あなたが赤い糸:64


 夢を見ている。夜明けまでの間に何度も浅い眠りから覚め、眠っては覚醒を繰り返して、夢を見ている。花の夢だった。葉が落ち、枝は折れ、花は萎れて枯れかけている。それでもうつくしい、と思う。ジェイドの花の夢だった。花に何度も水をやる。水をやり終えると目が覚める。口の中が乾いていた。目が覚めるたび、魔力が枯渇していた。

 夜を繰り返す。世話役たちを遠ざけ、部屋に鍵をかけて眠る夜を繰り返す。朝は遠く、永遠のよう、手が届かない場所に置かれているような気持ちで。目覚められる朝を待つ。シュニーはゆっくり息をしている。淡く、弱く、息をしている。それでも陽の元で今日も笑っていたのだから、と言い聞かせて瞼を下ろす。そして夢を見る。幾度も、夢を。

 浅く早い息を繰り返しながら、何度も何度も目を覚ます。夜の静寂の中で、ひとり。腕に抱くシュニーを見つめて、瞬きをする。意識の端に、こびりついては消えていく花の夢を想う。水を注げばひととき、生き永らえる花のことを思う。目を覚ますたび、奇妙に枯渇している魔力のことを考える。

 なにをしているのだろう、と思う。なにをしてしまったのだろう。なにを。とくとく、と触れた肌から感じる鼓動に、幾度も意識が救われる。すう、すう、と穏やかな息を繰り返してシュニーは眠っている。呼吸も。体温も、鼓動も。ゆっくり、ゆっくり、重なっていく。ひとつになりたがるように。ひとつに、なっていくように。

 眠るシュニーの頬を撫で、瞼に口づけて、ジェイドはかたく目を閉じた。奇妙に喉が渇いている。枯渇した魔力は、朝まで決して戻らないままだった。




 シュニーの体調は芳しくなかった。乾いた咳を繰り返し、じわりじわりと弱っていく。時にはジェイドと手を繋いで散歩に出る日もあったが、その穏やかさが一日、二日と長続きすることはなかった。ジェイドが申し出る前に、当主はさっさと城に『傍付き』を帰らせない旨を告げ、首尾よく王の許可までもぎ取って来た。

 なんでも、側近たる青年が尽力してくれたらしい。当主がまだ未熟と見て、放っておけなくなったのだという。王の魔術師としての休職許可証をジェイドに差し出しながら、当主はややふくれっ面をしてそう言った。手伝ってくれなんて言ってない、と面白くなさそうに拗ねる当主に、ジェイドは思わず、声をあげて笑った。

 当主は磨き上げられた『花婿』であり、うつくしい少年である。青年になる前に時を止めた。幼さと、今まさに成長して行こうとする瑞々しさが、少年の線の細い輪郭へ溶け込んでいる。それは失われる筈の、けれども完成された永遠としてそこにあるものだ。ひとの心に直に訴えるような、本能的なうつくしさ。花が香るような、存在的な魅了。

 間違いを犯さないようにアイツころすべきでは、と真剣にもくろんでいる当主側近の表情からも、青年が『花婿』に魅せられたことが伺い知れた。あのひと、多少性格と言動がアレですがべらぼうに優秀な砂漠の国の今や重鎮と呼んでも差支えない存在ですので、この国が崩壊しないようになにもしないでください、と呻きながらも説得する。

 よく分からないながらもジェイドがそういうなら、と頷く少年と、御当主さまがジェイドの意見を受け入れるのであれば、と心底不本意そうに息を吐いた当主側近の組み合わせは不安が過ぎたが、とにかくジェイドの休職許可は本物であり、そのことが腹に、なにか見えない重りの存在を感じさせた。

 当主が直々に動いたとはいえ、青年が尽力してくれたとはいえ、それを王が許すほど。シュニーの傍からジェイドが離れられない、というのが、客観的な事実として認められたのだ、と。息が苦しかった。当主は許可証を抱いて押し黙ってしまったジェイドの背を労わるように撫でてから、そっと押し、そのまま共に歩き出した。

 今日は起きているんだろう、と問いながら廊下を歩む少年の足取りは、未だ物慣れずつたなさを感じさせる。そのたどたどしさが無くなってしまう日も、恐らくは来ないのだろう。少年は『花婿』として完成されきっている。弱いまま、脆いまま、ただ普通を装う術だけが上手くなっていく。

 ジェイド、と返答を待ち、立ち止まった少年の隣に立つ。

「リディオさま……シュニーは」

 うん、と静かな声が、ジェイドの逡巡をよしとした。深緑の瞳はじっと、苦しげに顔を歪める『傍付き』の姿を見つめている。ん、とちいさく呟いて、リディオはすこし背伸びをして、ジェイドに両腕を広げてみせた。やわらかく抱き寄せる、その腕の中で息をする。少年は確かに当主だった。『お屋敷』を守り、そこに生きる人々を守ろうとする。

 穏やかに、穏やかに、包み込んで守ろうとする。その優しさに、亡き少女の面影すら感じながら。ジェイドはそれを問うことを、とうとう己に許し、言葉を口にした。

「シュニーは……あなたから見て、どうなんですか」

「どうって? どうってなに? シュニーの『傍付き』、シュニーのジェイド」

 歌うように、少年はそう囁いた。宝石を腕に抱いた『傍付き』は、その花の名を以てして呼ばれるのが通例だ。

「『花嫁』の『傍付き』。お前の判断に勝るものはない。『花嫁』に関して、一番理解しているのが、一番、知っているのが『傍付き』だ。ともすれば、本人よりも」

「……リディオさま」

「でも、お前はそれを知っているね。……自信を持っていいんだよ、ジェイド。お前はシュニーの『傍付き』で、『お屋敷』は今も昔も、それをちゃぁんと認めてる。……ああ。ああ、でもお前は、そんなこと、もう、分かっているか……」

