただちいさく頷いて答えた。時折、淡くとうめいな声で、うん、とだけ言って、微笑んだ。

 ミードにしんぱい、かけちゃった、と申し訳ながって眉を寄せるシュニーに、元気になったら顔を見せに行こうな、とジェイドは告げる。うん、とジェイドの膝の上、腕の中に抱き寄せられながら、シュニーは甘えた態度で頷いた。世話役たちが、それでは、と声をかけて部屋をでていく。その背にシュニーは、ありがとう、と言った。

 世話役たちは微笑み、一礼をして。ぱた、と部屋の扉を閉めた。人の気配がシュニーの負担になるからだ。離れていく気配さえ、ジェイドが追えなくなって、はじめて。シュニーは、けふ、と乾いた咳をした。我慢して、もう我慢しきれなくなって。どうしようもなく零れてしまった、乾ききった痛みだった。

 おいで、と言ってジェイドは妻の体を抱き寄せなおした。幾度も咳き込む背を撫でながら、部屋に焚いた薬効のある香が、はやく効いてくれることを祈る。なまぬるくジェイドの体温を染み込ませたシュニーの体は、やけに重いようにも、不安なくらいに軽いようにも感じられた。けふ、けほ、と何度も咳き込み、中々落ち着かなかった。

 それでも、やがて。はぁ、と楽になったよう、深い息をして。シュニーは体から安心しきった風に力を抜き、ジェイドの腕の中に納まりきった。体を預けきり、心音を聞きたがって胸に押し付けた耳を甘えて摺り寄せながら、シュニーはちいさく、ごめんね、と呟いた。

「これじゃジェイド、お城に行けないね……」

「行かない。いいんだ、気にしなくていいんだよ、シュニー。大丈夫だから」

「……でも、ジェイドの……おしごとが」

 目を潤ませて。殊更気落ちするシュニーの手を握り、指先を絡めて擦りながら、ジェイドは大丈夫だよ、と繰り返した。数時間前には痛いくらいの力でジェイドの手を握っていたてのひらに、今は力がない。疲れ切って、くたくたで、なすがままにされているシュニーの顔は、眠たげにぼんやりとしている。

 体を揺らして布で包みながら、いいんだ、とジェイドはシュニーの頭に頬をくっつけた。目を閉じて、息をする。

「それに、俺の仕事はシュニーの傍にいることだよ。……そうだろ? 俺が、シュニーの、『傍付き』なんだから」

「……ジェイド? ジェイドは、じぇいどはしゅにの……『傍付き』の、ジェイド?」

「そうだよ。なぁに、俺の『花嫁』のシュニーさん。かわいいかわいい、俺の奥さん」

 淡く、甘く、息を吸い込んで。とろりと蕩けるように、シュニーの赤い瞳が喜びに潤む。嬉しい、と呟いて、シュニーはジェイドに抱きつきなおした。大丈夫だよ、とその体を包み込んで抱き、ジェイドは何度でも口にする。眠っていいよ。眠っている間も、起きても、傍にいるよ。ずっといる。ずっと、傍に、いるよ。シュニー。

 『傍付き』ならば『花嫁』に、擦り切れる程に囁くその言葉を。どこか物慣れず、それでも、心からの想いとして囁き、ジェイドは満ちた息を吐きだした。ああ、どんなに幸福だろう、『花嫁』を腕の中で守り切る『傍付き』は。それを可能としてきた者たちは。何度も、何度も、この幸福に満たされ切って日々を過ごしていたのだ、と。

 他の抗えぬ命令によって、なすすべもなく傍から離れることはなく。一度だけの、永遠の別れを飲み込んで生きた者たち。それを羨むのは、間違っているのだけれど。いいな、とジェイドはうとうとと微睡むシュニーを抱いて微笑した。はじめて、ただ、シュニーの為だけに存在していられる。

 ようやく。ほんものの『傍付き』になれたような、気がした。

「……ジェイド」

 眠りに落ちる寸前の少女の瞳が、『傍付き』を見上げて不安げに囁く。てのひらは腹を撫でていた。そこへ宿していた命が、いまはもういないのだと告げるように。あのね、ととうめいな声が囁く。名前、決めたの。おとこのこでしょう。ウィッシュって、呼びたいの。わたしと、じぇいどの、あかちゃん。

 それでね、それで、と。たどたどしく、もつれながら、囁かれる言葉を。ひとつも聞き逃したくなくて。ひとつも、忘れなくなくて。覚えていたくて。耳を澄まして、ただ、うん、と言い返すジェイドに、シュニーは目を細めてうっとりと笑った。

「起きたら、会いに、行きたい……。抱っこして、あげたい。それで、それで、ジェイドもね、そうして? それでね、ウィッシュって名前、呼ぶの。私が最初でも、いい? それでね、次が、ジェイドが呼ぶの。それでね、それで……」

