あなたが赤い糸:59



 瞬きをして、ジェイドは朝焼けに染まり行く空をぼんやりと眺めていた。腕の中では、シュニーが気持ちよさそうに眠っている。ジェイドにぴったりとくっついて、寄り添って、まるで、かつては一つのものであったのだと告げるように。一つのものになりたがるように。体温を分け合って、安心しきった顔で眠っている。

 ジェイドは妻の寝顔をいとしい気持ちでしばらく眺め、頬を指先でするすると撫でながら視線を空へと持ち上げた。薄墨からじわじわと紫を滲ませ、光を食んで金にも黄にも、赤くも紅にもなる夜の欠片は、まだしばらくはそこで微睡んでいそうに見えた。夜に目覚めたのは偶然だった。短い、夢の見ない眠りを何度か繰り返して、迎えた朝だった。

 どうにも体力を持て余していて、眠りが浅い気がする。思えば机仕事に従事した記憶などなく、人生で一番穏やかで、暇を持て余しているような心地にすらなった。時間が間延びして過ぎている訳ではない。書類を持って往復する傍ら、ジェイドは実に多くの人々に話しかけられた。ハレムの女や、門番、文官たちや魔術師の同僚。

 多くは王の状態を尋ねる言葉であったが、相談事や雑談、連絡ごとなど、飛び交う言葉は多岐に及んだ。ジェイドはそのひとつひとつに丁寧に応え、青年の待つ旧執務室とハレムを往復した。時には帰る途中に持ち掛けられた相談事が時間を奪い、戻った頃には次に運ぶ書類が一山、用意されていたこともあった。

 青年は特にジェイドに、遅延について小言を向けることがなかった。遅れる理由は理解されきっていた。背負い込みすぎないように、と苦笑されたくらいである。今やジェイドは、王に重用されながらも話しかければやさしく応じてくれる数少ない人物、として城の人々に認識されている。

 まあしばらくは荷運びと相談役でもしていればいいよ、と苦笑したのはシークだった。シークをはじめとした魔術師たちは、ジェイドの身柄が完全に王に押えられたことを逆に好機と捉え、今のうちにと休暇を回しつつ体制の立て直しに奔走しているらしい。

 魔術師が砂漠国内を忙しく動き回るのは、生きる為の呼吸であり、また止まってはならぬ鼓動である。隅々の、書類だけでは取りこぼしてしまう情報をかき集め、中枢へ運んでくる事こそ、砂漠の魔術師に課せられた役目。それなのに王はその動きを停滞させ、城の守りだけを固めようとした。戦時中でもあるまいに、とは筆頭の言葉だ。

 とはいえ王の不安も分からないことではないから、ジェイドは大人しく売られてくれるように、というのも筆頭の言葉である。ジェイドが知らない間に、魔術師と王の間では取引が成されていた。その結果としてジェイドは、ほぼ無期限で城とハレム、『お屋敷』以外に外出することを禁じられていた。有事の守護の要とする為、という名目で。

 引き換えに魔術師は、半数の巡回を許可されたのだという。半数が城に残り、もう半数が国を飛び回る。全員で動いてなお過労気味であったことを考えても圧倒的に手が足りないが、これが今の精一杯だ、と魔術師たちは腹をくくったのだという。

 じわじわ息が苦しくなっていくかも知れない。じわじわと、末端が死んでいくのを見る日が来るのかも知れない。でもそれは今日にはならないし、まだ、明日でもない。引き伸ばせ、と魔術師たちは王の側近や、城で働く人々と手を取り合って決意した。

 引き伸ばせ。壊死が始まってしまう日を、息の苦しさを自覚してしまう日を。一日でも長く、遠く。その為にいま、できることを、なにもかも、全て。魔術師たちはそう言い合って、再び走り出している。立ち止まるような日々を過ごしているのは、ジェイドだけだった。時間が肌の表面、外側を過ぎ去っていくような感覚だけがある。

 いまも。夜から朝を迎えていく今も。『お屋敷』のどこかで誰かが忙しく働いているのと同じように。魔術師たちは動き出している。大気に溶ける魔力の欠片が、ジェイドにそれを教えてくれる。それなのに、朝が来てもジェイドはそこに加わることを許されない。書類を持って往復の日々。それだけを今日も明日も、繰り返していく。

「はやおき、したの?」

 淡い甘い声が、やわらかく肌に触れた。氷のように溶けていく声。視線を降ろせば眠たげな顔でもなく、ゆっくりと瞬きをしながら、シュニーがジェイドのことを見つめていた。起こした、と問えば首は横に振られる。おきたの、と言い聞かせる呟きに笑って、ジェイドはシュニーに顔を寄せた。

 そっと口付け、すぐに離れ、額を重ねて目を閉じる。はふ、とシュニーはしあわせそうに息をこぼし、ジェイドに体を寄せなおした。シュニーはふふ、と柔らかく、とろけそうな声で笑う。

「シュニーの旦那さまには、悩みごとがあるの。シュニーにはお見通しなの」

「うん? ……んー……うん。ある、あるよ」

「そうでしょう、そうでしょう? ……おはなし、する? おはなし、しない?」

 どうしようかな、とジェイドは穏やかな声で受け答えた。シュニーは特別、ジェイドの相談事を受け付けたいという訳ではないらしい。ただ話をしたいのだ、と向けられる瞳の輝きから『傍付き』は読み取っていた。言葉が返ってくること。声が近くで響くこと。それを幸福だと受け止める『花嫁』の、満たされた微笑み。

 よく眠れた、とジェイドは問いかける。シュニーは相談事をされなかったことに、もう、とくすぐったそうに、形ばかりの不満を笑い声で包んで。そっと腹を撫でて赤子を気にかけながら、眠ったわ、と囁いた。