 する、と緩く結んでいたリボンが風でほどけるように。少年はジェイドから腕を引いた。気まぐれな猫が、すり寄るのをやめて遠くへ駆けて行くように、立ちなおして。リディオはすこし困ったように、目を細めて笑った。

「なにが聞きたいの、ジェイド」

「……『花婿』であった御当主さまの目から、見て」

 言葉が途切れる。うん、と呟いて当主は待った。なにを問われるのかを察している、哀れみすら滲ませながら。その不安をとうとう、ジェイドが吐き出してしまうのを待っている。意識が、なまぬるい水のように揺れている。呼吸の仕方を忘れそうになる。思考が、意識そのものが、ゆるやかに止まりそうになる。

 当主の瞳は、それを責めているようにも、許しているようにも、見えた。心が壊れてしまいそうな不安を、身の内にある黒い澱を、少年の瞳は見透かして、理解しているように見えた。そこに、己と同じものがあるのだと。だからこそ、ただ。かわいそうに、と声を飲み込んだ沈黙の中に、ジェイドはようやく、絞り出すようにしてそれを言った。

「シュニーは回復するように、思いますか」

「思わない」

 躊躇いも、迷いもなかった。不安と悲しみは、もう少年の足元に投げ出されていた。当主の瞳は喪失を覚悟しきっていて、火の粉のような淡い怒りがちらついている。

「思わないけど、ジェイドが傍にいればシュニーは息をする」

 回復はしない。じわじわと弱っていく。けれども、呼吸を忘れることはない。だからお前を城には帰さない。ここでシュニーの傍に居ろ、と。ジェイドに首輪をつけるように、鉄柵に鍵をかけるように。凪いだ声で告げた少年に、ジェイドは嘲笑うような気持ちで問いかけた。

「俺が『傍付き』だからですか」

「違う」

 少年の声は明確だった。

「シュニーが、ジェイドを愛してるからだ。『花嫁』が……誰かを、あんなに、愛せたからだ」

 己の弱さを、脆さを知りながら。それでも子を宿し、産みたいと言わせる程に。『花嫁』の出産が命と引き換えになる可能性は、ふつうに生まれ育った女と比べて極めて高い。それをシュニーは、ちゃんと分かっていた。それでも命が宿ったことを喜び、育っていくことに胸を弾ませ、名前を考え、未来を思い描いた。

 ジェイドに家族をあげたかった、とシュニーは言った。家族になりたかった、と産まれた子を腕に抱いて幸福に微笑んだ。ジェイドの家になりたかった。帰ってくる場所。いってらっしゃいと、おかえりなさいと言える所。おうちだ、と思って、ゆっくり眠れる場所に。なりたかった。ようやく、なれた。そう言って、シュニーは笑った。

 あの日。当主が城までジェイドを呼びに来た日。シュニーの破水は、予定よりずっと早かった。当日の朝の体調も、優れているとは言えなかった。部屋が閉ざされてふたりきりになった時に、シュニーの体を温めていたのはジェイドの熱だった。体温が染み込んで行くだけの、熱を生み出せない体だった。

 今も。ジェイドがいくら与えても、シュニーの体から熱はするりと抜けていく。熱を留める術を忘れて、どうしても思い出せないでいるように。冷えていく。弱っていく。それでも、ジェイドが抱き上げれば同じようにぬくもるのだ。命がジェイドの体温を宿す。弱々しい鼓動が、とん、と一時強くなる。

 ひとつの命を分け合うように。そうして、シュニーは今も生きている。

「……助けられは、しませんか」

 それでも。『傍付き』としてのジェイドが、気が狂いそうになりながらも判断を下す。脆く弱く儚い、己のたったひとりの『花嫁』は、もう壊れてしまったのだと。茎が折れた花が蘇ることはない。水を吸い上げる力を失った花が、ふたたび咲く日はやってこない。枯れかけた花は、地に落ちる日を待つばかり。

 懺悔するように、ジェイドは問うた。花であった少年に。摘み取られたまま凍り付いた花に。時を止めた少年に。当主は目を伏せ、首を横に振った。たすかったんだよ、と当主は言った。やるせない声で。今がもう、助けられている状態なんだよ、と。だからもう、これ以上は。

 言葉を続けず。ジェイドにも続けさせず、当主はまるで気まぐれな仕草で、ふいと身を翻して歩き出した。ジェイドも無言で後を追う。歩いていくと赤子の泣き声と、『花嫁』の笑い声が聞こえた。しゆーちゃんはまかせてっ、と胸を張ったミードは、ラーヴェと一緒にジェイドが戻ってくるのを、まだ待っていてくれたらしい。

 ほっとした様子で、当主は口元を和ませる。ミードの楽しそうな笑い声に混じり、とうめいで、儚く、今にも消えそうな響きであっても、シュニーの声がやわやわと空気を揺らしていたからだ。少年は立ち止まり、すこし振り返って、ジェイドの歩みを促した。ほら、大丈夫。待ってる。はい、と頷いて、ジェイドは早足に。

 部屋に飛び込むようにして、ただいま、と言った。

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