「うん。……うん、そうしような。元気になったら、すぐ、そうしよう……」

「なる、なるもの。眠って、起きたら、すぐだもの……」

 そうだな、とジェイドは祈るように言葉を肯定した。眠って、起きたら。この、柔らかく脆くいとおしいひとが、回復していることを、切に願う。命を産み落として。ひとつの命を産み落として。己のそれをも、落としてしまったような少女が。全身に体温をきちんと宿して、力を込めて、立ち上がれるようになることを願う。

 さあ、とジェイドはシュニーの瞼に口づけた。その瞼が何度閉ざされても。何度も、開いて。あまく、笑ってくれる日が、これからも続いて行くように。

「眠ろう、シュニー。疲れたろ。いっぱい……頑張ってくれて、ありがとうな」

「うん。しゅに、ね。おかあさんに、なったのよ。ジェイドも、ちゃぁんと、おとうさんに、なったの……。ふふ……。ああ……よかった……」

 かぞく。ぽつ、と一粒、間違って落ちてきた雨のように。優しい声でそう呟き、シュニーは眠たそうに目を閉じてしまった。それでも、言葉を何とか吐き出しきってしまいたいのだろう。ジェイドがいくらお眠り、と囁いても、シュニーは素直に頷くだけで。

 ぽつ、ぽつ、と零す声を、途切れさせることはなかった。

「かぞく……あげられた、ね。じぇいど……。しゅに、じぇいどの、おうち……。だから、もう……かえり、たがらなくて、いいの……だいじょうぶ、なの……。じぇいど。しゅにね、しゅに……」

「うん。うん……ありがとう。ありがとうな、シュニー」

 お許しください、とジェイドは胸中で誰かに懺悔した。このひとを奪わないでください。その為ならどんなことだってします。どんなことだって。どんな罪だって。ここに、罪科を押し付けられる気の良い魔術師はいない。分かっていて、ジェイドはゆっくりと、眠りの魔術を室内に展開した。

 水属性の黒魔術師であるから、占星術師のように夢を織ることはできないけれど。揺り籠のように、優しく。繊細に編み上げられるその術を、『花嫁』に捧げていく。うと、うと、と深く夢に沈んでいくシュニーは、水面から顔を出したように一度、深く、息をして。

「ジェイド……しゅに、ね。あのね……」

 眠りに落ちるまなざしで、声で。不安そうに。

「いなくなりたく、ない……」

 囁いた。

「いなくなりたく、ない、よ……」

 意識が解けて眠りに落ちる。己の紡いだ術が正しく、シュニーを抱いたことを確かめ、ジェイドは歯を食いしばって頷いた。いなくなってほしくない。ずっと。傍にいてほしい。ずっと。

「……シュニー」

 眠る頬を、ジェイドは撫でた。冷えた肌を暖めるように。熱もなにもかも、与えられるものは全て、捧げてしまいたい。

「君が好きだよ。好きだ……。愛してる」

 なにより、ただ。愛しかった。




 花があった。ジェイドの目の前には花があった。薄く柔らかな花弁を華憐に咲かせる、一凛の花だった。空は曇っている。嵐の前のような、奇妙に凪いだ、それでいて荒れた風が吹いている。光もなく、風に揺らされて、花はもう疲れ切っているように見えた。葉も地面に散らばっていて、枝も折れかけていて、痛々しく見えた。

 それでも花は咲いていた。まだ、咲いていた。ジェイドは己の胸に手を押し当てて、息を吸い、それを取り出すことを想像した。魔術師となってから、身の内にあったもの。目を閉じればその形を知るもの。魔力を溜めこんでおくもの。魔術師たちが『水器』と呼ぶもの。

 ジェイドのそれは、すこしだけ大きな、水差しの形をしている。手に持ったそれを、ジェイドはしばらく見つめていた。それには水が満たされている。ジェイドの魔力。世界からの祝福。世界から、魔術師に対する愛。贈り物。息を吸い込んだ。花の前にしゃがみこむ。

 水差しを傾けて、ジェイドはそれを花へ与えた。ただ、花に水をやるように。花は。すこしだけ、元気になったように、見えた。




 ふ、と目を開ける。眠っていたらしい。夢を、なにか見ていたように思うが、もうよく思い出せなかった。なぜか枯渇しかかっている己の魔力に首を傾げながら、ジェイドは未だ眠るシュニーに手を伸ばし、頬に触れて安堵する。体温が戻っていた。寝息もしっかりしている。これなら、すこしだけ、外に出ても大丈夫かも知れない。

 愛しているよ、と囁き落とす。くすくす、甘く、幸せそうに笑って。目を開いたシュニーが、私も、と言った。ねえ、ねえ、赤ちゃん、ウィッシュに、会いに行ってもいいでしょう、と強請られるのに頷きながら、ジェイドはなんの気なく、窓の外に目をやった。外は曇っていた。けれど。曇り空の切れ間から、一筋、光が見えた。

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