あなたが赤い糸:62


 日々は、さしたる変化もなく過ぎていく。星降から戻った王は、一時こそ旧執務室に滞在したり、城を見て回り人々に声をかけて回ったが、それが習慣づくこともなく、長続きすることもなかった。とうとう、王が旧執務室に顔を出しもしなかった一日の終わり、青年は深く息を吐きだした。言葉はなかった。それが、王の気分転換の終わりだった。

 青年が書類を分類し、ジェイドがそれを運び込み、ハレムの立ち入り許可証を持った他の二人が、王の言葉を届けて回る。血液のように、流れていく。だからこそ、国政が滞ることはなかった。訴えが聞き届けられぬこともなく。けれど、それだけだった。城は、長く王という男を不在にしたままでいる。

 寵妃の腹の子は順調であるのだという。名も、候補をいくつか決めたのだという。王からの雑談でジェイドはその情報を得たが、聞いた名は記憶に留まらず、ハレムから旧執務室へ戻る間の、廊下のどこかへ落としてしまった。廊下には深く濃い影が落ちている。夏の盛りが来ているのだ。

 砂漠の盛夏から逃れるように、王宮は風の通りが良いつくりをしている。それなのに、肌に触れて流れていく空気はどこか澱んでいた。涼を得ることはなく。深々と息を吐いて、ジェイドは旧執務室の扉に、持たれるように体を寄せた。今日はあと二往復残っているのだが、もう運ぶ気力が残っていない。

 もう帰りたい、とシュニーに思いを馳せると、ふと扉の向こうから声がすることに気が付く。旧執務室に青年以外がいることは稀である。来客かと訝しく思うジェイドは、しかし穏やかに響く青年の声と、鋭く空気を震わせながらも、どこかふわりと拡散してしまう声の響きに心臓を跳ねさせた。

 声に聞き覚えがあった。ここで。城で。聞く筈のない声だった。何故、と思うより早く扉が開き、内側から伸びてきた手に強引に腕を掴まれる。『お屋敷』の、当主側近たる女。生き延びた『傍付き』たる女が、見たこともない険しい表情で、ジェイドの腕を掴んでいた。

 部屋の中には当主の少年がいて、青年に食って掛かっていた険しい表情のままで振り返る。

「ジェイド! 帰るぞ!」

「は……い……?」

「ちょっと待ってください。ジェイドもすぐそうやって返事をしない……!」

 当主の命令じみた言葉に、反射であっても返事をしない『傍付き』がいたら連れてきて欲しい。そんな無理難題を言わないで欲しい、という顔で青年をみるジェイドの前に、必死な様子で、当主が早足に歩んでくる。蒼褪め、表情はかたく強張っていた。女はなにも言わず、ジェイドの腕を掴んだまま、睨みつける視線を青年へ移している。

 渡さない、と。告げていた。それが『お屋敷』の意思であり、当主の望みであるのだろう。当主はジェイドにすがるように、はくはく、浅く早く息をしながら、必死で言った。

「ジェイド。帰ろう。すぐ、すぐ、走って、俺を置いて行っていいから、かえ、か、帰っ……!」

「落ち着いてください、リディオさま。なにが」

「……冷静に聞いて、ジェイド。シュニーさまが破水した」

 女が告げる、言葉の意味を。理解するまでかかった時間は、永遠のような数秒だった。軽く咳き込んで、呼吸を止めていたことを知る。思わず。口元を押えてよろけたジェイドの肩を、とっさに駆け寄って来た、王の側近たる青年が支えた。あなたたち、とうんざりしたような、怒りさえ感じさせる声で青年が言う。

「それを先に……真っ先に言えばハレムに誰かを走らせて、そのまま帰しましたよ!」

「『お屋敷』の機密を……知らせまわる訳には、いかない」

「『お屋敷』の御当主。あなたのその意思は尊く、理解もできるが、あなたは私にそれを告げて、ただこう言えばよかった。広めてはならない、口外禁止を、『お屋敷』の当主としてお前に命ずるのだと。……ジェイド、ジェイド。気を確かに。息をして、走れますね?」