「ジェイドが傍にいてくれるもの。……ジェイドは? ねむった? はやおきさん!」

「寝たよ。ちゃんと眠った」

「ふぅん?」

 半分は面白がる声で首を傾げ、シュニーはジェイドの頬に手を伸ばした。柔らかな手指がジェイドの頬を包み、検分するように撫でたり、摘んだり、引っ張ったりしてくる。くすぐったいよ、と咎めればシュニーは肩を竦めて花蜜のような笑みを零し、ジェイドかわいい、と喜んだ。

 歌うように。きよらかに。心地よく響く、すきとおる声。

「ジェイド、お仕事が変わったから拗ねているんでしょう」

「拗ねっ……拗ねては……いない。うん。拗ねてるのとは違うんだよ、シュニー」

「ほんと? すねてないの? ほんとに?」

 ほんとのほんとに、とくすくす幸せそうに笑いながら確認されると、だんだん自信がなくなってくる。拗ねてる、のとは、違うと思うんだけど、と口ごもれば、シュニーはジェイドの目をじっと覗き込み、ほんとうかなぁ、と砂糖菓子のような声で囁いた。

「だってジェイド、仲間はずれにされた、って泣いた時と同じ顔をしてる。しゅにはちゃんと覚えてるの! ジェイド? 今度は誰に仲間はずれにされちゃったの? しゅににそっと教えて? しゅにが、えいって、影からこっそり毬を投げてあげるからね。安心して? 得意なの!」

「……いや待ってシュニー? 泣いてない。泣いてないよ。泣いたことないだろ?」

 ふふふ、とシュニーは得意そうな笑顔でジェイドを見た。え、と言葉を返せず、ジェイドは視線を逸らして思考を巡らせる。『傍付き』として『花嫁』にそんな姿を晒したことはない筈だし、そもそもそんな理由で泣いたことはない筈だし、そんな訴えをシュニーにしたこともない筈だ、たぶん。

 しばらく考え、いや泣いてないよ、と改めて告げたジェイドに、シュニーはそうだったかなぁ、と面白そうに笑っている。からかう顔をしていた。こら、と頬を押しつぶして反省を促しても、シュニーはきゃぁと声をあげて笑うばかりで、泣いたことがない、とは言わなかった。

 しばらくじゃれ合い、ジェイドはさあ、とシュニーを膝に抱き上げなおした。

「まだ早いよ、シュニー。もうすこし眠ろうな」

「うん。ジェイドは? ジェイドも、ねむる?」

「……もうすこし起きてる。もうすこしだけ」

 眠りたくない訳ではないのだけれど。もったいなさに似た焦る気持ちが、朝を滲ませはじめた空気の中で、ジェイドに瞼を下ろさせないでいる。もう、と怒るでも呆れるでもなく、シュニーはただ愛おしそうに呟いて、笑って。ジェイド、と幾度かその名を呼んだ。ジェイド、ジェイド。だいすきなジェイド。わたしの、だんなさま。

 するり、と。誘惑するように首に腕を巻き付けて、体をくっつけて。声は甘くも、ひたすら柔らかく。世界のなにもかもから、隠して包み込んでしまうように。シュニーはジェイドをじっと見つめて、そっと、そっと、囁きかけた。

「ジェイドは、いつも、なにかしたがりね」

「……そう?」

「そう。……シュニーの旦那さまだけでいるのは、嫌?」

 嫌じゃないよ、とジェイドは眉を寄せて呟いた。嫌じゃない。でも。いつも、どこでも、立ち止まれないような気持ちでいる。どの場所でも、どの立場でも。足元には飛び石があって、次から次へ、渡っていくような。ひとつの所へ留まれないような。帰る場所を探している。そんな気がしている。

 口ごもるジェイドをじっと見つめて、シュニーはゆっくりと瞬きをした。ひとに、ただ仕草で愛を伝える、猫のような仕草だった。

「ジェイドは、いつも、ジェイドがその時にできることを、せいいっぱい、やってるわ」

「ありがと。……さ、おやすみ」

 すこし眠たげに緩んだ囁きに微笑して、ジェイドは『花嫁』を腕いっぱいに抱きなおした。己の幸福の全てがそこにある、と思う。体温、鼓動、重み、香り。呼吸、微笑み。笑い声。シュニー、とジェイドはそれを呼ぶ。幸せのすべてを。そして、愛しい『花嫁』を。

 シュニーはうっとりと目を細め、ジェイドに頭を摺り寄せた。とろとろと眠りに溶けながら、とうめいな声が夢うつつに囁く。怒ってない。なにを。わたしがジェイドをえらんだこと。どうして。だっておうちにかえれなかったでしょう。うん。いつだって、いまだって、かえれないままでしょう。うん。だから。

 怒ってないよ。ほんとう。本当に。ほんと。怒ってない、嫌いにもならない。後悔なんてしない。したことないよ。なぁに、シュニー、どうしたの。なにが不安なの。囁き。淡い、甘い、夜露に溶けて消えてしまいそうな、ふたりの囁きの合間に。シュニーは一度だけ目を開けて、眠たげに。蝶のはばたきのように。

 ゆる、ゆるり、瞬きをした。

「……なんでもない」

 ただ。ただ、一度ね。一度だけね。いつか、聞いてみたかったの。聞こうと、思っていたの。その、いつかが、いまだったの。それだけ。ほんとうにそれだけよ、と笑って。また、うとうとと眠りかけるシュニーに額を重ね、ジェイドはうん、と囁いた。おやすみシュニー。いとしいひと。

 朝焼けが、空に広がりきるまで、眺めて。ジェイドはシュニーを強く抱きしめ、満ち足りた気持ちで目を閉じた。


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