 あなたも。王の傍らに立つのなら、やり口を覚えておきなさい、と女性を窘めさえして。青年はジェイドの肩を強めに叩き、目をまっすぐに覗き込んで告げた。

「いいから、このまま走りなさい。あとのことはなにも考えずに。……陛下には私がなんとでも言いましょう。いいですか? 落ち着くまで……いえ、気が済むまで。あなたは帰ってきてはいけない。誰がなんと言おうと。王がそれを命じようと。私がなんとかします。なんとかしますから……行きなさい」

 なにか。反論か、肯定か。なにかを、声に出そうとしたジェイドを、当主が止めた。服をつまんで、ひっぱって、大丈夫だよ、と呟く。その声が。言葉が。少年が、当主となる前のもののように感じて、ジェイドはなぜか微笑んだ。

「……ラーヴェがすぐに医師と私たちを呼んで、あなたを呼びに行けと告げました。ミードさまが動揺してしまって、傍にはついておりませんが、あなたの世話役たちが一緒にいます。待っています」

「はい」

「すぐに行くから。走っていくから」

 先に行って、と当主の手がジェイドの背を押す。まっすぐ、行って、大丈夫。振り返らないで。全部、残して行って、大丈夫。だいじょうぶだから。もしそれで、落として、零してしまうものがあっても。拾って行ってあげるから、大丈夫、と告げるように。当主は言った。

 いいですか、と走り出すジェイドの背に青年が重ねて告げる。どんな命令がくだされようと、戻ってきてはいけない。あなたがそれを許すまで、私がここを守ります。だから。行きなさい、と告げられて、ジェイドは振り返らずに走った。生きてきた中で、一番。息を切らしながら、ただ、前だけを見て。


 世話役のひとりが、門の前で祈りながらジェイドの帰りを待っていた。視線が合い、言葉より早く身を翻し走り出される。その後をただ、ジェイドは追いかけた。走るなら、まだ無事なのだ。痛いくらい言い聞かせながら、息を切らして走って行く。見慣れた『お屋敷』の廊下は、なぜか迷路のようだった。方向と場所が分からなかった。

 真っ白になりかける意識を、いくつもの声が通過していく。ジェイドの名が呼ばれていた。思わず、という風に声をあげていた。呼び止める者はなかった。ただ、背を押す声ばかりだった。その中には、ハドゥルのものもあった気がする。責める響きではなかった。祈り。息がくるしくなる程の祈りで、誰もがジェイドの背を押していた。

 皮肉な程に。今までで一番、受け入れられているような、気がした。かつてこの場所を息を切らしながら走った時、そこにあったのは穏やかな排斥だった。シュニーに会いに行くのは同じなのに。どうしてこんな時に、望んだ場所に、ひとつ、辿りついてしまうのだろう。なきたい、と思った。遠い昔に、家に帰れなくなった幼子が。

「……ジェイド」

 腕を取られて。はっと意識を表へと戻す。扉の前に。立っていたのはラーヴェだった。部屋の前には座り心地の良さそうな長椅子が置かれ、泣きはらした目をしたミードが、すうすうと眠りについている。ラーヴェ、と鼓動より早く息をしながら、ジェイドはただその名を呼び返した。

 今いる場所が、どこなのか。どうして、息を苦しく走ってきたのか。一瞬、分からなくなる。ラーヴェは痛ましくジェイドを見たあと、叱咤するように強く、友の名をもう一度呼んだ。

「シュニーさまは中にいらっしゃる。世話役が一緒だ。医師も。看護師も。……分かるね?」

「……ラーヴェが、当主さまを、呼んでくださったって……ミードさまが」

「うん。ミードは大丈夫。任せてくれていい。ジェイド、さあ……大丈夫、シュニーさまが待っているよ。『傍付き』として、成すべきことを。できるね、ジェイド」

 呼ぶ声が、かすかに。扉の向こうから聞こえた。とうめいな声。いとしく。世界のなによりやさしく、ジェイドを呼ぶ声。シュニーの声。ああ生きている、と思って、ジェイドはようやく息を吸い込んだ。いきている。シュニー、と呼び返して、ジェイドは薄く開かれた扉の向こうへ体を滑り込ませた。

 生臭く、むせかえるような、血の匂いがした。寝台に横たわるシュニーは、かわいそうなくらい血の気がない。あたためてあげなくては、とジェイドは思って、傍に跪くように座り込む。ぴく、と痙攣するようにシュニーの腕が動いた。持ち上がらない腕を、手を、やさしく眺めて。ジェイドは微笑んで、妻の手を両手で包み、握りしめた。

「来たよ、シュニー。遅くなってごめん。ただいま」

「……おかえ、り、なさい、じぇいど。……あの、ね。あの」

「うん」

 言いたいことも、伝えたいことも。全部、分かっているような、そんな気持ちでジェイドは微笑んだ。手を繋いで。ひえたシュニーの体温を、じわじわと温めていく。大丈夫だよ、シュニー。もういる。ここにいる。傍にいる。一緒にいるよ。ただいま、ともう一度告げるジェイドに、シュニーは顔をくしゃくしゃにして、うん、と言った。

 さあ、もうすこしです、もうすこし。がんばって、と声をかけてくる看護師たちに頷いて、んん、とシュニーが全身に力をこめる。傍で、ラーヴェがどういう風にしていたのか聞いておけばよかった、と思いながら、ジェイドは力いっぱい握ってくるシュニーの手をあたためていた。

 なにかたいせつなものが。零れ落ちてくるような。指の間をすり抜けて消えてしまったような。そんな気持ちで、瞬きと、呼吸をしていた。

「……しゅに、と」

 震えながら。シュニーの腕が持ち上がって、己の腹へ押し当てられる。片方の手はジェイドと繋いだまま。もう片方の手で、シュニーはひどく穏やかに。己の腹をゆっくりと撫でて、息を切らしながらも囁いた。

「じぇいどが、まってる、から……。おいで、ね」

 ぎゅうう、と目を閉じたシュニーが、全身に力をこめる。わっ、と声をあげて医師と看護師が慌ただしく動いた。赤子の泣き声が響く。世話役たちが歓声を上げるのを聞きながら、ジェイドはシュニーの名を呼んだ。ふつ、と途切れたように力を失ってしまった、冷たい手を暖めながら。

「シュニー」

 目を閉じたまま、ゆっくり。弱く、弱く。息を繰り返す、妻の名を呼んだ。

「産まれたよ。……もう大丈夫。ほら、見てごらん」

 シュニーは言われるまま、とろとろと目を開いてジェイドを見た。ぼんやりとした視線が動き、室内をさ迷い、湯で清められ、おくるみに包まれる赤子を見つけ出す。顔を真っ赤にして泣く赤子を、シュニーはうっとりと目を細めて見た。うん、とくちびるから言葉が零れる。

 とろとろと瞼がおりて、シュニーの息が深くなる。しばらく、息をつめて見つめて、ジェイドはシュニーの額に口づけた。大丈夫、と世話役たちに言葉を告げる。眠っているだけ。ちゃんと起きるよ。頑張ったから疲れたんだ、と告げられて、世話役たちは頷いた。

 抱かれますか、と看護師に赤子を差し出される。うん、と素直に頷いて、ジェイドは処置の終わったシュニーを膝の上に抱き上げてから、赤子に両手を伸ばして受け取った。『花嫁』と赤子を腕に抱くジェイドに、息子である、と告げられる。産まれたばかりの赤子は、あたたかかった。

 シュニーの静養が決まったのは、出産を終えてすぐの、その日のことだった。

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